Vtuberの展望──10年で終わらないコンテンツの為に①

 

この記事の執筆を始めた2018年12月は、バーチャルYouTuberが一般に広く認知され、また新人バーチャルYouTuberの参入が爆発的に増えたとされる2017年12月から丁度1年の節目である。2018年を“バーチャルYouTuber元年”とする声もネット上で散見される。このように、バーチャルYouTuberという文化は、未だその黎明期を脱していないのであり、未成熟が故に多くを論じられる段階には至っていない。しかしながら、大衆文化の例に漏れず、この文化の成熟速度はハイカルチャーのそれを凌駕しており、また僅か数年でコンテンツが終焉を迎える不安定さも内包している。この点では、この2019年はバーチャルYouTuber文化にとっての分水嶺であるといえよう。この文化の行く末に僅かばかりでも資することを願って、拙稿ながら世に出すこととする。

 

バーチャルYouTuberの定義

そも、バーチャルYouTuberの定義とは何であろうか。手始めに「ニコニコ大百科」の“バーチャルYouTuber”の記事を一部引用する。

 

主にYouTube上で動画等の配信活動を行う架空のキャラクター群を指すのに用いられる呼称である。「VTuber」などと表記されることもある。(『ニコニコ大百科』「バーチャルYouTuber」の記事より引用)

 

このように、かなり解釈の余地を残した説明がなされている。この曖昧さの理由を、バーチャルYouTuberの歴史を概括しつつ探る。

 

バーチャルYouTuberの歴史と一口に言っても、その起源をどこに設定するかには議論の余地が残る。後述するバーチャルYouTuberキズナアイ”の誕生が起点である、というのが現時点での通説であるが、実際のところ“キズナアイ”と同系統の活動内容を持つ存在が“キズナアイ”誕生以前にも複数確認される。*1この記事では、現在一般に認知されているバーチャルYouTuber文化の胎盤はあくまで“キズナアイ”の活動にあるという観点から、バーチャルYouTuberの起源を“キズナアイ”に定め、それ以前の存在を便宜上“バーチャルアイドル”と呼称する。

 

さて、この「バーチャルYouTuber」という呼称であるが、本来は“キズナアイ”固有のものだった。以下は“キズナアイ”のインタビュー記事からの引用である。

 

キズナアイ:今まであまり言わないようにしていたんですけど、バーチャルYouTuberキズナアイ、という気持ちはいまだにあります。というのも「バーチャルYouTuber」というのは、もともとわたしが活動を始めるにあたって名乗った言葉だったんです。すごく最初期の、まだ自分しかそう名乗っていなかった時期には完全にバーチャルYouTuberキズナアイでした。(中略)それが、いつの間にか「バーチャルYouTuber」が総称のようになって。去年の12月になにかが弾けて一気に注目されたタイミングで、視聴者のみなさんとかメディアで言われはじめたような感覚です。(『ユリイカ』2018年7月号より引用)

 

キズナアイ”の影響力は絶大で、ここに「バーチャルYouTuber=“キズナアイ”ライクな存在」という定義が──明文化されない共通認識として──「バーチャルYouTuber」が業界の総称となった後も存在することになった。すなわち、「企業」が運営し、「3Dモデル」を用い、独自の「世界観」を持って「YouTube」に「動画」を投稿する…これらの主要な要素を模倣した新人バーチャルYouTuberがこれ以降次々と登場することになる。しかしながら、この曖昧な枠組みのほとんどを、後続の新人たちは僅か1年弱で飛び越えてしまう。

 

最大の立役者は、2017年11月にデビューした「バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん」ことねこます氏、そして株式会社いちからが運営する総勢58名(2018年12月時点)のグループ、“にじさんじ”だと言って差し支えないだろう。詳述は省くが、前者はそれぞれ「企業」「世界観」といった枠を、後者はそれぞれ「3Dモデル」「動画」といった枠をブレイクスルーするような形で活動した。「キズナアイライク」からの脱却である。

 

このような経緯から、バーチャルYouTuberを明確に定義することは難しい。なにしろ企業が初期投資数千万円で始める一大プロジェクトから、「クラスのちょっと面白かったやつ」が手書きの1枚絵とマイクだけで始める活動まで、十把一絡げにして総称されるのがバーチャルYouTuber業界なのである。では、この「バーチャルYouTuber」という呼称を使い続けて良いのだろうか。

