『盲目的な恋と友情』(辻村深月を読む#1)

はじめに

 辻村深月という作家がいる。『冷たい校舎の時は止まる』でメフィスト賞を受賞、そのほか『ツナグ』が映画化されるなど社会的に評価の高い作品も生み出している作家である。

 今回扱うのは、『盲目的な恋と友情』(新潮社、2014年)という作品である。最近の辻村深月らしい、人間、特に女性をとことん描いた作品となっている。未読の方のために大まかなあらすじを記しておく。

 

 一瀬蘭花は美しい少女ながら、自分の美しさに無自覚であった。しかし大学のオーケストラに指揮者として来た茂実星近が彼女を変え、二人は恋に落ちていく。五年間に及んだ恋。それを蘭花の友人、傘沼瑠璃絵の視点から見たときには、別の真実が存在した。

 

 このようなあらすじを見ると、辻村深月をよく読む読者なら『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』などの女性を描いた作品を思い出すかもしれない。この作品も先述したとおり女性を描いた作品で、どちらかと言えば娯楽小説よりと言われても仕方がないかもしれない。しかし私はこの作品は娯楽小説であるとしても、さすがは辻村深月という、作品における人間関係、作品の構成について考えるに足りうる作品となっていると考える。未読の方はぜひとも一読していただきたい。

 

 今回の記事では、一瀬蘭花と茂実星近、傘沼瑠璃絵の関係性については他の方が論じておられるので、少し違う角度からこの作品について考えてみたい。

 

 

 

茂実星近との出会い

 この作品の舞台となっているのは大学の管弦楽団である。

東京のはずれにある私たちの私立大学は、音大ではなかった。

大学の管弦楽団はだから部活だ。だいたいが、小さい頃から習い事として管弦楽に携わっているが、一生の道ではなく趣味として割り切っている、そんな学生たちの集まりだった。中にはそれまで経験がなく、大学入学を機に楽器を始めたという人もたくさんいた。(略)この大学のオケは、学生の集まりとはいえ大きなホールで演奏会をやることで有名だったし、入学する前から入りたいと思っていた。

 このように大学の吹奏楽団は全国を目指したりするレベルのものではないが、決してお遊びではない学生の集まりである。そしてその部員数は多く100人近く、男女の比率は書かれていないが、同数とまではいかずとも、男女近しい数が所属していると考えられる。

 一般に吹奏楽というとどうしても女子が多いイメージを持たれることが多く、吹奏楽部を舞台にした作品では男子が少数であり、部内恋愛よりかは女子同士の人間関係が描かれることが多い。*1

 しかし、この作品では管弦楽団内での女性だけの人間関係だけではなく、恋愛関係までも描く。そしてその恋愛関係はかなりどろどろしている。

百人近い部員を擁するオケでは、部内恋愛も当然のように盛んだった。(略)”気をつけた方がいい”女癖の悪い男の先輩、自分の彼氏に色目を使ったと大騒ぎをする傾向にある女の先輩、たくさんの要注意人物の名前を聞いた。

 一瀬蘭花にとって、彼女の恋は吹奏楽団という狭い舞台で始まることになる。茂実星近との出会う前に彼女は別の男性と交際しているが、その交際はうまくいかず、周囲からも交際を反対されるような相手であった。しかし、蘭花は「高校までにキスもセックスも経験してきた子たち」に対して劣等感を感じていたために、その好きでもない男子とキスもセックスも済ませてしまう。

 そんな蘭花にとっての茂実星近とはあくまでも指揮者であり、自分とは縁遠い存在であるはずであった。

キレ長の目も、誰かが線を描いたような高く整った鼻梁も、長い手足も、細い指の骨張った節も、手を上げた瞬間に青白い頬がくっとへこんでうっすらできる影も、全部、それは誰かの好みであって、自分の趣味ではないと思っていた。あれは誰か他の、多くの女子が好きになるような人であって、自分が恋をする相手ではない―そう思っていた。

 蘭花にとっての初めての恋とは自身も周囲も納得のできない、物足りないものであった。茂実との恋が、初めての恋との対比により実質以上に魅力的なもの、離れ難いものになっていると言うことができるのではないか。その結果が、蘭花の「盲目的な恋」へとつながるのではないか。

茂実星近という装置

 今回は茂実星近という男を一種の装置、『盲目的な恋と友情』における舞台装置の一種として見て話を進めていく。この作品自体を舞台と見ることについては既に新潮文庫版の本書の解説で山本文雄が次のように述べている。

他の辻村作品に比べて簡潔に描かれている。刈り込まれ、研ぎ澄まされ、洗練されている。音楽、あるいは演劇のようだ、と私は思った。美しい劇場で催される、一夜に凝縮された芸術みたいだと。

 この作品を演劇だとみると、そのシナリオは主に茂実星近が先へと進めている。前節でも書いた、物語の始まりである蘭花との恋の始まりももちろん茂実がいないと成立しない。そしてその後の奈々子との愛人関係が蘭花に発覚し、物語が急速に展開していくのも茂実が中心となり、その両端に蘭花と奈々子が存在するという構成になっている。「恋」の最後の、茂実と蘭花がいよいよ終わりに近づくという場面もその原因を作っているのは茂実が徐々に堕ちていくことである。この物語の一番の肝である茂実の死の謎についても、当然茂実の行動が関わっている。

