ラブライブ!についてラブライバーが思うこと

 どうも立月です。タイトルにもある通り今回はラブライブ!について書いていこうと思います。今まで黙っていましたが、僕はラブライブ!シリーズが大好きなんです。いわゆるラブライバーというやつですね。まあとにかくグッズやらCDやらを集めているわけです。

 そんな僕がなぜ今回唐突にラブライブ!について記事を書こうと思ったかと言うと、同じ「掌のライナーノーツ」内に先日投稿された虎太郎さんの「2019年の「ラブライブ!」論」という記事を見たことがきっかけなんです。虎太郎さんの記事に反論するわけではないですが、ラブライバーとしての立場から意見を書いてみても面白いのではないかと思ってこの記事を書くことにしました。

 

 

theyakutatas.hatenablog.com

 

  じゃあどこが気になったの?となるわけですが、気になったのは次の二点です。

 

彼女たちは、果たして成長しているのだろうか。もちろん技術的には成長しているということになっているのですが、映像を見てもいまいち分からない。成長によってラブライブ優勝を目指すのではなく、むしろお互いの持ち味を極限まで活かすことによって、優勝を目指す。

 

しかし、その自分勝手=〈夢〉が実現されるのがこの物語であり、私たちはステージで展開される〈夢〉=〈みんなで叶える物語〉を鑑賞することしかできないのです。

 
 まずはメンバーが成長していないという点についてです。これは声を大にして言いたいのですがそんなことはない! 彼女たちは間違いなくシリーズを通して成長しているんです。
 具体例を挙げるなら、僕が大好きな星空凛ちゃん。アニメシリーズ第一期では彼女は天真爛漫で元気いっぱいなボーイッシュな女の子という印象でした。これが第二期になると第五話「新しい私」で、実は凛ちゃんは小さいころの経験が原因で女の子らしい格好をすることに抵抗を覚えていることが明らかになります。
 しかし、特に一年生の真姫ちゃんと花陽ちゃんの応援によって、名曲「Love wing bell」で女の子の特権とも言える花嫁衣裳、ウェディングドレスを着て「誰でもかわいくなれる きっとなれるよ こんな私でさえも変身」と歌います。それまでは自分なんかがかわいい恰好をしてはいけないと思っていた凛ちゃんが、かわいい恰好をしておしゃれをしてもいいんだと気づいているんです。その影響で、第一期から唯一変わっていなかった凛ちゃんの練習着が第一期のパンツスタイルから五話以降は可愛らしいスカートに変わっているんです。これは凛ちゃんが自分もかわいい恰好をしてもいいんだと思えるようになったからではないででしょうか。これを成長と言わずに何という! と僕は思います。(ちなみに僕は第一期のパンツスタイルも第二期第五話以降のスカートもどちらもかわいくて素敵だと思います。)
 
 メンバー一人一人の成長を書いているととても長くなりそうなので、凛ちゃんだけにとどめておきますが、彼女たちは間違いなく成長しています。それがあったからこそのラブライブ優勝なんです。

 

 続いてライブの話に移りたいと思います。虎太郎さんは次のように述べられています。

私たちはステージで展開される〈夢〉=〈みんなで叶える物語〉を鑑賞することしかできないのです。

 

 確かに、私たちはあくまでも観客、ファンとしてステージ上での彼女たちの輝きを眺めることしかできない。それがスクールアイドルになることができない私たちに課せられた宿命なのかもしれません。

 でも本当にそれだけなのか。μ'sのキャッチコピーとも言える〈みんなで叶える物語〉、このみんなに僕たちファンは入っていないのでしょうか。オタクの妄言かもしれませんが、僕は入っていると言いたい。なぜならばライブとは、ライブ会場にいる全員がライブを作り上げていると言っても過言ではないからです。ライブ冒頭のコール&レスポンスであいさつをして、ライブ中はμ'sのメンバーは全力で歌い踊る。ファンは全力でコールをしてμ'sのメンバーを応援する。そこには不思議な一体感が生まれています。(実際僕はライブ会場で隣にいた別のファンの方とライブ中に仲良くなったことがあります。)

 間違いなく主役はステージ上の九人です。これは厳然たる事実で揺らぐことはない。しかし、観客席にいる僕たちはスポットライトは当たらなくても彼女たちと共にライブを作り上げ、共にライブを楽しんでいる。僕たちも一緒にライブを行っていると言うことはおこがましいですが、その微々たる助力になっていればと願っています。そうなるとμ'sの〈みんなで叶える物語〉の〈みんな〉にはμ'sのメンバーはもちろんのこと、少しだけでも僕たちファンのことが含まれているのではないかなと考えてしまうものなのです。

 

 さてここまでラブライブ!について書いてきましたが、これはあくまでも一ファンの狂信的な意見とでも思ってください。なんてったって僕たちは「ラブライバー」ですから。

 

written by 立月

もう一度読む『竹取物語』:読者に寄り添う物語

はじめに

竹取物語』と言えば、『源氏物語』と並ぶ日本の古典である。『源氏物語』にそう書かれるように、そしてそれを遡る作品が未だ見つからないように、「日本最古の物語」として捉えられている。

果たしてその時代の人がそれを(僕たちが認識するところの)「物語」として創作し、受容していたかは定かではないが、未だに「かぐや姫」を題に冠した絵本などが見られるように、人々の心に寄り添った「物語」としての側面は否定できない。

さて、それを今更ながら、大して古典文学への造詣が深いわけでもないのに読み直し、何か考えようという試みが、意味のあるものであるかは分からないが、とりあえず、幼い頃に読んだ「ある宇宙人の物語」を思い出すつもりで、本稿を読んでいただけると嬉しい。

「けり」の話

岩波文庫版の『竹取物語』を以下では参照するが(その下となったのは「新日本古典文学大系」である)、その校注を担当する阪倉篤義氏は「解説」において、過去の助動詞「けり」が物語中盤には見られないことを指摘した。

この点について、阪倉氏は次のようにも述べている。

…この「なむ」あるいは「ぞ」という助詞は、聞き手への確かめの気持を現わすのに用いられるものであり、これに呼応する「けり」という助動詞は、いわば過去を、現在との関連において見る、説明的な陳述をふくむものである。すなわち、これらは、「解説的に物語る」叙述の態度をふくんだ様式の文であって、この様式の文が、和歌や、物語の「心話」の部分、また日記の地の文などには用いられることはほとんどなく…

ここから導き出される結論は、ほとんど一つではないかと思う。

つまり、僕たちは「いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。」という、「「解説的に物語る」叙述の態度」に誘われ、物語に〈読む〉行為を通じて参入する。

「いまは昔」の箇所に阪倉氏は次のような補注を付す。

物語や説話の冒頭に用いられる慣用的な句の一つで、平中物語・大和物語・落窪物語・今昔物語・宇治拾遺物語などにも、この形式が見える。過去のある時に自分をおいて、それを「今」と言い、「この話のときは昔なのであるが」と語りだすのであって(馬淵和夫氏説)、それが「けり」という助動詞の用法とも関連する。

つまり、この「いま」というのは、僕たちが本を読み、ページをめくる「いま」ではなく、〈語り手〉が〈語る〉とき、つまりジェラル・ジュネットがいうところの「物語行為」の時間である。

言ってみれば、「いまは昔」と言ったとき、僕たちは、それを読む現在から、〈語り手〉が〈語る〉ときへとグッと引き寄せられるのだ。

ここに三段階の時間の関係を見出すことができる。一つ目は「昔」であり、言ってみれば「物語内容」が発生したとされているとき。二つ目は「いま」であり、その内容を「物語行為」として〈語る〉とき。三つ目は、それを〈読む〉僕たち自身の現在である。

