【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑶


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ウルトラマン」のディスコミュニケーション

「変身する」ということ

考えてみれば、「変身する」とはどういうことなのだろう。

他のヒーローと圧倒的に違うのは、「ウルトラマン」では変身後、言語を介したコミュニケーションができなくなる点だろう。

この点についてアニメ「銀魂」第九三話「ヒーローだって悩んでる」を参照したい。

この話は、スペースウーマンというウルトラマンを模した女性キャラクターが、バレンタインのチョコレートを坂田銀時らの住むよろづ屋に落としてしまうところから始まる。

話を聞くに、彼女は妻のある男性を好きになってしまい、男性からも「別れるから」と言われずるずる関係を続けていたものの、ついに耐え切れず、たまたま会ったチェリー大佐という、あろうことか怪獣の親玉に恋してしまったという。

スペースウーマンは敵の親玉を引きずり出すため、敵の怪獣を倒してきた。彼女は宇宙の平和を守っているのではなく、自分の恋愛のために戦ってきた。その結果、バレンタインの日、晴れてチェリー大佐を引きずり出すことに成功し、チョコを渡し告白する算段だったのだ。

しかしそのとき、かつて愛していた男性が再び戻ってきて「妻と別れたからよりを戻したい」と言う。三分に一度母親に電話しなくてはならないようなスペースウーマンは、今後の安定のためにその男性と結ばれるか、目の前のチェリー大佐に告白するかで逡巡する。しかし彼女は、今の恋愛感情を優先させることになる。

そこで場面は一点。江戸の町がどこかの高校に変わり、キャラクターは制服を着て、みな同じサイズになっている。生徒たちはチョコを落としてしまったスペースウーマンに、自分たちのチョコを渡し、告白するよう応援する。

いざ告白したスペースウーマンだったが、それをチェリー大佐は「重たい」と返事をし、それに怒ったスペースウーマンはたちまちチェリー大佐を倒してしまう。

この話の面白さは、いわば「ウルトラマンが人間臭い」という点に尽きる。緊張の緩和が笑いを生むのだとすれば、「ウルトラマン」であるという緊張が「人間臭い」という点で緩和されているのだ。

しかし翻って「ウルトラマン」について言えば、「ウルトラマン」は「人間臭くない」のである。

ウルトラマン」の恋愛を想像することは難しく、ただひたすらに宇宙や世界の平和という職務に邁進しているように思ってしまう。いわば神性を「ウルトラマン」に仮託しているのである。

その点で考えると、人間が「ウルトラマン」に変身する、というのは神性を発現する、ということであると分かる。

「発現」という語を選んだのはなぜか。「ウルトラマン」が変身するシーンを思い浮かべて欲しい。右手を突き上げ、上昇してくる巨人。背景は抽象的で、都市の風景などではない。いわばあのシーンは、街の中にいる小さな人間が、何らかの方法で大きくなっている、というより、個人の内面の中で、押さえつけられた「ウルトラマン」が発現してきた、という方がしっくり来ないだろうか。

個人の中の神性が発現した結果が「ウルトラマン」である。それは恐山のイタコのようなものを想像してもいいのかもしれない。

アイデンティティはどこに

変身者は人間であるから、コミュニケーションを取ることができる。しかし「ウルトラマン」になるとディスコミュニケーションが成立する。いわばこれは人々と神のディスコミュニケーションと言い換えてもいい。旧約・新約聖書からコーランに至るまで、人々は神の声を聞くのではなく、それを媒介する預言者を求めてきた。

あくまで預言者だったはずのイエス・キリストは、その存在自体が神性を持つとされ、三位一体説の中で神格化が強化されてきた。ではウルトラマンの場合はどうか。

ウルトラマン」という名称を提起するのが、変身者の場合がある。第一話で登場した巨人を、変身者が「あれは『ウルトラマン』です」と名付けるのだ。これは「ウルトラマン」と内部の存在を媒介する、預言者的性格を保っていると言えるだろう。

そのとき、あくまでドライな無神論的に考えれば、預言者の発言とは、あくまで預言者のなかにある「神的な」部分が発現してなされたものであり、(時に無意識下で行われる)妄想である。

無神論的糾弾は、ときに「ウルトラマン」にも向けられる。彼らは往々にしてシリーズ中で「変身できない」という状況に陥る。いわば預言者の敗北である。

そんな「ウルトラマン」のアイデンティティとは、変身者が正真正銘「内部」の人間である場合、むしろその人間にこそ帰せられるべきものである。

「兵器」という側面としての特撮ヒーローについては後述するためここではあくまで軽く言及するのにとどめておくが、「ウルトラマン」とは人間に依存した「兵器」なのである。

