もう一度読む『竹取物語』:読者に寄り添う物語

はじめに

竹取物語』と言えば、『源氏物語』と並ぶ日本の古典である。『源氏物語』にそう書かれるように、そしてそれを遡る作品が未だ見つからないように、「日本最古の物語」として捉えられている。

果たしてその時代の人がそれを(僕たちが認識するところの)「物語」として創作し、受容していたかは定かではないが、未だに「かぐや姫」を題に冠した絵本などが見られるように、人々の心に寄り添った「物語」としての側面は否定できない。

さて、それを今更ながら、大して古典文学への造詣が深いわけでもないのに読み直し、何か考えようという試みが、意味のあるものであるかは分からないが、とりあえず、幼い頃に読んだ「ある宇宙人の物語」を思い出すつもりで、本稿を読んでいただけると嬉しい。

「けり」の話

岩波文庫版の『竹取物語』を以下では参照するが(その下となったのは「新日本古典文学大系」である)、その校注を担当する阪倉篤義氏は「解説」において、過去の助動詞「けり」が物語中盤には見られないことを指摘した。

この点について、阪倉氏は次のようにも述べている。

…この「なむ」あるいは「ぞ」という助詞は、聞き手への確かめの気持を現わすのに用いられるものであり、これに呼応する「けり」という助動詞は、いわば過去を、現在との関連において見る、説明的な陳述をふくむものである。すなわち、これらは、「解説的に物語る」叙述の態度をふくんだ様式の文であって、この様式の文が、和歌や、物語の「心話」の部分、また日記の地の文などには用いられることはほとんどなく…

ここから導き出される結論は、ほとんど一つではないかと思う。

つまり、僕たちは「いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。」という、「「解説的に物語る」叙述の態度」に誘われ、物語に〈読む〉行為を通じて参入する。

「いまは昔」の箇所に阪倉氏は次のような補注を付す。

物語や説話の冒頭に用いられる慣用的な句の一つで、平中物語・大和物語・落窪物語・今昔物語・宇治拾遺物語などにも、この形式が見える。過去のある時に自分をおいて、それを「今」と言い、「この話のときは昔なのであるが」と語りだすのであって(馬淵和夫氏説)、それが「けり」という助動詞の用法とも関連する。

つまり、この「いま」というのは、僕たちが本を読み、ページをめくる「いま」ではなく、〈語り手〉が〈語る〉とき、つまりジェラル・ジュネットがいうところの「物語行為」の時間である。

言ってみれば、「いまは昔」と言ったとき、僕たちは、それを読む現在から、〈語り手〉が〈語る〉ときへとグッと引き寄せられるのだ。

ここに三段階の時間の関係を見出すことができる。一つ目は「昔」であり、言ってみれば「物語内容」が発生したとされているとき。二つ目は「いま」であり、その内容を「物語行為」として〈語る〉とき。三つ目は、それを〈読む〉僕たち自身の現在である。

「いまは昔」によって僕たちは、三つ目の時間から、二つ目の時間へと引き寄せられ、それを今まさに〈語っている〉かのように〈読む〉のである。

さらに、ここに先ほどの「けり」にまつわる話を考え合わせてみよう。物語中盤に、過去の助動詞「けり」(それは「き+あり」に源流を持ち、伝聞過去を示すとされる)が現れないのは、二つ目の時間へと引き寄せられた読者が、さらに一つ目の時間へと、さらに引き寄せられていると考えて良いだろう。

やってくる人

〈読む〉現在から、〈語る〉「いま」へ、そして「昔」へと誘われる読者の様子は、月から地球にやってくるかぐや姫の様子と重なるようではないだろうか。

なぜかぐや姫がさぬきの造のもとにやってきたかというと、天からやってきた人が次のように語っている。

「汝、おさなき人、いさヽかなる功徳を翁つくりけるによりて、汝が助けにとて、かた時のほどとて下しヽを、そこらの年頃、そこらの金給て、身をかへたるがごと成にたり。かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賎しきをのれがもとに、しばしばおはしつる也。罪の限果てぬればかく迎ふるを、翁泣き嘆く、能はぬ事也。はや出したてまつれ」