「いまは昔」によって僕たちは、三つ目の時間から、二つ目の時間へと引き寄せられ、それを今まさに〈語っている〉かのように〈読む〉のである。

さらに、ここに先ほどの「けり」にまつわる話を考え合わせてみよう。物語中盤に、過去の助動詞「けり」(それは「き+あり」に源流を持ち、伝聞過去を示すとされる)が現れないのは、二つ目の時間へと引き寄せられた読者が、さらに一つ目の時間へと、さらに引き寄せられていると考えて良いだろう。

やってくる人

〈読む〉現在から、〈語る〉「いま」へ、そして「昔」へと誘われる読者の様子は、月から地球にやってくるかぐや姫の様子と重なるようではないだろうか。

なぜかぐや姫がさぬきの造のもとにやってきたかというと、天からやってきた人が次のように語っている。

「汝、おさなき人、いさヽかなる功徳を翁つくりけるによりて、汝が助けにとて、かた時のほどとて下しヽを、そこらの年頃、そこらの金給て、身をかへたるがごと成にたり。かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賎しきをのれがもとに、しばしばおはしつる也。罪の限果てぬればかく迎ふるを、翁泣き嘆く、能はぬ事也。はや出したてまつれ」

つまり、かぐや姫が翁のもとに送り込まれたのは、翁が「いさヽかなる功徳を」「つくりける」ことによるものであった。しかし、それならば、つまり善行に応じて「ご褒美」が与えられるのであるとすれば、それがかぐや姫であるというのはおかしくないだろうか。

というのも、かぐや姫は「罪をつく」って、いわば遠流の刑の一貫で翁のもとに送り込まれたのである。刑の執行と、善行への報奨が裏表であるとは、いかにも地球人が舐められた様子であることが分かる。つまり、月の国にとって地球人に与える報奨とは、刑の一貫として女性を送り込むこと程度ということである。

いってみればかぐや姫は「宇宙人」なのであるが、それを五人の貴人、帝までもが求めたという事実は、そう考えれば滑稽である。「国外追放」の刑を受けた受刑者に、ありがたがって求婚までしたのである。

〈所有〉への欲求

その事実を認められなかったのは、翁その人であった。「自分の国から迎えがやってくるだろう」と悲壮感を漂わせるかぐや姫に、翁は次のように返す。

「こは、なでう事のたまふぞ。竹の中より見つけきこえたりしかど、菜種の大きさおはせしを、わが丈たち並ぶまで養ひたてまつりたる我子を、なに人か迎えきこえん。まさに許さんや」

彼は、かぐや姫の本当の両親がいたとしても、そんなかぐや姫を養ったのは自分であり、「我子」であるから、月の国の人々が迎えに来るなど許されない、と言うのである。

最終的に不死の薬を翁は得るが、「なにせむにか命もおしからむ。たが為にか。何事も用もなし」と、それを服用しようとはしない。

翁がかぐや姫を〈所有〉することに失敗した。もちろん求婚者たちも、かぐや姫の〈所有〉に失敗した。翁は次のようにかぐや姫に言う。

「翁、年七十に余りぬ。今日とも明日とも知らず。この世の人は、おとこは女にあふことをす、女は男にあふ事をす。その後なむ門ひろくもなり侍る。いかでか、さることなくてはおはせん」

「私はいつ死ぬとも分からない身なので、世間の人がそうするように結婚して、一族を繁栄させてくれ」と言う。現代にもたまに聞くようなセリフであるが、実際にはかぐや姫は結婚しない。

ちなみに、かぐや姫は「月の顔見るは忌むこと」と忠告されても、月をのぞきみて泣いていたりする。

地球の人々は、ついに一度たりともかぐや姫を、地球の〈規範〉に収集することさえ叶わなかったのである。

もちろんそれは、かぐや姫が地球の人=「この世の人」ではないからにほかならない。

しかし、相次ぐ圧力に屈しず、〈規範〉に従わず〈所有〉も拒絶する様子は、さながらトルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーを彷彿とさせる。

映画では、ゴライトリーはある男との〈幸せな結末〉=〈規範〉通りの結末が描かれるが、カポーティはそれに不服であったという。原作ではゴライトリーは今もその所在のつかめない〈アウトロー〉として徹底して描かれる。

おわりに

「いまは昔」、そして過去の助動詞「けり」の消失とともに、物語内容の時間に引き寄せられた読者たちは、同じような経緯をたどるかぐや姫に目を向ける。

僕たちは、かぐや姫を〈所有〉し、〈規範〉に回収しようとする試みが失敗に終わることを滑稽に思いながら、月に帰るかぐや姫を見守るしかない。同じように翁のもとへ誘われた読者とかぐや姫は、月からの来客によって突如引き裂かれ、遠ざかるかぐや姫を見つめるしかできない。

そんな読者が最後に連れて行かれるのは、富士山であった。不死の薬が捨てられたことにその源流があるという不死山=富士山は、時間を超えてそこに存在しつづける。

再び姿を見せ始める「けり」とともに、読者は今もある富士山を頼りに、〈読む〉時間に戻ってくる。この丁寧な誘導に、時代は令和であるが、感嘆せずにはいられない。

平成最後の「ラブライブ!」論

ラブライブ!」って何なのか。僕はテレビアニメは全部見たものの、それを咀嚼しかねているところがあって、とりあえず書き散らかしておこうと思います。

「物語」にはなっていない

「スクールアイドル」を目指すμ'sというグループ。それがこの物語の根幹にあるわけですが、まず最初に、このアニメは物語であって物語ではないという点を強調しておきたいと思います。

「スクールアイドル」というテーマ上、アニメ中にたくさん歌唱シーンは登場するわけです。と考えると、「物語の節々に歌唱シーンがある」というふうに捉えてしまうところなのですが、実際にはそうではない。正しくは、「歌唱シーンを繋ぐ物語(的なもの)」と表現すべきなように思われます。

その証左のように、このストーリーには、全体的にリアリティが無い。どこか夢物語のような気がする。そもそも〈みんなで叶える物語〉なわけで、リアリティの欠如した〈夢〉物語を、〈叶える〉という構造になっている。

高校の廃校を阻止するためにスクールアイドルになるという話だったわけですが、そもそも高校の廃校は直前で決まったりするものではありません。

廃校になる年に3年生になる学年が入学する前、つまり廃校の3年以上前には、既に廃校が揺らがしえないものとして規定されているのが普通です。

そういったリアリティの欠如は、それ自体「アイドル的」なような気もするわけです。というのも、「アイドル」というのは、ある種〈夢〉を売る側面があるのではないか。

例えば現実の「アイドル」のファンにしても、ファンは「アイドル」が誰とどこにいるのかは知りたいかもしれない。そこには〈夢〉があるからです。しかし、「アイドル」が何回お手洗いに立ったかは知りたくないでしょう。それはそれが〈現実〉だからです。

と考えてみると、この物語から徹底して、執拗に排除される男性というのは〈現実〉だったのではないか。アイドルを欲望する男性の影は、アイドルが性を商品化する存在であるという〈現実〉を思い出させる。だからこそ、そのきっかけたる男性自体が、排除されるのです。

そんなわけで、〈夢〉を与える「アイドル」の、そのメインステージたる歌唱シーンを繋ぐ意味で、〈夢〉物語が接続される。だからこそ、このストーリーには大きな破綻がないものの、だからといって独創性を感じるようなこともない。どこかで見た感じが付きまとうわけです。

