【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑵


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 軍隊ではない

「境界」の組織

多くの「仮面ライダー」作品と「ウルトラマン」作品の最大の違いは、この「境界」としての助力者がいかに組織化されているか、という点に尽きる。

仮面ライダー」シリーズで助力者とは、ヒロインをはじめに数名を指すことが多い一方、「ウルトラマン」シリーズではかねてから科学特捜隊に連なる、国際的な研究・軍事機関が助力者組織として活躍してきた。

なぜ「組織」でなければならないのか、ということを考えるために、まず「助力者組織」が多くの場合「国際機関」であるというところに注目したい。

先述の通り「ウルトラマン」シリーズの歴史とは血塗られているが、だからこそ「ウルトラマン」は戦後民主主義的なイデオロギーを反映しなくてはならない。つまりそうした「助力者組織」が「国際機関」でなく、国家権力=暴力装置だとしたら、それは暴走の可能性をはらむ。つまり、怪獣を倒す行為が正しいという担保が得られない。

つまり「ウルトラマン」シリーズにおける「正義」とは、「国際機関」という観点によって担保されている。

この点について、斎藤美奈子の鋭い指摘があるので引用しておきたい。

 男の子の国*1の主役は「国際的」な軍事組織だ。〔中略〕

 注意すべきはこのチームの形態である。軍隊であるから当然だが、男の子の国のチームは、およそ民主的とはいえないピラミッド型のタテ型組織だ。主役である五~六人のチームは、人数から考えて、軍のいちばん小さな単位=分隊に該当しよう。〔中略〕われらがチームは、巨大な官僚機構の末端組織にすぎないのだ。

 人類を危機から救うという使命を負っているのだから当たり前だと思うかもしれないが、ヒーローのチームがヒモつき=親方日の丸(親方国連旗か)でなければならない理由はない。〔中略〕公的な組織だけあって、最先端の設備を備えた立派な作戦本部を有しているのは強みだが、われらが男の子の国のチームが、「寄らば大樹の陰」的な体質であることは注目に値しよう。

斎藤美奈子『紅一点論』ビレッジセンター出版局、一九九八年(ここではちくま文庫、二〇〇一年を参照))

しかしなぜ「国際的」な軍事組織である必要があるのか、と言えば、「国際的」ということによって彼らの判断がオーソライズされる、ということこそが重要なのではないか。実は同じ著作中で、斎藤美奈子は次のようにも書いている。

 ところで、敵とはなんだろうか。「侵略者」とはいうものの、視覚的にみれば、敵とは自分とは異なる外観、自分の尺度にあてはまらない姿をしているもののこと、である。怪獣・怪人・怪ロボット、いずれも動植物や機械が進化しそこねているような異形の者である。男の子の国の戦いとは異質なものを排除する戦争のことであり、男の子の国がいう正義とは、「地球ナショナリズム」ないし「人類エゴイズム」の別名だといえよう。

斎藤美奈子、前掲書)

「侵略者」を「敵」たらしめるのは、一種「地球ナショナリズム」「人類エゴイズム」とでも呼ばれるべき「正義」に合致するか否か、である。しかしその「正義」が「自分とは異なる外観、自分の尺度にあてはまらない姿」だとすれば、「ウルトラマン」さえ「敵」だと言うことになる。そこで「ウルトラマン」は「正義の味方」であり、「地球」に襲来する怪獣は「敵」であると判断するのは、「国際的」であることによってオーソライズされた「助力者組織」である。つまりそこにこそ「国際的」である必要性、言い換えれば「全地球的」=「全人類的」である必要性があるのだろう。

なぜ「国際的」であればオーソライズされるのか。もちろんそこには、日本が国際連盟を脱退し、国際協調主義に対する形で戦争に突入していったという歴史へのアンチテーゼとしての意味合いもあるのだろう。それに加えて、次の福嶋亮大の記述を参照したい。

 現に『ウルトラマン』では、化学に対する強い信頼が、曇りのない明晰な世界を作り出している。怪獣退治と超兵器の開発に勤しむ科学特捜隊は、パリに本部があり、しばしば国外からも客が訪れる国際的組織だとされる。このきわめて楽天的なインターナショナリズムは、〔中略:影響を与えたとされる作品〕から引き継がれたものだろう。これらの映画は宇宙という「敵」を仮構し、科学を人類の共通言語とすることによって、日本を含む地球全体を「友」としてまとめた。ここでは日本はもはや屈辱的な敗戦国ではなく、科学によって統一された「世界」という高次の共同体の一員にまで引き上げられている。

福嶋亮大ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』PLANETES、2018年)

この「世界」とは先述した「内部」と同じだと考えて構わない。つまり、科学特捜隊に連なる「助力者組織」とは、「内部」と「外部」の「境界」に存在し、「外部」の善悪を判断する役割を担うと同時に、「内部」を「友」としてまとめあげる国際協調の役割すら兼ねていたという指摘である。

 そうした「国際的助力者組織」が端的に現れたものとして、先ほどから数回例に挙げている『コスモス』『メビウス』を見ていきたい。

「助力者組織」と善悪の地平

「良い怪獣」を判断する「助力者組織」

『コスモス』の「助力者組織」とは先に述べた通りTEAM EYESであるが、それはSRCと呼ばれる国際機関の特殊部隊である。SRCとはScientific Research Circleの略。しかしこれと時に敵対する組織として統合防衛軍が置かれている。

