【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑵

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「日常」を創造せよ

「日常」の断絶

アイデンティティ=自己同一性は、理解していない人にとっては理解しがたく、理解してしまえばそれほど優しく使いやすいことはない概念である。

そんな概念の説明として、まま代謝が用いられる。人間の細胞は細胞分裂代謝によって日夜新しくなっており、半年前の自分と今の自分では物質的身体をかなり共有していない。そんな自分をあくまで自分たらしめるものこそが、アイデンティティ=自己同一性である、という説明である。

しかし、この説明には致命的な欠陥がある。物理的に半年前と今の自分が身体を共有していないのはその通りだが、その半年間、あくまで「私は私である」という確信があったはずなのである。ある瞬間まで分かっていたのに、次の瞬間には「私は誰?」というようなことがない。細胞分裂代謝も、徐々に行われるのであって、「半年前のあなたと今のあなたは別人です」と言われても、それが腑に落ちる瞬間などやってこない。そこにある継続性こそがアイデンティティを形成していると言っても過言ではない。

そんな継続性によって維持されてしまうアイデンティティを、改めて問いかける作品として、漫画『いぬやしき』や『亜人』がある。『いぬやしき』では自分の体が記憶はそのままある日機械に改造されてしまった主人公・犬屋敷壱郎が、それでも自分が自分であり、人間であることを証明するために善行を行う。反対に同じ境遇を辿った獅子神皓は悪行を行うことで、自分が人間であると証明しようとする。いずれも、アイデンティティを保つ継続性を断絶されたために、アイデンティティクライシスに陥っているのである。

その作品の系譜に、「SSSS.GRIDMAN」も置くことができる。なぜなら、主人公・響裕太は、冒頭から記憶を失っているからだ。

彼がまさしくアイデンティティを失っている状態から物語は始まる。1話で響裕太は友人の内海将に「俺ってどんな人間なの?」と問いかける。そんな彼は冒頭「目を覚ました」のと同時に「目を醒ました」(1話のサブタイトルは「覚・醒」である)。彼だけには街にそびえる怪獣が見えているが、宝多六花には見えていない。*1

「セカイ」の創造

この作品は、最後に実写パートが挿入される。おそらくはそれが現実世界の新条アカネであり、それまでのアニメパートは、彼女が創造したコンピューター内の世界での出来事である、ということが示唆される。

彼女は「終わらない日常」に「退屈」し、それを打破する「非日常」を求めたのではなかった。むしろコンピューター内にあってすら「日常」を構築しようとした。その理由を宝多六花は「神様の世界にも色々ある」と推測しており、おそらく人間関係が上手くいっていないのだろう、と思われる。

新条アカネは折に触れて、この世界の人々は新条アカネを好きになるよう「設定」されているのだと発言する。つまりここは新条アカネ好みの世界なのだ。しかしそんな中響裕太は「僕らの世界」を「侵略」から守ろうとする。ここには「セカイ系」の片鱗が見えないだろうか。この「セカイ系」については東浩紀による定義を参照したい。

 たとえば、この数年、ブログを中心に、ライトノベルやその周辺作品に現れる想像力を形容するものとして、しばしば「セカイ系」という言葉が使われている。それは、ひとことでいえば、主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力を意味している。〔後略〕

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年)

響裕太にとっての「恋愛相手」は誰なのか。宝多六花がその相手であるような描写がある一方、それはほのめかされるだけに留まっており、彼がグリッドマンであると自認するのに対応するかのように、むしろ「無性化」=「非人間化」されているようである(これは「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か」で議論した内容とリンクする)。

この点を留保して考えると、実は本作における「小さく感情的な人間関係」とは、むしろ響裕太と新条アカネの関係を示しているように思われる。「僕らの世界」が「侵略」されるという「大きな存在論的な問題」は、この二人の関係によって喚起されるからである。言ってみれば、この作品でより問題にされているのは「新条アカネの存在論的問題」であり、それがこの世界全体に影響を及ぼすのである。

小さな「セカイ」

虎太郎 現実を直視しないで生きていけるのが中二病的想像力で、結局それが第三次世界大戦のために機能しなくなる。その中二病的想像力を取り戻す物語だと思います。

【第一回座談会】2018年アニメ総振り返り③ - 掌のライナーノーツ

ここにおける中二病的想像力とは、病める人々を癒やす圧倒的肯定能力を持つものとして提起した概念である。これはアニメ「シュタインズ・ゲート」について話した中での僕の発言だ。

アニメ「シュタインズ・ゲート」の舞台は、岡部倫太郎、椎名まゆり、橋田至の三人による未来ガジェット研究所。岡部倫太郎が中二病的想像力を実現させ、過去の自分にメールを送ることができる機械を発明したことで、世界は第三次世界大戦へと向かっていく。

巨大な組織の陰謀、第三次世界大戦タイムリープ。こうした要素は、全て岡部倫太郎の中二病的想像力の枠内にあったものだった。しかしこれらが順々に実現されていくことで、岡部倫太郎は治癒力を失っていく。

そんな未来ガジェット研究所には多くの仲間たちが出入りするようになるが、そうした仲間たちを絶対的に肯定する存在としての鳳凰院凶真(岡部倫太郎が中二病を発動し使う名前)は、中二病的想像力の実現と共に影響力を失い、全員がそれぞれ傷ついていくことになる。

このタームは、あらゆる側面において応用可能である。

例えば異世界モノについて考えてみれば、中二病的想像力が最終的に異世界にたどりつくのは、自らを肯定してくれる世界としての異世界を期待しているからである。

このような治癒能力を期待し、実際に精神疾患の治療に応用したのが「箱庭療法」である。これは河合隼雄が日本で治療に応用したことでも知られる。「箱庭療法」についての秋山達子の指摘を見たい。

