【アニメ評】「ケムリクサ」~何故EDを初音ミクが歌うのか~

 

 

2019年冬アニメ「ケムリクサ」のEDについて考察していきます。

kemurikusa.com

 

スタッフクレジットの意味

3~11話のEDのスタッフクレジットでは、

エンディングテーマ

「INDETERMINATE UNIVERSE

作詞・作曲・編曲:ゆうゆ

ゆうゆfeat.ケムリクサ

 上記のように「ケムリクサ」が歌っていることになっているのですが、実際に歌っているのは明らかに「初音ミク」です。ケムリクサがどういうものかを考える上では、かなり意味深なスタッフクレジットです。

(「ゆうゆ」は『桜の季節』や『深海少女』などで根強い人気を誇っているボカロPです。沢山良い曲をニコニコ動画等にあげているので、是非チェックしてみてください)

 

 最終話(12話)では、EDのスタッフクレジットが変わります。

エンディングテーマ

「INDETERMINATE UNIVERSE

作詞・作曲・編曲:ゆうゆ

ゆうゆfeat.ケムリクサ

りん(CV.小松未可子) りつ(CV.清都ありさ) りな(CV.鷲見友美ジュンナ)

 名前が追加され、前半は「初音ミク」が歌っているのですが、サビから「りん、りつ、りな」の声優が歌っているものに変わります。

 

 ケムリクサ製作陣が、ED曲の「歌い手」を誰にするかで、何らかのメッセージを込めていると考えられます。

 

アイデンティティ問題/初音ミクの匿名性

歌詞からストーリーを拾い上げながら考察していきたいと思います。

 (以下ネタバレ注意です)

赤い赤いその血潮に浮かび上がる

人とヒトならざる者達の不協和音 いま夜明け前

 「人」と「ヒトならざる者」というのが印象的な言葉です。

 

 わたしは、たつき監督の前作「けものフレンズ」のイメージが強く残っていたのもあって、記憶喪失の主人公「わかば」が「人間」で、姉妹たち(りん、りつ、りなetc)が「ヒトならざる者」だというように安易に思い込んでいました。

 

 「フレンズ」と呼ばれる動物たちと「人間」の旅を描いた『けものフレンズ』と同様に、「ヒトならざる者(姉妹)」と「人間(わかば)」の旅から、人間の本質を語ろうとしているのだと勘違いしてしまいました。

 

 しかし、11話で明らかになった衝撃の事実は「わかば」の前世(?)は「ワカバ」であって、彼は「地球人」ではないということ。彼は、地球の文化財保全しようとしている、どうやら「宇宙人」であり、一方で姉妹たちは、地球人の一人の少女が「ワカバ」を助けるために「ケムリクサ」――ヒトならざる者に自らなった存在だということです。

(「わかば」がどのような存在なのかは物語上では明示されていませんが、「ワカバ」がミドリによって転写された存在という説が正しいとすると「わかば」もケムリクサ的存在なのかもしれません)

 

 それを踏まえると「ケムリクサ」という存在の声を、「初音ミク」に託した理由が分かってきます。

 

 「初音ミク」が歌うことでもたらされる効果として「匿名性」があります。代替不可能な人間歌手に依存しないことで、「誰の、誰に対する歌」なのかが覆い隠されます。そして同時に匿名性をもっているからこそ、視聴者に「誰の歌なのか?」という疑問を必然的に抱かせることになります。(詳しくは「ボカロ考察会」の記事を見て下さい)

 

 実際、その「匿名性」があったからこそ、ED曲「INDETERMINATE UNIVERSE」の歌詞に込められた意味は、物語終盤まで確定できず、物語の「謎めいた雰囲気」を維持することに貢献しました。

もう一度あの日の景色 横顔

届かない隣でキミがいつも通り笑う

 「キミ」が誰なのかはずっと謎でしたが、11話でようやく判明しました。ケムリクサは実質「ワカバ」と「りり」の二人の物語であるので、「ワカバ」にとっては「りり」、「りり」にとっては「ワカバ」が「キミ」なのでしょう。

 ただし、最終話のEDで「ケムリクサ」として「りん、りつ、りな」が歌っていることを重視すると、どうやら「りり(姉妹)」から「ワカバ(わかば)」への言葉と考えるほうが近いように思えます。

 

 ここであっさりと「りり」と「姉妹」を繋いでしまいましたが、「りり」と「姉妹たち」を同一視して良いのか、という問題がこの物語には存在します。(同様の問題は「ワカバ」と「わかば」の間にも立ち上がりますが、先述のように「わかば」の立ち位置は厳密なところでは明らかにされていないのでここではスルーしたいと思います。)

 

 まず、主ヒロインの「りん」と「りり」のアイデンティティ問題を考える上で、重要なシーンがあるので、引用します。

りん「この葉のせいで顔が熱くなるのだと。前は外に出すと少しマシになっていたのだが」  (11話)

 以前は「記憶の葉」の「りりの記憶」が「ワカバ」のコピー的存在(?)である「わかば」に反応して顔が熱くなっていたのだが、11話段階では「記憶の葉」に関係なく、顔が熱くなる。

 

 つまり「りりの記憶」とは関係なく、「りん」自身が「わかば」のことを好きになったと示す場面だと解釈することが出来ます。

 

 また、りんと「他の姉妹」も同じ存在だと見るわけにはいきません。

 

 姉妹は、それぞれの個性がしっかりと確立されています。姉妹たちには五感(=能力)が振り分けられているということもありますが、最初からアイデンティティは確立されていたというよりは、長い旅の中を経て、それぞれが代替不可能な存在になっていったという風に考えるのが自然なような気がします。

 

わかば」への気持ちに関しては、

りく 「これがりんの大事ねぇ。どっこがいいんだかなぁ」

りょく「全くじゃん」

 12話での、裏姉妹二人の発言からも、りん以外の姉妹は「わかば」に特に恋愛感情を抱いていないことが分かります。

 

 物語の焦点である「わかば」への想いに限定しても「りり」と「りん」そして「他の姉妹」を同一視するわけにはいかないことが分析できます。

 

 しかし、「さいしょの人(りり)」が、ケムリクサで分裂したのが「6姉妹」で、「りり」の性質が各姉妹に振り分けられていることを考えると、「6姉妹」と「りり」を連続した存在だと大きな視点からみることはできるでしょう。

 

 上記のように、「りり/りん/姉妹」の絶妙なアイデンティティ問題を振り返ると「feat.ケムリクサ」という表現は「これしかない」というものだと感じます。

 

初音ミクの声質

 人間の声に比べると、初音ミクの声は「感情のない無機質な声」だとしばしば表現されます。「感情のない無機質な声」だからこそ、強いメッセージ性を込めることに成功している楽曲もあるのですが(詳しくは別記事「ボカロ座談会」へ)、このED演出においては「ヒトならざる者」の想いを「ヒトならざる」機械の声に託しているのではないかと考えられます。

 

 改めて、最終話(12話)の初音ミクと声優(りん、りな、りつ)の歌声の切り替わりのタイミングを確認すると、歌詞の内容と結びついていることが分かります。

(初音ミク)

赤い赤いその血潮に浮かび上がる

人とヒトとならざる者達の不協和音 いま夜明け前

もう一度あの日の景色 横顔

届かない隣 でキミがいつも通り笑う

 

(以下、声優)

ボクらは願い、夢を繋いだ

見えない霧の中で

なのに世界は嘘だらけ 決意揺らいで

キミが残した優しい歌を

見失わないように どうか明日も

 初音ミクが歌っている前半部分は「りり」が「ワカバ」のことを助けるために「ケムリクサ」となる場面のことが、声優が歌う後半部分は「りり」が「姉妹」となって「わかば」と旅する部分が、重点的に描かれています。

ボクらは願い、夢を繋いだ

 「ボクら」は「ワカバ」と「りり」の二人を示しており、「再会すること」を願ったということだと思います。

見えない霧の中で

「見えない霧」というのは、アカギリを暗示しています。ただし、この歌詞では「未来が見えない」という拡張した意味も込められているのでしょう。

なのに世界は嘘だらけ 決意揺らいで

 厳しい世界の中で「再会する」という決意は揺らぎます。実際、りりは、ワカバと再会することを一度諦めて、橙のケムリクサの記述(「ワカバを助ける」という目的を書いたところ)を自分で塗りつぶしています。