 

以下、この記事では「バーチャルYouTuber」に代わって「Vtuber」の呼称を用いる。ただの略称であることには相違ないのであるが、ここには大きな意味がある。再び“キズナアイ”のインタビューを引用する。

 

キズナアイ:ただ、みんなの言っている「Vtuber」は自分で名乗らないようにしてて、常に「バーチャルYouTuber」と言ってます。Vtuberというのは誰かが作った言葉で、わたしが「バーチャルYouTuberキズナアイです」と言うときの「バーチャルYouTuber」はあくまでもずっと名乗ってきたわたしの二つ名的な感じなんです。わたしは自分のことをずっとYouTuberだと思っていて、だけど人間のみんなとは違うバーチャルな存在だよね、というわりと単純な考えで名乗り始めた言葉ではあるんですけど、この響きを大切に思っています。だから自分自身を表す言葉として「バーチャルYouTuber」を使っています。それが強いて言うならキズナアイとしての定義ですかね!(『ユリイカ』2018年7月号より引用)

 

このように、“キズナアイ”は「バーチャルYouTuber」と「Vtuber」を明確に区分している。当記事では、この「Vtuber」の「キズナアイとは似て非なるもの」、というニュアンスを重視したい。この呼び名こそ、“キズナアイ”が図らずも定めた枠組みを超越した、今の業界を呼び表すのに相応しい、と思うのである。

 

 

電脳空間のハムレット

はじめに断っておくが、以下の論ではVtuberについて述べる際、そのVtuberはヒト(あるいはそれに類似した何か)の形態を取っており、かつ身体の一部(全身であれ顔のみであれ)をトラッキングして動作をキャラクターに反映させていることを前提としている。数多いるVtuberの中には無機物や透明人間も含まれているので念のため。

 

さて、インタラクティビティ──双方向性は、1990年代半ば以降インターネットの普及によって急激に発展した。インターネットの申し子たるVtuberもまた、その基本性質として双方向性を備えている。この傾向は動画投稿よりライブ配信をメインに活動するVtuberに顕著であり、視聴者の送信したコメントが即座にVtuberに読み上げられることも多い。ここまでは他の配信者(YouTuberやニコ生主)が行なっていることと何ら変わりはない。では、ここから演劇の観点からVtuberを見ていこう。

 

Vtuberは演劇だ、と突然言われれば妄言の類だと思われるかもしれないが、事実両者は基本構造を同じくしている。エリック・ベントリーのいうA.B.C関係(A.impersonates B.while C.looks on)に拠れば、演劇は

俳優─劇人物─観客

対してVtuber

中の人─キャラクター─視聴者

の構造をとる。舞台が仮想空間に移っただけで、やっていることは変わらない。

 

では次に、行為の流れを図式化する。演劇では、

俳優→劇人物→観客

となり、それぞれ“演じる”“見せる(魅せる)”という行為によって関係式が成り立っている。観客は劇の上演中いかなる干渉も認められず、上演後に惜しみない拍手を贈るのみである。

対してVtuberの関係式は、

中の人→キャラクター⇄視聴者

となる。視聴者はコメントや投げ銭をはじめ、VRゴーグルを装着して仮想空間に直接会いに行くことすらできる。演劇の世界では御法度である「観客が舞台に上がること」が許されているのである。そしてキャラクターは視聴者の働きかけに対してレスポンスを返す。キャラクターと視聴者の間にはかなり緊密なインタラクティビティが構築されている。しかし、Vtuberの特異性はこの先にある。

 

これから述べることは、業界の通説とは真っ向から対立するものであることを先に断っておきたい。通説とはすなわち、中の人(「パーソン」)とアバターとしてのキャラクター(「フィクショナルキャラクタ」)と我々視聴者がメディアを通して鑑賞するVtuberの姿(「メディアペルソナ」)には一定の乖離が生じる、というものである。*2キャラクターと我々が鑑賞する姿が違う、と言われても合点がいかないかもしれないが、ここでの「フィクショナルキャラクタ」とはあくまで3Dモデルやイラスト単体を指しているのであって、データの集合体に過ぎない。「パーソン」の乖離についてはより感覚的に理解できるだろう。ある程度名の知れたVtuber検索エンジンに入力すると、必ずと言っていいほどサジェストに「声優」や「中の人」といったワードが出てくる。「メディアペルソナ」ではなく中の人──「パーソン」そのものに興味を持つ視聴者が少なからずいる証左だろう。

