大学で日本文学を勉強するあなたに(4):優れた作品とは何か

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教科書には何が載るか

これまで、日本文学を大学で研究するために必要そうな知識をお伝えしてきました。本当に概略の概略、ですから、それを理解したところで、すぐに文学研究ができるようにもならないのですが、何より、日本文学は「蛸壺」ですから、隣の畑のことはよく知りません。僕も、日本近代文学、特に大正から昭和初期にかけての文学に、多少詳しいくらいで、その他はさっぱりです。これ以上はご容赦ください。

最終的には「ブックリスト」でこのシリーズを締めたいと思っているのですが、その前に、これまでの「知識編」の先の「考え方編」とでも言うべきものに入りたいと思います。

例えば、あなたは「優れた作品」とはなんだと思いますか?

それが難しければ、教科書に載る作品と、載らない作品の違いはなんだと思いますか?

「優れた」の難しさ

文学研究と、高校までの「国語」には相応の分断があり、必ずしも「国語」の延長線上に日本文学研究が来るわけではありません。しかし、日本文学に関心を持つきっかけが「国語」ということはあるのではないでしょうか。

「国語」には、定番教材と呼ばれるものがあります。例えば、夏目漱石「こころ」、森鴎外舞姫」、芥川龍之介羅生門」、中島敦山月記」などでしょう。

これを中学、小学校まで拡張すると、太宰治走れメロス」や、ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」があります。

そうした作品は、なぜ教科書に載るのでしょうか。

漱石や、鷗外は良いでしょう。確かに彼らは読むべき小説家のように思われるし、「こころ」も「舞姫」も、彼らの代表作と言えるかもしれない。

しかし、芥川龍之介の代表作は「羅生門」だろうか? 中島敦の代表作は「山月記」だろうか?

太宰治の代表作が「走れメロス」ではないことは、太宰好きなら納得していただけるでしょう。無頼派と括られる彼の真髄は、『人間失格』にせよ『斜陽』にせよ、他の作品に見出だされるべきもののように思われます。

また、ヘルマン・ヘッセの代表作が「少年の日の思い出」ではないこともまた、ドイツ文学にある程度の含蓄がある人であれば、自明でしょう。『車輪の下』なり、他の作品を挙げるべきであるように思われるのです。

ここにはやはり、教訓ということがあるように思います。国語という科目では、小説教材を使って、どのような教訓を授けられるかということに力点が置かれているような気もするのです。つまり、人格教育。僕自身は、そうした国語の在り方には批判的です。

数学で微分積分ができるようになっても、教訓は得られないのに、なぜ国語では教訓を授けなくてはならないのでしょう? そう思います。そうした教訓を読み取るような読解は、教科書以外の文学作品への向き合い方を、歪めてしまうようにも思います。

教科書に載せられない作品

だから僕は、自然主義の作品も教科書に載せるべきだと思います。

自然主義とは、フランス文学の影響を、直接的にはゾラの影響を受けて輸入された立場ですが、もっぱら日本では「ありのままの日常を描くこと」「日常の些細な秘密を告白すること」といったように受け止められました。

だからこそ、自然主義の作品は、面白くないものが多い。さほど感動できる場面も、教訓にできそうな場面も無いのです。

ただ、日本文学史上、自然主義は無視できるものではありません。しかし教科書には、その末流にある志賀直哉「城の崎にて」が見られる程度で、掲載は無いように思います。

例えば、自然主義の嚆矢と言える田山花袋「蒲団」などを教科書に載せてみればいい。もちろん、フェミニズム的にも問題含みの作品です。しかしこれが日本文学史に燦然ときらめく金字塔なのだから、無視する方が不自然でしょう。

同じく、教科書から黙殺された文学潮流にプロレタリア文学があります。プロレタリア文学1920年代の日本への共産主義流入に伴って始まった流れですが、さしあたり、葉山嘉樹、徳永直、小林多喜二ぐらいを覚えておけばいいでしょうか。

教科書には、一部に葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」が掲載されているくらいで、それ以外の掲載は見られません。無論、多喜二の「蟹工船」などは文学史の中でも無視できませんが、共産主義イデオロギーが強すぎて扱いにくいのでしょう。

戦後の作家の教科書への掲載は遅れています。同時代作家までいけば、数名掲載されているかもしれませんが、三島由紀夫をはじめとした戦後まもなくに活躍した人々の掲載は、見られません。

では、あなたはこう言うかもしれません。

「じゃあ、ライトノベルを掲載したっていいじゃないか」

キットカットの方が好きであると言うこと

ライトノベルを教科書に掲載することについて、僕は否定的な立場を取らざるを得ません。しかし、ライトノベルの面白さを知らないわけではないことは、はっきりと述べておきたいと思います。

一番好きなのは、うえお久光『シフト』で、電撃文庫で3冊しか出ておらず、なおかつライトノベル初期の作品で、直木賞くらいなら取れそうな、「ライトノベルらしくない」作品ではあるのですが……。

僕がよく持ち出す例え話に、次のようなものがあります。

僕の好きなYouTuberが、インスタライブでこう言いました。

「デパ地下の高級チョコより、キットカットの方が好き」

些細な発言であるかに思われるかもしれませんが、これは重要な発言です。というのも、そうした感覚が分かる人も多いのではないでしょうか?

かくいう僕も、ハンバーガーなら高級店のものより、マクドナルドの普通のハンバーガーの方が美味しいと思ってしまうし、なまじラーメン店で食べるラーメンよりも、チキンラーメンを家で作って食べた方が美味しいように感じてしまいます。

現代は、こうした感覚を、人に伝えることが躊躇われなくなった時代であるように思います。上の発言も、数十年前なら、「この味音痴め」と石でも投げられ、嘲笑されていたように思うのです。

このように、「みんな違う感覚を持つ」ことを前提とする価値判断を、僕は相対主義的価値判断と呼ぶことにしています。夏目漱石より西尾維新の方が面白い。クラシック音楽よりボーカロイドの方が良い曲だ。ピカソよりTwitterの絵師の絵の方が素晴らしい。

一方、それに対して、いわゆる古めかしい価値判断──「教科書的」とでも言えるような価値判断を、僕は権威主義的価値判断と呼ぶことにしています。これは「絶対主義的価値判断」でも別に大した違いはありません。

これらの価値判断は、「価値判断についての価値判断」であることに注意してください。

つまり、「デパ地下の高級チョコよりキットカット」と考えること自体が相対主義的価値判断に基づくのではなく、そういう風に考えることも、アリだよね、「みんな違って、みんないい」みたいに考えるのが、相対主義的価値判断なのです。

「権威」とは誰か

先程、権威主義的価値判断の話を出したときに、「絶対主義的」でも別にいい、と書きました。

それなのに僕が「権威主義的」と表現したのは、そこにあるのが「権威」の影響だからです。これを社会学者のブルデューは「界」と表現しました。

このブルデューという人は、フランスの社会学者です。もとは哲学を専攻していたらしいのですが、社会学者としてもフランスのトップまで上り詰めた人です。

彼は、ハビトゥス、すなわち個人の「習慣」が社会階層の中で規定されていると考えました。例えば、美術館に行く人というのは、ある程度余裕のある人で、親が美術館に連れて行ってくれた人ばかり、といった具合です。

