【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑴

 はじめに

誰が特撮のアイデンティティを受け継いできたのか

私たちが「特撮ヒーローは日本の文化だ」というようなことを考えるとき、果たしてその「特撮」というアイデンティティはどのように育まれてきたのだろうか。

今後、そのように社会的文脈に「特撮」を位置づける試みを行う予定はないから、ここで触れておきたい。

多くの人が「特撮ヒーロー」の始まりを1966年放送の『ウルトラマン』に求める。しかしその際、その前史として同年上半期には『ウルトラQ』が放送されていたこと、また監督を務めた円谷英二は戦時中においても戦争映画の特撮を担当していたことを忘れてはならない。

ヒーローとしての「特撮」は『ウルトラマン』で初めて誕生したのだと言うことに抗うつもりはないが、実はその遺伝子は、それよりずっと前からあったし、その遺伝子はある意味で血塗られているということである。

私たちが一般に「ウルトラマン」シリーズと呼ぶようなものは、1967年4月に放送を終了した『ウルトラマン』の半年後、10月から放送が開始された『ウルトラセブン』へと続く。『セブン』も一年間放送した後、2年半の空白期間を経て『帰ってきたウルトラマン』へと続く。

そこから『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』と続いたが、『レオ』が1975年3月で放送を終了すると、次の作品は1979年放送開始の『ザ☆ウルトラマン』を待たなくてはならない。翌年には『ウルトラマン80』が放送を開始するが、1981年3月に『80』が放送を終了すると、テレビシリーズが再び放送されるのは、元号が昭和から平成に変わった1996年『ウルトラマンティガ』を待たなくてはならない。

この間、日本国外で作品が制作されたり、映画が制作されたりしたものの、テレビでの放送はなかった。

それまで「ウルトラマン」たちは明確に作品世界を共有することはなくとも、概ねM78星雲など遠い銀河出身という設定であった。もはや呪縛と化しつつあったその「宇宙からの飛来者」的設定を克服した『ウルトラマンティガ』以後、『ウルトラマンダイナ』『ウルトラマンガイア』と続く。『ガイア』が1999年8月に放送終了した後、21世紀を迎えた2001年7月から『ウルトラマンコスモス』が放送開始。1年の放送予定が1年3ヶ月に延長される好評ぶりで、『ウルトラマンネクサス』に続く。こちらは不評がたたって1年を待たず放送を終了し、『ウルトラマンマックス』が放送開始。こちらも1年間の放送には至らず、『ウルトラマンメビウス』が2007年に放送を終了すると、再び「ウルトラマン」は空白期間を迎える。

次に2012年『ウルトラゼロファイト』が放送を開始するのだが、以後、『ウルトラマンギンガ』『ウルトラマンオーブ』『ウルトラマンジード』『ウルトラマンR/B』などへと展開していく。

これが「ウルトラマン」シリーズを語る上での概要だ。

日本の特撮を語る上でもちろんこれら「ウルトラマン」シリーズは重要だが、それと並んで語られるのが「仮面ライダー」シリーズである。

1971年に放送を開始した『仮面ライダー』が人気を博し、およそ2年間放送を続けると、以後『仮面ライダーV3』『仮面ライダーX』『仮面ライダーアマゾン』『仮面ライダーストロンガー』と続く。

『ストロンガー』が1975年一杯で放送を終了すると、1979年に後に「スカイライダー」と呼称される『仮面ライダー』が放送を開始する。翌年には『仮面ライダースーパー1』が放送されるが、その後しばらくシリーズは中断。1987年の『仮面ライダーBLACK』放送開始を待たなくてはならない。その後『仮面ライダーBLACK RX』が放送されるものの、1989年に放送終了後、『仮面ライダークウガ』が2000年に放送を開始するまで、およそ10年の空白期間があった。

クウガ』以後、『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー龍騎』『仮面ライダー555』『仮面ライダー剣』『仮面ライダー響鬼』『仮面ライダーカブト』『仮面ライダー電王』『仮面ライダーキバ』『仮面ライダーディケイド』『仮面ライダーW』『仮面ライダーオーズ/OOO』『仮面ライダーフォーゼ』『仮面ライダーウィザード』『仮面ライダー鎧武/ガイム』『仮面ライダードライブ』『仮面ライダーゴースト』『仮面ライダーエグゼイド』『仮面ライダービルド』『仮面ライダージオウ』と途切れなく放送が続いている。