 サンド・プレイ・テクニック(箱庭療法)は、今までの心理療法とは異って、サンド・プレイをしているうちに普通は意識されることのない心の奥深くにひそんでいる内的な世界が自然に作品の中に表現され、それを目で見たり心で感じたりしながら体験していくことによって、新たな洞察を得て意識の内容が豊かになり、治療が進められていくという深層心理学を利用した心理療法の一つです。

 私たちの日頃の行動は普通は時間と空間に支配された現実の世界の法則にしたがう合理的なものですが、しかし心の奥にある内的な感情や思考は時間と空間の束縛をはなれた自由な世界の中にあり、外界の現実とは違った法則のしたにあるように思われます。

(秋山達子「サンド・プレイ・テクニック(箱庭療法)について⑴」日本幼稚園協会『幼児の教育』第69巻第5号、1970年5月)

この言及は、まさしく異世界系そのものではないか。そしてこれは、新条アカネが構築した世界についても言えることである。秋山達子によれば、箱庭療法中に、その箱庭に怪獣を置くこともあるという。

 また怪獣類が好んで用いられることは、人類の意識の萌芽状態の時期である有史以前の世界の寓意的な表現であると考えられますが、まだ意識の統制下に入らない本能的な衝動や、無意識下に深く抑圧されて過度に成長した攻撃精神をあらわしているようです。現実上では高度に発展した機械文明による恐怖や、過保護の家庭における制約された日常生活からくる心理的な圧迫の表現ともいえましょう。

(秋山達子、前掲書)

新条アカネは箱庭としてコンピューター内に自分好みの世界を創造する。その世界には怪獣が配されるが、そこには「本能的な衝動」「過度に成長された攻撃精神」が見られ、「心理的圧迫の表現」としての側面が見える。

実際の箱庭療法では、患者の作った箱庭を解釈する、という過程が必要らしい。

箱庭を完成させた患者に、カウンセラーは「自己投影されているのはどれ?」や「このあとどうなるの?」といった質問を投げかける。それによって患者は自分自身と向き合うことができるようになるとともに、カウンセラーも、その配置や置いたものについて解釈を行い、その後の治療を円滑に進める。

このアニメにおける作品世界=新条アカネの箱庭が面白いのは、新条アカネが新条アカネ自身に投影されている上に、怪獣にも投影されていること。そして、この箱庭について新条アカネ自身が構想していた展開は、響裕太という不確定要素によって、構想が破綻してしまっていることである。

新条アカネは本来この世界の住民ではない。この物語が全てコンピューター内で起きているのだとすれば、新条アカネは、現実世界の誰かのアバターということになる。

映画『アバター』は、地球人ジェイク・サリーが双子の兄に代わって、衛星パンドラに出向き、現地人ナヴィの身体をアバターとして自分の意識をそのなかに移し込むことで、ナヴィとの交流を行う。本来の目的は、ナヴィたちをパンドラの鉱産資源が採掘される地域から移住させることだったが、ジェイク・サリーはナヴィと過ごす日々の中で人間の傲慢に気がつき、ナヴィたちと人間に戦いを挑むことになる。

この物語を、ジェイク・サリーらナヴィたちが人間の支配に屈さなかった、いわばアンチ・コロニアリズムの観点から見ることはできるかもしれない。しかし、結局ジェイク・サリーはナヴィとして認められてしまう点から考えて、人間はナヴィを仲間とすることに成功してしまっている。部分的にコロニアリズムに成功していると言えるのである。

よりミクロな視点で見れば、この物語は、人間体では下半身付随になってしまった退役軍人であるジェイク・サリーが、その障害を気にせず、自由に動き回れるナヴィのアバターを手に入れ、その世界で自分の居場所を見つけ出す、という極めてエゴイスティックなものとも読み取れる。

新条アカネは誰かのアバターである。彼女は、映画『アバター』のジェイク・サリーよろしく新たなる自分好みのフロンティア=箱庭に自分自身をエゴイスティックに位置づける。

アバターと言えば、映画『サマーウォーズ』や、アメーバピグが思い出されるところである*2。いずれも、全く別の理想世界が、自分の理想像を実現するために活用されている。

そんな新条アカネは、実は女子高生ですらないのかもしれないのである。

新条アカネがけしかける怪獣と戦うグリッドマン。そのグリッドマンをサポートする新世紀中学生は、その見た目からしてお世辞にも「中学生」とは言えない。しかし、彼らもまた現実世界では中学生であり、ネット世界では中学生とは似てもにつかない理想像を手にしているのだ、と解釈することは、十分可能である。

この物語は、周囲から好かれる女子高生を理想像とする何者かが、新条アカネに自己投影しながら、理想郷を構築した、というところから始まる物語である、とも考えられるのである。

written by 虎太郎

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*1:ちなみに「目」に関しては、グリッドマンに関する者が黄色、味方が青、敵が赤という風に塗り分けられているとの説もネット上では散見される。

*2:映画『サマーウォーズ』は、当初民主的で平等を期待されていたネット社会の理想を取り戻す戦いであると理解できる。ネット世界OZは各自が自己実現を果たすフロンティアであり、共有の箱庭であったと理解できる。それを占有しようとする人工知能ラブマシーンとの闘いが繰り広げられ、そこにおいて最も重要なのは現実の「家族」であったという筋書きである。旧来の家族主義的側面を批判することも可能だが、かつてインターネットに抱かれていた漠然として期待感を分析する上では興味深い。