大学で日本文学を勉強するあなたに(4):優れた作品とは何か

theyakutatas.hatenablog.com

教科書には何が載るか

これまで、日本文学を大学で研究するために必要そうな知識をお伝えしてきました。本当に概略の概略、ですから、それを理解したところで、すぐに文学研究ができるようにもならないのですが、何より、日本文学は「蛸壺」ですから、隣の畑のことはよく知りません。僕も、日本近代文学、特に大正から昭和初期にかけての文学に、多少詳しいくらいで、その他はさっぱりです。これ以上はご容赦ください。

最終的には「ブックリスト」でこのシリーズを締めたいと思っているのですが、その前に、これまでの「知識編」の先の「考え方編」とでも言うべきものに入りたいと思います。

例えば、あなたは「優れた作品」とはなんだと思いますか?

それが難しければ、教科書に載る作品と、載らない作品の違いはなんだと思いますか?

「優れた」の難しさ

文学研究と、高校までの「国語」には相応の分断があり、必ずしも「国語」の延長線上に日本文学研究が来るわけではありません。しかし、日本文学に関心を持つきっかけが「国語」ということはあるのではないでしょうか。

「国語」には、定番教材と呼ばれるものがあります。例えば、夏目漱石「こころ」、森鴎外舞姫」、芥川龍之介羅生門」、中島敦山月記」などでしょう。

これを中学、小学校まで拡張すると、太宰治走れメロス」や、ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」があります。

そうした作品は、なぜ教科書に載るのでしょうか。

漱石や、鷗外は良いでしょう。確かに彼らは読むべき小説家のように思われるし、「こころ」も「舞姫」も、彼らの代表作と言えるかもしれない。

しかし、芥川龍之介の代表作は「羅生門」だろうか? 中島敦の代表作は「山月記」だろうか?

太宰治の代表作が「走れメロス」ではないことは、太宰好きなら納得していただけるでしょう。無頼派と括られる彼の真髄は、『人間失格』にせよ『斜陽』にせよ、他の作品に見出だされるべきもののように思われます。

また、ヘルマン・ヘッセの代表作が「少年の日の思い出」ではないこともまた、ドイツ文学にある程度の含蓄がある人であれば、自明でしょう。『車輪の下』なり、他の作品を挙げるべきであるように思われるのです。

ここにはやはり、教訓ということがあるように思います。国語という科目では、小説教材を使って、どのような教訓を授けられるかということに力点が置かれているような気もするのです。つまり、人格教育。僕自身は、そうした国語の在り方には批判的です。

数学で微分積分ができるようになっても、教訓は得られないのに、なぜ国語では教訓を授けなくてはならないのでしょう? そう思います。そうした教訓を読み取るような読解は、教科書以外の文学作品への向き合い方を、歪めてしまうようにも思います。

教科書に載せられない作品

だから僕は、自然主義の作品も教科書に載せるべきだと思います。

自然主義とは、フランス文学の影響を、直接的にはゾラの影響を受けて輸入された立場ですが、もっぱら日本では「ありのままの日常を描くこと」「日常の些細な秘密を告白すること」といったように受け止められました。

だからこそ、自然主義の作品は、面白くないものが多い。さほど感動できる場面も、教訓にできそうな場面も無いのです。

ただ、日本文学史上、自然主義は無視できるものではありません。しかし教科書には、その末流にある志賀直哉「城の崎にて」が見られる程度で、掲載は無いように思います。

例えば、自然主義の嚆矢と言える田山花袋「蒲団」などを教科書に載せてみればいい。もちろん、フェミニズム的にも問題含みの作品です。しかしこれが日本文学史に燦然ときらめく金字塔なのだから、無視する方が不自然でしょう。

同じく、教科書から黙殺された文学潮流にプロレタリア文学があります。プロレタリア文学1920年代の日本への共産主義流入に伴って始まった流れですが、さしあたり、葉山嘉樹、徳永直、小林多喜二ぐらいを覚えておけばいいでしょうか。