ぶれないテーマ

一応「ラブライブ!」は1期と2期がある。そうなのですが、一応そのテーマはかなり異なっているように思われます。

1期は「スクールアイドルってなんだ」というのがテーマ。つまり、自分たちは「スクールアイドル」になろうとするのだけれど、そしてそこにはA-RISEという目標もいたのだけれど、でも何をすれば「スクールアイドル」になれるのか分からない。

結局彼女たちは、それを見よう見まねでやってみることと、仲間を増やすことで解決することになります。

仲間を増やす、最初は3人だったものが、6人に、そして9人に。それぞれの持ち味が出て、「スクールアイドル」らしくなる。そこにあるには、ある意味で「ポケットモンスター」的な、ポケモニズムとでも呼びたくなる性質が垣間見えます。

彼女たちは、果たして成長しているのだろうか。もちろん技術的には成長しているということになっているのですが、映像を見てもいまいち分からない。成長によってラブライブ優勝を目指すのではなく、むしろお互いの持ち味を極限まで活かすことによって、優勝を目指す。

反対なのが「ガールズ&パンツァー」でしょう。よりスポーツ的側面が強調されるためかもしれませんが、戦車の操縦から配置まで、かなり上達の感がある。それでも結局、西住みほの作戦頼みなところがあるのですが……。

それが2期になるとどうなるか。

1期で、「私たちはスクールアイドルだ」というアイデンティティを手に入れる。

2期は、そこで確立されたμ'sというアイデンティティを再確認することになる。つまり「何をもってしてμ'sとするのか」という定義の再確認です。

3人×3年=μ'sの問題

μ'sは9人だけれど、それは「3人×3年=μ's」という感じがする。

じゃあ、3人というのは何か意味があるのだろうか、と考えるのが自然です。

社会学者のジンメルは、「三人結合」という考え方を提唱しました。これは、3人集まると本来的な〈社会〉が始まるのだという考え方です。

だからといって、じゃあ友達が3人以上集まった瞬間、〈社会〉ができるのかと言うと嘘です。3人以上が〈社会〉を形成すると言っても、その2人の人間関係に対して、第三者的な立場に立つ3人目が登場することで、やっと本来的な〈社会〉になる。

μ'sが単に9人なのではなくて、「3人×3年=μ's」である。この点については「ラブライブ! サンシャイン!!」の渡辺曜桜内梨子のエピソードの話でもあるのですが、あまりここまででは深入りしないでおきたいと思います。

しかしこの〈社会〉というのはかなりやっかいな存在に思える。と、ここでこれ以上社会学的見解に深入りする蓄積がありませんから、その広範さを避け、少し絞ってこれを〈組織〉と読み替えたいと思います。

例えば大学にはサークルという〈組織〉がある。サークルは、スタートこそ、同じ目的をもった人々の集まりだったはずです。フットサルサークルなら、みんなフットサルが好きな人の集まりから始まったはず。けれど、その様子が徐々に変わってくる。

多くのサークルは、むしろ組織の保存・継続が逆転した目的になってしまう。フットサルサークルの例で言えば、「フットサルをやるためにサークルを維持する」のではなく、「サークルを維持するためにフットサルをする」ような逆転が起こるわけです。

僕はとある国政政党の学生局に顔を出したことがあるのですが、そこの話題と言えば、政治についての議論でもなければ、学生局として社会に貢献できる内容についてでもない。その学生局にどうやって新しい仲間を増やすかという話題でした。ここにも「学生局の主たる目的が学生局を存続させることである」という逆転が見られます。

μ'sはそうであってはいけない。「スクールアイドルになりたいからμ'sとして活動する」はずが、「μ'sを存続させるためにスクールアイドルをする」ような逆転はあってはならないわけです。

だから、三人結合によってできる各学年の小さな〈社会〉を包摂する、μ'sという大きな〈社会〉は、3年生という小さな〈社会〉を失ったあとでは、存続できず、活動を終了するしかないのです。

顔を見せる矛盾

そうなると、一つの矛盾が明らかになりはしないでしょうか。

〈社会〉=〈組織〉の存続が、その当初の目的に置き換わるようなことがあってはいけない。だからμ'sは、3年生の卒業で活動終了を選ぶ。

しかし、そもそも彼女たちの活動の目的の重要なうちの1つとは、「〈学校〉を存続させること」だったのではないか。

この矛盾を乗り越えたのが「ラブライブ! サンシャイン!!」だったのですが、深入りしないことにしていますから、しばらく「ラブライブ!」について考えてみましょう。

なぜ「〈学校〉を存続させること」が重要なのか。おそらく3つくらい意味があるんだろうと思います。

1つ目は、後輩たちに後輩ができないのが可哀想だという話です。〈社会〉=〈組織〉=〈学校〉というのは──実は〈国家〉もそうなのですが──一応、永遠に続くということになっている。

例えば、貨幣がそうです。岩井克人の言っていたことですが、貨幣というのは、いつか使えるという感覚が支えている。例えば、あなたに100万円をあげる、と言われても、その次の日に地球が滅びる予定であれば、意味が無いということになる。使えないからです。

しかし、そう考えるとかなりおかしい。世界最後の日の前日には、既に貨幣は価値を失う。そう考えると、その前の日にも貨幣の価値は危うい。当然、さらにその前の日も。こうやって数学的帰納法的に考えていけば、貨幣の価値というのは認められなくなる。

それでも私たちが貨幣を信じるのは、一応世界が永遠に続くということを仮定しているからです。

その連続が断絶するというのは、何か危ういことな気がする、という感覚は、実は間違っていないのです。

2つ目は、こんなに良い高校なのに入る機会を失ってしまう未来世代が可哀想だという話です。

これはかなりお節介なお話です。どの高校であれ、その高校が良い高校であると思う人はいる。だから、「この高校は良い高校なのに!」と廃校に反対するのは、結局かなり危うい。

3つ目は、居場所がなくなるという感覚でしょうか。

実はこれはかなり不思議で、学校というのは教育機関ですから、教育が修了したからには、その学校とはもう無関係ということでいいでしょう。

それでも、多くの人は感慨を覚える。それは教育機関である以上に、そこが〈生活〉と化していたので、その残り香を求めているのかもしれません。

実は大切なのは3つ目だろうと思います。

つまり、〈学校〉が無くなるから存続させなくてはならないという感覚と、〈社会〉=〈組織〉の存続が目的化してしまって、当初の目的が空洞化する感覚。その両方が並立するこの物語は、結構不思議です。

ということで、僕はこの点を欠点として指摘しておきたい。

この物語は、その矛盾を、ラブライブという大きな目的にすり替えてごまかしているのだけれど、彼女たちのμ's解散には一貫性が無い。あえて強い言葉を選ぶとすると、自分勝手であると言ってもいい。

しかし、その自分勝手=〈夢〉が実現されるのがこの物語であり、私たちはステージで展開される〈夢〉=〈みんなで叶える物語〉を鑑賞することしかできないのです。

 

written by 虎太郎

【アニメ評】「ケムリクサ」~何故EDを初音ミクが歌うのか~

 

 

2019年冬アニメ「ケムリクサ」のEDについて考察していきます。

kemurikusa.com

 

スタッフクレジットの意味

3~11話のEDのスタッフクレジットでは、

エンディングテーマ

「INDETERMINATE UNIVERSE

作詞・作曲・編曲:ゆうゆ

ゆうゆfeat.ケムリクサ

 上記のように「ケムリクサ」が歌っていることになっているのですが、実際に歌っているのは明らかに「初音ミク」です。ケムリクサがどういうものかを考える上では、かなり意味深なスタッフクレジットです。