キミが残した優しい歌を

見失わないように どうか明日も

「キミ」というのは「ワカバ」と「りり」のお互いを示していると先述しましたが、歌い手を考慮にいれると、「ワカバ」の「優しさ」と読みとるのが歌声のイメージに合うと思います。

 

 以上のように、歌詞の構成をみると、物語終盤で明らかになるケムリクサの世界観と合致します。

 

 「ヒトならざる者」(機械)の「匿名化」された「無機質で」「代替可能な」歌声から、「人である」「特定の声優」の「感情の込められた」「代替不可能な」歌声への変化は、物語の進展とともに、互いが「かけがえのない存在」となっていく登場人物たちの感情の共鳴、高まり合いと重なります。

 

ストーリーと連動するEDの「視覚上の変化」も話題になりましたが、「歌声の変化」も物語終盤の盛り上がりを演出する上では必須だったのだと思います。

 

 「ボカロ」はオワコンといった言説もありますが、今回のように「初音ミク」の声で、物語とあった「謎めいた雰囲気」をEDまで視聴者にしっかりと抱かせ、最終話での歌声の変化によって視聴者の感情までも揺さぶるという演出は「初音ミク」を使うことによって初めて生まれるものです。

 

 『ケムリクサ』は、物語のプロットそのものも当然素晴らしいですが、こういった演出面での挑戦、こだわりが視聴者を惹きつけてやまなかったのだと思います。

 

 

Written by (緑のケムリクサで身体の不調を治したい)踊るサバ

 

歌詞引用元:「UtaTen」

【映画評】「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__」

映画「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__」における風刺的側面についての一考察

はじめに

さて、劇場版3部作の第3作である。とは言うものの、公開初日3期の制作が発表されたので、その中継ぎとしての意味合いもある。第1作、並びに第2作については、既に記事を投稿している。そこで「PSYCHO-PASS サイコパス」シリーズのシビュラシステムについての概説は行っているので、そちらを参照されたい。

theyakutatas.hatenablog.com

以上2つの記事では、特にそれぞれの作品の元ネタと考えられる具体的な事件・問題を取り上げている。今回は、まずそうした点に入る前に、表題の元ネタである菊池寛恩讐の彼方に」に触れたい。

菊池寛恩讐の彼方に

この小説は、市九郎が主人・三郎兵衛を殺してしまうところから始まる。理由は彼が三郎兵衛の愛妾・お弓と通じたためだが、勢いで主人を殺してしまった市九郎とお弓はともに逃げることになる。

美人局から強盗にまで身を落としたものの、突如罪悪感にさいなまれ、お弓の元を離れ出家。了海という名を得る。

了海の罪悪感はなかなか晴れないが、そんななかある交通の難所の話を聞く。その難所を取り除くため、巨岩を鎚で穿ちはじめる。一人の力ではなかなか作業が進まない。住民たちもその徒労を嘲笑うが、徐々にその事業に実現の可能性を見ると、石工を雇って作業を手伝う。そのこともあって、巨岩の貫通が見えてきた。

三郎兵衛の子・実之助は、自らの父を殺した仇を探し、了海にたどり着く。了海を殺そうとするも、巨岩貫通を目前にした石工や住民たちは、その実之助を思いとどまらせようとする。了海は甘んじて殺されようとするも、「巨岩を貫通させた後ならば殺しても良い」ということで住民などとも合意を得る。

いち早く仇討ちを果たそうと、巨岩を穿つ作業を手伝う実之助。しかし、本当に道が貫通したとき、実之助には仇を討とうという意思は無かった。

マッチポンプ

この小説の内容が作品にどのように反映されているかについては後述するとして、まずは本作のあらすじを確認しておきたい。

2116年に起きた東南アジア連合・SEAUnでの事件後、狡噛慎也は放浪の旅を続けていた。

南アジアの小国で、狡噛は武装ゲリラに襲われている難民を乗せたバスを救う。

その中には、テンジンと名乗るひとりの少女がいた。

かたき討ちのために戦い方を学びたいと狡噛に懇願するテンジン。

出口のない世界の縁辺で、復讐を望む少女と復讐を終えた男が見届ける、この世界の様相とは…。

STORY|PSYCHO-PASS Sinners of the System

作品の舞台は南アジアの小国チベット・ヒマラヤ同盟王国。名前から分かるとおり、その大きな下敷きにはチベット問題があると考えていいだろう。

チベット問題は、チベットに対する中華人民共和国の支配・統治にともなって生じる各種の問題である。 中華民国中共チベット自治区チベット地域および西康省として領土主張をしている。 中共政権による統制により事実上、チベット自治区では独立運動は不可能である。

チベット問題 - Wikipedia

近年ますます混迷を深めているこの問題では、中国共産党が「再教育」をチベット民族に施しているとの情報もある。

インドのメディア、プリント(The Print)2月12日付によると、衛星写真分析の専門家ヴィナヤク・バット(Vinayak Bhat)氏が、チベット自治区で3つの「再教育施設」を発見したという。

20年間衛星写真を解析する経歴をもつ同氏によると、3つのうちの1つは甘孜自治州にあり、人目を避けるために都市部から遠く離れた僻地に建設されている。当局にとって「監視活動をしやすい造り」になっているという。

現在、チベットでは寺院の改修が行われており、「漢民族の建物」のように作り直されているという。これらの寺院は再教育施設として利用されると同紙は指摘した。

チベットに再教育施設 衛星写真で3つ発見=インド専門家

このあたりには確かに問題が山積している。例えば、ウイグル人にも似たようなことが行われている。

中国西部の新疆ウイグル自治区は9日、イスラム教を信仰するウイグル人向けの「職業訓練施設」を法制化した。同自治区では、大勢のウイグル人の行方が分からなくなっており、国際的な懸念が広がっている。

中国、ウイグル人「再教育」を法制化 - BBCニュース

中国のイスラム教徒については、イスラム教の教義が「中国化」させられるという問題もあるが、ここでは詳述しない。(イスラム教を「中国化」、5カ年計画 共産党の指導徹底 - 産経ニュース

物語中では、アルプス・ヒマラヤ同盟王国の3陣営の争いが、「停戦監視団」によって調停される様子が描かれる。

アニメ「機動戦士ガンダム00」で、私設武装組織ソレスタルビーイングが武力介入によって戦争を強制的にやめさせようとした様子を彷彿とさせるが、作中ではそれが「停戦監視団」のマッチポンプであったことが明らかにされる。

つまり、自らで火を点け(マッチ)、自らで消す(ポンプ)のをずっと繰り返していると言うのだ。

この点を鑑みれば、むしろ思い出されるのは別の内容である。例えば、ロヒンギャ問題だ。

 仏教徒が9割近いミャンマーで少数派のイスラム教徒であるロヒンギャは西部ラカイン州を中心に約100万人が暮らすとされる。隣国バングラデシュ南東部の方言に似た言語を話すことや宗教から、ミャンマー政府や国民は「バングラデシュ移民」とみなし、多くは国籍を持てないなど差別されてきた。1990年代にも当局の迫害を受けて25万人以上が難民になった。

ロヒンギャ問題(ロヒンギャモンダイ)とは - コトバンク

 しかし、この問題の元凶はイギリスと日本にあるとの見方も多い。

日本もまた、この問題に無縁ではない。ビルマ現代史を研究する上智大学教授の根本敬は「彼らが住むラカイン州北西部でイスラムと仏教の感情的対立を増幅させたのは、太平洋戦争中の日本と英国の代理戦争だった」と指摘する。

英国のビルマ進出に伴いバングラデシュから多くのイスラム教徒が流入。一方で、日本は陸軍の組織「南機関」が、スーチーの父アウンサンら仏教徒主体のビルマ人を支援して英国からの独立を促した。ラカイン州では日本が仏教徒を防衛に使い、イギリスはムスリムを組織して奪還作戦を展開。モスクと僧院を破壊しあうことになった。「その感情の対立が、戦後になって固定化されていった」というのだ。

ロヒンギャはなぜ迫害されるのか 日本も無関係ではないその背景:朝日新聞GLOBE+

しかし、そんな中「イギリスを含めた」国際社会は、むしろミャンマーの「民主化」リーダーとされたアウン・サン・スーチー氏を批判する流れにある。(ロヒンギャの人々が「日本に感謝」する理由 それでも「他人事」? - withnews(ウィズニュース)