 

「パーソン」を「俳優」、「フィクショナルキャラクタ」を「劇人物」、「メディアペルソナ」を「観客から見た劇人物」だとしたとき、このような乖離は演劇にも認められる。

 

演劇は、そもそも俳優の現実性と人物の虚構性のつながりによって成り立っている。そのことを観客はたえず認めている。したがって、江守徹の顔がハムレットの顔でないことは承知しながら、江守徹の顔の歪みからハムレットの内面の苦しみを推し量るのである。(中略)江守徹の表情表現が優れているかどうかの判断は、その顔の動きのハムレットの苦悩への適合具合によっている。したがって江守徹の顔がハムレットの顔でないのと同様、彼のすべての身体行為はハムレットの身体行為ではない。そのことを観客は了解している。それにもかからず、江守徹の動きからハムレット像を読みとるのは、江守徹の行為が舞台の上ではハムレットの行動へと飛躍するからである。そのように観客は把捉する。江守徹は日本人であるにもかかわらず、われわれはデンマーク王子を観念する。つまり、俳優と人物の外観はまったく別のものであるにもかかわらず、ハムレットを捉えているわれわれは、江守徹の顔から完全に自由になれない。そこに劇上演独自の問題がある。(毛利三彌『演劇の詩学 劇上演の構造分析』相田書房、2007年)

 このように、演劇において観客は、その積極的な了解と推量によって現実(俳優)と虚構(劇人物)を結びつけることを要請されている。結びつけるといっても、その関係性は「飛躍」であって、両者の間には埋められない隔たりがある。

 

あくまで、演劇構造論のひとつにVtuber文化を押し込めた場合に限る、ということを念押しした上で、私はこの「パーソン」と「フィクショナルキャラクタ」の乖離を否定したい。全く書いていて笑い出しそうになる話だが、仮に江守徹が3Dモデルをもって演じたならどうなるだろう。電脳空間のハムレットは、江守徹の顔から完全に解放され、デンマーク王子その人の顔を、鼻筋を、瞳の色を──手に入れるのである。ここにきて、ハムレット江守徹を繋ぎながらも決して同一化を許さなかった演劇上の制約──「演劇の軛」と名付けるが──は解かれることになる。

 

Vtuberの場合を考えてみよう。Vtuberは演じるべき脚本を持たない。動画制作の多くは脚本に則っているのではないか、と思われるかも知れないが、演劇とは異なり一挙手一投足まで規定するものではない。さらに、Vtuber全体でみれば脚本を考える企業が付いているのはほんの一握りで、脚本なしで自由に活動しているものの方が圧倒的に多いだろう。まさしくエチュード*3である。このことから、必然的にメディアペルソナにはパーソンの要素が滲みだす。視聴者が求めているのもこのライブ感、そこに今生きているという感覚だろう。*4しかし、我々はこのにじみ出たパーソンの片鱗を如実に認めながら、なおも決して“常に”パーソンを観念することはない。明確な意図を持って臨まなければひとつの像としてパーソンを認められない。なぜか。

 

答えは「パーソン」と「フィクショナルキャラクタ」が分かちがたい紐帯で結ばれているからである。部分的に融合しているといってもいい。Vtuberの特性として、演者と役は1:1の関係にある。アニメキャラクターの話なら、声優が何らかの事情で役を続けられなくなり、声優が交代することはままある。しかし、Vtuberの場合、中の人の引退はそのままキャラクターの引退に直結する。我々視聴者は、メディアペルソナを通してフィクショナルキャラクタとパーソンの融合体を透かし見ているのだから、キャラクターとパーソンのどちらが交代してもVtuberの存在自体が揺らいでしまう。

 