(「ゆうゆ」は『桜の季節』や『深海少女』などで根強い人気を誇っているボカロPです。沢山良い曲をニコニコ動画等にあげているので、是非チェックしてみてください)

 

 最終話(12話)では、EDのスタッフクレジットが変わります。

エンディングテーマ

「INDETERMINATE UNIVERSE

作詞・作曲・編曲:ゆうゆ

ゆうゆfeat.ケムリクサ

りん(CV.小松未可子) りつ(CV.清都ありさ) りな(CV.鷲見友美ジュンナ)

 名前が追加され、前半は「初音ミク」が歌っているのですが、サビから「りん、りつ、りな」の声優が歌っているものに変わります。

 

 ケムリクサ製作陣が、ED曲の「歌い手」を誰にするかで、何らかのメッセージを込めていると考えられます。

 

アイデンティティ問題/初音ミクの匿名性

歌詞からストーリーを拾い上げながら考察していきたいと思います。

 (以下ネタバレ注意です)

赤い赤いその血潮に浮かび上がる

人とヒトならざる者達の不協和音 いま夜明け前

 「人」と「ヒトならざる者」というのが印象的な言葉です。

 

 わたしは、たつき監督の前作「けものフレンズ」のイメージが強く残っていたのもあって、記憶喪失の主人公「わかば」が「人間」で、姉妹たち(りん、りつ、りなetc)が「ヒトならざる者」だというように安易に思い込んでいました。

 

 「フレンズ」と呼ばれる動物たちと「人間」の旅を描いた『けものフレンズ』と同様に、「ヒトならざる者(姉妹)」と「人間(わかば)」の旅から、人間の本質を語ろうとしているのだと勘違いしてしまいました。

 

 しかし、11話で明らかになった衝撃の事実は「わかば」の前世(?)は「ワカバ」であって、彼は「地球人」ではないということ。彼は、地球の文化財保全しようとしている、どうやら「宇宙人」であり、一方で姉妹たちは、地球人の一人の少女が「ワカバ」を助けるために「ケムリクサ」――ヒトならざる者に自らなった存在だということです。

(「わかば」がどのような存在なのかは物語上では明示されていませんが、「ワカバ」がミドリによって転写された存在という説が正しいとすると「わかば」もケムリクサ的存在なのかもしれません)

 

 それを踏まえると「ケムリクサ」という存在の声を、「初音ミク」に託した理由が分かってきます。

 

 「初音ミク」が歌うことでもたらされる効果として「匿名性」があります。代替不可能な人間歌手に依存しないことで、「誰の、誰に対する歌」なのかが覆い隠されます。そして同時に匿名性をもっているからこそ、視聴者に「誰の歌なのか?」という疑問を必然的に抱かせることになります。(詳しくは「ボカロ考察会」の記事を見て下さい)

 

 実際、その「匿名性」があったからこそ、ED曲「INDETERMINATE UNIVERSE」の歌詞に込められた意味は、物語終盤まで確定できず、物語の「謎めいた雰囲気」を維持することに貢献しました。

もう一度あの日の景色 横顔

届かない隣でキミがいつも通り笑う

 「キミ」が誰なのかはずっと謎でしたが、11話でようやく判明しました。ケムリクサは実質「ワカバ」と「りり」の二人の物語であるので、「ワカバ」にとっては「りり」、「りり」にとっては「ワカバ」が「キミ」なのでしょう。

 ただし、最終話のEDで「ケムリクサ」として「りん、りつ、りな」が歌っていることを重視すると、どうやら「りり(姉妹)」から「ワカバ(わかば)」への言葉と考えるほうが近いように思えます。

 

 ここであっさりと「りり」と「姉妹」を繋いでしまいましたが、「りり」と「姉妹たち」を同一視して良いのか、という問題がこの物語には存在します。(同様の問題は「ワカバ」と「わかば」の間にも立ち上がりますが、先述のように「わかば」の立ち位置は厳密なところでは明らかにされていないのでここではスルーしたいと思います。)

 

 まず、主ヒロインの「りん」と「りり」のアイデンティティ問題を考える上で、重要なシーンがあるので、引用します。

りん「この葉のせいで顔が熱くなるのだと。前は外に出すと少しマシになっていたのだが」  (11話)

 以前は「記憶の葉」の「りりの記憶」が「ワカバ」のコピー的存在(?)である「わかば」に反応して顔が熱くなっていたのだが、11話段階では「記憶の葉」に関係なく、顔が熱くなる。

 

 つまり「りりの記憶」とは関係なく、「りん」自身が「わかば」のことを好きになったと示す場面だと解釈することが出来ます。

 

 また、りんと「他の姉妹」も同じ存在だと見るわけにはいきません。

 

 姉妹は、それぞれの個性がしっかりと確立されています。姉妹たちには五感(=能力)が振り分けられているということもありますが、最初からアイデンティティは確立されていたというよりは、長い旅の中を経て、それぞれが代替不可能な存在になっていったという風に考えるのが自然なような気がします。

 

わかば」への気持ちに関しては、

りく 「これがりんの大事ねぇ。どっこがいいんだかなぁ」

りょく「全くじゃん」

 12話での、裏姉妹二人の発言からも、りん以外の姉妹は「わかば」に特に恋愛感情を抱いていないことが分かります。

 

 物語の焦点である「わかば」への想いに限定しても「りり」と「りん」そして「他の姉妹」を同一視するわけにはいかないことが分析できます。

 

 しかし、「さいしょの人(りり)」が、ケムリクサで分裂したのが「6姉妹」で、「りり」の性質が各姉妹に振り分けられていることを考えると、「6姉妹」と「りり」を連続した存在だと大きな視点からみることはできるでしょう。

 

 上記のように、「りり/りん/姉妹」の絶妙なアイデンティティ問題を振り返ると「feat.ケムリクサ」という表現は「これしかない」というものだと感じます。

 

初音ミクの声質

 人間の声に比べると、初音ミクの声は「感情のない無機質な声」だとしばしば表現されます。「感情のない無機質な声」だからこそ、強いメッセージ性を込めることに成功している楽曲もあるのですが(詳しくは別記事「ボカロ座談会」へ)、このED演出においては「ヒトならざる者」の想いを「ヒトならざる」機械の声に託しているのではないかと考えられます。

 

 改めて、最終話(12話)の初音ミクと声優(りん、りな、りつ)の歌声の切り替わりのタイミングを確認すると、歌詞の内容と結びついていることが分かります。

(初音ミク)

赤い赤いその血潮に浮かび上がる

人とヒトとならざる者達の不協和音 いま夜明け前

もう一度あの日の景色 横顔

届かない隣 でキミがいつも通り笑う

 

(以下、声優)

ボクらは願い、夢を繋いだ

見えない霧の中で

なのに世界は嘘だらけ 決意揺らいで

キミが残した優しい歌を

見失わないように どうか明日も

 初音ミクが歌っている前半部分は「りり」が「ワカバ」のことを助けるために「ケムリクサ」となる場面のことが、声優が歌う後半部分は「りり」が「姉妹」となって「わかば」と旅する部分が、重点的に描かれています。

ボクらは願い、夢を繋いだ

 「ボクら」は「ワカバ」と「りり」の二人を示しており、「再会すること」を願ったということだと思います。

見えない霧の中で

「見えない霧」というのは、アカギリを暗示しています。ただし、この歌詞では「未来が見えない」という拡張した意味も込められているのでしょう。

なのに世界は嘘だらけ 決意揺らいで

 厳しい世界の中で「再会する」という決意は揺らぎます。実際、りりは、ワカバと再会することを一度諦めて、橙のケムリクサの記述(「ワカバを助ける」という目的を書いたところ)を自分で塗りつぶしています。

