【肯定するオタクたち④】オタクたちよ、カメラを手に取り絵を描こう
見られずに見る方法
ニーチェが「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と言ったのだそうだが、オタクたちにとってそれは危機である。
つまりこれが意味するのは、「こちらが見ていれば向こうもこちらを見ている」ということ。これでは、肯定されたいと願うオタクたちの、自分たちを守る不均衡が崩壊してしまう。
手っ取り早く「見られずに見る方法」は無いものか。それは実はカメラを向けることであり、絵を描くことである。
アニメ「多田くんは恋をしない」ではヨーロッパの王女テレサ・ワーグナーが日本にやって来て、普通の高校生たちと交流を深めていく物語だ。
典型的なボーイ・ミーツ・ガールの作品であり、写真部の多田光良と淡いラブロマンスを繰り広げるのだが、写真部であるからして、当然カメラを被写体に向ける。
撮影者と被写体の間には、撮影者が被写体を「見る」が、被写体は撮影者を「見られない」という構造上の特性がある。
被写体は撮影者を見ているようでいて、撮影者がのぞきこむレンズを見ているだけなのである。
そんなテレサ・ワーグナーと多田光良は、「雨」によって断絶された世界のなかで、その不均衡な関係を育てていく。
そもそもこの2人には、「ヨーロッパ」の「王女」と、「日本」の「多田(ただ)の男子高校生」という身分的な不均衡があるのだが、それを「雨」が切断する。そして、多田光良がカメラをテレサ・ワーグナーに向けるとき、この不均衡は逆転する。
「雨」が2人を世界から切断するという点では映画『言の葉の庭』を思い出してみてもいいのだが、未見なので諸氏の想像に任せたい。
写真と言えば、アニメ「色づく世界の明日から」も思い出される。
主人公・月白瞳美は祖母の計らいで60年前へと戻り、そこで高校生たちと交流を深めていく。そんな瞳美は名前からして「見る」ことを運命づけられているのだが、実際には彼女は色が「見えない」。
彼女は写真美術部に所属し高校生活を充実させていくが、ポイントになるのが葵唯翔である。瞳美は葵唯翔の絵の中でのみ色を「見る」ことができる。つまり、彼の絵だけが瞳美を「肯定」してくれるのだ。
この2人は、世界から断絶され、色をめぐるやり取りの中でほのかな愛情(らしきもの)を育むことになる。
しかし瞳美を「肯定」するための断絶とはそれだけではない。二重の隔壁が瞳美を守る。1つ目の隔壁は葵唯翔との色をめぐる関係。しかしその外側に「写真美術部(後に魔法写真美術部)」というグループが立ち現れる。
彼らは瞳美が「未来から来た」「未来へ戻らなくてはならない」という「秘密」を共有する。
そう、世界から断絶されるためには、「秘密」を共有するという方法だってあるのだが、それについてはもう少し後で書きたい。
葵唯翔は写真を撮るのではなく、絵を描く。絵を描くというのは、現実世界から隔絶される簡単な方法である。
漫画は未読なのだが、映画『この世界の片隅に』では、「絵を描く」という方法で戦争という圧倒的現実から自らの身を守り続けてきた北條すずが、右手を失ってしまうことで、自己の安定を失っていく様子が描かれる。
「絵を描く」というのは、一種の自己防衛なのである。
「絵を描く」ことがフィーチャーされたのが、アニメ「けものフレンズ2」だろう。
同シリーズの前作よろしく、記憶を失った「ヒト」のキュルルは「絵を描く」。ここには当然人間の典型的な特質として「絵を描く」ことが挙げられているのだろうが、このシリーズが「お互いを肯定しあう」という性質を持つ以上、「絵を描く」のも「肯定」の手段として取り上げられていると考えて構わない。
〈秘密〉の花園
カメラを通じて「見られないで見る」オタクたち(これは撮り鉄にも当てはまるかもしれない)、絵を描くことで「自己を肯定する」オタクたち。
いずれにせよ自分を世界から隔絶して、自分を批判・否定するファクターを排除しようとしている。
いずれも簡単な方法ではあるが、道具を使わなくても、自分を世界から隔絶することはできる。「〈秘密〉の花園」を作り上げることである。
漫画『クズの本懐』がそうであったように、自分達だけの〈秘密〉はそれを知る人々を世界から隔絶する。
例えばJ.K.ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズでは、「秘密の守人」という魔法が登場する。
これはその「秘密の守人」から〈秘密〉を明かされただけの人は、その〈秘密〉を更に他の人に口外することはできない、という魔法だが、作中では敵ヴォルデモートに対抗する不死鳥の騎士団という組織の本部を隠すために用いられる。
そう、彼らは不死鳥の騎士団の本部という「〈秘密〉の花園」を「秘密の守人」という魔法で構築しているのだ。
佐島勤の『魔法科高校の劣等性』シリーズで司波達也と司波深雪を、他の登場人物から隔絶させているものは何か。それは何より、この2人だけが〈秘密〉を共有しているからに他ならない。
映画『君の名は。』でも、立花瀧と宮水三葉を世界から隔絶するのは、「お互いが入れ替わっている」という〈秘密〉である。
入れ替わったからには、服を着替えなくてはならないし、トイレにも行かなくてはならない。文字通り「身ぐるみはがされた自分」をお互いにさらし、〈秘密〉を守ることで、彼らは世界から隔絶されていく。
そしてそれを三葉の祖母・一葉は「夢を見とるな」と暴き、結局彼らは入れ替わることが出来なくなってしまう。
そんな彼らが再び入れ替わることができるのは、瀧が三葉の口噛み酒を飲んだとき。抽象的画面が、それを疑似的なセックスであると示唆する(そしてティアマト彗星が地球に落ちるという受精を模した構造すらも示唆する)。
当然、セックスとは徹底的な〈秘密〉である。
漫画『ドメスティックな彼女』も、藤井夏生が、後に父の再婚で義理の姉妹となる橘瑠衣と成り行きでセックスするという〈秘密〉から物語がスタートする(そしてさらにそれを義理の兄妹になったという〈秘密〉が包み込む)。
この藤井夏生はカメラを構えたり、絵を描いたりしないが、「小説を書く」という点で不均衡を構造しようとしていることは注目に値するだろう(当然、「書く」というのは「書かれる」物に対して特権的な行為である)。
住野よるの『君の膵臓をたべたい』も、語り手「僕」がクラスメイト・山内桜良が膵臓の病気であるという〈秘密〉を知ることから始まる物語だが、その「僕」がオタク的性質を示していることも思い出される。
オタクたちは世界から隔絶され、不均衡な関係で優越感に浸ろうとする。しかしそれは「遊戯」でしかない。そこにリアリズムは不要なのだ、という話を、アイドルオタクを視野にいれながら、次回してみたい。
written by 虎太郎