やはりシリアか

ここにマッチポンプの源流が見いだせないではない。しかしやはり影響があるのはシリア内戦ではないか。このことは「Case.2」でも指摘した。

その一つに、チベット・ヒマラヤ同盟王国内で対立していたのが、3つの勢力であることからも読み取れる。実際、シリア国内では、アサド政権軍・反政府軍イスラム国が長らく3すくみの戦いを続けてきていた。それが昨年、一応の停戦合意を見た。しかしそれは現在有名無実化されている。

民間防衛隊筋の情報によると、政権軍は、「イドリブ緊張緩和地帯」に向け、今年の始めから今も空と陸から攻撃を実施しており、それにより少なくとも民間人75人が死亡し、民間人265人以上が負傷した。

政権軍は、イドリブにおける停戦を強化するためにトルコ・ロシア間で締結されたソチ合意を無視して攻撃を続行した。

反体制派軍は、2018年9月17日に締結されたこの合意に含まれる地域から、2018年10月10日に重火器を撤収した。

【シリア】 政権軍がイドリブ緊張緩和地帯を攻撃 | TRT 日本語

 ほとんどシリア情勢は、アサド政権を支援するロシアと、反政府軍を支援するアメリカや欧米の代理戦争の様相を呈していたが、そこのイスラム国という共通の敵ができたことで、両者間の争いは一応の停戦を見た。

それが、イスラム国の急激な弱体化とともに、アサド政権軍と反政府軍の対立が露見してきた。さらにそこにクルド人武装組織の存在やトルコの思惑も絡み合って、複雑さを極めている。

しかしその元凶とはそもそもヨーロッパなのではないか。それは、イスラム国がサイクス・ピコ協定以前のオスマントルコを取り戻すことを掲げていることからも分かる。

オスマン帝国を倒したあとに、アラブ人の住む地域を山分けにしようという談合です。エジプトはすでにイギリスが押さえていたので、そのほかのアラブ人居住地を、英・仏が勝手に線を引き、分割しました。

具体的には、シリアとレバノンはフランスが取り、その南側のヨルダンとイラクはイギリスが取る。そして、ヨルダンの地中海側のパレスチナには、あとでヨーロッパからユダヤ人を送り込む。これをアラブ人には内緒で決めてしまったのです。

これをサイクス・ピコ協定というのですが、イギリスの目的は、当時のイギリスにとって最も重要な植民地であったインドへのルートを確保することにありました。イギリスからインドに商品を輸出したり、万一反乱が起きたときに鎮圧するために、インドへと通じる道が必要だったのです。

イスラム国は「間違った外交」から始まった | アジア諸国 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

結局、中東に自分勝手な国境を引いたツケが巡り巡って今やってきているのではないか、ということだ。

恩讐の彼方に

先ほどの小説に戻ろう。菊池寛恩讐の彼方に」である。

自らの罪悪感から巨岩を穿つ了海の姿は、狡噛慎也と重なる。彼もまた復讐を果たし、行くあてのない旅の途上だからである。

そこに登場するテンジンという少女は、自らの父を残忍に殺した犯人への復讐を誓うも、やはり復讐はできない。その姿は実之助と重なる。

恩讐の彼方には何があったのか。狡噛慎也が懸命に穿つ巨岩とは、本作において何なのか。おそらくそれは「シビュラシステム」であり、「平和」ということなのだろう。

そこには彼の罪悪感が原動力として働くが、それに不純な動機であれ力を貸すことになる実之助=テンジンの姿も忘れがたい。

3期に何を期待するか

この3部作を通して、おそらく外務省がシビュラシステムの根幹を揺るがすような策謀を巡らせているらしいことが明らかになった。おそらく3期ではそこが描かれるのだろう。

僕はむしろ「シビュラシステム」が必ずしも批判されるだけの制度ではない点にこそ、注目したい。

中国で社会信用システムが稼働を始めていることをみても、我々の社会は当然の帰結として、「シビュラシステム」に到達するはずだ。

では私たちはその当然の帰結の、一体何を批判するべきなのか。

それについての真摯な思考が3期に垣間見られることを祈っている。

 

written by 虎太郎

【芸術評】クリスチャン・ボルタンスキー -Lifetime (大阪・国立国際美術館)

はじめに

2019年2月から5月にかけて国立国際美術館でクリスチャン・ボルタンスキーの回顧展(以下、ボルタンスキー展)が開催されている。これから本展覧会は東京と長崎にも巡回する予定だが、本記事で扱うのは大阪会場のみである。

www.nmao.go.jp


本展覧会は副題に"Lifetime"とある通り、これまでのボルタンスキーの軌跡をたどるというのが本展覧会の目的だ。たどる、といっても、必ずしも制作年代順に作品が展示されているわけではなく、バラバラに配置されている。ボルタンスキー本人が実際に現地を訪れて展示の構成を調整したという。

さて、ボルタンスキー展の内容に入る前に、まずクリスチャン・ボルタンスキーというアーティストがどのような人物であるかを明らかにしておこう。

クリスチャン・ボルタンスキーというアーティスト

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CHRISTIAN BOLTANSKI, Portrait at Espace Louis Vuitton Munchen, 2017

彼は世界大戦終結直前の1944年パリの生まれで、一般にフランスを代表する現代アーティストとして知られている。しかし、ボルタンスキーという姓からも察せる通り、ルーツはフランス系ではなくユダヤ系である。それゆえに、ユダヤ系の人々に関わる機会も多い幼少期を過ごしたという。むやみに作家の個人史を参照して作品を鑑賞する態度は避けられるべきかもしれないが、彼の作品には特定の民族に焦点を当てたものも多いため、この点には注意しておいても良いだろう。
また、彼は、特に美術学校に通ったという経歴がないどころか、普通学校にも通ったことがほとんどないと語っている。それにもかかわらず、母親が画廊を経営するなどしていたこともあり、20代の頃にはアーティストとして生きていく事を決めていたという。そうして1968年には絵画をやめ、1960年代後半から短編フィルムを発表し始めたボルタンスキーは、その後も写真やビデオ、ビスケットの缶や電球などの身近な生活用品を用いた作品を意欲的に発表し続け、現在に至る。

以上が彼の主な経歴である。(参考:『現代アート事典』)

彼の作品に欠かせないキーワードは、歴史や記憶、人間の生と死だ。本展覧会でも、こうした彼のテーマが実に巧みな仕方で浮かび上がっていたといえる。
 

それでは、ボルタンスキーの旅に「出発」しよう。

始まり、光

展覧会のオープニングを飾るのは、《出発》と題された作品である。青色のLED 電球で"DEPART"の文字が浮かび上がる。
本展エンディングの《到着》(2015年、こちらは赤色のLEDで"ARRIVEE"の文字を形作ったもの。)と対になっており、展覧会全体でボルタンスキーの生涯(まだご存命ではあるのだが)を振り返るにはふさわしいと言える。
まるで街中の広告のように色鮮やかできらびやかで、美しい。しかし、同時に粗雑な印象も受ける。それは、電気コードがむき出しのままであることに起因しているだろう。

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《DEPART》/《ARRIVEE》(写真は2016年に海外で展示されたもの。青と赤の配色は国立国際美術館のものと逆である。)

この二作品は、人生には始まりと終わりがあるというボルタンスキーの哲学を物語っている。
赤と青の電球が頻繁に用いられるのは、動脈と静脈を表しているようにも見える。ボルタンスキーの作品は一見するとクリーンなのによく見てみると生々しさが表れているといった場合が多いが、これもその一つだろう。

《出発》の文字に出会うとき、同時に私たちの耳に届くのは大きな《心臓音》(2005)だ。
電球の明滅が心臓の鼓動に合わせて繰り広げられる。
この心臓音は、豊島の《心臓音のアーカイブ》(2010)*1から提供された「誰か」の心臓音である。電球の光だけが灯る暗闇の空間で大きな音が鳴り響くことで、鑑賞者は「誰か」がそこにいるかのような不気味さと、「誰か」の生に立ち会っているような微妙な温もりを感じる。

「かつてそこにあった」—礼拝的価値

「誰か」の生と死がそこに「ある」こと、またそこに「あった」こと、というのはボルタンスキーの作品に一貫したメッセージであろう。
それが顕著なのが、「顔」を素材にした作品群だ。