ここで少しばかり自分語りをさせてください。

かくいう僕も、美術館の展覧会に行くのが好きな一人です。というのも、数年前、東京に住む友人のもとを訪れたとき、「明日はどこを観光しよう」と相談したら、必死にいろんなサイトを調べてくれて、「美術館でも行けば?」と行ってくれたのです。

その美術館は国立西洋美術館でした。そもそもそこに行く予定は無かったのだから、そして僕の親もまた子どもを美術館に連れて行くようなことはなかったのだから、これはまさに「稲妻の一撃」──つまり、偶然の産物であるかに思われます。

しかしよくよく考えてみると、「それじゃあ行ってみる」となったのは、この国立西洋美術館が、ル・コルビュジエの建築で、世界遺産に登録されたというニュースを、その前に見ていたからなのでした。僕はモダン建築に関心があって(というか普通に「かっこいい」と感じるぐらいですが)、その建築を見に行くついでに、美術館の展覧会を見て、そこにあったジャン・フランソワ・ミレーの絵画に衝撃を受けたのです。

つまり僕は、まるで自分の意志で美術館に行くことを選び取ったかに見えますが、実際には「建築に興味を抱く」程度の文化資本を親から受け継いでいたことになりますし、ニュースをある程度見るような家庭だったことも重要です。

よくよく考えると、僕はこれと同じことを更に前にも繰り返しています。

そもそも僕が本を読むのが好きになったきっかけは、祖父母の家を訪れた時に、1000円札を渡されて「これでブックオフの本を買ってきなさい」と言われたことでした。

そのとき忘れもしませんが、『ズッコケ結婚相談所』、井上ひさし吉里吉里人』、太宰治人間失格』を買いました。小学6年生のころだったでしょうか。ちょうどその直前に、井上ひさしが亡くなりそのニュースを見ていたので、『吉里吉里人』を買ったのでした。ここでもまた、僕は「本を買うお金をくれる」「ニュースを見ている」といった文化資本に支えられています。

僕のハビトゥス、「習慣」は、そうした文化資本に支えられたものなのでした(それが乏しいものであるとは言え)。

そうしてある界隈に詳しくなると、その「界」で、何が「良い」とされているのかが分かるようになってきます。

例えば、ピカソは《ゲルニカ》が有名ですが、僕は「あんな子供の描いたみたいな絵が偉いわけない」と思っていたのですが、美術館に通うようになって、ルネサンス以後の「遠近法」という世界観をぶち壊すキュビズムの革新性を理解しました。

そういう風に、何かの「界」に通暁するようになるというのは、その「界」の中での〈権威〉を内面化する過程だと言うことができます。権威主義的価値判断を理解するようになる過程だと言うことです。

例えば上の、チョコレートをめぐる発言。これも、自分がショコラティエになるなり、チョコレートに詳しくなるうちに、「キットカットよりもデパ地下のチョコの方が良い」と思えるようになると思うのです。

文学作品についても、同じことが言えます。夏目漱石よりも西尾維新。それが、徐々に文学に詳しくなると、「やはり夏目漱石も偉い」と思えるようになってくるということです。

「古典」になるために

「古典」と呼ばれる作品があります。日本では、近世までの作品は、無条件で「古典」と名付けられている節もありますが、話はそんなに簡単ではありません。

ただ、そうした考え方もあながち捨てきれないのは、「現代まで残っている作品は、それなりに素晴らしいに違いない」と言えるからです。歯牙にもかけられないような駄作は、早々に歴史から消えているでしょう。

「古典」になるためには、一般に「読み続けられる」ことが必要です。そして、「読み続けられる」ためには、時代を超えた普遍性を持ちえることが不可欠です。

その感覚が、近現代文学になると狂います。ただ、考えてみてほしいのです。今本屋に並んでいる文庫本のうち、何冊が100年後も発売されているでしょうか。

僕は、ライトノベルというのは、かなり早々に読まれなくなると思います。作品のサイクルが速いのです。漫画も、同様です。

そう考えたとき、おそらくあなたは日本文学についての権威主義的価値判断を手に入れることに成功します。

その上で、こうも伝えたいと思います。「無批判で」権威主義的価値判断を持ち続けるのは危険です。常に、そうした価値判断は疑ってみるべきです。

ですから僕は、権威主義的価値判断を「それはそれ」として尊重しながらも、相対主義的価値判断を両立させる可能性について、ここ1年ほど検討を続けていますが、まだ答えは出ていません。ただ、文学に触れるときには、一歩立ち止まってみることが必要です。

大学で日本文学を勉強するあなたに(3):文学研究史編

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「日本文学研究」の歴史

日本文学研究の歴史は長い、ということを何度か書いてきました。しかし、我々が想像する「研究」と呼べるものは、やはり明治時代以降に始まったということになります。

英文学を講義した小泉八雲ラフカディオ・ハーンや、その後を引き継いだ夏目漱石などと比較して、かつての文学研究者の名前は、それほど聞かないような気もします。

例えば芳賀矢一などは戦前の日本文学研究者として有名ですが、国威発揚の時期にあって、それに伍したこともあり、参照するのはためらわれるところです。

戦後の歴史

以後、できるだけ日本文学の研究史を書きたいと思いますが、僕の専門が近現代文学である都合上、そちらに偏ってしまうことをご容赦ください。その道の先学を知りたければ、文学全集の編集者に名前を連ねている人や、事典を書いているような研究者を当たることをおすすめします。

例えば池田亀鑑は、古典文学研究に、ドイツ文献学の手法を持ち込みました。このドイツ文献学というのは、耳学問で恐縮ですが、時代によって微妙に変化する聖書を比較研究して、原典をできるだけ再構成しようというような学問だったと思ってくださればいいと思います。

池田亀鑑は、その手法を使って、古典文学のオリジナルを復元しようと試みました。その際の手法や理論的支柱は『古典学入門』などにまとめられておりますので、一読していただきたいところです。

そのほかにも秋山虔は古典文学についての基礎的な情報を整理したと言えるでしょう。現在我々が「文学史」として享受しているものは、この両名の努力の上に成り立っているところが多分にあります。

他にも石母田正の著作で、岩波新書から刊行されている平家物語などは、必読の一冊と言えるでしょう。他にも、角川書店に連なる系譜の角川源義や、アクロバティックな読解で文学研究に新たな領野を拓いた西郷信綱なども忘れてはいけないでしょう。

例えばドナルド・キーンは、戦時中敵国言語であった日本語を習得していたこともあり、戦後は日本文学研究者として活躍しました。現在文庫でも刊行されている『日本文学史は、その成果とも言えるもので、現在の私たちにとって網羅性と読みやすさを兼ね備えた得難い「教科書」となっています。また彼は同時代の文壇の人々とも親交を結んだことが知られています。

同じ時期の三好行雄は、1962年に東京大学の教員となりましたが、これが東京大学では最初の近代文学専攻の教員でした。彼は文学研究に作品論を導入しました。というのも、それまでは作家論と呼ばれる、作家を研究する手法が中心だったのに対し、彼は作品そのものを論じようとしたのです。