ウルトラマンとは何者か」

大江健三郎の指摘

ここまで「ウルトラマン」について考えてきたところで、そろそろまとめに入らなくてはならない。そこで、大江健三郎が「ウルトラマン」について批判的に論じた文章を、改めて批判的に検討することで、そのまとめに替えたい。

まず、その論考とは次のように始まる。ここからはどれも長くなるが、引用していく。

 子供のための文学、映画、劇が、大人によってどのように造られるか? そこには単純な構造の、しかし複雑な課題がこめられている。それは子供の眼、意識が受けとるべきものを、大人の眼、意識によって造るものであるからだ。子供と大人のあいだの、たがいに排除しあう境界線がはっきりしないような、「子供大人」あるいは「大人子供」の幻的人格が造ったものには、どこかいかがわしいところがある。子供の想像力を解放する作品は、自立している大人の想像力によって造りだされねばならない。それは単純な原則である。しかし、大人になることは、子供であることの否定に立っているのであるから、また大人が子供に仮装してみることではなにも解決しないのであるから、ことは複雑になる。子供の想像力は、大人の想像力とつながった同一地平にあるものなのだろうか?

大江健三郎「破壊者ウルトラマン」(『状況へ』所収、岩波書店、1974年))

この問いかけから始まる文章は、基本的に、「ウルトラマン」が喜んで子供たちに受容される現状への危機感を語る。

 いうまでもなく怪獣映画は、怪獣群のみによってなりたっているのではない。〔中略〕怪獣たちが、おそるべきエネルギー量をたくわえ、およそ動物的限界を超えた、全地球上の鯨の力の総和にもあたるような体力をそなてすらいるにもかかわらず、ほとんどつねに実在の動物(あるいは想像された前世紀の動物)を思わせるところを〔中略〕残しているのは、誰もが見知っていることであろう。ところが、かれらと闘うウルトラマンミラーマンのたぐいは、たとえ人間のかたちをしていても、むしろ怪獣の逆に、まったく哺乳類くささのないのが通例である。かれらは科学の匂いをたてている。

大江健三郎、前掲書)

大江健三郎における「鯨」というモチーフがいかに大切であるか、という点については、並み居る文学研究者に明らかにしていただくとして、注目したいのは、彼が怪獣にそれに勝るとも劣らない体力を見ている点である。そして、その指摘通り、たしかに怪獣は、あくまで「地球的」なキメラとしての側面すら垣間見える。

一方「ウルトラマン」は「哺乳類くさ」くない。銀と赤、時々青で塗られたその巨大な体躯は、科学の力=人工太陽に被爆したという理由によって得られたものであった。そんな「ウルトラマン」を大江健三郎は「科学の精」と呼ぶ。

「科学の精」とは、先ほどまで僕が「ウルトラマン」を神性をまとった存在としていたことと通底している。大江はその超越性を「科学」に見ているのに対して、僕は「ウルトラマン」が「外部」の存在であり、変身者の内部から「発現」する存在であるというところに見た。

大江はこうも語る。

 そのように都市破壊が繰りかえされる光景を見ながら、ついに僕のオブセッションになりおおせたのは、この大規模な破壊のあと、都市を再建することがいかに困難で厄介な大仕事であろうか、というもの思いなのであった。広島においても長崎においても、原爆後の人間の営為に関して、もっとも感銘深いのは、そこで人びとがいかにかれ自身を再建し、都市を再建して行ったかの現実的細部にほかならない。おなじく文字どおりの瓦礫の荒野から、米軍占領のもとに日本政府から見棄てられて、なお都市を村を、学校を墓を、すべての人間的環境を回復して行った沖縄の人びとの営為についてもおなじである。

大江健三郎、前掲書)

そして大江は、怪獣たちが破壊した街が、次には元通りになっているウルトラマンの世界を批判する。

平成になり、『コスモス』などでは、正しくその名がコスモス(秩序)であるように、廃墟を元通りにするシーンが描かれた。この「再建」があまりにスムースすぎるという批判は、「ウルトラマン」自身も受け止めていたのである。

再び元通りにすること。その困難さを受け止めて物語を終える映画『シン・ゴジラ』についてはあとで言及するとして、それよりも先に、「次の週には元通り」になってしまう物語の不可解さを、むしろ物語の構造のなかに取り込んだのがアニメ「SSSS. GRIDMAN」であった。次はこのアニメについてじっくりと見ていきたい。

 

(「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か」終わり)

 

written by 虎太郎

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