ボルタンスキーの名を轟かせた最も有名な作品といえば、80年代の《モニュメント》と名付けられた連作であるが、そこに用いられるのは人間の顔写真である。

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《モニュメント》(1986)

《モニュメント》では、無名の子供達の顔写真がまるで遺影のように飾られ、ロウソクのように仄かな電球がそれを照らす。
身近なもので作られているのにも関わらず、それはどこか厳かであり、宗教的な雰囲気すら感じさせる。
このような作品では、写真が「誰か」であることが重要だろう。特定の役職を持った権威者や有名人だけを取り上げる(アンディ・ウォーホルの有名な《マリリン》等はその顕著な例だろう)のでは、彼の意図は叶えられない。ボルタンスキーは「誰か」の一生が、無くなってしまった瞬間、世界からその存在が忘れられてしまうことへの抵抗だとして、記録をし続けることの重要性を語っている。もちろん、そんな膨大な情報すべてを自分一人の力で書き留めておくことはできないし、忘却に負けてしまうことも十分に理解した上で、こうした作品を作り続けているのだ、と彼は語る。
そんな彼の試みは、アウシュビッツの記憶、また日本であれば原爆の犠牲者や大震災の犠牲者の記憶を留めておくという記念館の姿勢にも似ている。ただ、そうした記念館と彼の相違点は、何か負の歴史の犠牲者になっていようともいなくとも、犯罪者さえも、すべての人間を同等に扱うところだといえる。

ここで、《死んだスイス人の資料》を見てみよう。

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《Archives des Suisses morts (死んだスイス人の資料)》(1990)

この作品は、金属製の箱で壁を作ったものである。
箱の前面にはボルタンスキーが『ヴァレ通信』の死亡告知欄から切り取ったスイス人の写真が貼られている。
この金属製の箱はもともとはビスケット缶で、ボルタンスキーにとってはミニマリズム的オブジェであると同時に骨壷を連想させるものである。(本展配布冊子より抜粋)

この作品の題材には、「スイス人」、すなわち永世中立国の住民が選ばれた。この理由は彼らが、ユダヤ人のように「死ななければならない歴史的な理由」を持たない国民だからであるという。彼は全ての死者を等価に扱う。

長谷川祐子は、著作『女の子のための現代アート入門』において、ウォーホルの反復するイメージと対照的に「顔」を描き出した作品としてボルタンスキーを挙げている。

彼は、生のなかに積み重ねられる日々の死を記憶のメタファとみた。写真はそこに写されているものの「不在」を強く感じさせる。彼は記憶の保存箱、また記念碑(モニュメント)をつくろうとした。(中略) 写真の発明によって、死はそのアウラを失い卑俗なものになってしまったとベンヤミンは語ったが、ボルタンスキーはこれに抵抗する。すべてひとりひとり異なる生と死があり、それは礼拝される価値をもった記念碑になりうると。

写真が「かつてあった」(It had been / It was)ということを示すというこの指摘は明らかに、バルトの『明るい部屋』での記述に依拠したものだろう。

絵画や言説における模倣とは違って、「写真」の場合は事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。
ロラン・バルト『明るい部屋』、94頁


さらにバルトは、写真映像一般について、「触れる」ものとしての特性も指摘する。

写真とは文字通り指向対象(=すなわち被写体のこと)から発出したものである。
そこに実在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。
同上、100頁

ボルタンスキーの主題、「誰でもない誰か」は確実に「かつてそこにあった」。
その「誰か」は鑑賞者である「私」に時を超えて触れにやって来る。
このことが、先に述べた心臓音や用いられる色といった物質的な問題以上に、ボルタンスキーの作品が生々しさを伴う要因とも言えるだろう。

「かつてそこにあった」ことを表現している作品としては、顔写真の連作のほか、衣服を並べた作品群もこれに当たる。

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《Le Manteau (コート)》(2000)

大量の衣服を集積させた作品、壁に大量の衣服を縫い付けた作品、一つのジャケットを吊り下げ、周りにライトをつけた作品(上写真《コート》参照。)などである。
これもまた、いま現在は誰にも着られていないけれど、それを着ていた誰かを想起させるまでに古ぼけた服の集まっているのを見ると、何か霊的なものを感じさせる。

この意味で、ボルタンスキーの作品の多くは、遺影や遺品とも呼べるだろう。

以上のように、彼の作品の原点は、忘れられる儚い存在といったものへの異常なまでの執着心なのである。


ボルタンスキーは、芸術の目的とは「トラウマを表現する事」であると語っている。この主張は、他のアーティストを例にとってみても当てはまるかもしれない。例えば、マイク・ケリーにとっては、それは「スクール」だった。(下記事を参照)
theyakutatas.hatenablog.com
またポップ・アーティストのアンディ・ウォーホルにとっては、それは大衆文化や消費文化であったかもしれない。(もっとも、彼自身は自らのアトリエを「ファクトリー」と名付けた上に「僕は機械になりたい」などと発言しているのであるが。)

彼のトラウマは、言うまでもなく大量の死者の存在、より具体的にはナチス・ドイツによるユダヤ人の大虐殺とその犠牲者のイメージであろう。
写真映像というメディウムが持つ、「死のイメージ」によって彼は自らのアイデンティティであるユダヤ人としての歴史的位置に自らの作品を帰着させるのだ。

ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術』において芸術作品には礼拝的価値と展示価値とがあると述べた*2が、ボルタンスキーの祭壇のような作品はまさに「礼拝」の対象となる。
しかしその礼拝は、「美の礼拝」ではなく、依然として本来的な意味での礼拝なのである。

次世代へ—「神話的価値」の創造

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《Animates-Chili (アニミタス チリ)》(2014)

忘れられてしまうものへの固執をまるで祭壇のような設えで表現し続けてきたボルタンスキーだが、高齢になった近年には、自らの作品を神話化することに関心を高めているようである。本展覧会でも、大きく空間を使って2017年以降のビデオ作品が展示されていたことから、神話的作品を強調したいというアーティスト本人の意志がうかがえる。

例えば上の《アニミタス》はチリのアタカマ砂漠にて撮影されたビデオ作品だ。細長い棒に取り付けられた数百の風鈴を使って、ボルタンスキーが生まれた日の夜の星座を再現している。さらに、《ミステリオス》では、南米のパタゴニアにおけるクジラ信仰をテーマにラッパ状のオブジェを作り、クジラとコミュニケーションをとることを目指す試みが行われた。

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《Misterios (ミステリオス)》(2017)

こんな奇妙な作品を制作していた作家がいたことをどこかに刻みたい、そうした欲求をボルタンスキーはゆかりのない土地に赴き、叶えようとする。
《アニミタス》はおそらくもう跡形もなく消え去っているだろうし、《ミステリオス》に関しても、オブジェは残ったとしても風化していく一方だろう。けれども、ビデオ作品にすることで、その記録は半永久的に残るのだ。

以上のように、ボルタンスキーの作品はおおよそ、光、「そこにあった」こと、神話の三要素に集約することができるだろう。

本展覧会の最後を飾るのも、(先に述べたように)電球で書かれたARRIVEEの文字(《到着》)である。そして、それにたどり着くまでの狭い通路には、何人かの大きな子供の顔写真が傷をつけられた状態で展示してある。彼によれば、これらの作品は近年報道されることが増えたように思う児童虐待のニュースへの目配せだという。
「美術館は何かについて考えるための場所であってほしい」というのが彼のかねてからの願いであった。このとき美術館は、ボルタンスキー個人どころか欧米のトラウマと言ってもいい悲劇、ホロコーストについて考える場であり、またボルタンスキーの神話的な姿について考える場であり、さらには社会問題について考える場としても機能するのだ。