これが受けた背景には、高度経済成長、大学進学率の上昇で、「全集を通読しなければ研究ができない」という心理的ハードル、財政的ハードルについていけない学生が出てきたためという説もあります。手元に文庫本一冊があれば研究できるようなスタイルが広まり始めたのです。

つまり、日本文学研究の流れは、作家論→作品論というように展開してきました。これがさらに展開したのはテクスト論です。これは読者論と呼ばれることもあるようですが、ロラン・バルトの提起した「作者の死」という概念のもとに、作者の存在を一度かっこの中に入れるという手法です。

積極的に導入したのは『文学テクスト入門』などで知られる前田愛ですが、それがより人口に膾炙したのは、1985年の同じ雑誌の同じ号に、同じ夏目漱石『こころ』論を掲載した小森陽一石原千秋がきっかけだと言えるでしょう。

これが平岡敏夫などを巻き込んだ、いわゆる『こころ』論争に発展しますが、強固なテキスト論というイデオロギーを背負った小森・石原に軍配が上がったと言うべきでしょう。2人は後、漱石研究』という雑誌の中で、こうした立場を広めていきます。前にご紹介した『批評空間』との平行性が興味深いところです。

そこには、日本のなかでもかなり初期にフェミニズムの観点を導入した飯田祐子などの名前が見えます。

こうした理論的推移、すなわち作家論から作品論へ、そしてテクスト論へという推移は、近現代文学で導入が進んでいる印象があります。一方、古典文学についてはそうした観点が希薄で、昔ながらの作家論が中心の印象です。作者はこの表現をどこから借りてきたのかという原典探しや、ストーリーを歴史上の出来事と重ね合わせる実証研究、登場人物のモデルを探したり、作者が分かっていない作品については、その生成圏を探る試みが盛んです。

一方、兵藤裕己大津雄一高木信などといった人々が、そうした従来の古典文学研究──特に中世文学研究を揺らがしているようですが、特に中古文学についてそうした試みは寡聞にして存じ上げません。

同時代史へ

テクスト論の導入は、ある意味で文学研究に余命宣告を突きつけたようにも思われます。

例えば、作品論であれば、まだ作者の存在は自明視されている。つまり、作者は既に死んでいるが、当然「作者の意図」という正解があり、それを探っていたわけです。しかし、テクスト論になると、「作者の意図」を研究することは別に偉くないということになる。

すると、テクスト論は「なんでもあり」の様相を呈し始めます。これに違和感を抱いたのが、田中実です。ただし、この「田中実」という名前は日本で一番多い同姓同名らしく、論文を検索しても別の人の論文が出てきてしまうので、探りにくいところです。

彼が提起したのは、第三項理論という考え方でした。彼は、テクスト論がもたらす、なんでもありの「読みのアナーキー」を避けるために、この理論を編み出したのです。

その理論の本題に入る前に言っておくと、これは文学研究だけでなく、特に人文系の学問で起こっていた問題と言えます。

近代(モダン)が終わったあと、ポスト近代(ポストモダン)が現れたとされています。そこでは、近代までは成立した「大きな物語」が成立せず、「小さな物語」に分裂してしまったとされています。

例えば、昔は「夏目漱石なんかより西尾維新の方が偉い」なんて言い始めたら、説教を何時間もされて、「夏目漱石が偉いに決まってるだろ」と改宗させられたわけですが、ポストモダンの現代は「まあそういう人もいるよね」という具合に落ち着くでしょう。他にも具体的な人生設計の話がそれに当たります。順調に進学し、20そこそこで見合いで結婚、子供を3人ばかり作って、夫は仕事を、妻は家庭を守り……といったライフコースは、もはや自明のものではなくなりました。

こうした現象は、ひとえに「超越的存在が認められなくなった」と言えます。つまり、「それに従っておかなくてはならない」と思わせられるように超越性が見いだせなくなったのです。例えばある2人の社会学者のその問題に対する対応は──2人が同じ大学に1年違いで入学したにも関わらず──好対照を描いています。

大澤真幸はそうした現代における超越的存在──第三者の審級が不在であることを嘆き、本当の〈自由〉のためには、第三者の審級を再び存在せしめることが必要だと説きます。

一方宮台真司オウム事件を受けた『終わりなき日常を生きろ』で、超越的存在にすがる終末論的思考(オウム真理教のような)と、当時の女子高生たちの「終わりのない日常をまったりと生きる」スタンスを比較し、後者を肯定します。つまり、超越性を棄却し、それでも漠然と生きることこそが良いのだと考えるわけです。

こうした時代的な状況と、田中実が第三項理論を生み出した環境は似ています。

田中は、「本文(ほんもん)」は人によって違うと考えます。文章を読むにせよ、どこに力点を置くか、どのように読むかは人によって違うでしょう。しかしそれ以前の「プレ本文」なるものが(概念的には)存在するはずだと考えます。

これこそが、本当の意味での他者だと言うのです。というのも、他者の中にも「共感できる他者」と「到達不可能な他者」がいます。この「プレ本文」は後者だということです。

私たちは文学作品を読んだとき、「プレ本文」という「到達不可能な他者」に触れる。そのとき、私たちはそれまで築き上げてきた〈私〉が崩れ去るような経験をする。これを自己倒壊と呼んでいます。

この田中の議論は、一見すると、宗教じみて聞こえるでしょう。

事実、彼が活動の根拠地にしていた日本文学協会では当初は正面切って受け入れられることはなかったようです。ただ彼が国語教育部会で、国語教育に第三項理論を移植しようという試みを始めると、協会に寄せられる論文も、ほとんどが第三項理論を踏襲したものになりました。

ただ、それはいくらなんでもまずい。ということで、昨年、文学研究者から多くの批判が寄せられ、日本文学協会も自己批判を余儀なくされました。

こうした経緯を踏まえれば、テクスト論以後、日本の文学研究に理論的な更新は無いと言えるかもしれません。ただし、田中が問題視した文学における超越性の消去、読みのアナーキー、「なんでもあり」という問題点は、どこかで文学研究者が向き合わなくてはならない課題です。

また、主流を形成するには至っていませんが、中村三春を嚆矢とし、西田谷洋が発展させた認知物語論は、認知言語学の成果を文学の構造を分析することに活かしたもので、今後さらなる進展が期待される分野です。

大学で日本文学を勉強するあなたに(2):文芸批評・文学理論編

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批評とは何か

日本文学を勉強しようとしたときに、避けては通れないのが、「批評」です。正式には「文芸批評」と言ったりしますが、ここ数十年の批評は、必ずしも文学作品を扱っておらず、思想的な内容を含むため、単に「批評」と呼んだほうがいいかもしれません。

「批評」とは何か。そういう問いは、かなり繰り返されてきました。ここで「批評」論を展開しても、あまり意味はないと思いますので、「論理で魅せる文章」ぐらいに捉えておきましょう。

文学研究は、当然学問ですから、論理的な厳密性を求められます。きちんと書かなくちゃいけない。ただ、そればっかりだと、はっきり言ってつまらない。

一方文芸批評は、もちろん論理は必要ですが、その論理にアクロバティックさがあります。言ってみれば、A地点からB地点に、ジャンプするような感じです。文学研究は、もし地面に亀裂があったら、そこに橋をかけたりしなくてはいけない。けれど批評は、ジャンプすることができる。