キミが残した優しい歌を

見失わないように どうか明日も

「キミ」というのは「ワカバ」と「りり」のお互いを示していると先述しましたが、歌い手を考慮にいれると、「ワカバ」の「優しさ」と読みとるのが歌声のイメージに合うと思います。

 

 以上のように、歌詞の構成をみると、物語終盤で明らかになるケムリクサの世界観と合致します。

 

 「ヒトならざる者」(機械)の「匿名化」された「無機質で」「代替可能な」歌声から、「人である」「特定の声優」の「感情の込められた」「代替不可能な」歌声への変化は、物語の進展とともに、互いが「かけがえのない存在」となっていく登場人物たちの感情の共鳴、高まり合いと重なります。

 

ストーリーと連動するEDの「視覚上の変化」も話題になりましたが、「歌声の変化」も物語終盤の盛り上がりを演出する上では必須だったのだと思います。

 

 「ボカロ」はオワコンといった言説もありますが、今回のように「初音ミク」の声で、物語とあった「謎めいた雰囲気」をEDまで視聴者にしっかりと抱かせ、最終話での歌声の変化によって視聴者の感情までも揺さぶるという演出は「初音ミク」を使うことによって初めて生まれるものです。

 

 『ケムリクサ』は、物語のプロットそのものも当然素晴らしいですが、こういった演出面での挑戦、こだわりが視聴者を惹きつけてやまなかったのだと思います。

 

 

Written by (緑のケムリクサで身体の不調を治したい)踊るサバ

 

歌詞引用元:「UtaTen」

【映画評】「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__」

映画「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__」における風刺的側面についての一考察

はじめに

さて、劇場版3部作の第3作である。とは言うものの、公開初日3期の制作が発表されたので、その中継ぎとしての意味合いもある。第1作、並びに第2作については、既に記事を投稿している。そこで「PSYCHO-PASS サイコパス」シリーズのシビュラシステムについての概説は行っているので、そちらを参照されたい。

theyakutatas.hatenablog.com

以上2つの記事では、特にそれぞれの作品の元ネタと考えられる具体的な事件・問題を取り上げている。今回は、まずそうした点に入る前に、表題の元ネタである菊池寛恩讐の彼方に」に触れたい。

菊池寛恩讐の彼方に

この小説は、市九郎が主人・三郎兵衛を殺してしまうところから始まる。理由は彼が三郎兵衛の愛妾・お弓と通じたためだが、勢いで主人を殺してしまった市九郎とお弓はともに逃げることになる。

美人局から強盗にまで身を落としたものの、突如罪悪感にさいなまれ、お弓の元を離れ出家。了海という名を得る。

了海の罪悪感はなかなか晴れないが、そんななかある交通の難所の話を聞く。その難所を取り除くため、巨岩を鎚で穿ちはじめる。一人の力ではなかなか作業が進まない。住民たちもその徒労を嘲笑うが、徐々にその事業に実現の可能性を見ると、石工を雇って作業を手伝う。そのこともあって、巨岩の貫通が見えてきた。

三郎兵衛の子・実之助は、自らの父を殺した仇を探し、了海にたどり着く。了海を殺そうとするも、巨岩貫通を目前にした石工や住民たちは、その実之助を思いとどまらせようとする。了海は甘んじて殺されようとするも、「巨岩を貫通させた後ならば殺しても良い」ということで住民などとも合意を得る。

いち早く仇討ちを果たそうと、巨岩を穿つ作業を手伝う実之助。しかし、本当に道が貫通したとき、実之助には仇を討とうという意思は無かった。

マッチポンプ

この小説の内容が作品にどのように反映されているかについては後述するとして、まずは本作のあらすじを確認しておきたい。

2116年に起きた東南アジア連合・SEAUnでの事件後、狡噛慎也は放浪の旅を続けていた。

南アジアの小国で、狡噛は武装ゲリラに襲われている難民を乗せたバスを救う。

その中には、テンジンと名乗るひとりの少女がいた。

かたき討ちのために戦い方を学びたいと狡噛に懇願するテンジン。

出口のない世界の縁辺で、復讐を望む少女と復讐を終えた男が見届ける、この世界の様相とは…。

STORY|PSYCHO-PASS Sinners of the System

作品の舞台は南アジアの小国チベット・ヒマラヤ同盟王国。名前から分かるとおり、その大きな下敷きにはチベット問題があると考えていいだろう。

チベット問題は、チベットに対する中華人民共和国の支配・統治にともなって生じる各種の問題である。 中華民国中共チベット自治区チベット地域および西康省として領土主張をしている。 中共政権による統制により事実上、チベット自治区では独立運動は不可能である。

チベット問題 - Wikipedia

近年ますます混迷を深めているこの問題では、中国共産党が「再教育」をチベット民族に施しているとの情報もある。

インドのメディア、プリント(The Print)2月12日付によると、衛星写真分析の専門家ヴィナヤク・バット(Vinayak Bhat)氏が、チベット自治区で3つの「再教育施設」を発見したという。

20年間衛星写真を解析する経歴をもつ同氏によると、3つのうちの1つは甘孜自治州にあり、人目を避けるために都市部から遠く離れた僻地に建設されている。当局にとって「監視活動をしやすい造り」になっているという。

現在、チベットでは寺院の改修が行われており、「漢民族の建物」のように作り直されているという。これらの寺院は再教育施設として利用されると同紙は指摘した。

チベットに再教育施設 衛星写真で3つ発見=インド専門家

このあたりには確かに問題が山積している。例えば、ウイグル人にも似たようなことが行われている。

中国西部の新疆ウイグル自治区は9日、イスラム教を信仰するウイグル人向けの「職業訓練施設」を法制化した。同自治区では、大勢のウイグル人の行方が分からなくなっており、国際的な懸念が広がっている。

中国、ウイグル人「再教育」を法制化 - BBCニュース

中国のイスラム教徒については、イスラム教の教義が「中国化」させられるという問題もあるが、ここでは詳述しない。(イスラム教を「中国化」、5カ年計画 共産党の指導徹底 - 産経ニュース

物語中では、アルプス・ヒマラヤ同盟王国の3陣営の争いが、「停戦監視団」によって調停される様子が描かれる。

アニメ「機動戦士ガンダム00」で、私設武装組織ソレスタルビーイングが武力介入によって戦争を強制的にやめさせようとした様子を彷彿とさせるが、作中ではそれが「停戦監視団」のマッチポンプであったことが明らかにされる。

つまり、自らで火を点け(マッチ)、自らで消す(ポンプ)のをずっと繰り返していると言うのだ。

この点を鑑みれば、むしろ思い出されるのは別の内容である。例えば、ロヒンギャ問題だ。

 仏教徒が9割近いミャンマーで少数派のイスラム教徒であるロヒンギャは西部ラカイン州を中心に約100万人が暮らすとされる。隣国バングラデシュ南東部の方言に似た言語を話すことや宗教から、ミャンマー政府や国民は「バングラデシュ移民」とみなし、多くは国籍を持てないなど差別されてきた。1990年代にも当局の迫害を受けて25万人以上が難民になった。

ロヒンギャ問題(ロヒンギャモンダイ)とは - コトバンク

 しかし、この問題の元凶はイギリスと日本にあるとの見方も多い。

日本もまた、この問題に無縁ではない。ビルマ現代史を研究する上智大学教授の根本敬は「彼らが住むラカイン州北西部でイスラムと仏教の感情的対立を増幅させたのは、太平洋戦争中の日本と英国の代理戦争だった」と指摘する。