教科書には、一部に葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」が掲載されているくらいで、それ以外の掲載は見られません。無論、多喜二の「蟹工船」などは文学史の中でも無視できませんが、共産主義イデオロギーが強すぎて扱いにくいのでしょう。

戦後の作家の教科書への掲載は遅れています。同時代作家までいけば、数名掲載されているかもしれませんが、三島由紀夫をはじめとした戦後まもなくに活躍した人々の掲載は、見られません。

では、あなたはこう言うかもしれません。

「じゃあ、ライトノベルを掲載したっていいじゃないか」

キットカットの方が好きであると言うこと

ライトノベルを教科書に掲載することについて、僕は否定的な立場を取らざるを得ません。しかし、ライトノベルの面白さを知らないわけではないことは、はっきりと述べておきたいと思います。

一番好きなのは、うえお久光『シフト』で、電撃文庫で3冊しか出ておらず、なおかつライトノベル初期の作品で、直木賞くらいなら取れそうな、「ライトノベルらしくない」作品ではあるのですが……。

僕がよく持ち出す例え話に、次のようなものがあります。

僕の好きなYouTuberが、インスタライブでこう言いました。

「デパ地下の高級チョコより、キットカットの方が好き」

些細な発言であるかに思われるかもしれませんが、これは重要な発言です。というのも、そうした感覚が分かる人も多いのではないでしょうか?

かくいう僕も、ハンバーガーなら高級店のものより、マクドナルドの普通のハンバーガーの方が美味しいと思ってしまうし、なまじラーメン店で食べるラーメンよりも、チキンラーメンを家で作って食べた方が美味しいように感じてしまいます。

現代は、こうした感覚を、人に伝えることが躊躇われなくなった時代であるように思います。上の発言も、数十年前なら、「この味音痴め」と石でも投げられ、嘲笑されていたように思うのです。

このように、「みんな違う感覚を持つ」ことを前提とする価値判断を、僕は相対主義的価値判断と呼ぶことにしています。夏目漱石より西尾維新の方が面白い。クラシック音楽よりボーカロイドの方が良い曲だ。ピカソよりTwitterの絵師の絵の方が素晴らしい。

一方、それに対して、いわゆる古めかしい価値判断──「教科書的」とでも言えるような価値判断を、僕は権威主義的価値判断と呼ぶことにしています。これは「絶対主義的価値判断」でも別に大した違いはありません。

これらの価値判断は、「価値判断についての価値判断」であることに注意してください。

つまり、「デパ地下の高級チョコよりキットカット」と考えること自体が相対主義的価値判断に基づくのではなく、そういう風に考えることも、アリだよね、「みんな違って、みんないい」みたいに考えるのが、相対主義的価値判断なのです。

「権威」とは誰か

先程、権威主義的価値判断の話を出したときに、「絶対主義的」でも別にいい、と書きました。

それなのに僕が「権威主義的」と表現したのは、そこにあるのが「権威」の影響だからです。これを社会学者のブルデューは「界」と表現しました。

このブルデューという人は、フランスの社会学者です。もとは哲学を専攻していたらしいのですが、社会学者としてもフランスのトップまで上り詰めた人です。

彼は、ハビトゥス、すなわち個人の「習慣」が社会階層の中で規定されていると考えました。例えば、美術館に行く人というのは、ある程度余裕のある人で、親が美術館に連れて行ってくれた人ばかり、といった具合です。

ここで少しばかり自分語りをさせてください。

かくいう僕も、美術館の展覧会に行くのが好きな一人です。というのも、数年前、東京に住む友人のもとを訪れたとき、「明日はどこを観光しよう」と相談したら、必死にいろんなサイトを調べてくれて、「美術館でも行けば?」と行ってくれたのです。

その美術館は国立西洋美術館でした。そもそもそこに行く予定は無かったのだから、そして僕の親もまた子どもを美術館に連れて行くようなことはなかったのだから、これはまさに「稲妻の一撃」──つまり、偶然の産物であるかに思われます。

