【肯定するオタクたち⑤】童貞は引くが、結婚はやめてほしい

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設定を甘受するオタクたち

ここまでで見てきたのは、オタクたちの「肯定されたい」という生態。

そしてそんな欲求を、世界からあらゆる手段を使って満たしていく様子だ。あらゆる手段とは、南極へ行き、キャンプへ行き、戦車に乗り、時間さえ飛び越えてしまうことだ。

そこで重要なのは、世界から「隔絶される」ということ。だから、別にそういう手段を使わなくてはならないというわけではない。カメラで被写体を覗き込み、絵に描くことでも、世界から2人は「隔絶される」し、お互いを「肯定する」。

そういう手段以外にも〈秘密〉を作ることで、それを知る人同士の「〈秘密〉の花園」を作るという方法もある。

オタクはあらゆる手段で世界から「隔絶」され、そこで「知っている」「知らない」という二者間の不均衡を構築しようとするのだ。

さて、オタクたちはその不均衡を構築するために、当然「知ろう」と試みるのだが、そこで得る知識は、必ずしも嘘偽りないものである必要は無い。

オタクたちは、ジャーナリスティックな意味で「知ろう」としているのではなく、遊戯として「知ろう」としているのだ。

もちろん、鉄道オタクが鉄道について「知ろう」としたとき、鉄道が嘘をつくことなどないのだが、アイドルオタクではそうではない。かといってアイドルには詳しくないので、アイドルとは言えないが、DISH//というバンドを紹介したい。アイドル的人気を誇るバンドだ。

例えば、「サイショの恋~モテたくて~」では、タイトル通り、「モテたい!」と願う(おそらく)男子のウジウジした苦悩が歌われている。

しかし冷静に考えてみれば、彼らが「モテたい!」と願っているとは到底思えない。何よりこれを歌うボーカルの北村匠海は「イケメン俳優」と紹介されることも多い。

ファンは別に本当に「モテたい!」と願う彼らを望むわけではない。

むしろ、本当に彼らが「モテたい!」と願っており、例えば童貞であったらどうだろう。

つまりファンは心のどこかで「モテているだろう」「モテていてほしい」と思いつつ、その一方で、「モテたい!」と叫ぶ曲を聴いているということになる。

「私が〈救い〉になる」

そんな構造は、別に女性アイドルにも見られるだろう(が、あまり詳しくない)。

オタクたちは、「モテたい!」と願ったり、その他でも悩み苦しむ対象に対して、自らが特権的地位からパターナリスティックに振る舞い、〈救い〉になることを願っている。(簡単に言えば、「モテたい!」なら「私が恋人になってあげる」という具合に)

これは最初の記事の劇場版「ドラえもん」にも共通する性質だ。

のび太は支配者に困っている「未知の世界」の住人の〈救い〉になろうとするのである。

つまり、オタクは不均衡な関係を構造し、そこで〈救い〉としてふるまうことを目指していると言っていい。

アニメ「色づく世界の明日から」では色の見えない瞳美の〈救い〉として、葵唯翔が絵を描いて色を見せる。

アニメ「SSSS.GRIDMAN」では孤独に悩む新条アカネを響裕太・内海将・宝多六花らグリッドマン同盟が〈救い〉に行く(そのことは主題歌「UNION」を聴けば明確だ)。

映画『君の名は。も東京の男子高校生・瀧が、本来深く知るはずもなかった糸守という田舎町を〈救う〉ために奔走する。

こうした作品群を上げてもまだ一部。オタクたちが〈救い〉になろうと試みる作品は枚挙にいとまがない。彼らは〈救い〉として特権的地位を占めたいと願っているのである。

それが結実したのが、映画『シン・ゴジラかもしれない。

この映画では、謎の怪獣ゴジラを眼の前に、日本を〈救う〉ために活躍するオタクたちの姿が描かれる。彼らは「知っている」という特権を、巨大不明生物特設災害対策本部巨災対という外部から隔絶された空間で、お互いを肯定し合いながらフルに活用し、日本を〈救う〉ために奔走するのである。

肯定される自分はもしかするとふがいない

異世界モノを引くまでもなく、オタクたちは自分を「肯定してほしい」と願うものの、その自分が「肯定」されるに値するかについては、かなり疑心暗鬼である。

ここまで挙げて来た〈救い〉になろうとするオタクたちが、いずれもある面について「知っている」ものの、隔絶されない世界では「ふがいない」という特徴を持っていることが分かるだろう。

「ふがいない」は言い過ぎだったとしても、そのオタクたちは「平凡」であったりする。

アニメ「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」を見てみれば、比企谷八幡は老成しており、ぼっちで「ふがいない」。

しかしそんな比企谷が老成っぷりを発揮して事態を打開したりする。そんな彼は「奉仕部」という限定された中では肯定されるが、その外では否定・批判される。

彼らは〈救い〉であろうとするが、それはあくまで限定された中で特権的地位を得られた場合のみであり、それ以外においては「ふがいない」存在なのだ。

ここで文章を読みかえてみたい。

彼らは限定された中で「知っている」という特権地位を占めるが、それ以外においては「ふがいない」。

言いかえれば、彼らは普段は「ふがいない」が、限定された中で「知っている」という特権的地位を占める

この読み替えこそが、内弁慶的なオタクの性質を支えていると言っていいだろう。

だからオタクたちは、あらゆる対象を「読み替える」ことを試み、「知っている」世界を構築しようとする。この営みを人々は「考察」と呼ぶ。

それについては次回考えたい。

 

written by 虎太郎