ですから批評は、時に新鮮な印象を与えてくれます。よく知っている、何度も読んだはずの作品でも、「ああ、そうだったのか!」と驚いたりするのです。

文学研究をする際も、批評を避けては通れません。この批評をうまい具合に「利用」できれば、自分の文学研究も飛躍的に充実するはずです。

批評の歴史

批評の歴史は、どこまで遡ることができるでしょうか。

古くは歌論と呼ばれる、和歌を詠む際の心構えなどを記したものが挙げられるかもしれません。本居宣長源氏物語玉の小櫛』のような作品もまた、批評かもしれない。

近現代になると、文芸批評は「文芸批評」というジャンルを確立させます。坪内逍遥小説神髄などがその先駆けかもしれません。

ただし、私たちが想像する批評が始まったのは、正宗白鳥を想像すると良いでしょう。

正宗白鳥は小説家でした。ただ、彼自身は小説よりも文芸批評で知られます。ですから、文芸批評家という印象を持たれている人かもしれません。

その後、20世紀の中頃に登場したのが小林秀雄です。センター試験をはじめ、多くの大学入試で出題される人だという印象があるかと思います。彼は文学作品などを理論によって分析するのではなく、あくまで自分の感性を元に論じる印象批評を是としました。

小林秀雄は、あまりに大きすぎる巨人です。その後、戦後になって発言力を得るようになってきたのが、吉本隆明です。一時期は知の巨人と言えば吉本隆明だったのですが(外国語はできず、翻訳ばかりに頼っていたのに、知の巨人というからなお驚きです)、今は「吉本ばななのお父さん」ぐらいに説明した方が分かりやすいかもしれません。

例えば吉本隆明は、夏目漱石の『こころ』を、ぼうっと蝋燭が灯っているような感じ、と記していたように記憶しています(今原典が手元になく、記憶で書いています)。なぜかよく分かってしまうこの感覚は、文学研究では表現できないでしょう。

吉本隆明に遅れて登場したのが、柄谷行人です。『日本近代文学の起原』などで知られる批評家ですが、後年「文学の終わり」を宣言し、以後は思想系の文章ばかりを書いているので、「思想家」と呼ぶのが正しいような気もします。

柄谷と同時期に活動しはじめたのが、蓮實重彦です。東京大学表象文化論を導入し、総長まで務めた人物ですが、思想というよりも、日本における映画批評を構築した人物と言えるでしょう。

1980年代に浅田彰『構造と力』という本でデビューを飾ったころ、日本ではニューアカと呼ばれる現象が起きました。思想的な内容、批評的な内容が、市場的な価値を持つようになった。端的に言えば「売れる」ようになったのです。

この、柄谷行人浅田彰が組んで始めたのが『批評空間』と呼ばれる雑誌です。ジャック・ラカン精神分析を受け継ぎ、コミュニストとして現在も注目を集めるスラヴォイ・ジジェクを日本に紹介するなど、重要な役割を果たしました。ここで絓秀実渡部直己が活動します。

『批評空間』の特に重要な役割というのは、東浩紀を輩出したことでしょう。法政大学の柄谷の授業に潜り込み原稿を渡した東浩紀は、存在論的、郵便的などジャック・デリダを日本に紹介する役割を果たしていました(もちろん、それより前にも知られてはいましたが)。

東浩紀自体は、所謂「文学」についてそれほど多くを語っていません。むしろ2000年代の動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生は、今でもサブカルチャー研究では必読の書籍ですが、そういったオタク・カルチャーと近い人という印象があるかもしれません。ただし、そうしたサブカルチャーから離れた後も、株式会社genronを立ち上げ『ゲンロン』という雑誌を発行するなど、旺盛に活動しています。

この東浩紀が世に送り出したのが宇野常寛です。ただ、東との関係はよくなく、今やお互いを批判しあうようになっています。

他にも、元々東浩紀と仕事をすることが多かった福嶋亮大などがいます。

これらの流れの他にも、『成熟と喪失』などで知られる江藤淳や、敗戦後論で議論を巻き起こした加藤典洋などが思い出されるところです。

文学理論とは

先ほど、小林秀雄が印象批評を是としていたと書きました。作品を自分の感性を重視して評価するという態度です。ただし、評価のものさしが「感性」というのは、不安な気もします。

文学理論とは、「どうすれば小説が書けるか」というような理論ではありません。「どうすれば文学作品が読めるか」という理論です。文学作品を評価するためのものさしを、外在のイデオロギーに求めるということです。

例えば、フェミニズム批評が挙げられます。

日本文学は世界的にも長い歴史を持ち、かつ女性がその主役であった時期(平安時代など)の古さを考えても、異様なのですが、近現代になると、女性作家よりも男性作家が文壇の主流を占めるようになります。

男性が書いた作品の中には、無意識に女性への抑圧を背景にしているものが少なくありません。そうしたところを指摘するのが、フェミニズム批評です。あるいは、女性性をテーマにした作品から、社会における女性性のあり方について考えるようなものも、フェミニズム批評に加えられるかもしれません。

他にも精神分析批評などがあります。精神分析批評は、無意識を発見したとされる精神分析フロイトやその弟子ユング精神分析をめぐる議論を参照し、作品のなかに現れる精神構造を分析して見せます。フロイトの末流にはジャック・ラカンがおり(本流からは「破門」されてしまったわけですが)、彼の理論を文学解釈に活かすことも可能です。

そうした文学理論については、廣野由美子『批評理論入門』や小林真大『文学のトリセツ』など、平易な解説書がいくつか出ていますので、それらを参照してください。

 

次回は、「文学研究の歴史」などについて書ければと思います。

 

大学で日本文学を勉強するあなたに(1):基礎知識編

 

大学で日本文学を勉強したい。

そういう人は少なくないのではないかと思います。日本中の大学には「文学部」のような学部がたくさんあり、その中には、ほとんどの場合、日本文学を学べる環境が整っているのではないでしょうか。

ですから、日本文学を勉強する人は少なくないと思います。では、日本文学研究はいつから始まったのでしょうか?