英国のビルマ進出に伴いバングラデシュから多くのイスラム教徒が流入。一方で、日本は陸軍の組織「南機関」が、スーチーの父アウンサンら仏教徒主体のビルマ人を支援して英国からの独立を促した。ラカイン州では日本が仏教徒を防衛に使い、イギリスはムスリムを組織して奪還作戦を展開。モスクと僧院を破壊しあうことになった。「その感情の対立が、戦後になって固定化されていった」というのだ。

ロヒンギャはなぜ迫害されるのか 日本も無関係ではないその背景:朝日新聞GLOBE+

しかし、そんな中「イギリスを含めた」国際社会は、むしろミャンマーの「民主化」リーダーとされたアウン・サン・スーチー氏を批判する流れにある。(ロヒンギャの人々が「日本に感謝」する理由 それでも「他人事」? - withnews(ウィズニュース)

やはりシリアか

ここにマッチポンプの源流が見いだせないではない。しかしやはり影響があるのはシリア内戦ではないか。このことは「Case.2」でも指摘した。

その一つに、チベット・ヒマラヤ同盟王国内で対立していたのが、3つの勢力であることからも読み取れる。実際、シリア国内では、アサド政権軍・反政府軍イスラム国が長らく3すくみの戦いを続けてきていた。それが昨年、一応の停戦合意を見た。しかしそれは現在有名無実化されている。

民間防衛隊筋の情報によると、政権軍は、「イドリブ緊張緩和地帯」に向け、今年の始めから今も空と陸から攻撃を実施しており、それにより少なくとも民間人75人が死亡し、民間人265人以上が負傷した。

政権軍は、イドリブにおける停戦を強化するためにトルコ・ロシア間で締結されたソチ合意を無視して攻撃を続行した。

反体制派軍は、2018年9月17日に締結されたこの合意に含まれる地域から、2018年10月10日に重火器を撤収した。

【シリア】 政権軍がイドリブ緊張緩和地帯を攻撃 | TRT 日本語

 ほとんどシリア情勢は、アサド政権を支援するロシアと、反政府軍を支援するアメリカや欧米の代理戦争の様相を呈していたが、そこのイスラム国という共通の敵ができたことで、両者間の争いは一応の停戦を見た。

それが、イスラム国の急激な弱体化とともに、アサド政権軍と反政府軍の対立が露見してきた。さらにそこにクルド人武装組織の存在やトルコの思惑も絡み合って、複雑さを極めている。

しかしその元凶とはそもそもヨーロッパなのではないか。それは、イスラム国がサイクス・ピコ協定以前のオスマントルコを取り戻すことを掲げていることからも分かる。

オスマン帝国を倒したあとに、アラブ人の住む地域を山分けにしようという談合です。エジプトはすでにイギリスが押さえていたので、そのほかのアラブ人居住地を、英・仏が勝手に線を引き、分割しました。

具体的には、シリアとレバノンはフランスが取り、その南側のヨルダンとイラクはイギリスが取る。そして、ヨルダンの地中海側のパレスチナには、あとでヨーロッパからユダヤ人を送り込む。これをアラブ人には内緒で決めてしまったのです。

これをサイクス・ピコ協定というのですが、イギリスの目的は、当時のイギリスにとって最も重要な植民地であったインドへのルートを確保することにありました。イギリスからインドに商品を輸出したり、万一反乱が起きたときに鎮圧するために、インドへと通じる道が必要だったのです。

イスラム国は「間違った外交」から始まった | アジア諸国 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

結局、中東に自分勝手な国境を引いたツケが巡り巡って今やってきているのではないか、ということだ。

恩讐の彼方に

先ほどの小説に戻ろう。菊池寛恩讐の彼方に」である。

自らの罪悪感から巨岩を穿つ了海の姿は、狡噛慎也と重なる。彼もまた復讐を果たし、行くあてのない旅の途上だからである。

そこに登場するテンジンという少女は、自らの父を残忍に殺した犯人への復讐を誓うも、やはり復讐はできない。その姿は実之助と重なる。

恩讐の彼方には何があったのか。狡噛慎也が懸命に穿つ巨岩とは、本作において何なのか。おそらくそれは「シビュラシステム」であり、「平和」ということなのだろう。

そこには彼の罪悪感が原動力として働くが、それに不純な動機であれ力を貸すことになる実之助=テンジンの姿も忘れがたい。

3期に何を期待するか

この3部作を通して、おそらく外務省がシビュラシステムの根幹を揺るがすような策謀を巡らせているらしいことが明らかになった。おそらく3期ではそこが描かれるのだろう。

僕はむしろ「シビュラシステム」が必ずしも批判されるだけの制度ではない点にこそ、注目したい。

中国で社会信用システムが稼働を始めていることをみても、我々の社会は当然の帰結として、「シビュラシステム」に到達するはずだ。

では私たちはその当然の帰結の、一体何を批判するべきなのか。

それについての真摯な思考が3期に垣間見られることを祈っている。

 

written by 虎太郎

【芸術評】クリスチャン・ボルタンスキー -Lifetime (大阪・国立国際美術館)

はじめに

2019年2月から5月にかけて国立国際美術館でクリスチャン・ボルタンスキーの回顧展(以下、ボルタンスキー展)が開催されている。これから本展覧会は東京と長崎にも巡回する予定だが、本記事で扱うのは大阪会場のみである。

www.nmao.go.jp


本展覧会は副題に"Lifetime"とある通り、これまでのボルタンスキーの軌跡をたどるというのが本展覧会の目的だ。たどる、といっても、必ずしも制作年代順に作品が展示されているわけではなく、バラバラに配置されている。ボルタンスキー本人が実際に現地を訪れて展示の構成を調整したという。

さて、ボルタンスキー展の内容に入る前に、まずクリスチャン・ボルタンスキーというアーティストがどのような人物であるかを明らかにしておこう。

クリスチャン・ボルタンスキーというアーティスト

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CHRISTIAN BOLTANSKI, Portrait at Espace Louis Vuitton Munchen, 2017

彼は世界大戦終結直前の1944年パリの生まれで、一般にフランスを代表する現代アーティストとして知られている。しかし、ボルタンスキーという姓からも察せる通り、ルーツはフランス系ではなくユダヤ系である。それゆえに、ユダヤ系の人々に関わる機会も多い幼少期を過ごしたという。むやみに作家の個人史を参照して作品を鑑賞する態度は避けられるべきかもしれないが、彼の作品には特定の民族に焦点を当てたものも多いため、この点には注意しておいても良いだろう。
また、彼は、特に美術学校に通ったという経歴がないどころか、普通学校にも通ったことがほとんどないと語っている。それにもかかわらず、母親が画廊を経営するなどしていたこともあり、20代の頃にはアーティストとして生きていく事を決めていたという。そうして1968年には絵画をやめ、1960年代後半から短編フィルムを発表し始めたボルタンスキーは、その後も写真やビデオ、ビスケットの缶や電球などの身近な生活用品を用いた作品を意欲的に発表し続け、現在に至る。

以上が彼の主な経歴である。(参考:『現代アート事典』)

彼の作品に欠かせないキーワードは、歴史や記憶、人間の生と死だ。本展覧会でも、こうした彼のテーマが実に巧みな仕方で浮かび上がっていたといえる。
 

それでは、ボルタンスキーの旅に「出発」しよう。

始まり、光

展覧会のオープニングを飾るのは、《出発》と題された作品である。青色のLED 電球で"DEPART"の文字が浮かび上がる。
本展エンディングの《到着》(2015年、こちらは赤色のLEDで"ARRIVEE"の文字を形作ったもの。)と対になっており、展覧会全体でボルタンスキーの生涯(まだご存命ではあるのだが)を振り返るにはふさわしいと言える。
まるで街中の広告のように色鮮やかできらびやかで、美しい。しかし、同時に粗雑な印象も受ける。それは、電気コードがむき出しのままであることに起因しているだろう。