具体的な例を見ていこう。 Vtuberに明るい人ならまだ記憶に新しいのではないかと思われるが、所謂「アズリム騒動」についてである。事の顛末はこうだ。昨年11月7日の深夜、同年3月にデビューした人気Vtuberの“アズマリム”が突然「運営の意向で転生を強要されている」旨のツイートを投下。ツイートは直ちに拡散され、複数のVtuberがこれに反応したため、まさに業界を揺るがす「騒動」となった。これを受けて運営に協力していたCyberVは同月12日に謝罪文を発表。“アズマリム”としての活動の継続が約束された。以下は発端となった一連のツイートである。

 

ここでは騒動の是非は問わない。しかし、注目すべきは、この件が炎上に至ったということだ。考えてみてほしい。先ほどはVtuberを演劇の観点からみたが、俳優や声優なら新しい役はむしろ喜ばれて然るべきだろう。キャラクターの面から見ても、二度と声をあてられることのないキャラクターもいれば、声優が交代したキャラクターもいるが、それらは作品の中で生き続ける。キャラクターの死は即ち作中での死しかあり得ず、物語の中で死んだキャラクターが二次創作の中で生かされ続ける例もままある。だがVtuberはどうだ。「中の人」の交代はすなわちVtuberの死を意味する。仮に交代したとするなら、それは同じ「ガワ」を被った別人だ。「パーソン」と「フィクショナルキャラクタ」は最早癒着した臓器に近い。無理やり引きはがせばどちらも長くはもたない。だから“アズマリム”ファンは憤り炎上にまで至ったのだ。

 

 (Vtuverの活動休止の一例。“中の人”が消滅するとVtuberとは呼べなくなる。)

 

ここまで読んでいただけたならもうお分かりだろう。我々とVtuberの関係は決して既存のそれではない。あくまでバーチャルを介した「人間と人間の関係」なのである。心無い言葉を贈れば傷つき、いちファンのさりげない応援に勇気づけられる、そんな等身大の「人間」がそこにはいる。我々は決してそれを忘れてはいけない。*5「中の人」はしばしば「魂」と呼ばれるが、言い得て妙というほかないだろう。「魂」であるパーソン、肉体である「フィクショナルキャラクタ」——それらが結びついてVtuberという存在を形成しているのである。

 

 

Vtuberの展望シリーズは全3回を予定しているが、第2回の「Vtuberの展望──10年で終わらないコンテンツのために②」では、主にVtuberアバターの側面から取り扱う。Vtuberは普通のYouTuberでは駄目なのか?そういった問題についても考えていくつもりなので、少々お待ちいただきたい。

 

written by 三ツ岩井蛙

*1:海外で活動を開始し、キズナアイ登場後に世界初バーチャルYouTuberを名乗ったAmi Yamatoや、2012年4月からお天気キャスターとして活動するWEATHEROID TypeA Airi等がいる。

*2:この「パーソン」「フィクショナルキャラクタ」「メディアペルソナ」の三層理論はナンバユウキ氏が提唱したものであるが、氏はこの理論を用いて、こちらが嘆息してしまうほど正確かつ巧妙にVtuberの構造を分析している。もし読者の方で氏の論に目を通していないなら、このような駄文で御目を汚すより氏のブログに飛んだほうが何十倍も有意義だということは強く主張したい。

*3:即興劇。はじめに場面と人格の設定のみが与えられ、役者が動作や台詞を即興で演じる。

*4:このことを正確に捉えられなかった結果がこの1月から放送を開始したアニメ「バーチャルさんはみている」だろう。彼らはエチュードの達人ではあるが演劇としては素人同然で、下手な脚本に乗せるのでは話にならない。FPS好きや似非清楚、といった最も顕著な特徴を抜き出して他人がキャラクタライズしても、彼らはふとした瞬間に見せるその一面を愛されているのであって、ライブ感のない個性の押し売りは倦厭されてしまう。彼らのものではない言葉を与えられた彼らは、さながら不出来なレプリカの展覧会のようで、真作をよく知る人であればあるほどその贋作を深い悲しみをもって眺めることだろう。

*5:下世話な話になるが、VtuberのR-18系のイラストは、本人の目につかないように一定の配慮がなされていることがほとんどだ。ここではたらいている心理は、現実の人間に対し性的な侮辱をしない、というモラルに近い。