そもそも『コスモス』における怪獣とはSRCなどによる保護の対象であったはずが、カオスヘッダーと名づけられた敵の影響で凶暴化したものである。端的に言えば、怪獣たちの秩序ある生活が「カオス(混沌)」に陥ってしまう。その後、そのコスモス(秩序)を取り戻すために戦うヒーローこそが、ウルトラマンコスモスなのだ。

それが可能かどうか、つまり怪獣の本来のコスモス(秩序)の中に生きる姿に期待をかけるSRCと、早々に共存の道をあきらめる日本の統合防衛軍という対決構造が見て取れる。

怪獣とは本来凶暴ではない、凶暴ではない怪獣もいる、という想像力は、「ウルトラマン」シリーズにそもそもあるものだった。

例えば従来の「ウルトラマン」シリーズに対して総括的に制作された『メビウス』では、『セブン』に登場したカプセル怪獣が再登場した。これはウルトランメビウスを援護するために、CREW GUYSの隊員たちが使う怪獣である。

この怪獣を悪と断じられない、ウルトラマンの性質について、宮台真司の指摘がある。

〔前略〕『ウルトラマン』ではガバドンウルトラマンにやっつけられそうなのを見た子どもたちが「ガバドンは何も悪いことしてない!」と叫びます。ここでは共通して善と悪の対立という世界観から一度退却する構えが示されます。僕はここに古来の伝統を見ます。

 ジェノサイド(全殺戮)を嫌い、シンクレティズム(習合)を志向する構えです。民俗学者歴史学者の一部は、その由来を、縄文文化における強い祟り信仰にまで遡ります。こうした歴史学的仮説の是非はともかく、善悪二元論から距離をとって共存可能性を志向する「オフビート感覚」が、日本の映画にも長い間とても強く刻印されてきたと感じます。

宮台真司「かわいいの本質 成熟しないまま性に乗り出すことの肯定」(東浩紀編『日本的想像力の未来 クールジャパノロジーの可能性』所収、NHKブックス、2010年8月))

ウルトラマン」シリーズの本質とは、「外部」からやってくる侵入者をとりあえず殺す「ジェノサイド」ではなく、さしあたり共存を模索するという「シンクレティズム」にこそある。そのことは先程から取り上げている『コスモス』が良い例だし、他の作品においても多くの実例が見られる。

さて、「外部」(怪獣、ウルトラマン)─「境界」(助力者組織)─「内部」(市民)の構造が共存を志向すると考えたとき、振り返るべき議論がある。河合隼雄の「中空構造」をめぐるものである。

〔前略〕日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存し得る可能性をもつのである。つまり、矛盾し対立するもののいずれかが、中心部を占めるときは、確かにその片方は場所を失い抹殺されることになろう。しかし、あくまで中心を空に保つとき、両者は適当な位置においてバランスを得て共存することになるのである。

河合隼雄「中空構造日本の危機」(『中空構造日本の深層』中公叢書、1983年。初出は『中央公論』1981年7月))

同書において河合隼雄は、日本神話において三兄弟などの神々の真ん中に当たる神の存在感が薄いことを取り上げ、これこそが日本的な「中空構造」であるとしている。そしてそれこそが、相対する両者をバランシングする役割を担っているというのである。

つまり、本来「内部」における市民と、「外部」における怪獣やウルトラマンは矛盾し、対立したとしてもおかしくないのだが、その間に「境界」上の「助力者組織」が存在するからこそ、そして彼らがあまり活躍せず存在感を発揮しないからこそ、その「共存」が模索されるのである。

では「助力者組織」などは置かないか、徹底して存在感を消し去ってはどうなるのか。河合隼雄は次のようにも指摘している。

〔前略〕中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば、無であって有である常体であるときは、それが有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。後者のような状態に気づくと、誰しも強力な中心を望むのは、むしろ当然のことである。あるいは、中空的な状態それ自身が、何ものかによる中心への侵入を受けやすい構造であると言ってもよい。ここに中空構造を維持することの難しさがある。

河合隼雄、前掲書)

中空としての「助力者組織」

こうした河合隼雄の指摘が「ウルトラマン」シリーズにおける「助力者組織」について示すのは、第一に、「助力者組織」が無くては「内部」(市民)と「外部」(怪獣、ウルトラマン)の対立が本格化し、「ウルトラマン」シリーズが「ジェノサイド」の物語になってしまう、ということである。

第二に、「助力者組織」を強力にしたい、あるいはそこに入り込みたいという周囲の欲求が存在している、ということである。

この点について、例えば『コスモス』を見れば、SRCのまさに中空的な活動に対して苛立ちを覚えた統合防衛軍は怪獣に対して実力行使をしようと試みる。また怪獣が「助力者組織」に入り込み、懐柔するといったような例は、「ウルトラマン」シリーズ全体において、枚挙に暇がない。

河合隼雄は「中空構造を維持することの難しさ」を指摘しているが、では、「ウルトラマン」シリーズにおいて、その「中空構造」を維持せしめているのは、どういった要素なのだろう。

 

(「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑶」に続く)

 

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written by 虎太郎

*1:斎藤美奈子は同書中で、「子ども向けの特撮&アニメの世界」を「アニメの国」としたうえで、その中で男の子向けの物語の世界を「男の子の国」(代表例は「変身ヒーローもの」)、女の子向けの物語の世界を「女の子の国」(代表例は「魔法少女もの」)としている。