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《DEPART》/《ARRIVEE》(写真は2016年に海外で展示されたもの。青と赤の配色は国立国際美術館のものと逆である。)

この二作品は、人生には始まりと終わりがあるというボルタンスキーの哲学を物語っている。
赤と青の電球が頻繁に用いられるのは、動脈と静脈を表しているようにも見える。ボルタンスキーの作品は一見するとクリーンなのによく見てみると生々しさが表れているといった場合が多いが、これもその一つだろう。

《出発》の文字に出会うとき、同時に私たちの耳に届くのは大きな《心臓音》(2005)だ。
電球の明滅が心臓の鼓動に合わせて繰り広げられる。
この心臓音は、豊島の《心臓音のアーカイブ》(2010)*1から提供された「誰か」の心臓音である。電球の光だけが灯る暗闇の空間で大きな音が鳴り響くことで、鑑賞者は「誰か」がそこにいるかのような不気味さと、「誰か」の生に立ち会っているような微妙な温もりを感じる。

「かつてそこにあった」—礼拝的価値

「誰か」の生と死がそこに「ある」こと、またそこに「あった」こと、というのはボルタンスキーの作品に一貫したメッセージであろう。
それが顕著なのが、「顔」を素材にした作品群だ。

ボルタンスキーの名を轟かせた最も有名な作品といえば、80年代の《モニュメント》と名付けられた連作であるが、そこに用いられるのは人間の顔写真である。

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《モニュメント》(1986)

《モニュメント》では、無名の子供達の顔写真がまるで遺影のように飾られ、ロウソクのように仄かな電球がそれを照らす。
身近なもので作られているのにも関わらず、それはどこか厳かであり、宗教的な雰囲気すら感じさせる。
このような作品では、写真が「誰か」であることが重要だろう。特定の役職を持った権威者や有名人だけを取り上げる(アンディ・ウォーホルの有名な《マリリン》等はその顕著な例だろう)のでは、彼の意図は叶えられない。ボルタンスキーは「誰か」の一生が、無くなってしまった瞬間、世界からその存在が忘れられてしまうことへの抵抗だとして、記録をし続けることの重要性を語っている。もちろん、そんな膨大な情報すべてを自分一人の力で書き留めておくことはできないし、忘却に負けてしまうことも十分に理解した上で、こうした作品を作り続けているのだ、と彼は語る。
そんな彼の試みは、アウシュビッツの記憶、また日本であれば原爆の犠牲者や大震災の犠牲者の記憶を留めておくという記念館の姿勢にも似ている。ただ、そうした記念館と彼の相違点は、何か負の歴史の犠牲者になっていようともいなくとも、犯罪者さえも、すべての人間を同等に扱うところだといえる。

ここで、《死んだスイス人の資料》を見てみよう。

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《Archives des Suisses morts (死んだスイス人の資料)》(1990)

この作品は、金属製の箱で壁を作ったものである。
箱の前面にはボルタンスキーが『ヴァレ通信』の死亡告知欄から切り取ったスイス人の写真が貼られている。
この金属製の箱はもともとはビスケット缶で、ボルタンスキーにとってはミニマリズム的オブジェであると同時に骨壷を連想させるものである。(本展配布冊子より抜粋)

この作品の題材には、「スイス人」、すなわち永世中立国の住民が選ばれた。この理由は彼らが、ユダヤ人のように「死ななければならない歴史的な理由」を持たない国民だからであるという。彼は全ての死者を等価に扱う。

長谷川祐子は、著作『女の子のための現代アート入門』において、ウォーホルの反復するイメージと対照的に「顔」を描き出した作品としてボルタンスキーを挙げている。

彼は、生のなかに積み重ねられる日々の死を記憶のメタファとみた。写真はそこに写されているものの「不在」を強く感じさせる。彼は記憶の保存箱、また記念碑(モニュメント)をつくろうとした。(中略) 写真の発明によって、死はそのアウラを失い卑俗なものになってしまったとベンヤミンは語ったが、ボルタンスキーはこれに抵抗する。すべてひとりひとり異なる生と死があり、それは礼拝される価値をもった記念碑になりうると。

写真が「かつてあった」(It had been / It was)ということを示すというこの指摘は明らかに、バルトの『明るい部屋』での記述に依拠したものだろう。

絵画や言説における模倣とは違って、「写真」の場合は事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。
ロラン・バルト『明るい部屋』、94頁


さらにバルトは、写真映像一般について、「触れる」ものとしての特性も指摘する。

写真とは文字通り指向対象(=すなわち被写体のこと)から発出したものである。
そこに実在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。
同上、100頁

ボルタンスキーの主題、「誰でもない誰か」は確実に「かつてそこにあった」。
その「誰か」は鑑賞者である「私」に時を超えて触れにやって来る。
このことが、先に述べた心臓音や用いられる色といった物質的な問題以上に、ボルタンスキーの作品が生々しさを伴う要因とも言えるだろう。

「かつてそこにあった」ことを表現している作品としては、顔写真の連作のほか、衣服を並べた作品群もこれに当たる。

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《Le Manteau (コート)》(2000)

大量の衣服を集積させた作品、壁に大量の衣服を縫い付けた作品、一つのジャケットを吊り下げ、周りにライトをつけた作品(上写真《コート》参照。)などである。
これもまた、いま現在は誰にも着られていないけれど、それを着ていた誰かを想起させるまでに古ぼけた服の集まっているのを見ると、何か霊的なものを感じさせる。

この意味で、ボルタンスキーの作品の多くは、遺影や遺品とも呼べるだろう。

以上のように、彼の作品の原点は、忘れられる儚い存在といったものへの異常なまでの執着心なのである。


ボルタンスキーは、芸術の目的とは「トラウマを表現する事」であると語っている。この主張は、他のアーティストを例にとってみても当てはまるかもしれない。例えば、マイク・ケリーにとっては、それは「スクール」だった。(下記事を参照)
theyakutatas.hatenablog.com
またポップ・アーティストのアンディ・ウォーホルにとっては、それは大衆文化や消費文化であったかもしれない。(もっとも、彼自身は自らのアトリエを「ファクトリー」と名付けた上に「僕は機械になりたい」などと発言しているのであるが。)

彼のトラウマは、言うまでもなく大量の死者の存在、より具体的にはナチス・ドイツによるユダヤ人の大虐殺とその犠牲者のイメージであろう。
写真映像というメディウムが持つ、「死のイメージ」によって彼は自らのアイデンティティであるユダヤ人としての歴史的位置に自らの作品を帰着させるのだ。

ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術』において芸術作品には礼拝的価値と展示価値とがあると述べた*2が、ボルタンスキーの祭壇のような作品はまさに「礼拝」の対象となる。
しかしその礼拝は、「美の礼拝」ではなく、依然として本来的な意味での礼拝なのである。

次世代へ—「神話的価値」の創造

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《Animates-Chili (アニミタス チリ)》(2014)

忘れられてしまうものへの固執をまるで祭壇のような設えで表現し続けてきたボルタンスキーだが、高齢になった近年には、自らの作品を神話化することに関心を高めているようである。本展覧会でも、大きく空間を使って2017年以降のビデオ作品が展示されていたことから、神話的作品を強調したいというアーティスト本人の意志がうかがえる。