ここで注目したいのは、昭和の終わりから平成初期にかけて、「ウルトラマン」シリーズも「仮面ライダー」シリーズも大きな空白期間を抱えているということである。ではその際、日本から「特撮ヒーローがテレビで活躍する」という文化は廃れてしまっていたのか、というとそうではない。

仮面ライダー」シリーズの兄弟作として1975年に放送を開始した『秘密戦隊ゴレンジャー』以後、現在までに42作品が放送されている「スーパー戦隊」シリーズは、昭和終わりから平成初期にかけても放送を続け、日本の特撮文化に貢献したといえよう。そのあまりの作品数の多さにここでは紹介はしないが、一般に「仮面ライダー」と比較しても幼児向けとされる「スーパー戦隊」シリーズの重要性については、ここで改めて指摘しておきたい。

 ヒーローとはどのような存在なのか

 先ほど、「ウルトラマン」シリーズが、血塗られた遺伝子を受け継いだ作品だと書いた。そもそもそのように始まった日本のヒーローであるから、いわゆるアメコミ作品のような理解は難しい。*1

ウルトラマン」であれば、そもそもなぜ宇宙人が地球を救いにくるのか、本当にいつも助けてくれるのか、変身する前の人間と変身した後の宇宙人、どちらの自我が優先しているのか、などの問題が付きまとう(いずれも後述する)。

仮面ライダー」であれば、その主人公が帯びる陰の側面や、正義とも悪とも付かない移ろいやすさ、言い換えれば「危うさ」が目に付くところである(今後考えていきたい)。

では「スーパー戦隊」は理解が容易かと言えば、複数人がチームとして戦うことを余儀なくされるが故の難しさが付きまとっている(できれば「仮面ライダー」シリーズを考える上で触れたい)。

こうした一枚岩ではいかないヒーローの「存在」について観察し、思考するのが今後の目標である。また、それが他作品においてどのように継承されているか、アニメ「SSSS.GRIDMAN」や映画『シン・ゴジラ』についても概観していきたい。

さしあたり1回目の今回は、特撮ヒーローの起源でもある「ウルトラマン」シリーズについて考えていきたい。

「宇宙人」ウルトラマン

なぜウルトラマンは地球にやってくるのか

以下、ウルトラマンと呼称するのは、M78星雲からやって来た巨人に限る。細かく言えば『メビウス』より後のウルトラマンについては考えないし、『ティガ』『ダイナ』『ガイア』も含まない。だからといって以下に展開する議論が、そういった作品にも当てはまらないことを示すものではない。

さて、ウルトラマンとは何者なのだろうか。当然その答えは「宇宙人」ということになる。

なぜ彼らがあのような出で立ちなのか、という点については綿密な設定がある。元々人間と同じような姿をしていたものの、既存の太陽に代わって人工太陽を作った際、それに「被爆」すると巨人になった、というものである。

ここで得た力の強大さ故か、ウルトラマンたちはその力を世界の平和を守るために活かすことになる。そのために彼らは「宇宙警備隊」という組織を結成することになる。

初代の『ウルトラマン』では、このウルトラマンが怪獣を追っている最中、地球の科学特捜隊隊員であるハヤタと衝突。ハヤタを死なせてしまったと感じたウルトラマン一心同体となって戦うことになる。

このような成り行き上、地球に留まる場合もあれば『コスモス』『メビウス』のように意思をもって地球にやってきている場合もある。しかしいずれにせよ共通しているのは、ウルトラマンたちが地球を守ってくれるのは、圧倒的に彼らの善意に支えられる部分が大きいという点だ。

この問題に大澤真幸は、佐藤健志の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』にある、この関係が日米安保条約の比喩であるとの見方に賛意を示した上で次のように書く。

 考えてみると、どうしてウルトラマンは、バルタン星人やベムラーではなく、日本人、というか地球人を助けてくれるのでしょう。

〔中略〕ウルトラマンは地球や、日本人の理念に賛成したわけではありません。たまたま最初の交通事故が地球人だったために、助けている。では別の人にぶつかっていたら、どうなっていたのでしょうか。最初にバルタン星人にぶつかっていたら、違う話になっていたことでしょう。つまり必然性の無い構造になっているのです。

大澤真幸サブカルの想像力は資本主義を超えるか』角川書店、2018年)

これは初代ウルトラマンについての言及であり、全てのウルトラマンに共通するわけではない。例えば『コスモス』で、ウルトラマンコスモスは春野ムサシとの約束を守る形で活躍するのだし、『メビウス』ではウルトラマンメビウスは宇宙警備隊の一員としての役割を全うするルーキーである。

