【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑴

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現状を打破せよ

特撮をアニメが克服する

多くの反論を恐れず言えば、「ウルトラマン」シリーズはかつての栄華が信じられないほどに衰退している。対照的に毎年途切れなく作品が放送され、映画が製作される「仮面ライダー」シリーズやスーパー戦隊シリーズを考えれば、「ウルトラマン」がいかに困窮した状況であるかが分かるだろう。

それは端的に言えばバックボーンの問題でもある。「仮面ライダー」シリーズやスーパー戦隊シリーズが、東映テレビ朝日バンダイが組み、「売れる」仕組みを構築することに成功しているのに対して、「ウルトラマン」シリーズは円谷プロ自体の経営悪化、作品のコンセプトの迷走もあって「売れる」状態とはお世辞にも言えない。現多くの「大きなお友達」の資金力に期待するしかない、というのが現状だろう。

そんな中、行き詰まりを見せる円谷プロが次に活路を見出したのは「アニメ」だった。

そもそも「特撮」と「アニメ」の親和性が高いことは、視聴者層が重なっていることに端的に現れている。それは具体的に言えば、例えば日曜日朝の「ニチアサ」と呼ばれる時間帯には「仮面ライダー」シリーズ、スーパー戦隊シリーズ、「プリキュア」シリーズが放送され、共存していることにも見える。

言ってみれば「特撮」の停滞を「アニメ」で打破しようとしたのである。

そこで白羽の矢が立ったのが、多くの特撮作品の脚本を手掛けてきた長谷川圭一であり、コンピューター草創期にコンピューター内での戦いを描いた「電光超人グリッドマン」だった。

特撮に向けられた「批評」的眼差しとして

特撮はその性質上、いかに前作品と違うか、ということに心血を注いできた。

仮面ライダー」シリーズについては今後言及するとして、スーパー戦隊について言えば、「宇宙戦隊キュウレンジャー」はそれまでの戦隊の人数から大幅に増員し、その中にいわゆる着ぐるみのキャラクターも入れた。その次の「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」は明らかに「特捜戦隊デカレンジャー」の影響を受けながら、戦隊同士の衝突を通して、多面的なキャラクター造形に成功している。

同じシリーズであるが故に、あくまで同じことを繰り返すのであってはいけない、という意識がこれを生み出すとするのであれば、「ウルトラマン」シリーズ衰退の原因は、その新陳代謝、「更新志向」の失敗にあると言えるかもしれない。

その結果特撮ヒーロー作品では、その作品が、それまでの別の作品を総括するように機能し、そうした作品に「批評」的眼差しを向ける場合も少なくない。

例えば、「仮面ライダーディケイド」は、それまでに放送されてきた10年分の平成ライダーについて総括したのだし、「仮面ライダービルド」はディケイド以後10年分の平成ライダーを総括し、それを更に大きく平成全体を総括する作品として「仮面ライダージオウ」があるはずだ。

「SSSS.GRIDMAN」はアニメであるがゆえに、時に特撮の限界を軽々と超越し、時に「特撮的」であることによって、特撮に「批評」的眼差しを向けている。

最も大きな点は、主人公の年齢だろう。

電光超人グリッドマン」の主役を演じた小尾昌也は当時15歳だったが、むしろ特撮ヒーロー作品ではそうした作品の方が少なく、多くの場合はスケジュールを抑えられる大人たちがヒーローを演じる。

他作品でも、いわば子供たちの作品内世界への参加可能性を担保するかたちで、子供自身がヒーローになる、という場合は全く見られないわけではないが、数が少ない。

しかしこの作品では、そこに配慮する必要が全く無いため、主人公たちは高校生である。

また、大江健三郎が自らのエッセイ中に、破壊された街並みが次回には元通りになってしまう「再建」の困難さに対する無関心を指摘しているが、この作品はその課題も乗り越えている。

破壊された街が次の日には元通りになり、多くの人が怪獣に襲われたという記憶すら失ってしまう、という設定は、むしろ特撮の限界を対象とし、視聴者の破壊への欲望を揶揄するかたちで機能している。

 

written by 虎太郎

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