例えば上の《アニミタス》はチリのアタカマ砂漠にて撮影されたビデオ作品だ。細長い棒に取り付けられた数百の風鈴を使って、ボルタンスキーが生まれた日の夜の星座を再現している。さらに、《ミステリオス》では、南米のパタゴニアにおけるクジラ信仰をテーマにラッパ状のオブジェを作り、クジラとコミュニケーションをとることを目指す試みが行われた。

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《Misterios (ミステリオス)》(2017)

こんな奇妙な作品を制作していた作家がいたことをどこかに刻みたい、そうした欲求をボルタンスキーはゆかりのない土地に赴き、叶えようとする。
《アニミタス》はおそらくもう跡形もなく消え去っているだろうし、《ミステリオス》に関しても、オブジェは残ったとしても風化していく一方だろう。けれども、ビデオ作品にすることで、その記録は半永久的に残るのだ。

以上のように、ボルタンスキーの作品はおおよそ、光、「そこにあった」こと、神話の三要素に集約することができるだろう。

本展覧会の最後を飾るのも、(先に述べたように)電球で書かれたARRIVEEの文字(《到着》)である。そして、それにたどり着くまでの狭い通路には、何人かの大きな子供の顔写真が傷をつけられた状態で展示してある。彼によれば、これらの作品は近年報道されることが増えたように思う児童虐待のニュースへの目配せだという。
「美術館は何かについて考えるための場所であってほしい」というのが彼のかねてからの願いであった。このとき美術館は、ボルタンスキー個人どころか欧米のトラウマと言ってもいい悲劇、ホロコーストについて考える場であり、またボルタンスキーの神話的な姿について考える場であり、さらには社会問題について考える場としても機能するのだ。

おわりに—「アーカイヴ」の視点から考える

ウォーホルが、何度も印刷され反復されるイメージに対して空虚さを感じていたのに対し、ボルタンスキーは違った切り口から情報化社会を見ている。
写真映像の発明・普及以前は、肖像画に描かれた人間の存在しか、または歴史書に書かれた人間の存在しか残らなかった。
それが、今では私たちは、何もかもを残すことができるようになった。誰でもない民衆の姿も、いちアーティストの一回限りの作品も。だから、アウラが損なわれてしまったことを嘆くのではなく、無名の生も、存在も忘れないような行いをすべきなのだ—これがボルタンスキーの徹底した姿勢であろう。
ボルタンスキーは作品を通じて、アーカイヴ作成を行っているとも見れるのではないだろうかと筆者は思う。
近年話題になっているワード、「アーカイヴ」。各国は競うように資料(史料)のデジタルアーカイヴを作成し、何もかもをデータとして収蔵、いつでも誰でもがアクセスできるようにする。
芸術作品についても、あらゆる社会問題に関するニュースについても、自然災害について考える時にも、記録の問題は常に重要なトピックの一つであるが、その是非は、こうした「複製技術時代の芸術作品」を通して問われるべきなのかもしれない。

written by 葵の下

*1:瀬戸内海に浮かぶ香川県の島、豊島では、2008年より心臓音を収集するプロジェクトをボルタンスキーの作品の一部として展開している。《心臓音のアーカイブ》では、これまで彼が集めた世界中の人々の心臓音を恒久的に保存し、それらの心臓音を聴くことができる。来場者は自分の心臓音をここで採録することもできるという。(出典:心臓音のアーカイブ | アート | ベネッセアートサイト直島)

*2:礼拝的価値を伴って作品を見るとは、作品に距離を置いて瞑想的に作品に没入するという態度のことである。ここでいう「礼拝」とは従来の宗教的儀式に似た「美の礼拝」である。対して、展示的価値を伴って作品を見るとは、距離を置かずに、店先で商品を見るときのように作品を鑑賞する態度のこと。ここで注意すべきは、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術」がアウラを失ったために礼拝的価値がないと主張しているのではなく、礼拝的価値、展示的価値は流動的で、一方を持つはずだった作品が他方に変容する可能性も残しているという点だろう。

【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑹

theyakutatas.hatenablog.com

目を醒ませ

目を醒ましたグリッドマン或いは響裕太

本作は、響裕太の「覚・醒」とともに幕を開ける。その時点で彼には過去の記憶がないが、それは彼のなかにグリッドマンが宿っているからである。つまり彼は、本来の人格のうえにグリッドマンの人格が上塗りされ、その状態でさらにそのことを忘れているという状況から物語が始まる。

そんな響裕太のグリッドマンとしての本性が現れるのは、コンピューターの内部のみである。そんな彼が、前述したとおり、「戦う」ということによって拡散した継続性というアイデンティティを取り戻そうとしたのは必然と言える。「戦う」間、グリッドマンでいる間、本来の人格を取り戻していると言えるからだ。

こうした特撮の「戦う」というエゴイズムについては、仮面ライダーについて分析する中で詳しく見たい。そうした特撮ヒーローのエゴイズムは、本作品においてもやはり典型的に示されているのである。

目を醒ました新条アカネ

本作第1話は「覚・醒」であり、最終話は「覚醒」である。最終話直前の第11話までは例外なく二字熟語の中央に中黒(・)が打たれている。これはどういうことなのだろうか。

この中黒が断絶するものとは、「同盟」を破棄した状態の新条アカネと、グリッドマン同盟の関係を示しているのではないか。

新条アカネとグリッドマン同盟の各人は関係が悪いわけではなかった。むしろ新条アカネがそう「設定」していることもあり、良き友人であったと言えるだろう。しかしこれが「グリッドマン同盟」ということになると話は変わる。新条アカネとグリッドマン同盟は、最後に至るまで、本当の意味で「同盟」を締結できはしなかったし、「和解」もできなかった。

その分裂状態が中黒に現れている。

そして当然、この中黒には断絶される2つの世界、つまり新条アカネの「中の人」が生きる現実世界と、物語が展開するコンピューター内の世界の分裂を示しているだろう。

新条アカネは現実世界とコンピューター内の世界を行き来するようではなく、どっぷりとコンピューター内の世界に没入する。つまり、そこに2つの世界の融合は見えず、はっきりど断絶されている。その断絶もまた中黒に端的に表されている。

最終話で新条アカネは現実世界で「覚醒」し、実写パートへと帰結する。それは現実世界とコンピューター内世界が適切な関係を取り戻すこと──断絶が修復され、出入りが可能になることを意味する。そしてそれこそが中黒の消失になる。

慣性としての「日常」

折に触れてこの記事では、「日常」とは何かを考えてきた。

「日常」とは継続性であり、それは「過去」を「現在」と同じようなものであると想起することによって生じる、というところまで話は展開されてきた。「これまでもそうだったしこれからもそうである」という継続性は(それが正しいかは別にして)、時にアイデンティティそのものとなり、時に「日常」と化す。

この留保に注目したい。そもそもそんな「継続性」なるものは実在するのか?

「日常」とは、「『過去』もそうだったはずだ」と「過去」を想起し、「『未来』もそうであるはずだ」と存在しない「未来」を推量するところにこそ現れる。言ってみれば、そこに働くのは「慣性」である。

しかし、この「慣性」とは考えてみれば不思議だ。なぜなら、本当にそこに「継続性」があるのではなく、「継続性」がある、と見なすのであるから、本当は大きな変化があるのかもしれない。

実際にはそれが特撮作品とも共通する。

「シリーズ」でくくられ、毎年新作が制作されるが、それらは本質的に別種で、世界観を共有しない場合も少なくない。しかしそれらは毎年「継続」するものとして扱われる。そこに存在するものこそ、まさに「慣性」ではないか。

そこでここからは、「仮面ライダー」シリーズでも、毎年の放送が慣例化し、しばらくが経過した平成2期を概観することで、その「慣性」について考えていきたい。

 

written by 虎太郎