 ではその茂実という装置は常に同質な存在かと言われると明らかに異なる。まず冒頭の蘭花との出会いの場面ではオケの指揮者として、完璧な存在として、オケのメンバーからの憧れを集める存在として描かれている。

何故なら彼は、指揮者だったから。オスとしてセクシーだからというより、彼に選ばれるところを人に見せたい―彼女たちの計算高い欲望が湯気を立てているのが見えるようだった。

 このように指揮者としてメンバーから憧れられる茂実は、当初の完璧なイメージを蘭花とのセックスを通して崩壊させることになる。

私を組み伏せたままの状態で、目を細め、つらそうにすら見える表情で顔を歪めた。その目が、濡れたように気怠い。何度も、何度も、声を上げ、息を吐き出しながら、私の中を出入りする。人には声を出すなと言ったくせに、自分は声をあげる彼が、思い描いていたほど完璧でないのだと分かったら、かわいくてたまらなかった。

 この崩壊が蘭花を茂実から離れさせたのではなく、むしろ茂実に人間味を付与し、蘭花の中で茂実という人間を完璧で近寄りがたい存在から、不完全で蘭花自身と同じような存在へと変化させたのではないか。それにより蘭花は急速に茂実に対して親近感を抱くことになり、「かわいくてたまらなかった」とあるように庇護する対象のように感じられ、茂実に対する執着が生じたと考える。この後に蘭花が美波に対して、交際を打ち明けるところまでは、茂実は好人物として物語を展開させていくことになる。茂実と交際しているという事実が蘭花にとっても、周囲の人間にとっても肯定的に受け止められているのである。

 しかし、茂実の舞台装置としての役割は茂実の愛人と言うべき奈々子の登場により、一変する。周囲の人間が蘭花に対して茂実と別れるべきだと言うまでに茂実の存在は変化する。

しかし、茂実に対しては、かなり批判的だった。

「別れた方がいいよ」と。

 引用した美波の台詞にもある通り、奈々子との愛人関係、肉体関係が露見した茂実に対して周囲の人間は別れることをすすめる。しかし、蘭花は全く別れる気はない。むしろこれまで以上に茂実に入れ込んでいく。

 ここで周囲の人間と蘭花の間で茂実に対する評価のズレが生じている。蘭花は茂実のことを悪く言う周囲に対して怒り、そんな周囲を押しのけ、茂実という根源に対してより深く関係を望んでいく。

 その蘭花との関係も茂実のある行動によって崩壊を迎える。それは茂実が奈々子の指示で蘭花とのセックスを録画した映像をちらつかせ、蘭花を逃がさないようにしようとしたことである。このことにより、蘭花は茂実の持っている映像を奪おうとして茂実を殺してしまう。

 ここに至っても蘭花は茂実のことを嫌いにはなれないでいる。しかし蘭花が茂実のスマホを奪おうとしたことによって引き起こされたのが茂実の殺害であり、この作品のトリックに関わる部分となっている。つまり、この作品の見せ場を作っている装置は茂実であると言うことができるのである。

 ここでもう一度、舞台装置について考えてみたい。この作品について舞台装置を考えると宝塚歌劇団との関連性が浮かび上がってくる。一瀬蘭花の母親は元タカラジェンヌであり、この作品全体に宝塚歌劇の要素が散りばめられていると言うことができる。作品内では直接宝塚の話題が登場する場面の叙述すらある。

「瑠璃絵ちゃんは宝塚もよく観てたんだって。お姉さんが好きで」

「まあ。今も好き?花組だったら、チケットの予約は多少聞いてもらえると思うから、いつでも言ってくださいね。他の組でも演目によっては取れるものもあるし」

  さらに上の引用にも登場するように、宝塚歌劇団は花、月、雪、星、宙の五つの組に分かれており、そのイメージも部分的に作品内に投影されている。母が花組でもある一瀬蘭花花組のイメージを持っていることは明らかであり、また茂実星近が星組のイメージを持っていることも自明であろう。そしてこの作品の特徴の一つである「恋」と「友情」の二部構成となっていることも、宝塚歌劇団が芝居とショーの二部構成で公演を行うことを踏まえてのことなのではないか。

 このような宝塚歌劇団との関連性を考慮しつつ、茂実星近の舞台装置としての役割について再考すると、作品内にその特性を表している叙述を見ることができる。

「前にもこの人のものを観たことがあるけど、派手な舞台装置を使わないのに、場面ごと空気がまったく変わるの。でも、その分俳優が動きっぱなしになるから、なんという身体能力を要求するんだろうってため息が出る思い。私だったら、五分と舞台に立っていられない」

 茂実の舞台装置としての役割は必ずしも大きく世界を大きく変化させるものではない。しかし、引用した蘭花の台詞にもある通り、茂実によって場面ごとでの作品の雰囲気がメリハリを持って変化していることは確かである。そして蘭花自身も茂実との関わりの中で、徐々に茂実という舞台装置に耐えられなくなっていく。このような舞台を静かではあるが、はっきりと展開させる役割を茂実が担っているのではないだろうか。