おわりに—「アーカイヴ」の視点から考える

ウォーホルが、何度も印刷され反復されるイメージに対して空虚さを感じていたのに対し、ボルタンスキーは違った切り口から情報化社会を見ている。
写真映像の発明・普及以前は、肖像画に描かれた人間の存在しか、または歴史書に書かれた人間の存在しか残らなかった。
それが、今では私たちは、何もかもを残すことができるようになった。誰でもない民衆の姿も、いちアーティストの一回限りの作品も。だから、アウラが損なわれてしまったことを嘆くのではなく、無名の生も、存在も忘れないような行いをすべきなのだ—これがボルタンスキーの徹底した姿勢であろう。
ボルタンスキーは作品を通じて、アーカイヴ作成を行っているとも見れるのではないだろうかと筆者は思う。
近年話題になっているワード、「アーカイヴ」。各国は競うように資料(史料)のデジタルアーカイヴを作成し、何もかもをデータとして収蔵、いつでも誰でもがアクセスできるようにする。
芸術作品についても、あらゆる社会問題に関するニュースについても、自然災害について考える時にも、記録の問題は常に重要なトピックの一つであるが、その是非は、こうした「複製技術時代の芸術作品」を通して問われるべきなのかもしれない。

written by 葵の下

*1:瀬戸内海に浮かぶ香川県の島、豊島では、2008年より心臓音を収集するプロジェクトをボルタンスキーの作品の一部として展開している。《心臓音のアーカイブ》では、これまで彼が集めた世界中の人々の心臓音を恒久的に保存し、それらの心臓音を聴くことができる。来場者は自分の心臓音をここで採録することもできるという。(出典:心臓音のアーカイブ | アート | ベネッセアートサイト直島)

*2:礼拝的価値を伴って作品を見るとは、作品に距離を置いて瞑想的に作品に没入するという態度のことである。ここでいう「礼拝」とは従来の宗教的儀式に似た「美の礼拝」である。対して、展示的価値を伴って作品を見るとは、距離を置かずに、店先で商品を見るときのように作品を鑑賞する態度のこと。ここで注意すべきは、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術」がアウラを失ったために礼拝的価値がないと主張しているのではなく、礼拝的価値、展示的価値は流動的で、一方を持つはずだった作品が他方に変容する可能性も残しているという点だろう。

【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑹

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目を醒ませ

目を醒ましたグリッドマン或いは響裕太

本作は、響裕太の「覚・醒」とともに幕を開ける。その時点で彼には過去の記憶がないが、それは彼のなかにグリッドマンが宿っているからである。つまり彼は、本来の人格のうえにグリッドマンの人格が上塗りされ、その状態でさらにそのことを忘れているという状況から物語が始まる。

そんな響裕太のグリッドマンとしての本性が現れるのは、コンピューターの内部のみである。そんな彼が、前述したとおり、「戦う」ということによって拡散した継続性というアイデンティティを取り戻そうとしたのは必然と言える。「戦う」間、グリッドマンでいる間、本来の人格を取り戻していると言えるからだ。

こうした特撮の「戦う」というエゴイズムについては、仮面ライダーについて分析する中で詳しく見たい。そうした特撮ヒーローのエゴイズムは、本作品においてもやはり典型的に示されているのである。

目を醒ました新条アカネ

本作第1話は「覚・醒」であり、最終話は「覚醒」である。最終話直前の第11話までは例外なく二字熟語の中央に中黒(・)が打たれている。これはどういうことなのだろうか。

この中黒が断絶するものとは、「同盟」を破棄した状態の新条アカネと、グリッドマン同盟の関係を示しているのではないか。

新条アカネとグリッドマン同盟の各人は関係が悪いわけではなかった。むしろ新条アカネがそう「設定」していることもあり、良き友人であったと言えるだろう。しかしこれが「グリッドマン同盟」ということになると話は変わる。新条アカネとグリッドマン同盟は、最後に至るまで、本当の意味で「同盟」を締結できはしなかったし、「和解」もできなかった。

その分裂状態が中黒に現れている。

そして当然、この中黒には断絶される2つの世界、つまり新条アカネの「中の人」が生きる現実世界と、物語が展開するコンピューター内の世界の分裂を示しているだろう。

新条アカネは現実世界とコンピューター内の世界を行き来するようではなく、どっぷりとコンピューター内の世界に没入する。つまり、そこに2つの世界の融合は見えず、はっきりど断絶されている。その断絶もまた中黒に端的に表されている。

最終話で新条アカネは現実世界で「覚醒」し、実写パートへと帰結する。それは現実世界とコンピューター内世界が適切な関係を取り戻すこと──断絶が修復され、出入りが可能になることを意味する。そしてそれこそが中黒の消失になる。

慣性としての「日常」

折に触れてこの記事では、「日常」とは何かを考えてきた。

「日常」とは継続性であり、それは「過去」を「現在」と同じようなものであると想起することによって生じる、というところまで話は展開されてきた。「これまでもそうだったしこれからもそうである」という継続性は(それが正しいかは別にして)、時にアイデンティティそのものとなり、時に「日常」と化す。

この留保に注目したい。そもそもそんな「継続性」なるものは実在するのか?

「日常」とは、「『過去』もそうだったはずだ」と「過去」を想起し、「『未来』もそうであるはずだ」と存在しない「未来」を推量するところにこそ現れる。言ってみれば、そこに働くのは「慣性」である。

しかし、この「慣性」とは考えてみれば不思議だ。なぜなら、本当にそこに「継続性」があるのではなく、「継続性」がある、と見なすのであるから、本当は大きな変化があるのかもしれない。

実際にはそれが特撮作品とも共通する。

「シリーズ」でくくられ、毎年新作が制作されるが、それらは本質的に別種で、世界観を共有しない場合も少なくない。しかしそれらは毎年「継続」するものとして扱われる。そこに存在するものこそ、まさに「慣性」ではないか。

そこでここからは、「仮面ライダー」シリーズでも、毎年の放送が慣例化し、しばらくが経過した平成2期を概観することで、その「慣性」について考えていきたい。

 

written by 虎太郎

【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑸

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本当の敵を見つけ出せ

アンチ

特撮ヒーロー作品において、長らく対立してきた敵が、実は敵ではなく、その背後に黒幕がいた、という構造を持つものは多い。

この作品では、アンチというキャラクターが敵であるように見えて、実はその背後には新条アカネがおり、新条アカネこそが黒幕だと思いきやその背後にはアレクシス・ケリヴがいた。

このアンチについて考えてみよう。

アンチは、その名の通り、「アンチ・グリッドマン」として、グリッドマンを打倒することを存在論的至上命題として与えられ存在する。彼のアイデンティティとは、「アンチ・グリッドマン」で居続けることにこそある。そんなアンチは、響裕太を殺すとグリッドマンを倒せない、別の敵にグリッドマンを倒されると、自分はグリッドマンを倒せないというジレンマの中で、グリッドナイトとなる。

グリッドナイトとは、GRID KNIGHTだろう。というのも、本作で読まれないものの「GRIDMAN」の前に付される「SSSS」とは、「電工超人グリッドマン」のアメリカ版リメイク作品「Superhuman Samurai Syber-Squad」が語源であるとされる。言ってみれば、グリッドマンとはSamuraiあり、アンチ=グリッドナイトとはknightなのである。

ここから分かるように、グリッドマンとアンチの対立とは、日本的サムライと、西洋的ナイト(騎士)の対立でしかなかった。それを習合し、昇華した先に、やはり「同盟」の姿が見える。彼らは、新条アカネを救うという点で「同盟」を結ぶのである。

アレクシア

アレクシアは、グリッドマンや新世紀中学生と同じように、この世界の「外部」からやって来た存在である。その点で「ウルトラマン」と全く同じだ(「ウルトラマン」の外部性については、既に記述した通りである)。

そもそも「電光超人グリッドマン」について鑑みれば、その本質とはグリッドマンとカーンデジファーの戦いであり、そのカーンデジファーが本作におけるアレクシアに当たる。

彼らの戦いは、実は「外部」で行われる。というのも、彼らの戦いはコンピューター内で行われるために人々の目にはつかない。コンピューターと言えば、「内部世界」という感じがするのだが、その「内部」を完全には理解し得ないという点で、「〈内部〉外世界」とでも言うべき複雑さを伴っている。

それが本作においては、新条アカネが構築した「〈現実世界〉内〈想像世界〉」におけるコンピューターという「〈内部〉外世界」という更なる複雑さを伴っている。

分かりにくいので図解していこう。

電光超人グリッドマン」の場合はこうなる。

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電光超人グリッドマン」の場合

現実世界からコンピューター内の世界=電脳世界は見えない。むしろ、「見えないところで戦っている」という事実が重要視される。「人知れず平和を守るために戦うヒーロー」としての側面が強化されているのである。

