大学で日本文学を勉強するあなたに(1):基礎知識編

 

大学で日本文学を勉強したい。

そういう人は少なくないのではないかと思います。日本中の大学には「文学部」のような学部がたくさんあり、その中には、ほとんどの場合、日本文学を学べる環境が整っているのではないでしょうか。

ですから、日本文学を勉強する人は少なくないと思います。では、日本文学研究はいつから始まったのでしょうか?

例えば、イギリス文学であれば、はっきりしています。おそらくは帝国大学が設置されたときに、日本でのイギリス文学研究は始まったのです。

でも日本文学は難しい。もちろん、帝国大学に「国文学」という名で設置された課程を日本文学研究の始まりとしても良いかもしれません。ただ、文学研究に近いことは、すでに行われていたように思うのです。

例えば、江戸時代の国学本居宣長のような人々が成し遂げたのは、『万葉集』にせよ、『源氏物語』にせよ、そうした古典文学の研究だったと言えるのではないでしょうか。

あるいは、平安時代から脈々と続く、有職故実。ここでは和歌の解釈などが、その家の「秘密」として代々受け継がれてきた様子を見て取ることができます。

それだけ長い歴史を持つ学問ですから、知っておかなければならない知識は存外に多い。けれど、その基礎知識を説明してくれる人はいないのではないか。

そこで僕は、僕が大学4年間でなんとか学べたことを、ただこの記事を読むだけで分かってくれるように、凝縮したいと思います。

近世までの作品を研究するために

日本文学は、世界でも特に長い歴史を持ちます。

中学1年生のときに『竹取物語』を勉強したとき、「世界最古の物語」と説明されたのではないでしょうか。そう、日本文学は、それが「文字の形で残された」という点で、世界屈指の歴史を誇るのです。

もちろん、書かれた当時の原典は残されていません。基本的に、印刷術が普及する前は、本を(もっともある時代までは「巻物」でしょうが)借りてきて、それを書き写すことで受け継がれてきました。この書き写されたものを諸本(異本)と言いますが、時代によって変化する日本語に合わせて書き換えられたり、当初の原典の文法的なミスを書き写した人が勝手に書き直してしまったり、そういうことはあります。

したがって、ある程度の古典文学作品であれば、複数の「○○本」と呼ばれる系統が残されています。例えば『平家物語』であれば、よく教科書に載っているのは「覚一本」と呼ばれる比較的新しいもので、多くの研究者が相手にしているのは「延慶本」という比較的古態を留めているもの。他にも、「四部合戦状本」など、たくさんの異本があります。

それを踏まえて、文学研究をするのであれば、どの系統を相手にするのかは決めなくてはなりません。

日本古典文学を研究するときによく使うのが、岩波書店小学館新潮社から出ている全集です。それぞれ「日本古典文学大系」「日本古典文学全集」「新潮日本古典集成」というシリーズです。前の2つは、古いものと新しいものが出ているので、特に新しいものを指して「新大系」「新全集」と呼びならわすことが多いと思います。

もちろんそれぞれで、収録している作品に若干の差異はあるのですが、『源氏物語』『平家物語』などオーソドックスなものは、どれにも収録されています。この中で優劣というのはあまりない、というか、それぞれの作品によります。『源氏物語』ならどれを参照すべきなのか、などは専門家に訊くのが早いでしょう。

ただ、とりあえず古典文学を読み漁りたい、というような場合には、それぞれの特徴に合わせて選ぶことをお勧めします。どのシリーズも、注は充実しています。新大系は、それと同じ内容のものが岩波文庫から刊行されているので、そちらを買ってしまう、というのが早いかもしれません。新全集は3段組みになっていて、上に注、真ん中が本文、一番下が現代語訳なので、古文に自信がない人は新全集を選ぶといいでしょう。新潮社のものは、全訳ではないものの、一部に傍訳がついているのと、比較的持ち運びしやすいサイズで、お値段も手ごろなのが売りです。