例えば、イギリス文学であれば、はっきりしています。おそらくは帝国大学が設置されたときに、日本でのイギリス文学研究は始まったのです。

でも日本文学は難しい。もちろん、帝国大学に「国文学」という名で設置された課程を日本文学研究の始まりとしても良いかもしれません。ただ、文学研究に近いことは、すでに行われていたように思うのです。

例えば、江戸時代の国学本居宣長のような人々が成し遂げたのは、『万葉集』にせよ、『源氏物語』にせよ、そうした古典文学の研究だったと言えるのではないでしょうか。

あるいは、平安時代から脈々と続く、有職故実。ここでは和歌の解釈などが、その家の「秘密」として代々受け継がれてきた様子を見て取ることができます。

それだけ長い歴史を持つ学問ですから、知っておかなければならない知識は存外に多い。けれど、その基礎知識を説明してくれる人はいないのではないか。

そこで僕は、僕が大学4年間でなんとか学べたことを、ただこの記事を読むだけで分かってくれるように、凝縮したいと思います。

近世までの作品を研究するために

日本文学は、世界でも特に長い歴史を持ちます。

中学1年生のときに『竹取物語』を勉強したとき、「世界最古の物語」と説明されたのではないでしょうか。そう、日本文学は、それが「文字の形で残された」という点で、世界屈指の歴史を誇るのです。

もちろん、書かれた当時の原典は残されていません。基本的に、印刷術が普及する前は、本を(もっともある時代までは「巻物」でしょうが)借りてきて、それを書き写すことで受け継がれてきました。この書き写されたものを諸本(異本)と言いますが、時代によって変化する日本語に合わせて書き換えられたり、当初の原典の文法的なミスを書き写した人が勝手に書き直してしまったり、そういうことはあります。

したがって、ある程度の古典文学作品であれば、複数の「○○本」と呼ばれる系統が残されています。例えば『平家物語』であれば、よく教科書に載っているのは「覚一本」と呼ばれる比較的新しいもので、多くの研究者が相手にしているのは「延慶本」という比較的古態を留めているもの。他にも、「四部合戦状本」など、たくさんの異本があります。

それを踏まえて、文学研究をするのであれば、どの系統を相手にするのかは決めなくてはなりません。

日本古典文学を研究するときによく使うのが、岩波書店小学館新潮社から出ている全集です。それぞれ「日本古典文学大系」「日本古典文学全集」「新潮日本古典集成」というシリーズです。前の2つは、古いものと新しいものが出ているので、特に新しいものを指して「新大系」「新全集」と呼びならわすことが多いと思います。

もちろんそれぞれで、収録している作品に若干の差異はあるのですが、『源氏物語』『平家物語』などオーソドックスなものは、どれにも収録されています。この中で優劣というのはあまりない、というか、それぞれの作品によります。『源氏物語』ならどれを参照すべきなのか、などは専門家に訊くのが早いでしょう。

ただ、とりあえず古典文学を読み漁りたい、というような場合には、それぞれの特徴に合わせて選ぶことをお勧めします。どのシリーズも、注は充実しています。新大系は、それと同じ内容のものが岩波文庫から刊行されているので、そちらを買ってしまう、というのが早いかもしれません。新全集は3段組みになっていて、上に注、真ん中が本文、一番下が現代語訳なので、古文に自信がない人は新全集を選ぶといいでしょう。新潮社のものは、全訳ではないものの、一部に傍訳がついているのと、比較的持ち運びしやすいサイズで、お値段も手ごろなのが売りです。

現代文学を研究するために

現代文学には、それを通して編んだ全集は、あまり多くありません。いくつかあるにはあるのですが、それは戦後の教養主義が盛り上がった時代に、読んだりしないけど家のリビングに飾っておく、みたいな用途で使われることが多く、有名な作家の有名な作品しか収録していなかったり、あまり研究には使いません。

現代文学は、初出時のコピーなどを用意することが多いと思います。掲載された新聞や雑誌が、あらゆる手段を駆使すれば入手できるので、それを使うというわけです。

それ以外の方法と言えば、作家ごとの全集を参照するという手もあります。こちらはその作家を研究する学者が編集に関わっているため、注が充実していたり、かなり信頼が置けます。

また、そうした全集が作者の生前のうちに編まれるような場合もあります。そうした場合、作者本人が時代の変化や自身の成熟を反映させて、作品を改変してしまう場合もありますので、一応初出に当たったうえで、校異(諸本の表記などの異同を確かめること)が必要でしょう。

どの雑誌が信頼できるか

日本文学は、大変広い学問分野です。従って、「日本文学研究者」というのはかなりいます。

その中でも信頼のおける雑誌というのが、いくつかあります。

まず、『国語と国文学』です。編集は東京大学ですが、投稿自体はそれ以外の大学の人でもでき、日本文学(国文学)や日本語学(国語学)の最先端の研究が並びます。

そして、『日本文学』です。こちらは日本文学協会という学会の雑誌ですが、この雑誌の長所は、ネットで無料で読めるということです。この学会も問題が無いわけではないのですが、無料で、それなりに質の担保された雑誌が読めるというのは、悪いことではありません。

既に刊行を終了してしまったものとして、『国文学 解釈と鑑賞』という雑誌と『国文学 解釈と教材の研究』という雑誌があります。これらは、研究者はもちろん、大学生や国語科教員向けの内容を組んでいたこともあり、ある程度知名度のある作家について調べると、必ず行きあたることになります。

他にも、岩波書店から刊行されていた『文学』という雑誌もあります。

こうした雑誌は、投稿された論文を別の日本文学研究者がチェックするという体制が整っています。こういう仕組みを査読と言いますが、ある程度のクオリティが担保されているので信頼の置けるところです。

一方、Ciniiのようなサイトで論文を検索すると、各大学の紀要に行きあたることがあります。こちらはレポジトリがしっかりしており、ネットで無料で読める論文である一方で、査読は経ていないので、信頼が置けるかどうか確かめなくてはいけません。

では、査読のある雑誌は信頼できて、査読のない雑誌は信頼できないのか、というとそうでもなくて、緻密な実証研究や、新しい試みとしての論文は、査読がある雑誌に投稿しても採用されず、紀要に載ることもあります。

例えば、20世紀の日本文学研究で、最も優れた論文の1つが小森陽一「「こころ」を生成する「心臓(ハート)」」というものですが、これは『成城国文学』という雑誌に掲載されたものです。夏目漱石『こころ』論ですが、ネットで無料で読めます。

どの学者が信頼できるか

何度も繰り返すように、日本文学は人口の多い学問分野ですから、全ての論文を読むのは現実的ではありません。

例えば、夏目漱石『こころ』については、既に1,000本近い論文が発表されていますが、それ全てを読まなくては『こころ』について論じられないのであれば、死ぬまでかかっても無理でしょう。

そういう場合には、「この人の論文は読んでおかなくちゃダメだ」と判断したいところです。

今後、それぞれの時代で、僕の知っている限りの有名な日本文学研究者を羅列していきたいと思いますが、全集の編集に関わっていたり、『日本文学』などで頻繁に論文を掲載していたり、単行本を出版しているような研究者は、かなり信頼が置けるのではないかと思います。

また、先ほど注意を促した、ネットで無料で読める論文を使うという手もあります。

例えば、何かの作品について調べなくてはならなくなったら、その作家の名前をCiniiで検索して、とりあえず読める論文を、最近のものから順に読んでみましょう。そうすると、「この人はやたら引用されているな」というような人が見つかるはずです。その人が、重要な研究者ということになります。

 

次回は「文学理論と文芸批評」との付き合い方について書きたいと思います。

ラブライブ!についてラブライバーが思うこと

 どうも立月です。タイトルにもある通り今回はラブライブ!について書いていこうと思います。今まで黙っていましたが、僕はラブライブ!シリーズが大好きなんです。いわゆるラブライバーというやつですね。まあとにかくグッズやらCDやらを集めているわけです。

 そんな僕がなぜ今回唐突にラブライブ!について記事を書こうと思ったかと言うと、同じ「掌のライナーノーツ」内に先日投稿された虎太郎さんの「2019年の「ラブライブ!」論」という記事を見たことがきっかけなんです。虎太郎さんの記事に反論するわけではないですが、ラブライバーとしての立場から意見を書いてみても面白いのではないかと思ってこの記事を書くことにしました。