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「SSSS.GRIDMAN」の場合

それがこの世界ではより複雑化している。新条アカネの想像世界内で起こる出来事であるがゆえに、枠が一つ追加されているのである。

想像世界は、新条アカネが現実世界から逃避したことで構築された。新条アカネは最終話「覚醒」で、その想像世界から「覚醒」する。

その想像世界内のコンピューター内に吸い込まれる形で響裕太は「変身」するが、さらにそのコンピューター内から飛び出て「具現化」する。

アレクシアは電脳世界に生きるわけだが、それは世界内世界内世界である。

海将

海将は、先述の通り、記憶を失い、アイデンティティを失った響裕太に対して、「また友達になる」ことでそのアイデンティティ=「継続性」を取り戻させる役割を果たす。しかし、それだけではない。

この物語が、グリッドマン同盟と新条アカネの和解の物語である限り、内海将もまた、その任を担ってしかるべきである。実際、新条アカネと内海将の間には「怪獣が好き」という共通点がある。

海将が、現在の特撮における「大きなお友達」=特撮クラスタを代表していると考えて問題ないだろう。実際、「電光超人グリッドマン」でも、主人公・翔直人の友人・馬場一平はバルタン星人の真似をするなど、こちらの世界でも「ウルトラマン」シリーズが放送されている様子である。

新条アカネは「怪獣」それ自体を肯定する。だから、「怪獣」が倒されることを悲しみ、「怪獣」の勝利を志す。

一方,

海将はそうではない。彼は、「怪獣」が「ウルトラマン」に倒されることにこそ意味があると考える。言ってみればプロレスにおけるヒールだろう。言ってみれば彼の判断は「正常」だ。「正常」な特撮視聴者であると言って良い。その立場を、まさに彼は代表している。

それと同時に、そのことは新条アカネに対して「分かりあえない」と伝えることである。結局そんな新条アカネは、宝多六花による救済を待たなくてはならない。

宝多六花

宝多六花のもっとも重要な役割は二つある。一つ目は、内海将の言葉をタイピングによってグリッドマン=響裕太に伝えることである。二つ目は、グリッドマン同盟と新条アカネの和解の仲介者となることであった。

まず一つ目について言えば、これはコミュニケーションの成立しえないヒーローと、知識を持つ内海将ディスコミュニケーションを解消し、そのコミュニケーションを仲介するメディアの役割であると言い換えられる。*1

乱暴な解釈では、宝多六花が媒介する響裕太は特撮ヒーローの寓意、内海将は特撮ヒーロー視聴者の寓意であるとし、それを媒介する宝多六花は母親である、とみなすこともできるかもしれない。

しかしその際問題になるのは、宝多六花の母親も登場することである。もし宝多六花に母性が付与されるのであれば、その母親には「祖母性」が付与されるということになるのだが、その様子は見えない。

むしろ宝多六花の母親が経営するジャンクショップと、そこに集うグリッドマン同盟や新世紀中学生との関わりを見れば、彼女こそが母性を発揮しているように思われる。

よくよく考えてみれば、グリッドマンは新世紀中学生などのように具現化できず、ジャンクショップのコンピューターの中にしか存在しない。その点においてジャンクショップとは、新条アカネやアレクシアの支配が及ばない「聖域」と化す。

その際、グリッドマン同盟や新世紀中学生の味方の瞳は青く、新条アカネの瞳は赤いという対称の中で、宝多六花の母親の瞳だけが、グリッドマンに覚醒した響裕太のように黄色いということが示唆的である。

いわば、青と赤の対立を俯瞰する聖域の主である宝多六花の母だからこそ、その瞳は黄色いのではないか。

宝多六花の母が経営するのはジャンクショップ。ジャンクと呼ばれるようなガラクタに価値を付与し、それを商品にするのが彼女の仕事である。しかし、新条アカネの部屋には無数のゴミ袋が置かれる。おそらく怪獣の造形に失敗するなどしたために生まれたゴミだろうと思うが、そこには新条アカネによって価値を付与されることなく、ただそこに放置されるだけのゴミを見出すことが出来る。

この好対照は何より「戦闘」という分かりやすい対立ではなく、「価値付与」という倫理的問題の上で彼女たちが対立関係にあることを示している。そしてゴミにも「価値付与」がなされた空間はグリッドマン同盟や新世紀中学生の根城となり、ゴミを放置した新条アカネは、部屋で孤独を深めていくしかない。

written by 虎太郎

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*1:特撮作品において、女性はままこの「メディア」としての振る舞いを強いられてきた。そのことは、怪獣出現を前にして、女性隊員は前線に出撃せず、基地で男性隊員たちに情報を提供するなどの後方支援を命じられていた点に端的に現れている。また、特撮作品に限らずとも、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』でハリー・ポッターロン・ウィーズリーが仲たがいした際に、フクロウのように伝言を頼まれていたのも、女性であるハーマイオニー・グレンジャーだった。

【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑷

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同盟を結ぼうか

「UNION」

ではここで、アニメ「SSSS.GRIDMAN」のオープニング主題歌だった、大石昌良の作詞作曲による「UNION」の冒頭を見てみよう。

目を醒ませ

僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ

 

作り物のようなこの日々に

僕らのS.O.Sが加速する

何かが違うと知りながら

見慣れた空 同じ景色に今日が流れてく

「目を醒ませ」とはある面で宗教的であり、ある面で政治的な啓蒙のように響く。なぜならこの語は、「知っている人」と「知らない人」という知の非対称性を示すからだ。

実はこの作品における情報量の非対称性とは、作品内においてその世界を構築したとされ、「神様」とさえ呼ばれる新条アカネと、他の登場人物の非対称性にも通じるものがある。その際、その非対称性を打破することのできる存在こそ、新条アカネの理解の枠外に存在する響裕太=グリッドマンや、彼を取り巻く新世紀中学生たちであった。

そうした点で、「作り物のようなこの日々」というのは、まさに創造主=「神様」たる新条アカネの「作り物」なのである。その世界について漠然と「何かが違う」ということは把握しながら、「見慣れた空 同じ景色」に違和感を抱くことはない。

この点は、実際には「日常」が刻々と変化しているはずなのに、それが昨日と同じ「今日」であり、継続した「日常」であると判断してしまう、そのマインドにこそ警鐘を鳴らしていると言えるかもしれない。そう考えると、例えば次のような箇所は非常に示唆的である。

目を醒ませ

僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ

これは訓練でも リハーサルでもない

覆われた日常というベールを 勢いよく剥がしたら

戦いの鐘が鳴る

それじゃとりあえず同盟を結ぼうか

 

──君を'退屈'から救いに来たんだ!

思い出すのは、北朝鮮の相次ぐミサイル発射実験を受けて、連日Jアラートが鳴っていた2017年のことである。しかし人々はその状況を「日常というベール」で覆ってしまっている。つまり「退屈」とはその「日常というベール」によって形作られた状況である。

ヒーローになれやしないんだって

主人公は誰かやるでしょって

知らぬ間に諦めたりしないでよ

 

目の前の僕らの世界は何ものにも代えられない世界

それは子供も大人も関係ない

繰り返す日常というルールに 騙されそうになったら

反旗を翻そう

さあ僕たちだけの革命を起こそうか

「退屈」=「日常というベール」に覆われた状態とは、「ヒーロー」や「主人公」になることを「諦めた」状態である。「終わらない日常」とはむしろこの諦念にその本質があるのではないか。つまり「終わらない日常」とは時代状況のために生み出された不可避の空気感というより、「日常というベール」で何かを覆い隠した作為の結果なのではないだろうか。そしてその「覆い隠す」という作為は、「諦める」と呼び変えてもいい。

この世界は、新条アカネの構想の中に存在しているはずだった。しかし、それが破綻したのは、響裕太=グリッドマンの登場である。この物語は、端から新条アカネの構想の破綻から始まる。しかし、破綻しているのは、新条アカネの理想的構想だけではない。

ここで再び主題歌「UNION」に戻ろう。

タイトルの「UNION」という語はCメロの最後に登場する。また、その和訳である「同盟」という語は、最初のサビとラストサビに「あの頃のように同盟を結ぼうか」という形で登場する。ちなみに、真ん中のサビでは「さあ僕たちだけの革命を起こそうか」がそこに当てはまる。

「UNION」=「同盟」そして「革命」。注目したいのは、そこに繋がる歌詞である。
「あの頃のように」ということは、かつても「同盟」を結んでいたが、それが一度破綻したということである。その「同盟」を再び結ぼう、と呼びかけている。それは「僕たちだけの革命を起こ」すためである。