現代文学を研究するために

現代文学には、それを通して編んだ全集は、あまり多くありません。いくつかあるにはあるのですが、それは戦後の教養主義が盛り上がった時代に、読んだりしないけど家のリビングに飾っておく、みたいな用途で使われることが多く、有名な作家の有名な作品しか収録していなかったり、あまり研究には使いません。

現代文学は、初出時のコピーなどを用意することが多いと思います。掲載された新聞や雑誌が、あらゆる手段を駆使すれば入手できるので、それを使うというわけです。

それ以外の方法と言えば、作家ごとの全集を参照するという手もあります。こちらはその作家を研究する学者が編集に関わっているため、注が充実していたり、かなり信頼が置けます。

また、そうした全集が作者の生前のうちに編まれるような場合もあります。そうした場合、作者本人が時代の変化や自身の成熟を反映させて、作品を改変してしまう場合もありますので、一応初出に当たったうえで、校異(諸本の表記などの異同を確かめること)が必要でしょう。

どの雑誌が信頼できるか

日本文学は、大変広い学問分野です。従って、「日本文学研究者」というのはかなりいます。

その中でも信頼のおける雑誌というのが、いくつかあります。

まず、『国語と国文学』です。編集は東京大学ですが、投稿自体はそれ以外の大学の人でもでき、日本文学(国文学)や日本語学(国語学)の最先端の研究が並びます。

そして、『日本文学』です。こちらは日本文学協会という学会の雑誌ですが、この雑誌の長所は、ネットで無料で読めるということです。この学会も問題が無いわけではないのですが、無料で、それなりに質の担保された雑誌が読めるというのは、悪いことではありません。

既に刊行を終了してしまったものとして、『国文学 解釈と鑑賞』という雑誌と『国文学 解釈と教材の研究』という雑誌があります。これらは、研究者はもちろん、大学生や国語科教員向けの内容を組んでいたこともあり、ある程度知名度のある作家について調べると、必ず行きあたることになります。

他にも、岩波書店から刊行されていた『文学』という雑誌もあります。

こうした雑誌は、投稿された論文を別の日本文学研究者がチェックするという体制が整っています。こういう仕組みを査読と言いますが、ある程度のクオリティが担保されているので信頼の置けるところです。

一方、Ciniiのようなサイトで論文を検索すると、各大学の紀要に行きあたることがあります。こちらはレポジトリがしっかりしており、ネットで無料で読める論文である一方で、査読は経ていないので、信頼が置けるかどうか確かめなくてはいけません。

では、査読のある雑誌は信頼できて、査読のない雑誌は信頼できないのか、というとそうでもなくて、緻密な実証研究や、新しい試みとしての論文は、査読がある雑誌に投稿しても採用されず、紀要に載ることもあります。

例えば、20世紀の日本文学研究で、最も優れた論文の1つが小森陽一「「こころ」を生成する「心臓(ハート)」」というものですが、これは『成城国文学』という雑誌に掲載されたものです。夏目漱石『こころ』論ですが、ネットで無料で読めます。

どの学者が信頼できるか

何度も繰り返すように、日本文学は人口の多い学問分野ですから、全ての論文を読むのは現実的ではありません。

例えば、夏目漱石『こころ』については、既に1,000本近い論文が発表されていますが、それ全てを読まなくては『こころ』について論じられないのであれば、死ぬまでかかっても無理でしょう。

そういう場合には、「この人の論文は読んでおかなくちゃダメだ」と判断したいところです。

今後、それぞれの時代で、僕の知っている限りの有名な日本文学研究者を羅列していきたいと思いますが、全集の編集に関わっていたり、『日本文学』などで頻繁に論文を掲載していたり、単行本を出版しているような研究者は、かなり信頼が置けるのではないかと思います。

また、先ほど注意を促した、ネットで無料で読める論文を使うという手もあります。

例えば、何かの作品について調べなくてはならなくなったら、その作家の名前をCiniiで検索して、とりあえず読める論文を、最近のものから順に読んでみましょう。そうすると、「この人はやたら引用されているな」というような人が見つかるはずです。その人が、重要な研究者ということになります。

 

次回は「文学理論と文芸批評」との付き合い方について書きたいと思います。