傘沼瑠璃絵という異質

 前節で触れた茂実の装置としての役割に振り回される周囲の人間の中で唯一といえるほど、揺れることがないのが瑠璃絵である。彼女は吹奏楽団の第一バイオリンで蘭花の同期であり、後に蘭花と同居することになる。瑠璃絵は小さい頃にニキビが原因で男子にからかわれてから、自らの容姿についてコンプレックスを感じている。蘭花と出会った当初は友達として慕う感情だけであったが、次第に執着に変化していく。

三宅とひそひそ話をする美波にだって、別に、なりたくはない、かわいい系の顔なんだろうけど、なりたくはない。その時。今、廊下で待っている、美波と、蘭花のことを考えた。蘭花。あの子にだったら、なりたい。なっても、いい。

 周囲の他の人間が蘭花と茂実を中心とした世界に巻き込まれていくのに対して、瑠璃絵だけは彼女と蘭花だけの世界に生きている。もっと極端なことを言ってしまえば、瑠璃絵は瑠璃絵自身しか見ていないのである。それ故に蘭花と茂実に振り回されることはない。

 ここで山本文雄の解説の中の瑠璃絵に関する記述を抜き出してみる。

瑠璃絵は自身の本心から目を背けるために、自分に嘘をつく。男の子に相手にされなかった惨さをごまかすために、起こったことを自分の都合のいいように解釈する。美しい親友のどろどろな恋愛物語をただ聞いただけなのに、経験したような錯覚を持つ。彼女に自分の認識が歪んでいるという自覚はない。(略)けれど瑠璃絵の嘘は、鎧である。蘭花や美波のような女の子が決して受けない暴力から身を守るための、唯一の手段だったのだ。嘲笑されることなく育ったものには決して理解できない。

 このように論じている中で私が気になったのは、「美しい親友のどろどろな恋愛物語をただ聞いただけなのに、経験したような錯覚を持つ。彼女には自分の認識が歪んでいるという自覚はない」という部分である。

 もちろん瑠璃絵自身が正確に現実を受け入れているという場面もある。しかし、瑠璃絵の認識は「額縁」を通したものとなっているのではないか。「額縁」を通した認識というのは、より具体的に言うならば映画館のスクリーンに投影されたものとして現実を認識しているということである。「額縁」を通した認識を行うことによって現実世界においてもちろん自らに自己投影することもできるし、山本氏の論にあるように蘭花に自己投影することもできるのである。*2この点に関する言及をされていた方の記事を引用する。*3

主観とは非常に不思議なもので。

個人にとって”主観はいつだって真実の正しい物語”である、と思う。

三者の目から見てどんなに歪んだ物語でさえ。

主観は”真実の正しい物語”に変えてしまう。

そこに危うさがある。

本作は

恋に溺れた一瀬蘭花の真実の正しい物語であり

友情に盲執した傘沼瑠璃絵の真実の正しい物語でもある。

 この記事の後半で書かれている主観についての言及が瑠璃絵の認識を考える際に有用であると考える。この記事でも言及されている通り、主観はその人にとって真実なのである。そして瑠璃絵の主観は「額縁」の中の人物の間を動き回ることができる。(と言っても蘭花と瑠璃絵にしか投影することはないが)その結果、瑠璃絵自身と蘭花の二人分の主観を所持していることになり、他の登場人物のよりも現実認識が強固になる。茂実に振り回されることがなくなるのではないだろうか。また、それがある種異質とも言える作品内での存在感につながっているのではないだろうか。

おわりに

 今回辻村深月の『盲目的な恋と友情』について考察してきたが、この作品について最後に山本の解説から引用する。

瑠璃絵の賭けの動機を読者の想像に任せたのが、本作がそれまでの辻村さんとちょっと違うと私が思ったポイントのひとつだ。

 辻村深月の作品の中では比較的新しい作品である今回の作品だが、

ここまで簡潔に、しかし明々と女同士の関係性を描いたという意味では確かにこれまでの辻村作品とは違うのかもしれない。*4

 

written by 立月

 

*1:例を挙げるなら、「響け!ユーフォニアム」や「リズと青い鳥」、少し特殊ではありますが「ハルチカ」シリーズなどの作品が吹奏楽部内での女子同士の人間模様を描いています。 

響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~│宝島社  

『リズと青い鳥』公式サイト

アニメ『ハルチカ〜ハルタとチカは青春する〜』公式サイト

*2:このような例としては成田良悟氏の『デュラララ』シリーズの園原杏里などが挙げられます。

デュラララ!! - Wikipedia

*3:

anfield17.hatenablog.com

*4:これまでの辻村作品でいうと『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』(講談社、2012)『太陽の坐る場所』(文芸春秋、2011)『鍵のない夢を見る』(文芸春秋、2015)なども女性を描いた長編ですが、この作品に比べると、内容、文体共にかなり重みのある作品になっています。