【肯定するオタクたち①】映画のジャイアンはいつも優しい
オタクは肯定されたい
オタクってなんなんだろう、ということを考えた本は多い。お互いを「お宅」と呼び合ったことから「発見」された彼らの生態は、エリートコースをたどってきた学者・評論家連中には面白かったに違いない。
実際、大塚英志・東浩紀・宇野常寛といった人々が作り上げてきたサブカルチャー研究の実績は、もうそれらを避けてサブカルチャーを論じられないほどにまでなっているのだが、なんだかいまいちパンチが足りない。
というか、そういうメジャーな評論から一世代遅れた僕とすれば、それらは大発見ではなく、一種のパラダイムである。しかし、例えばこんな記事がある。
もうなんだか鼻で笑うのも疲れて来るのだけれど、「オタク」を自称する流れは珍しくない。アニメオタク、特撮オタク、鉄道オタク、アイドルオタク。増え続けるオタク。オタクと名乗ること自体、「趣味に生きる」おしゃれさのようなものを感じる人が増えているのだろう。
と、言うことで、今まで形作られてきた「オタク」のパラダイムを、一切無視して、もう一度「オタク」を見つめなおしてみよう、というのが今後の目標だ。と言いつつ、何かの計画があるわけではない。
ただ一つ、共通するテーマと言えば、「オタクたちは自分を肯定したがる」という点だけ。
これだけを唯一のルールに、いろんな作品や現象を見に行ってみたい。
オタクってのび太なのだろうか
別に誰かが言ったわけではないが、「ドラえもん」で言えば、オタクはのび太だろう。
のび太は運動できないが、あやとりや射撃が得意。射撃が得意と言っても、我々におけるシューティングゲームが得意といった感覚で捉えれば、なんとも「オタク」チックではないだろうか。
そんなのび太は、オタクなのでいじめられる。まあ、オタクというのは見下されることの多い生き物だし、見下されることで自己規定している節もある。
のび太をいじめるのはジャイアン。男の子らしく野球が好きで、暴力的。元気な男の子。そして、その腰ぎんちゃくのスネ夫。こちらもある意味で男の子らしいかもしれない。
ジャイアンは恐ろしいいじめっ子なわけだが、そんなジャイアンが映画になると急に優しくなる。不思議だ。
「ドラえもん」の映画にはいくつかのステップがある。
- のび太が現実から逃避しようとする
- 未知の世界へとたどり着き、そこで友人を作る
- 友人もしくはしずかちゃんがピンチに陥るので戦う
- 敵をなんとか倒すことに成功する
- 「また会おう」と言いながら泣きながら未知の世界を立ち去る
大概映画が公開されるのは夏休みなので、それに合わせてのび太たちも夏休み。学校に行く必要はない。
子供たちは遊ぶわけだが、その中でのび太がいつも通りジャイアンにいじめられるか、スネ夫に金持ちを自慢されるか、自由研究に迷うかする。そうした場合、ドラえもんが道具を出して、のび太に別世界を紹介する。
これは全くの別世界ではない場合もある。例えば、映画『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』や映画『ドラえもん のび太の恐竜』を見てみると、のび太がそれぞれ苗木、恐竜の卵を拾ってくるところから物語が始まる。
いずれにせよ、淡白に続く「夏休み」という日常から一歩外に出る「未知の世界」としてそれらが機能していると言っていいだろう。
結局そうした場合にも別世界に行くことになるのだが……その別世界とは大体以下の通り。
- 過去
- 未来
- 別の星
- 異世界
- 秘境
過去と言えば、まさしく映画『ドラえもん のび太の恐竜』もそうだし、映画『ドラえもん のび太の日本誕生』もそう。歴史モノとして教養チックなところがあるので、好んで用いられる題材ではある。
次に未来と言えば、映画『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』などがあるのだが、あまり数は多くない印象。
別の星と言うのは、映画『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』や映画『ドラえもん のび太と銀河超特急』などがある。映画『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』なんかもここ。ただしこの作品はリメイク版の映画『ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史』の方がかなり良作だ。
異世界というのはもうちょっと難しい。基本的にはドラえもんの道具によって作り上げられた世界だ。例えば、映画『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』だとか、映画『ドラえもん のび太の魔界大冒険』だとか。
最後の秘境と言うのは、これも歴史モノと同じく教養になりやすいので取り上げられることがある。エスニックな雰囲気を感じる作品も多く、例えば、映画『ドラえもんのび太とふしぎ風使い』などは泣かせる作品として挙げられるだろう。
なぜジャイアンは映画ではのび太をいじめないのか
こうした映画、つまり舞台を「未知の世界」に置く作品ではジャイアンが優しくなる。なんでだろう。
結論は分かりきっていて、それは「未知の世界」ではのび太が強いからに他ならない。
映画では災厄を招くのがのび太自身である場合も多いのだが、のび太のスキルが事態解決の鍵になることも少なくない。
スキル、と言っても、事態を解決するのには2種類しかない。1つ目は、のび太の射撃の腕。2つ目は、のび太の演説。
文武で言えば、文=演説で解決するパターンもあれば、武=射撃で解決する場合もあるというわけだ。いずれにせよ、それらが生かされる環境が「未知の世界」なわけで、そこでジャイアンは無力だ。
大概ジャイアン・スネ夫・しずかちゃんは一度敵につかまるし、ジャイアンは大概牢屋の中で「とっととここから出しやがれ!」と騒ぐ。スネ夫が「ママ~~!」と騒ぐと、しずかちゃんが「きっとのび太さんたちが助けてくれるわよ」と答える。ジャイアンもそれに同意して「そうだ。のび太なら助けてくれる。〝心の友〟だからな!」みたいな風に良い感じになる。
いやいやお前普段のび太をいじめてるだろうが、と思うのだが、結局それでものび太はジャイアンを助ける。いわばそこにパターナリスティックな構造を見つけられる。
「普段はいじめられているのに助けてあげるのび太はかっこいい」という図式が映画では見て取れる。だから、「映画のジャイアンはいつも優しい」というのは間違いで、「映画ののび太はなんだか偉そうだ」と言う方が正しいのかもしれない。
拡大されるパターナリズム
パターナリズム=父権主義的に、普段は自分をいじめているがいざというときには助けてあげるのび太。「父権主義」とは言っても、その父の姿は戦後の弱々しい父の姿なのかもしれない。いざというときだけ強くなる父親像。
そんな父は、映画では「未知の世界」をも救うのだ。言ってみれば、のび太のパターナリズムは「未知の世界」にも拡大される。
あれ、この図式ってどこかで……そう、これはコロニアリズム(植民地主義)である。
のび太は(それはそれで幸せそうにしている)未開人に認められ、頼られ、結局彼らを救う。でもいやらしさが無いのはのび太が普段はいじめられっ子だからだし、へなへなしているから。
そう。オタクの願望とは、「コロニアリズム」である。
自分が頼られ、評価される「未知の世界」を求めている。そして、そんな「未知の世界」を所有したいと願っている。
さて、ここまで言えば充分だろう。第2回のテーマは、きっと異世界転生モノになる。
written by 虎太郎