【漫画評】岡崎京子作品から見た現代の「女の子」

「マンガは文学になった」というコピーとともに度々紹介される漫画家、岡崎京子(1963~)。
彼女は80年代末〜90年代にかけて広く活動し、同時代の女の子たちを描くことで支持を集めたが、現在に至ってもなおその人気は途絶えていない。
このことは、彼女のマンガを原作にした映画の数々『ヘルタースケルター』(2012)や『リバーズ・エッジ』(2018)、そして『チワワちゃん』(2019)が映画化されたのがすべて2010年代であることからもわかるだろう。


東京・下北沢に生まれ育った彼女は、「資本主義」そして「愛」をテーマにした作品を描き続ける。
例えば、代表作『pink』(1989)は、退屈な東京で昼間はOLとして、夜にはホテトル嬢をして働き、欲しいものを好きなだけ買って暮らすユミちゃんの恋物語である。
『チョコレートマーブルちゃん』(1996)では、同じ男に騙された二人の女の子がいわゆる「パパ活」を装って金を奪い取ったりする場面が描かれる。

そんな彼女たちの姿は、一見破天荒で、不道徳で、醜いかもしれない。
しかし一方で彼女たちは、もろくて、はかなくて、やるせない日常を送っている哀しい存在なのだ。


資本主義と「女の子」

「すべての労働は売春である」
『pink』あとがき部分で、フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールのこのセリフを引用している岡崎が描く女の子、ユミちゃんはOLの事務作業も、夜の仕事も、素敵なもの、かわいいもの(pink色のバラの花みたいな)を買うためだから同じじゃない、と言う。

ある日、同僚の女の子たちが、お金が欲しいから玉の輿を目指そうか、王子様を待とうか、なんて話しているのを聞くと、ユミちゃんは悲しくなって、こんな独白をする。

「何かあたしは
なんだかすごく悲しくなって そんなにお金欲しければ カラダ売ればいいのに
と思った
やっぱみんな 
何だかんだいってワガママなくせに ガマン強いんだな 王子様なんか 待っちゃってさ」
『pink』2010年版、154頁

ユミちゃんはガマン強さなんてものからはかけ離れた存在だ。
ペット禁止のマンションでワニを飼ったり、ワニのために部屋をジャングルのように改装したり、大好きなブランドの新作をゲットしたり。

ユミちゃんは、そんな風に「つまんない」労働と消費活動を繰り返す。
けれども、どれだけ好きなものを買って、周りをそんなもので埋め尽くしても、大好きなpink色に囲まれても、一時的に「シアワセ」なだけで、ちょっと時間が経てばそうしたものは、はかなく消えてゆく。永遠を望んだ恋愛さえも。

王子様を待たない、新しいプリンセスの姿である、とディズニー映画『アナと雪の女王』(2013)でも頻繁にフェミニズム的文脈で語られたような自立した女性像に近いといえるのかもしれない。明るくて、流行のおしゃれなものを見にまとい、どこまでも奔放なユミちゃん。
そんな彼女も、都会のジャングルを前にすると、時おり恐ろしい考え事に取り憑かれてしまう。

「ああ
何でこんなにヒトがいるの?
しかも
みんな平和そうなバカづらさげてさあ
うんざり


はじまりそう
あの発作

どうしてあたしはここにいるの? とか
どうしてここに立ってるの? とか
考え出したら止まらない

(中略)

どうしよう どうしよう どうしよう
こわい こわい こわい
だれかあたしをたすけて おねがいです」
『pink』2010年版、215-217頁

このまま労働して、消費して、の繰り返し。で、何になるのだろう。
自分が自分であるとは一体どういうことなのか。
ひょっとすると、いま自分が自分であることに、意味なんてこれっぽっちもないんじゃないか。
そんな問いが頭を埋め尽くす。


それでも、たとえそんな考えに襲われたとしても、彼女は「女の子」として生活していく自分を肯定する。

女の子はきれいにしておかなきゃってママが言ってた、とか、明日の朝くちびるかさかさにしちゃいけないから寝る前にはリップ塗るの忘れちゃいけない、とか、そんな調子でそんな日常を続けてゆく。

これは、女性シンガーソングライターである大森靖子の代表曲「絶対彼女」で歌われたような、不安定な女の子像にも重なる部分がある。
この曲は甘い声で「絶対女の子 絶対女の子がいいな 絶対女の子 絶対 絶対」と半ば狂ったように繰り返すサビが特徴的なのだが、安易に「女の子」を肯定ばかりしているわけではない。
冒頭で「ディズニーランドに住もうと思うの」と宣言したかと思えば、すぐに「ディズニーランドに行ったって 幸せなんてただの非日常よ」とあっけなく斬り捨ててしまう。
特にこのアンビバレントさが表れているのが、次のラップ部分だ。

あーあ女の子ってむずかし
いっつも元気なんて無理だもん
でも新しいワンピでテンションあげて
一生無双モードでがんばるよ!