また、このウルトラマンが地球を救うという偶然性日米安保と重ね合わせる見方は、さしあたり留保しておきたい(そして今後も結論を出すつもりはない)。なぜならここでの目的は作品それ自体の構造を取り出すことであり、社会批評の道具としてサブカルを用いることではないからだ。そして『ウルトラマン』の脚本を手掛けた金城哲夫沖縄県出身であることは興味深い事実だし、それが作品の傾向に影響を与えたことは疑いようがないが、作者の意思を読みとる読解は、必ずしも絶対ではないからでもある。

ここで提起しておきたいのは、「外部」というタームである。なぜなら「ウルトラマン」につきまとう偶然性とは、「ウルトラマンが外部の存在である」という一点に起因する。ここからは「外部」の存在が「なぜ」地球にやって来るのか、ではなく、「外部」の存在が地球を守る、という構造の意味を読み解いていきたい。

敵か味方か分からない

ウルトラマンが「外部」の存在である以上、対置される「内部」の市民=私たちにとって、彼らが敵であるか味方であるかは分からない。

もちろん視聴者は『ウルトラ(マン)○○』というタイトルの作品を見ているのだから、彼らが正義のヒーローであると分かる。しかし当然、実際に禍々しい様相の怪物が街を襲い、全身赤と銀の巨人(もちろん多くの例外がある)がそれと戦い始めては、どちらが悪であり、どちらが正義であるかという価値判断は難しい。

実際、『メビウス』においては、宇宙警備隊のルーキーとして地球にやって来たウルトラマンメビウスは最初の戦いで街を滅茶苦茶に壊してしまい、CREW GUYS(クルー・ガイズ)の隊員アイハラ・リュウに非難されることから始まる。その後物語はウルトラマンメビウスが成長していく、という方向で展開していく。

ここで注目したいのは、CREW GUYSである。このように他作品においても、「ウルトラマン」に先駆けて怪獣と戦う存在として科学特捜隊の系譜に置かれる「助力者組織」が配置される。

物語の構造上、こうした「助力者組織」が怪獣に勝利することはめったになく、これを大澤真幸在日米軍に対するところの自衛隊として解説している。

先ほどから用いた「外部」と「内部」の概念の中で、この「助力者組織」はどこに位置づけられるだろうか。

「助力者組織」はどこに

「外部」「内部」という概念を、空間的に宇宙と地球という関係に当てはめてみよう。

ただしこれはかなり簡略化した構図であることにも留意したい。というのも、初代『ウルトラマン』を鑑みれば、その初期怪獣の多くが、宇宙から来たのではなく、地球に眠っていた怪獣を起こしてしまった、という展開を持つからだ。であるからより厳密に言えば、「市民が暮らす社会」と「市民が認知しない宇宙及び神秘的領域」といったことになる。

あえて簡略にこれを宇宙と地球と呼び、宇宙と地球について考えたとき、「助力者組織」はそのどちらに当てはまるのか。

「助力者組織」の特徴は、怪獣たちとの距離感の近さにある。例えば『コスモス』を見てみれば、その「助力者組織」であるTEAM EYES(チーム・アイズ)は、怪獣を駆逐するのではなく、むしろ怪獣を保護することを目的とする(見る=看る=保護する=EYES)。つまり「内部」市民の誰よりも怪獣に近い距離にいる。

一方、その隊員があくまで怪獣保護を絶対としない点、つまりある程度試みてなお保護が難しければ容赦なく怪獣を駆除する点に着目すれば、「内部」から「外部」的異物を排除しようという態度であり、極めて「内部」市民的である。

なお、『コスモス』においてウルトラマンコスモスは「外部」からやってきた者として、同じく「外部」からやってきた怪獣を保護するため奮闘する。

「外部」(怪獣)の存在を「内部」に溶け込ませようという「外部」(ウルトラマンコスモス)の試みを、俯瞰したとき、「助力者組織」はそのどちらともつかない、いわば「境界」上の存在と言うことができるだろう。

今後特撮作品におけるヒーローの存在の問題を、この「外部」「内部」そしてその「境界」という観点から見ていきたい。

 

(「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑵」に続く)

theyakutatas.hatenablog.com

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written by 虎太郎

*1:管見では、アメコミ(ここでは専らマーベル・コミックスを想定している)は、何らかの事情で特殊能力を手に入れた人々が、共同体内部において地位を獲得し、「英雄」と認められるまでの物語を描くことが多い。その点で日本の特撮ヒーローは、必ずしも共同体内部での承認を求めず、孤独に戦いを重ねる「外部」(後述)ないし、「辺境」の存在であり、大きく異なっている。