 

 

theyakutatas.hatenablog.com

 

  じゃあどこが気になったの?となるわけですが、気になったのは次の二点です。

 

彼女たちは、果たして成長しているのだろうか。もちろん技術的には成長しているということになっているのですが、映像を見てもいまいち分からない。成長によってラブライブ優勝を目指すのではなく、むしろお互いの持ち味を極限まで活かすことによって、優勝を目指す。

 

しかし、その自分勝手=〈夢〉が実現されるのがこの物語であり、私たちはステージで展開される〈夢〉=〈みんなで叶える物語〉を鑑賞することしかできないのです。

 
 まずはメンバーが成長していないという点についてです。これは声を大にして言いたいのですがそんなことはない! 彼女たちは間違いなくシリーズを通して成長しているんです。
 具体例を挙げるなら、僕が大好きな星空凛ちゃん。アニメシリーズ第一期では彼女は天真爛漫で元気いっぱいなボーイッシュな女の子という印象でした。これが第二期になると第五話「新しい私」で、実は凛ちゃんは小さいころの経験が原因で女の子らしい格好をすることに抵抗を覚えていることが明らかになります。
 しかし、特に一年生の真姫ちゃんと花陽ちゃんの応援によって、名曲「Love wing bell」で女の子の特権とも言える花嫁衣裳、ウェディングドレスを着て「誰でもかわいくなれる きっとなれるよ こんな私でさえも変身」と歌います。それまでは自分なんかがかわいい恰好をしてはいけないと思っていた凛ちゃんが、かわいい恰好をしておしゃれをしてもいいんだと気づいているんです。その影響で、第一期から唯一変わっていなかった凛ちゃんの練習着が第一期のパンツスタイルから五話以降は可愛らしいスカートに変わっているんです。これは凛ちゃんが自分もかわいい恰好をしてもいいんだと思えるようになったからではないででしょうか。これを成長と言わずに何という! と僕は思います。(ちなみに僕は第一期のパンツスタイルも第二期第五話以降のスカートもどちらもかわいくて素敵だと思います。)
 
 メンバー一人一人の成長を書いているととても長くなりそうなので、凛ちゃんだけにとどめておきますが、彼女たちは間違いなく成長しています。それがあったからこそのラブライブ優勝なんです。

 

 続いてライブの話に移りたいと思います。虎太郎さんは次のように述べられています。

私たちはステージで展開される〈夢〉=〈みんなで叶える物語〉を鑑賞することしかできないのです。

 

 確かに、私たちはあくまでも観客、ファンとしてステージ上での彼女たちの輝きを眺めることしかできない。それがスクールアイドルになることができない私たちに課せられた宿命なのかもしれません。

 でも本当にそれだけなのか。μ'sのキャッチコピーとも言える〈みんなで叶える物語〉、このみんなに僕たちファンは入っていないのでしょうか。オタクの妄言かもしれませんが、僕は入っていると言いたい。なぜならばライブとは、ライブ会場にいる全員がライブを作り上げていると言っても過言ではないからです。ライブ冒頭のコール&レスポンスであいさつをして、ライブ中はμ'sのメンバーは全力で歌い踊る。ファンは全力でコールをしてμ'sのメンバーを応援する。そこには不思議な一体感が生まれています。(実際僕はライブ会場で隣にいた別のファンの方とライブ中に仲良くなったことがあります。)

 間違いなく主役はステージ上の九人です。これは厳然たる事実で揺らぐことはない。しかし、観客席にいる僕たちはスポットライトは当たらなくても彼女たちと共にライブを作り上げ、共にライブを楽しんでいる。僕たちも一緒にライブを行っていると言うことはおこがましいですが、その微々たる助力になっていればと願っています。そうなるとμ'sの〈みんなで叶える物語〉の〈みんな〉にはμ'sのメンバーはもちろんのこと、少しだけでも僕たちファンのことが含まれているのではないかなと考えてしまうものなのです。

 

 さてここまでラブライブ!について書いてきましたが、これはあくまでも一ファンの狂信的な意見とでも思ってください。なんてったって僕たちは「ラブライバー」ですから。

 

written by 立月

もう一度読む『竹取物語』:読者に寄り添う物語

はじめに

竹取物語』と言えば、『源氏物語』と並ぶ日本の古典である。『源氏物語』にそう書かれるように、そしてそれを遡る作品が未だ見つからないように、「日本最古の物語」として捉えられている。

果たしてその時代の人がそれを(僕たちが認識するところの)「物語」として創作し、受容していたかは定かではないが、未だに「かぐや姫」を題に冠した絵本などが見られるように、人々の心に寄り添った「物語」としての側面は否定できない。

さて、それを今更ながら、大して古典文学への造詣が深いわけでもないのに読み直し、何か考えようという試みが、意味のあるものであるかは分からないが、とりあえず、幼い頃に読んだ「ある宇宙人の物語」を思い出すつもりで、本稿を読んでいただけると嬉しい。

「けり」の話

岩波文庫版の『竹取物語』を以下では参照するが(その下となったのは「新日本古典文学大系」である)、その校注を担当する阪倉篤義氏は「解説」において、過去の助動詞「けり」が物語中盤には見られないことを指摘した。

この点について、阪倉氏は次のようにも述べている。

…この「なむ」あるいは「ぞ」という助詞は、聞き手への確かめの気持を現わすのに用いられるものであり、これに呼応する「けり」という助動詞は、いわば過去を、現在との関連において見る、説明的な陳述をふくむものである。すなわち、これらは、「解説的に物語る」叙述の態度をふくんだ様式の文であって、この様式の文が、和歌や、物語の「心話」の部分、また日記の地の文などには用いられることはほとんどなく…

ここから導き出される結論は、ほとんど一つではないかと思う。

つまり、僕たちは「いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。」という、「「解説的に物語る」叙述の態度」に誘われ、物語に〈読む〉行為を通じて参入する。

「いまは昔」の箇所に阪倉氏は次のような補注を付す。

物語や説話の冒頭に用いられる慣用的な句の一つで、平中物語・大和物語・落窪物語・今昔物語・宇治拾遺物語などにも、この形式が見える。過去のある時に自分をおいて、それを「今」と言い、「この話のときは昔なのであるが」と語りだすのであって(馬淵和夫氏説)、それが「けり」という助動詞の用法とも関連する。

つまり、この「いま」というのは、僕たちが本を読み、ページをめくる「いま」ではなく、〈語り手〉が〈語る〉とき、つまりジェラル・ジュネットがいうところの「物語行為」の時間である。

言ってみれば、「いまは昔」と言ったとき、僕たちは、それを読む現在から、〈語り手〉が〈語る〉ときへとグッと引き寄せられるのだ。

ここに三段階の時間の関係を見出すことができる。一つ目は「昔」であり、言ってみれば「物語内容」が発生したとされているとき。二つ目は「いま」であり、その内容を「物語行為」として〈語る〉とき。三つ目は、それを〈読む〉僕たち自身の現在である。

