【音楽】米津玄師「Lemon」
米津玄師「Lemon」における「言わない」描写についての一考察
はじめに
米津玄師「Lemon」は野木亜紀子脚本のドラマ「アンナチュラル」主題歌としても採用され、多くのヒットチャートで1位を獲得し、カラオケでも数え知れないほど歌われた。
そんなこの曲について、このブログの中では次のように言及された。
虚無の中で、何かわからない光のようなものを待ちながら生きる、ということ。これこそが、現代的な感覚で捉えた生の本質なのではないだろうか(余談だが、日本でヒットしている米津玄師『Lemon』歌詞の一番最後の箇所でも救いとしての「光」が登場するし、映画『君の名は。』においても登場するモチーフである。現代における「光」のイメージにはさらなる検討の余地があるだろうと思われる。)
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この部分を、いわばそのバトンを受け取ってリレーするためにも、意味深な世界観について、数多くの考察が試みられてきたところではあるが、ここではあえて歌詞そのものに則したかたちで、おそらくそれを逸脱しないであろう範囲内で分析していきたい。
逆説的表現
「Lemon」において「言わない」ことにより何かをほのめかすような描写が数多く見られるが、中でも多いのが「逆説的には」表現されている、という文章である。例えば冒頭は次のように始まる。
夢ならばどれほどよかったでしょう
「夢ならばどれほどよかったでしょう」という文章は、むしろ逆説的に「それは夢ではない」ということを端的に言い表している。
きっともうこれ以上 傷つくことなど
ありはしないとわかっている
この歌詞の部分は、逆説的に言えば、「もうこれ以上はありえないというほどに傷ついている」ということを表しているということになる。では何に傷ついているのか、というと次の部分が手掛かりになるだろう。
戻らない幸せがあることを
最後にあなたが教えてくれた
要するに「傷つ」けられる以前は「幸せ」だったということなのだが、それは二度と戻ってこない。それを「最後に」「あなた」が教えてくれたのだが、これは「あなた」が今は亡くなっているのだろう、という比較的順当な解釈によって理解しやすくなる。
つまり、「あなた」と過ごしていた日々は「幸せ」だったものの、それを「最後に」「これ以上傷つくことなど」ないというほどに「傷つ」けられる。その様は「夢ならばどれほどよかった」だろうかと祈るしかないほどである。
「あなた」はどのような人物か
ではその「あなた」とはどのような人物だったのか、について考えてみると、次のようにある。
暗闇であなたの背をなぞった
その輪郭を鮮明に覚えている
受け止めきれないものと出会うたび
溢れてやまないのは涙だけ
何をしていたの 何を見ていたの
わたしの知らない横顔で
「暗闇」の中、おそらくこの詞(=詩)を書く人物は、「あなた」の体を指かなにかで這わせており、それによって触覚的に「輪郭」を覚えていたことになる。
その「あなた」と書き手の間の関係性を示唆するのが「横顔」である。つまり書き手は「あなた」を思い出すときに、正面ではなく、むしろその「横顔」を思い出す。二人の関係性がただならぬ親密なものであったのだろう、ということが示唆される。
例えば何か別の表現で親密さを表現したものとして、俵万智の和歌がある。
思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ
この情景を思い浮かべてみると(おそらく)女性と、その目の前にはへこんだ麦わら帽子があるだけだ。しかしその情景以上に、おそらくその麦わら帽子というのは別の(おそらく)男性の持ち物であり、二人の思い出が喚起される。
このように「思い出の喚起」というのは「Lemon」でも重要で、基本的にこの歌は、「思い出」を語る歌でしかない。
おそらく親密であったろう「あなた」の「横顔」を想起するが、ただしその「横顔」というのは「知らない横顔」である。つまり、何もかも知っているほど親密ではなく、「知らない」側面があったのだろうと分かる。
例えば次の箇所。
言えずに隠してた昏い過去も
あなたがいなきゃ永遠に昏いまま
書き手には何らかの「昏い過去」がある。それを打開する最後の方法は、それを「あなた」に言うことなのだろう。
しかし「あなた」がいなくなってしまったことで、その過去は「永遠に昏いまま」なのである。
あんなに側にいたのに
まるで嘘みたい
とても忘れられない
それだけが確か
