大学で日本文学を勉強するあなたに(2):文芸批評・文学理論編

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批評とは何か

日本文学を勉強しようとしたときに、避けては通れないのが、「批評」です。正式には「文芸批評」と言ったりしますが、ここ数十年の批評は、必ずしも文学作品を扱っておらず、思想的な内容を含むため、単に「批評」と呼んだほうがいいかもしれません。

「批評」とは何か。そういう問いは、かなり繰り返されてきました。ここで「批評」論を展開しても、あまり意味はないと思いますので、「論理で魅せる文章」ぐらいに捉えておきましょう。

文学研究は、当然学問ですから、論理的な厳密性を求められます。きちんと書かなくちゃいけない。ただ、そればっかりだと、はっきり言ってつまらない。

一方文芸批評は、もちろん論理は必要ですが、その論理にアクロバティックさがあります。言ってみれば、A地点からB地点に、ジャンプするような感じです。文学研究は、もし地面に亀裂があったら、そこに橋をかけたりしなくてはいけない。けれど批評は、ジャンプすることができる。

ですから批評は、時に新鮮な印象を与えてくれます。よく知っている、何度も読んだはずの作品でも、「ああ、そうだったのか!」と驚いたりするのです。

文学研究をする際も、批評を避けては通れません。この批評をうまい具合に「利用」できれば、自分の文学研究も飛躍的に充実するはずです。

批評の歴史

批評の歴史は、どこまで遡ることができるでしょうか。

古くは歌論と呼ばれる、和歌を詠む際の心構えなどを記したものが挙げられるかもしれません。本居宣長源氏物語玉の小櫛』のような作品もまた、批評かもしれない。

近現代になると、文芸批評は「文芸批評」というジャンルを確立させます。坪内逍遥小説神髄などがその先駆けかもしれません。

ただし、私たちが想像する批評が始まったのは、正宗白鳥を想像すると良いでしょう。

正宗白鳥は小説家でした。ただ、彼自身は小説よりも文芸批評で知られます。ですから、文芸批評家という印象を持たれている人かもしれません。

その後、20世紀の中頃に登場したのが小林秀雄です。センター試験をはじめ、多くの大学入試で出題される人だという印象があるかと思います。彼は文学作品などを理論によって分析するのではなく、あくまで自分の感性を元に論じる印象批評を是としました。

小林秀雄は、あまりに大きすぎる巨人です。その後、戦後になって発言力を得るようになってきたのが、吉本隆明です。一時期は知の巨人と言えば吉本隆明だったのですが(外国語はできず、翻訳ばかりに頼っていたのに、知の巨人というからなお驚きです)、今は「吉本ばななのお父さん」ぐらいに説明した方が分かりやすいかもしれません。

例えば吉本隆明は、夏目漱石の『こころ』を、ぼうっと蝋燭が灯っているような感じ、と記していたように記憶しています(今原典が手元になく、記憶で書いています)。なぜかよく分かってしまうこの感覚は、文学研究では表現できないでしょう。

吉本隆明に遅れて登場したのが、柄谷行人です。『日本近代文学の起原』などで知られる批評家ですが、後年「文学の終わり」を宣言し、以後は思想系の文章ばかりを書いているので、「思想家」と呼ぶのが正しいような気もします。

柄谷と同時期に活動しはじめたのが、蓮實重彦です。東京大学表象文化論を導入し、総長まで務めた人物ですが、思想というよりも、日本における映画批評を構築した人物と言えるでしょう。

1980年代に浅田彰『構造と力』という本でデビューを飾ったころ、日本ではニューアカと呼ばれる現象が起きました。思想的な内容、批評的な内容が、市場的な価値を持つようになった。端的に言えば「売れる」ようになったのです。

この、柄谷行人浅田彰が組んで始めたのが『批評空間』と呼ばれる雑誌です。ジャック・ラカン精神分析を受け継ぎ、コミュニストとして現在も注目を集めるスラヴォイ・ジジェクを日本に紹介するなど、重要な役割を果たしました。ここで絓秀実渡部直己が活動します。

『批評空間』の特に重要な役割というのは、東浩紀を輩出したことでしょう。法政大学の柄谷の授業に潜り込み原稿を渡した東浩紀は、存在論的、郵便的などジャック・デリダを日本に紹介する役割を果たしていました(もちろん、それより前にも知られてはいましたが)。

東浩紀自体は、所謂「文学」についてそれほど多くを語っていません。むしろ2000年代の動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生は、今でもサブカルチャー研究では必読の書籍ですが、そういったオタク・カルチャーと近い人という印象があるかもしれません。ただし、そうしたサブカルチャーから離れた後も、株式会社genronを立ち上げ『ゲンロン』という雑誌を発行するなど、旺盛に活動しています。

この東浩紀が世に送り出したのが宇野常寛です。ただ、東との関係はよくなく、今やお互いを批判しあうようになっています。

他にも、元々東浩紀と仕事をすることが多かった福嶋亮大などがいます。

これらの流れの他にも、『成熟と喪失』などで知られる江藤淳や、敗戦後論で議論を巻き起こした加藤典洋などが思い出されるところです。

文学理論とは

先ほど、小林秀雄が印象批評を是としていたと書きました。作品を自分の感性を重視して評価するという態度です。ただし、評価のものさしが「感性」というのは、不安な気もします。

文学理論とは、「どうすれば小説が書けるか」というような理論ではありません。「どうすれば文学作品が読めるか」という理論です。文学作品を評価するためのものさしを、外在のイデオロギーに求めるということです。

例えば、フェミニズム批評が挙げられます。

日本文学は世界的にも長い歴史を持ち、かつ女性がその主役であった時期(平安時代など)の古さを考えても、異様なのですが、近現代になると、女性作家よりも男性作家が文壇の主流を占めるようになります。

男性が書いた作品の中には、無意識に女性への抑圧を背景にしているものが少なくありません。そうしたところを指摘するのが、フェミニズム批評です。あるいは、女性性をテーマにした作品から、社会における女性性のあり方について考えるようなものも、フェミニズム批評に加えられるかもしれません。

他にも精神分析批評などがあります。精神分析批評は、無意識を発見したとされる精神分析フロイトやその弟子ユング精神分析をめぐる議論を参照し、作品のなかに現れる精神構造を分析して見せます。フロイトの末流にはジャック・ラカンがおり(本流からは「破門」されてしまったわけですが)、彼の理論を文学解釈に活かすことも可能です。

そうした文学理論については、廣野由美子『批評理論入門』や小林真大『文学のトリセツ』など、平易な解説書がいくつか出ていますので、それらを参照してください。

 

次回は、「文学研究の歴史」などについて書ければと思います。