「いまは昔」によって僕たちは、三つ目の時間から、二つ目の時間へと引き寄せられ、それを今まさに〈語っている〉かのように〈読む〉のである。

さらに、ここに先ほどの「けり」にまつわる話を考え合わせてみよう。物語中盤に、過去の助動詞「けり」(それは「き+あり」に源流を持ち、伝聞過去を示すとされる)が現れないのは、二つ目の時間へと引き寄せられた読者が、さらに一つ目の時間へと、さらに引き寄せられていると考えて良いだろう。

やってくる人

〈読む〉現在から、〈語る〉「いま」へ、そして「昔」へと誘われる読者の様子は、月から地球にやってくるかぐや姫の様子と重なるようではないだろうか。

なぜかぐや姫がさぬきの造のもとにやってきたかというと、天からやってきた人が次のように語っている。

「汝、おさなき人、いさヽかなる功徳を翁つくりけるによりて、汝が助けにとて、かた時のほどとて下しヽを、そこらの年頃、そこらの金給て、身をかへたるがごと成にたり。かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賎しきをのれがもとに、しばしばおはしつる也。罪の限果てぬればかく迎ふるを、翁泣き嘆く、能はぬ事也。はや出したてまつれ」

つまり、かぐや姫が翁のもとに送り込まれたのは、翁が「いさヽかなる功徳を」「つくりける」ことによるものであった。しかし、それならば、つまり善行に応じて「ご褒美」が与えられるのであるとすれば、それがかぐや姫であるというのはおかしくないだろうか。

というのも、かぐや姫は「罪をつく」って、いわば遠流の刑の一貫で翁のもとに送り込まれたのである。刑の執行と、善行への報奨が裏表であるとは、いかにも地球人が舐められた様子であることが分かる。つまり、月の国にとって地球人に与える報奨とは、刑の一貫として女性を送り込むこと程度ということである。

いってみればかぐや姫は「宇宙人」なのであるが、それを五人の貴人、帝までもが求めたという事実は、そう考えれば滑稽である。「国外追放」の刑を受けた受刑者に、ありがたがって求婚までしたのである。

〈所有〉への欲求

その事実を認められなかったのは、翁その人であった。「自分の国から迎えがやってくるだろう」と悲壮感を漂わせるかぐや姫に、翁は次のように返す。

「こは、なでう事のたまふぞ。竹の中より見つけきこえたりしかど、菜種の大きさおはせしを、わが丈たち並ぶまで養ひたてまつりたる我子を、なに人か迎えきこえん。まさに許さんや」

彼は、かぐや姫の本当の両親がいたとしても、そんなかぐや姫を養ったのは自分であり、「我子」であるから、月の国の人々が迎えに来るなど許されない、と言うのである。

最終的に不死の薬を翁は得るが、「なにせむにか命もおしからむ。たが為にか。何事も用もなし」と、それを服用しようとはしない。

翁がかぐや姫を〈所有〉することに失敗した。もちろん求婚者たちも、かぐや姫の〈所有〉に失敗した。翁は次のようにかぐや姫に言う。

「翁、年七十に余りぬ。今日とも明日とも知らず。この世の人は、おとこは女にあふことをす、女は男にあふ事をす。その後なむ門ひろくもなり侍る。いかでか、さることなくてはおはせん」

「私はいつ死ぬとも分からない身なので、世間の人がそうするように結婚して、一族を繁栄させてくれ」と言う。現代にもたまに聞くようなセリフであるが、実際にはかぐや姫は結婚しない。

ちなみに、かぐや姫は「月の顔見るは忌むこと」と忠告されても、月をのぞきみて泣いていたりする。

地球の人々は、ついに一度たりともかぐや姫を、地球の〈規範〉に収集することさえ叶わなかったのである。

もちろんそれは、かぐや姫が地球の人=「この世の人」ではないからにほかならない。

しかし、相次ぐ圧力に屈しず、〈規範〉に従わず〈所有〉も拒絶する様子は、さながらトルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーを彷彿とさせる。

映画では、ゴライトリーはある男との〈幸せな結末〉=〈規範〉通りの結末が描かれるが、カポーティはそれに不服であったという。原作ではゴライトリーは今もその所在のつかめない〈アウトロー〉として徹底して描かれる。

おわりに

「いまは昔」、そして過去の助動詞「けり」の消失とともに、物語内容の時間に引き寄せられた読者たちは、同じような経緯をたどるかぐや姫に目を向ける。

僕たちは、かぐや姫を〈所有〉し、〈規範〉に回収しようとする試みが失敗に終わることを滑稽に思いながら、月に帰るかぐや姫を見守るしかない。同じように翁のもとへ誘われた読者とかぐや姫は、月からの来客によって突如引き裂かれ、遠ざかるかぐや姫を見つめるしかできない。

そんな読者が最後に連れて行かれるのは、富士山であった。不死の薬が捨てられたことにその源流があるという不死山=富士山は、時間を超えてそこに存在しつづける。

再び姿を見せ始める「けり」とともに、読者は今もある富士山を頼りに、〈読む〉時間に戻ってくる。この丁寧な誘導に、時代は令和であるが、感嘆せずにはいられない。

平成最後の「ラブライブ!」論

ラブライブ!」って何なのか。僕はテレビアニメは全部見たものの、それを咀嚼しかねているところがあって、とりあえず書き散らかしておこうと思います。

「物語」にはなっていない

「スクールアイドル」を目指すμ'sというグループ。それがこの物語の根幹にあるわけですが、まず最初に、このアニメは物語であって物語ではないという点を強調しておきたいと思います。

「スクールアイドル」というテーマ上、アニメ中にたくさん歌唱シーンは登場するわけです。と考えると、「物語の節々に歌唱シーンがある」というふうに捉えてしまうところなのですが、実際にはそうではない。正しくは、「歌唱シーンを繋ぐ物語(的なもの)」と表現すべきなように思われます。

その証左のように、このストーリーには、全体的にリアリティが無い。どこか夢物語のような気がする。そもそも〈みんなで叶える物語〉なわけで、リアリティの欠如した〈夢〉物語を、〈叶える〉という構造になっている。

高校の廃校を阻止するためにスクールアイドルになるという話だったわけですが、そもそも高校の廃校は直前で決まったりするものではありません。

廃校になる年に3年生になる学年が入学する前、つまり廃校の3年以上前には、既に廃校が揺らがしえないものとして規定されているのが普通です。

そういったリアリティの欠如は、それ自体「アイドル的」なような気もするわけです。というのも、「アイドル」というのは、ある種〈夢〉を売る側面があるのではないか。

例えば現実の「アイドル」のファンにしても、ファンは「アイドル」が誰とどこにいるのかは知りたいかもしれない。そこには〈夢〉があるからです。しかし、「アイドル」が何回お手洗いに立ったかは知りたくないでしょう。それはそれが〈現実〉だからです。

と考えてみると、この物語から徹底して、執拗に排除される男性というのは〈現実〉だったのではないか。アイドルを欲望する男性の影は、アイドルが性を商品化する存在であるという〈現実〉を思い出させる。だからこそ、そのきっかけたる男性自体が、排除されるのです。