この物語は、グリッドマン同盟の響裕太・宝多六花・内海将と新条アカネの破綻した「同盟」を、再締結する和解の物語でもある。

言ってみれば、新条アカネの破綻した箱庭計画を、対立から昇華した「同盟」という形で再構築する物語なのだ。その結果新条アカネは、もはや箱庭に居続けることを必要とはしない。新条アカネは、コンピューター世界から「目を醒ま」すことができるようになる(最終話のサブタイトルは「覚醒」である)。

ここで、「ウルトラマン」について論じた中でも引用した宮台真司の指摘を再び引いておこう。

〔前略〕『ウルトラマン』ではガバドンウルトラマンにやっつけられそうなのを見た子どもたちが「ガバドンは何も悪いことしてない!」と叫びます。ここでは共通して善と悪の対立という世界観から一度退却する構えが示されます。僕はここに古来の伝統を見ます。 ジェノサイド(全殺戮)を嫌い、シンクレティズム(習合)を志向する構えです。民俗学者歴史学者の一部は、その由来を、縄文文化における強い祟り信仰にまで遡ります。こうした歴史学的仮説の是非はともかく、善悪二元論から距離をとって共存可能性を志向する「オフビート感覚」が、日本の映画にも長い間とても強く刻印されてきたと感じます。

宮台真司「かわいいの本質 成熟しないまま性に乗り出すことの肯定」(東浩紀編『日本的想像力の未来 クールジャパノロジーの可能性』所収、NHKブックス、2010年8月))

 この「シンクレティズム」という概念はここでも見える。グリッドマンから見れば敵である新条アカネと、最後には和解すること。それこそがこの作品なりの「ウルトラマン」シリーズの理念の継承だったのだろう。

和解

「日常」を徹底的破壊によって劇化し「非日常」としようとする新条アカネに対して、グリッドマンはそれを許さない。それは「僕らの世界」に対する「侵略」行為だからだろう。グリッドマンは「危機はすぐそこに迫っている」と響裕太に戦うことを求める。「日常」を保つために、それを破壊する「非日常」=「危機」が訪れるのだ。

この存在は、新条アカネも認知できておらず、操作できない存在だった。つまりこの世界を打開したのは、そうした不確定要素であり、「制御できない存在」だった。

では「同盟」とはどんな存在なのか。3話「敗・北」に次のようなセリフがある。

グリッドマンが敗北し、響裕太が戻ってこない)

内海 あーもうめんどくせえ。分っかりました。グリッドマン同盟は解散だよ。

宝多 違うじゃん。解散は違うじゃん。だってそしたら響くんが帰ってくる場所なくなっちゃうじゃん。

前述したとおり、響裕太は記憶を失い、継続性というアイデンティティを断絶された、アイデンティティクライシスの状況にあった。そんな彼の「帰ってくる場所」になるのがグリッドマン同盟だった。つまり「居場所」と言ってもいい。

特撮作品ではしばしばヒーローの「居場所」が求められる。「ウルトラマン」シリーズではそれは「助力者組織」であり、スーパー戦隊シリーズでは秘密基地などであり、「仮面ライダー」シリーズではヒロインのもとである。

ヒーローが戦ったあと、「帰ってくる場所」を、特撮作品は希求する。それがこの作品ではグリッドマン同盟だ。

しかしグリッドマン同盟の機能とはそれだけに留まらない。

グリッドマン同盟は、新条アカネと和解する。それによって物語は終わりに向かう。そして「日常」が取り戻される。

新条アカネとグリッドマン同盟の和解を一身に担ったのは宝多六花だった。彼女は元から新条アカネの友人だったはずだ(そう設定されていたのだから)。しかしそれが崩れたのは何より、二人の間に横たわる知の非対称性が暴かれてしまったからである。

「知っている人」と「知らない人」の間には権力構造が生まれる。病院の診察室では、自分の病状を知らない患者が、それを把握している医師に向かって「先生」と呼びかけ敬意を露にするし、学校の教室でも教授内容をあらかじめ知っている教師に、生徒は「先生」と呼びかける。

権力構造にはそれが通用する「空間」の問題が横たわるが、ここではその「空間」とは新条アカネの「箱庭」と置き換えられると考えて良い。巧妙に友人であるかのように隠蔽されてきはしたものの、実はそこには「知っている」新条アカネと、「知らない」宝多六花という権力構造があった。だからこそこの「友・情」は保たれていた。

しかし、宝多六花は「知っている」存在となった。そのとき、この権力構造は崩れ、「友・情」も大きく揺らぐ。しかしそこで彼女たちはお互い「知っている」という水平線上で再び「友情」を結ぶ。だからこそ、この二人の和解が、物語を終わらせられるのである。

written by 虎太郎

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【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑶

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「日常」の創造

宮台真司は「終わらない日常」と化した社会を、オウム真理教のように終末を想像するか、援助交際する女子高生のように「まったりと生きる」しかないとし、そのうえで「まったりと生きる」ことを肯定する。

あれから長らく時間を経たが「終わらない日常」とは終わってはいないらしい。むしろ僕たちはその「終わらない日常」に「終わり」を導く徹底的破壊を期待しているようである。

例えばそれは漫画『進撃の巨人』における巨人の来襲に見出されるのかもしれないし、『暗殺教室』などにも見出される観念かもしれない。いつも通り普通に暮らしているところに、非日常が貫入してきて、戦いに身を投じる。いわば「戦争の想像力」に賭けているところがある。

しかし先の芥川賞候補作になった砂川文次「戦場のレビヤタン」に見られる感覚とは、そんな「日常」に「退屈」しており、だからこそ戦場に身を投じるにも関わらず、結局それでもなお「退屈」するというものだった。(その点については書評を参照されたい)

芥川賞を獲った町屋良平「1R1分34秒」も、ストイックで立派な精神性を彷彿とさせるはずのボクサーの、無気力な「日常」が描かれ続ける。(こちらも詳しくは書評を参照されたい)

さてここで、中島義道の時間論を援用したい。とは言うものの彼の時間論については新書一冊(『「時間」を哲学する』)で触れただけであるから、多少の誤解があるかもしれないことは予めご容赦願いたい。

中島は時間を「過去」と「現在」の対比の中で理解する。我々が「未来」と呼ぶようなものは本来的に存在しないと解釈する。その上で、我々が「行ってしまう『過去』」と「やがてやってくる『未来』」というようなふうに物理的・空間的に時間を解釈してしまう、その考えを棄却する。

中島によれば、「過去」とは想起によってその瞬間立ち現れるものであり、どこかにあるはずであるようなものではない。一方「現在」とは不在を認知することによって、その瞬間、あるコンテクストともに了解されるものであるとする。

考えてみればこの作品における「日常」というのもそうである。

目醒めていない人々は、怪獣によって記憶がリセットされ、クラスメイトが不自然に減っていようと違和感を抱かない。それはそのはずだ。なぜなら過去なるものは本来的に存在しないのだから。

その証左に、ある出来事Aが起こったとして、私たちは記憶違いを起こす。その記憶違いはいわばA'と呼ぶべき小さな違いかもしれないが、もしその記憶を自分しか持っていなければ、A'を想起したとしても、それが「過去」ではないと判断することなどできない。

これはAがBという全く別の出来事に移行したとしてもそうである。つまり、クラスメイトが怪獣によって殺されたという出来事Aを、怪獣によってすっかり忘れさせられ、そんなクラスメイトなどいなかったのだというBという記憶を植えつけられたとして、人々は出来事Bのみを想起するのだから、それが「過去」として存在することになる。

つまり、この作品を見ていると、クラスメイトたちは同じクラスメイトが殺されたという事実を「忘れてしまった」と悲観し、その「過去」を「覚えている」グリッドマン同盟や新世紀中学生の活躍を祈りたくなる。けれどそうした見方は本来かなり危うい。というのも、この作品自体が新条アカネやグリッドマン同盟の「過去」に寄り添う形で展開するためにそれを信じてしまいがちなのだが、その「過去」がもはや本当に正しい「過去」なのか、疑わしいのだ。

もしかすると、「本当に」クラスメイトは存在しなかったかもしれない。そもそもクラスメイトが存在したかどうかという主観的な「過去」の想起に、どちらが正しくどちらが誤っている、というような優劣・真偽判定を下すこと自体が無意味なのである。