しかしよくよく考えてみると、「それじゃあ行ってみる」となったのは、この国立西洋美術館が、ル・コルビュジエの建築で、世界遺産に登録されたというニュースを、その前に見ていたからなのでした。僕はモダン建築に関心があって(というか普通に「かっこいい」と感じるぐらいですが)、その建築を見に行くついでに、美術館の展覧会を見て、そこにあったジャン・フランソワ・ミレーの絵画に衝撃を受けたのです。

つまり僕は、まるで自分の意志で美術館に行くことを選び取ったかに見えますが、実際には「建築に興味を抱く」程度の文化資本を親から受け継いでいたことになりますし、ニュースをある程度見るような家庭だったことも重要です。

よくよく考えると、僕はこれと同じことを更に前にも繰り返しています。

そもそも僕が本を読むのが好きになったきっかけは、祖父母の家を訪れた時に、1000円札を渡されて「これでブックオフの本を買ってきなさい」と言われたことでした。

そのとき忘れもしませんが、『ズッコケ結婚相談所』、井上ひさし吉里吉里人』、太宰治人間失格』を買いました。小学6年生のころだったでしょうか。ちょうどその直前に、井上ひさしが亡くなりそのニュースを見ていたので、『吉里吉里人』を買ったのでした。ここでもまた、僕は「本を買うお金をくれる」「ニュースを見ている」といった文化資本に支えられています。

僕のハビトゥス、「習慣」は、そうした文化資本に支えられたものなのでした(それが乏しいものであるとは言え)。

そうしてある界隈に詳しくなると、その「界」で、何が「良い」とされているのかが分かるようになってきます。

例えば、ピカソは《ゲルニカ》が有名ですが、僕は「あんな子供の描いたみたいな絵が偉いわけない」と思っていたのですが、美術館に通うようになって、ルネサンス以後の「遠近法」という世界観をぶち壊すキュビズムの革新性を理解しました。

そういう風に、何かの「界」に通暁するようになるというのは、その「界」の中での〈権威〉を内面化する過程だと言うことができます。権威主義的価値判断を理解するようになる過程だと言うことです。

例えば上の、チョコレートをめぐる発言。これも、自分がショコラティエになるなり、チョコレートに詳しくなるうちに、「キットカットよりもデパ地下のチョコの方が良い」と思えるようになると思うのです。

文学作品についても、同じことが言えます。夏目漱石よりも西尾維新。それが、徐々に文学に詳しくなると、「やはり夏目漱石も偉い」と思えるようになってくるということです。

「古典」になるために

「古典」と呼ばれる作品があります。日本では、近世までの作品は、無条件で「古典」と名付けられている節もありますが、話はそんなに簡単ではありません。

ただ、そうした考え方もあながち捨てきれないのは、「現代まで残っている作品は、それなりに素晴らしいに違いない」と言えるからです。歯牙にもかけられないような駄作は、早々に歴史から消えているでしょう。

「古典」になるためには、一般に「読み続けられる」ことが必要です。そして、「読み続けられる」ためには、時代を超えた普遍性を持ちえることが不可欠です。

その感覚が、近現代文学になると狂います。ただ、考えてみてほしいのです。今本屋に並んでいる文庫本のうち、何冊が100年後も発売されているでしょうか。

僕は、ライトノベルというのは、かなり早々に読まれなくなると思います。作品のサイクルが速いのです。漫画も、同様です。

そう考えたとき、おそらくあなたは日本文学についての権威主義的価値判断を手に入れることに成功します。

その上で、こうも伝えたいと思います。「無批判で」権威主義的価値判断を持ち続けるのは危険です。常に、そうした価値判断は疑ってみるべきです。

ですから僕は、権威主義的価値判断を「それはそれ」として尊重しながらも、相対主義的価値判断を両立させる可能性について、ここ1年ほど検討を続けていますが、まだ答えは出ていません。ただ、文学に触れるときには、一歩立ち止まってみることが必要です。