つまり、かぐや姫が翁のもとに送り込まれたのは、翁が「いさヽかなる功徳を」「つくりける」ことによるものであった。しかし、それならば、つまり善行に応じて「ご褒美」が与えられるのであるとすれば、それがかぐや姫であるというのはおかしくないだろうか。

というのも、かぐや姫は「罪をつく」って、いわば遠流の刑の一貫で翁のもとに送り込まれたのである。刑の執行と、善行への報奨が裏表であるとは、いかにも地球人が舐められた様子であることが分かる。つまり、月の国にとって地球人に与える報奨とは、刑の一貫として女性を送り込むこと程度ということである。

いってみればかぐや姫は「宇宙人」なのであるが、それを五人の貴人、帝までもが求めたという事実は、そう考えれば滑稽である。「国外追放」の刑を受けた受刑者に、ありがたがって求婚までしたのである。

〈所有〉への欲求

その事実を認められなかったのは、翁その人であった。「自分の国から迎えがやってくるだろう」と悲壮感を漂わせるかぐや姫に、翁は次のように返す。

「こは、なでう事のたまふぞ。竹の中より見つけきこえたりしかど、菜種の大きさおはせしを、わが丈たち並ぶまで養ひたてまつりたる我子を、なに人か迎えきこえん。まさに許さんや」

彼は、かぐや姫の本当の両親がいたとしても、そんなかぐや姫を養ったのは自分であり、「我子」であるから、月の国の人々が迎えに来るなど許されない、と言うのである。

最終的に不死の薬を翁は得るが、「なにせむにか命もおしからむ。たが為にか。何事も用もなし」と、それを服用しようとはしない。

翁がかぐや姫を〈所有〉することに失敗した。もちろん求婚者たちも、かぐや姫の〈所有〉に失敗した。翁は次のようにかぐや姫に言う。

「翁、年七十に余りぬ。今日とも明日とも知らず。この世の人は、おとこは女にあふことをす、女は男にあふ事をす。その後なむ門ひろくもなり侍る。いかでか、さることなくてはおはせん」

「私はいつ死ぬとも分からない身なので、世間の人がそうするように結婚して、一族を繁栄させてくれ」と言う。現代にもたまに聞くようなセリフであるが、実際にはかぐや姫は結婚しない。

ちなみに、かぐや姫は「月の顔見るは忌むこと」と忠告されても、月をのぞきみて泣いていたりする。

地球の人々は、ついに一度たりともかぐや姫を、地球の〈規範〉に収集することさえ叶わなかったのである。

もちろんそれは、かぐや姫が地球の人=「この世の人」ではないからにほかならない。

しかし、相次ぐ圧力に屈しず、〈規範〉に従わず〈所有〉も拒絶する様子は、さながらトルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーを彷彿とさせる。

映画では、ゴライトリーはある男との〈幸せな結末〉=〈規範〉通りの結末が描かれるが、カポーティはそれに不服であったという。原作ではゴライトリーは今もその所在のつかめない〈アウトロー〉として徹底して描かれる。

おわりに

「いまは昔」、そして過去の助動詞「けり」の消失とともに、物語内容の時間に引き寄せられた読者たちは、同じような経緯をたどるかぐや姫に目を向ける。

僕たちは、かぐや姫を〈所有〉し、〈規範〉に回収しようとする試みが失敗に終わることを滑稽に思いながら、月に帰るかぐや姫を見守るしかない。同じように翁のもとへ誘われた読者とかぐや姫は、月からの来客によって突如引き裂かれ、遠ざかるかぐや姫を見つめるしかできない。

そんな読者が最後に連れて行かれるのは、富士山であった。不死の薬が捨てられたことにその源流があるという不死山=富士山は、時間を超えてそこに存在しつづける。

再び姿を見せ始める「けり」とともに、読者は今もある富士山を頼りに、〈読む〉時間に戻ってくる。この丁寧な誘導に、時代は令和であるが、感嘆せずにはいられない。