問題はそこに「日常」の本質が見えることである。

「日常」とは「過去」がそうだった、のではなく、「過去」もそうだったように記憶している、という極めて曖昧な想起の結果、それが現在に至るまで継続性を持っていると認められるときに発生する。

いわば「日常」を創造するというのは、「過去」を「現在」と同じようなものだった、そ想起することと同じであり、そこに継続性を見出すことそのものなのである。

しかし、本作において何より特徴的なのは、その「日常」が、新条アカネがアレクシアの協力を得て人工的に創造したものである点だろう。

言ってみれば創造主たる新条アカネとアレクシアは、創造した世界に自らもまた没入する。神であるのに不意に自らの作り上げた世界を訪れてしまう様子は、折口信夫の言うところの「まれびと」を彷彿とさせる。

 てつとりばやく、私の考へるまれびとの原の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村村に、海のあなたから時あつて来り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味して居た。

折口信夫「国文学の発生(第三稿)」民俗発行所『民族』第四巻第二号、1927年10月)、ここでは『折口信夫全集』第一巻(中央公論社、1954年)を参照)

しかし折口はその後、この神々を人々がいかにして迎え入れるのかに注目していく。いわば、その歓待に国文学の起源を見るのである。

本作に戻ってみるとどうだろう。新条アカネは歓待を期待していない。むしろ現実世界で成しとげられなかった人間関係の失敗を、自らの仮構した世界で埋め合わせしたいというようにも思われる。

「歓待を求めない上位者」というような像は、ある種理想的なものに人々の目には映るかもしれない。「○○様がお忍びで」というようなことを微笑ましく語る時代劇は枚挙にいとまがないだろう。

他にも、落語「目黒のさんま」は、殿様が目黒に出かけた先で偶然口にした炭火焼きのさんまがいやに美味しく、それを自邸に帰ってきて再現させようとしたところ、小骨が取り除かれ脂も抜かれたぐずぐずのさんまが出され、そのさんまが日本橋魚河岸で求めたものだと聞くと、殿様は「さんまはやっぱり目黒に限る」と言って演目がオチる。

面白いのは大きく分ければ二か所で、庶民の魚であるさんまを初めて口にした殿様がそのあまりの美味さに感激したという点、そして殿様であることを気に留めすぎて、家臣がさんまの醍醐味をすっかり台無しにしてしまったという点だろう。

もちろんここには無知な殿様を笑う含意もあるに違いない。しかし殿様が馬鹿だと嘲笑うのではなく、後半に家臣がぐずぐずのさんまを出す場面など、聴いていてもなんだか殿様に同情してしまう。

普段は高級魚ばかりの殿様だが、出先の目黒では歓待は期待できそうにない。そこで庶民と同じ地平に立った瞬間の感慨を、江戸の人々はどんな気持ちで聴くのだろうか。

もちろんこれは新条アカネとは少し異なる。「目黒のさんま」では、殿様が今まで見てこなかった社会の別側面=庶民の食事にすっかり感動するが、本作では新条アカネは現実世界で得られなかった人間関係を、仮構されたコンピューター内に期待しているのである。つまり、無かったものに感動する殿様と、無いものをあるものにしようとする新条アカネの違いである。

そうした点を差し置いても何よりこの二者の違いは、権力者であるかどうかではないか。殿様は権力者であり、国全体をどうこうできなくとも、ある程度のことは随意にできたはずである。しかし新条アカネはそうした振る舞いすら拒絶し、当たり前の友情関係を求める。そこに政治性は不在である。

宇野常寛は次のように言う。

宇野 たとえば、震災によって「終わりなき日常」が終わった、という言説があります。「終わりなき日常」というのは宮台真司さんが用いていた言葉で、当時の消費社会を説明するキーワードだった。言い換えればそれは、ポストモダン状況における「政治と文学」の断絶を意味していました。

宇野常寛濱野智史『希望論』NHKブックス、2012年)

私的空間としての「文学」と、公的空間としての「政治」が断絶することが、「終わりなき日常」を作り上げる。

しかし本作ではそれ以前の話になっている。「政治」が中学生の公民の教科書通り「集団が意思を決定するプロセス」とするのなら、新条アカネの世界に、そんなプロセスは存在し得ない。世界の命運は、いわば新条アカネの思うまま。新条アカネ自身が「政治」ということもできるし、この世界で「政治」なるものはキャンセルされていると考えることもできる。

いずれにせよ、私的空間としてのだだっ広い「文学」に覆われた小さな街に「日常」が永続することは、いわば当然である。

「日常」の破壊者

「無知な主人公」というのは、物語に優しい。例えばJ.K.ローリングによる「ハリー・ポッター」シリーズが挙げられるだろう。主人公ハリー・ポッターは魔法使いの少年だが、それを隠され、マグル(非魔法族)の中で育てられることで、魔法界については無知だった。

ハリー・ポッターが魔法界に対して持っている知識量は読者と同じであり、だからこそ読者が抱く疑問をハリーが代弁する。その疑問に同級生ハーマイオニー・グレンジャーや魔法学校の校長アルバス・ダンブルドアが答えることで、読者に魔法界の情報が漸次与えられる。

主人公・響裕太が自分についての記憶を失っていることで、視聴者と主人公の情報量が同じになり、視聴者の参加可能性が開かれた、その点では極めて特撮的だと言えるだろう。

最近でこれと極めて似た形式を持った作品に映画『君の名は。』が挙げられる。これは田舎の女子高生・三葉と、東京の男子高校生・瀧が入れ替わってしまうところから始まる物語だが、お互いの置かれている状況について無知であることで、周りの友人たちがそのキャラクターについて説明する。観客はそれと同時に情報を与えられていき、キャラクターの設定を理解していくのである。

今回も記憶を失った響裕太に、友人・内海将が設定を教える。しかし、その設定が単調に明らかにされていくのではつまらない。この作品ではそこに唐突にグリッドマンというヒーローが投げ込まれることによって、視聴者に有無を言わせず牽引する勢いの良さがある。

有無を言わせず戦わなければならない、というのは特撮ヒーローにはままある展開であるが、それによってアイデンティティゼロの状態だった男子高校生には「戦う」というアイデンティティが付与される。

「戦う」のがアイデンティティとはなんとも物騒な話だ。しかもそれが男子高校生だと言う。言ってみれば少年兵である(多くの少年兵より年齢はずっと上であるとはいえ)。しかしこの作品に殺伐とした戦場の風景は見られない。むしろクラスメイトが消滅しようといつもどおりにふるまう高校生活の「日常」こそ、その戦いの異質さや恐ろしさを表している。

三崎亜記の『となり町戦争』は、渡辺白泉が「戦争が廊下の奥に立つてゐた」と詠んだ空恐ろしさを小説の形でよく表現している。主人公・北原修路の住む舞坂町は、ある日となり町と戦争を始めた。広報誌でしか認識していなかった戦争。広報誌は日々着々と増え続ける戦争の死者を報告するが、北原は実感を伴えずにいた。そんな中、北原はとなり町の職場への通勤過程のとなり町の様子を報告する「スパイ」として活動するようになる。

言ってみれば彼は「日常」の中にいて、どこかで行われている「戦争」のことは、数字の上で「存在しているらしい」と認識するに過ぎなかった。しかし通勤という「日常」がいつのまにか「戦争」に貫入していたスリリングな感覚がよく描かれている。

しかしより現代の感覚に近いのは野木亜紀子脚本のドラマ「フェイクニュース」だろう。この作品はサブタイトルに「あるいはどこか遠くの戦争の話」とあるように、スマートフォンを通じてみるどこか遠くの「戦争」が、スマートフォンばかり見ている間に、私たち自身の問題になっていた、というドラマである。

「日常」にいる人々が、スマートフォンのカメラを通して「〈擬〉戦争」的情景を見る風景は感動的ですらある。アニメ「SSSS.GRIDMAN」はむしろこちらに近い。

実際、怪獣が訪れ、今まさに「日常」が破壊されようとしても、人々はスマートフォンのカメラを怪獣に向けるばかりで逃げようとしない。そこにはスマートフォンの向こうの「非日常」が決して画面のこちら側=「日常」には貫入しないという、慣性の盲信があるようである(この「慣性」については後述する)。

 

written by 虎太郎 

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