大森靖子「絶対彼女」(2013)


この「新しいワンピ」だって、結局は資本主義の産物でしかない。
でも、それらが「かわいい」ことには変わりない。
「かわいい」は現代的崇高だと言い換えられるかもしれないし、「オタク」たちにとっての「萌え」の感情に相当するかもしれない。

何にせよ、現代社会を切り抜けるには、何か自分の「好きなもの」の力に頼るほかないというのが、岡崎京子の哲学、いや、言うなれば現代人の哲学かもしれない。
別の短編作品「GIRL OF THE YEAR」では、主人公がこんな言葉をつぶやく。

「…みんな退屈してるんだよ
みんな何かに夢中になりたくて必死なんだよ
そうしないと死んじゃいそうなんだよ
偶像ってゆーの?
アイドルが欲しいんだよ」
『チワワちゃん』(2018年版)収録「GIRL OF THE YEAR」より

ニーチェ曰く「神は死んだ」。
ポストモダンの議論に言わせれば、「大きな物語」も死んだ。
宗教的な意味の偶像や、叶えられるべき物語という名の偶像を失った私たちは虚しくも何かを求めてしまう。何かに期待してしまうのだ。
たとえそれに実は意味がなくとも。


「男」たちと 「女の子」

「女の子」という存在がバカみたいと吐き捨てる対象は、社会や、媚びた女たちだけではないことを忘れてはならない。
他ならぬ、「男」である。

フランスの映画監督、ヴィルジニ・デパントの『ベーゼ・モア』(原作のタイトルは『バカな奴らは皆殺し』。ベーゼ・モアは英語に訳すと"Rape me"である。2000年公開。)が好例だと思うので参照したい。
あらすじは、大切な男に捨てられたのち、殺人を犯してしまった二人の女の子が、運命的に出会い意気投合。盗んだ車であてのない逃避行の旅に出る。現金や銃を強奪し、男を誘惑してセックスしては殺していく。最後には警察にバレて一方の女の子は死に、残る一方は泣きながら逮捕されるという非常に後味の悪い物語だ。
本作は、ただそれだけの映画といってしまえばそうなのだが、ここで「皆殺し」の対象になっているのは、彼女らに誘惑された「男」たち—「おじさん」たちと言い換えてもいいかもしれない—だということに注目したい。

この映画に登場する「男」たちは、女の子たちに、こうあってほしいという彼らの「女の子」像を無理やり押し付ける。
現代日本でもいまだに「セクハラ」に関する報道が後を絶たない上、「モテ服講座」なんて企画がファッション誌に載っているけれど、そんなものは彼女たちに言わせればバカげている。

もちろん、『ベーゼ・モア』の主人公たちのようにわざわざ「理想の女」を演じて男性を誘惑しておいた挙句、態度を豹変させて殺してしまうという行為それ自体は自分勝手もいいところだし、極悪非道の限りを尽くしていると言われて当然ではある。

しかし、『ベーゼ・モア』ほど極端に、とは言わずとも、「女の子」は少なからずそうしたものに縛られ、苦しみ続けているといえるのではないだろうか。


岡崎京子作品でもその苦悩は同様である。
大半の女も男もバカで、特にその中でも「おじさん」いわゆる「エロオヤジ」みたいな存在は一番バカで、軽蔑の対象の最高位を誇る。
そんな状態でも、彼女らが「愛」の感情を抱く大切な恋人は存在している。
でも彼らもまた、救いにはならない。

例えば、『pink』のユミちゃんの恋人、ハルオくんは交通事故に巻き込まれて死んでしまう。
そのほかの作品でも、「男」は女の子たちを裏切るか、もしくは女の子をこの世界に残して死ぬか、しかしてくれない。

まるで、『気狂いピエロ』『軽蔑』『勝手にしやがれ』など、ほとんどの有名作品で「男を裏切る女」を登場させた、ゴダールのちょうど対極にあるようだ。




日々の労働は恐ろしく退屈で、周りはバカばっかりで、恋もするけど結局は誰にも頼れなくて、だから王子様を待つなんてこともしない。

でも、「女の子」を処世術的に演じることで、
そして、稼いだお金でかわいいものや美味しいものを手に入れることで、

刹那的な幸せを手に入れて、生きてゆく、これを繰り返す。

これこそが、「現代の女の子」の姿なのかもしれない。


written by 葵の下