そんなわけで、〈夢〉を与える「アイドル」の、そのメインステージたる歌唱シーンを繋ぐ意味で、〈夢〉物語が接続される。だからこそ、このストーリーには大きな破綻がないものの、だからといって独創性を感じるようなこともない。どこかで見た感じが付きまとうわけです。

ぶれないテーマ

一応「ラブライブ!」は1期と2期がある。そうなのですが、一応そのテーマはかなり異なっているように思われます。

1期は「スクールアイドルってなんだ」というのがテーマ。つまり、自分たちは「スクールアイドル」になろうとするのだけれど、そしてそこにはA-RISEという目標もいたのだけれど、でも何をすれば「スクールアイドル」になれるのか分からない。

結局彼女たちは、それを見よう見まねでやってみることと、仲間を増やすことで解決することになります。

仲間を増やす、最初は3人だったものが、6人に、そして9人に。それぞれの持ち味が出て、「スクールアイドル」らしくなる。そこにあるには、ある意味で「ポケットモンスター」的な、ポケモニズムとでも呼びたくなる性質が垣間見えます。

彼女たちは、果たして成長しているのだろうか。もちろん技術的には成長しているということになっているのですが、映像を見てもいまいち分からない。成長によってラブライブ優勝を目指すのではなく、むしろお互いの持ち味を極限まで活かすことによって、優勝を目指す。

反対なのが「ガールズ&パンツァー」でしょう。よりスポーツ的側面が強調されるためかもしれませんが、戦車の操縦から配置まで、かなり上達の感がある。それでも結局、西住みほの作戦頼みなところがあるのですが……。

それが2期になるとどうなるか。

1期で、「私たちはスクールアイドルだ」というアイデンティティを手に入れる。

2期は、そこで確立されたμ'sというアイデンティティを再確認することになる。つまり「何をもってしてμ'sとするのか」という定義の再確認です。

3人×3年=μ'sの問題

μ'sは9人だけれど、それは「3人×3年=μ's」という感じがする。

じゃあ、3人というのは何か意味があるのだろうか、と考えるのが自然です。

社会学者のジンメルは、「三人結合」という考え方を提唱しました。これは、3人集まると本来的な〈社会〉が始まるのだという考え方です。

だからといって、じゃあ友達が3人以上集まった瞬間、〈社会〉ができるのかと言うと嘘です。3人以上が〈社会〉を形成すると言っても、その2人の人間関係に対して、第三者的な立場に立つ3人目が登場することで、やっと本来的な〈社会〉になる。

μ'sが単に9人なのではなくて、「3人×3年=μ's」である。この点については「ラブライブ! サンシャイン!!」の渡辺曜桜内梨子のエピソードの話でもあるのですが、あまりここまででは深入りしないでおきたいと思います。

しかしこの〈社会〉というのはかなりやっかいな存在に思える。と、ここでこれ以上社会学的見解に深入りする蓄積がありませんから、その広範さを避け、少し絞ってこれを〈組織〉と読み替えたいと思います。

例えば大学にはサークルという〈組織〉がある。サークルは、スタートこそ、同じ目的をもった人々の集まりだったはずです。フットサルサークルなら、みんなフットサルが好きな人の集まりから始まったはず。けれど、その様子が徐々に変わってくる。

多くのサークルは、むしろ組織の保存・継続が逆転した目的になってしまう。フットサルサークルの例で言えば、「フットサルをやるためにサークルを維持する」のではなく、「サークルを維持するためにフットサルをする」ような逆転が起こるわけです。

僕はとある国政政党の学生局に顔を出したことがあるのですが、そこの話題と言えば、政治についての議論でもなければ、学生局として社会に貢献できる内容についてでもない。その学生局にどうやって新しい仲間を増やすかという話題でした。ここにも「学生局の主たる目的が学生局を存続させることである」という逆転が見られます。

μ'sはそうであってはいけない。「スクールアイドルになりたいからμ'sとして活動する」はずが、「μ'sを存続させるためにスクールアイドルをする」ような逆転はあってはならないわけです。

だから、三人結合によってできる各学年の小さな〈社会〉を包摂する、μ'sという大きな〈社会〉は、3年生という小さな〈社会〉を失ったあとでは、存続できず、活動を終了するしかないのです。

顔を見せる矛盾

そうなると、一つの矛盾が明らかになりはしないでしょうか。

〈社会〉=〈組織〉の存続が、その当初の目的に置き換わるようなことがあってはいけない。だからμ'sは、3年生の卒業で活動終了を選ぶ。

しかし、そもそも彼女たちの活動の目的の重要なうちの1つとは、「〈学校〉を存続させること」だったのではないか。

この矛盾を乗り越えたのが「ラブライブ! サンシャイン!!」だったのですが、深入りしないことにしていますから、しばらく「ラブライブ!」について考えてみましょう。

なぜ「〈学校〉を存続させること」が重要なのか。おそらく3つくらい意味があるんだろうと思います。

1つ目は、後輩たちに後輩ができないのが可哀想だという話です。〈社会〉=〈組織〉=〈学校〉というのは──実は〈国家〉もそうなのですが──一応、永遠に続くということになっている。

例えば、貨幣がそうです。岩井克人の言っていたことですが、貨幣というのは、いつか使えるという感覚が支えている。例えば、あなたに100万円をあげる、と言われても、その次の日に地球が滅びる予定であれば、意味が無いということになる。使えないからです。

しかし、そう考えるとかなりおかしい。世界最後の日の前日には、既に貨幣は価値を失う。そう考えると、その前の日にも貨幣の価値は危うい。当然、さらにその前の日も。こうやって数学的帰納法的に考えていけば、貨幣の価値というのは認められなくなる。

それでも私たちが貨幣を信じるのは、一応世界が永遠に続くということを仮定しているからです。

その連続が断絶するというのは、何か危ういことな気がする、という感覚は、実は間違っていないのです。

2つ目は、こんなに良い高校なのに入る機会を失ってしまう未来世代が可哀想だという話です。

これはかなりお節介なお話です。どの高校であれ、その高校が良い高校であると思う人はいる。だから、「この高校は良い高校なのに!」と廃校に反対するのは、結局かなり危うい。

3つ目は、居場所がなくなるという感覚でしょうか。

実はこれはかなり不思議で、学校というのは教育機関ですから、教育が修了したからには、その学校とはもう無関係ということでいいでしょう。

それでも、多くの人は感慨を覚える。それは教育機関である以上に、そこが〈生活〉と化していたので、その残り香を求めているのかもしれません。

実は大切なのは3つ目だろうと思います。

つまり、〈学校〉が無くなるから存続させなくてはならないという感覚と、〈社会〉=〈組織〉の存続が目的化してしまって、当初の目的が空洞化する感覚。その両方が並立するこの物語は、結構不思議です。

ということで、僕はこの点を欠点として指摘しておきたい。

この物語は、その矛盾を、ラブライブという大きな目的にすり替えてごまかしているのだけれど、彼女たちのμ's解散には一貫性が無い。あえて強い言葉を選ぶとすると、自分勝手であると言ってもいい。

しかし、その自分勝手=〈夢〉が実現されるのがこの物語であり、私たちはステージで展開される〈夢〉=〈みんなで叶える物語〉を鑑賞することしかできないのです。

 

written by 虎太郎