「あんなに側にいた」にも関わらず、「昏い過去」を打ち明けられなかった。もしかすると親しすぎるがゆえに、かえって打ち明けられなかった秘密なのかもしれない。だからこそ、「わたし」は「あなた」に対して、この曲を歌いかけることしかできない。その中で「生き返ってほしい」とも「もう一度会いたい」とも歌えない。ただその後悔を深々と歌い上げることしかできないのかもしれない。
感覚の飛躍
先ほど申し述べたように、書き手は「あなた」を「暗闇で」「背をなぞった」触覚的にその記憶を喚起する。
しかしそれより前に次のような記述がある。
あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
そのすべてを愛してた あなたとともに
胸に残り離れない 苦いレモンの匂い
雨が降り止むまでは帰れない
今でもあなたはわたしの光
「胸に残り離れない 苦いレモンの匂い」によって、「あなた」の記憶が「レモン」と共に保存されていることが分かる。ここで「レモン」の味覚的記憶としての「苦い」という感覚と、「匂い」によって嗅覚的記憶が喚起されていることが分かる。
ではその「あなた」と「レモン」はどんな関係なのだろうか。
切り分けた果実の片方の様に
今でもあなたはわたしの光
「切り分けた果実」というのは「切り分けた」「レモン」と考えて問題ないだろう。そしてそれが「あなた」を喚起し、「わたしの光」であると言う。
いいねがまだ伸びているので、東浩紀さんに何て教えたか書いときますね。大したことないので、がっかりしないでください。
— 飛浩隆 TOBI Hirotaka (@Anna_Kaski) 2019年1月1日
ーーーーーーー
(死によって)ふたつに切られたレモンの断面の、色彩と、放射状のパターンが「光の図像」になっている、ってだけのことです。
飛浩隆が言うように、「切り分けた」「レモン」の切断面が「光」のようである、という解釈で問題ないだろう。「レモン」と「あなた」が視覚的に「光」を媒介にして接続しているのである。
雨とは何か
最後の部分には次のような箇所がある。
雨が降り止むまでは帰れない
「雨」とは一体何を意味するのか。とりあえず「帰る」という動詞を媒介に考えてみると、冒頭には次のような箇所がある。
忘れた物を取りに帰るように
古びた思い出の埃を払う
「わたし」(書き手)と「あなた」の思い出が、既に時間を経てしまっていることが「古びた思い出の埃」によって示されていた。しかしそれを比喩的に説明する「忘れた物を取りに帰るように」というのが難しい。なぜなら最後には「帰れない」とあって、それを尊重すると「忘れた物を取りに帰る」ことなどできない、ということになってしまう。
つまり「古びた思い出の埃を払う」ことはできるのだが、「忘れた物を取りに帰る」ことはできない。なぜなら「雨が降り止」まないからである。
では「雨」とは何なのかに戻りたい。
どこかであなたが今 わたしと同じ様な
涙にくれ 淋しさの中にいるなら
わたしのことなどどうか 忘れてください
これは逆説的に「わたし」が「涙にくれ 淋しさの中にい」て、「あなた」のことを「忘れ」られない、ということを意味している、と考えて良いだろう。
「涙」「淋」という漢字が横に並んだとき、さんずいが続くことに気が付くはずだ。つまり「水」という想像力が、この作品全体を、文字通り「湿っぽく」しているのである。
ということで、そこに「雨」を接続してみよう。
「涙にくれ 淋しさの中にいる」というのは「雨が降」っているという情景と接続する。つまり「涙にくれ 淋しさの中にいる」という状況を脱しないと「帰れない」し、もちろん「忘れた物を取りに帰る」こともできないのである。
おわりに
さて、曲全体を通して、ある特定のストーリーや、「わたし」の状態が明確に想定されていながら、それが「喚起される」こと、つまり明示的には「書かれない」ことを見て来た。
視覚・触覚・嗅覚・味覚が縦横無尽に「あなた」を喚起する。しかしもちろんそうした一連の内容が聴覚的に、いわば「歌」という形で「あなた」に語り掛けるのである。
存分に「愛」に溢れながら、それが未来志向的に語られない。例えば、一青窈の「ハナミズキ」や竹原ピストルの「例えばヒロ、お前がそうだったように」が挙げられるが、そうした作品も、全く違った想像力が「愛」を喚起する。
夏目漱石が「日本人は『愛している』などとは言わない、『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ」と言ったとか言わなかったとか。
日本人の心性としては、そうした「書かれない」「愛」が好みなのかもしれない。テイラー・スウィフトの「We Are Never Ever Getting Back Together」を聴きながら、そのように思う。
written by 虎太郎