【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑷

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同盟を結ぼうか

「UNION」

ではここで、アニメ「SSSS.GRIDMAN」のオープニング主題歌だった、大石昌良の作詞作曲による「UNION」の冒頭を見てみよう。

目を醒ませ

僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ

 

作り物のようなこの日々に

僕らのS.O.Sが加速する

何かが違うと知りながら

見慣れた空 同じ景色に今日が流れてく

「目を醒ませ」とはある面で宗教的であり、ある面で政治的な啓蒙のように響く。なぜならこの語は、「知っている人」と「知らない人」という知の非対称性を示すからだ。

実はこの作品における情報量の非対称性とは、作品内においてその世界を構築したとされ、「神様」とさえ呼ばれる新条アカネと、他の登場人物の非対称性にも通じるものがある。その際、その非対称性を打破することのできる存在こそ、新条アカネの理解の枠外に存在する響裕太=グリッドマンや、彼を取り巻く新世紀中学生たちであった。

そうした点で、「作り物のようなこの日々」というのは、まさに創造主=「神様」たる新条アカネの「作り物」なのである。その世界について漠然と「何かが違う」ということは把握しながら、「見慣れた空 同じ景色」に違和感を抱くことはない。

この点は、実際には「日常」が刻々と変化しているはずなのに、それが昨日と同じ「今日」であり、継続した「日常」であると判断してしまう、そのマインドにこそ警鐘を鳴らしていると言えるかもしれない。そう考えると、例えば次のような箇所は非常に示唆的である。

目を醒ませ

僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ

これは訓練でも リハーサルでもない

覆われた日常というベールを 勢いよく剥がしたら

戦いの鐘が鳴る

それじゃとりあえず同盟を結ぼうか

 

──君を'退屈'から救いに来たんだ!

思い出すのは、北朝鮮の相次ぐミサイル発射実験を受けて、連日Jアラートが鳴っていた2017年のことである。しかし人々はその状況を「日常というベール」で覆ってしまっている。つまり「退屈」とはその「日常というベール」によって形作られた状況である。

ヒーローになれやしないんだって

主人公は誰かやるでしょって

知らぬ間に諦めたりしないでよ

 

目の前の僕らの世界は何ものにも代えられない世界

それは子供も大人も関係ない

繰り返す日常というルールに 騙されそうになったら

反旗を翻そう

さあ僕たちだけの革命を起こそうか

「退屈」=「日常というベール」に覆われた状態とは、「ヒーロー」や「主人公」になることを「諦めた」状態である。「終わらない日常」とはむしろこの諦念にその本質があるのではないか。つまり「終わらない日常」とは時代状況のために生み出された不可避の空気感というより、「日常というベール」で何かを覆い隠した作為の結果なのではないだろうか。そしてその「覆い隠す」という作為は、「諦める」と呼び変えてもいい。

この世界は、新条アカネの構想の中に存在しているはずだった。しかし、それが破綻したのは、響裕太=グリッドマンの登場である。この物語は、端から新条アカネの構想の破綻から始まる。しかし、破綻しているのは、新条アカネの理想的構想だけではない。

ここで再び主題歌「UNION」に戻ろう。

タイトルの「UNION」という語はCメロの最後に登場する。また、その和訳である「同盟」という語は、最初のサビとラストサビに「あの頃のように同盟を結ぼうか」という形で登場する。ちなみに、真ん中のサビでは「さあ僕たちだけの革命を起こそうか」がそこに当てはまる。

「UNION」=「同盟」そして「革命」。注目したいのは、そこに繋がる歌詞である。
「あの頃のように」ということは、かつても「同盟」を結んでいたが、それが一度破綻したということである。その「同盟」を再び結ぼう、と呼びかけている。それは「僕たちだけの革命を起こ」すためである。

この物語は、グリッドマン同盟の響裕太・宝多六花・内海将と新条アカネの破綻した「同盟」を、再締結する和解の物語でもある。

言ってみれば、新条アカネの破綻した箱庭計画を、対立から昇華した「同盟」という形で再構築する物語なのだ。その結果新条アカネは、もはや箱庭に居続けることを必要とはしない。新条アカネは、コンピューター世界から「目を醒ま」すことができるようになる(最終話のサブタイトルは「覚醒」である)。

ここで、「ウルトラマン」について論じた中でも引用した宮台真司の指摘を再び引いておこう。

〔前略〕『ウルトラマン』ではガバドンウルトラマンにやっつけられそうなのを見た子どもたちが「ガバドンは何も悪いことしてない!」と叫びます。ここでは共通して善と悪の対立という世界観から一度退却する構えが示されます。僕はここに古来の伝統を見ます。 ジェノサイド(全殺戮)を嫌い、シンクレティズム(習合)を志向する構えです。民俗学者歴史学者の一部は、その由来を、縄文文化における強い祟り信仰にまで遡ります。こうした歴史学的仮説の是非はともかく、善悪二元論から距離をとって共存可能性を志向する「オフビート感覚」が、日本の映画にも長い間とても強く刻印されてきたと感じます。

宮台真司「かわいいの本質 成熟しないまま性に乗り出すことの肯定」(東浩紀編『日本的想像力の未来 クールジャパノロジーの可能性』所収、NHKブックス、2010年8月))

 この「シンクレティズム」という概念はここでも見える。グリッドマンから見れば敵である新条アカネと、最後には和解すること。それこそがこの作品なりの「ウルトラマン」シリーズの理念の継承だったのだろう。

和解

「日常」を徹底的破壊によって劇化し「非日常」としようとする新条アカネに対して、グリッドマンはそれを許さない。それは「僕らの世界」に対する「侵略」行為だからだろう。グリッドマンは「危機はすぐそこに迫っている」と響裕太に戦うことを求める。「日常」を保つために、それを破壊する「非日常」=「危機」が訪れるのだ。

この存在は、新条アカネも認知できておらず、操作できない存在だった。つまりこの世界を打開したのは、そうした不確定要素であり、「制御できない存在」だった。

では「同盟」とはどんな存在なのか。3話「敗・北」に次のようなセリフがある。

グリッドマンが敗北し、響裕太が戻ってこない)

内海 あーもうめんどくせえ。分っかりました。グリッドマン同盟は解散だよ。

宝多 違うじゃん。解散は違うじゃん。だってそしたら響くんが帰ってくる場所なくなっちゃうじゃん。

前述したとおり、響裕太は記憶を失い、継続性というアイデンティティを断絶された、アイデンティティクライシスの状況にあった。そんな彼の「帰ってくる場所」になるのがグリッドマン同盟だった。つまり「居場所」と言ってもいい。

特撮作品ではしばしばヒーローの「居場所」が求められる。「ウルトラマン」シリーズではそれは「助力者組織」であり、スーパー戦隊シリーズでは秘密基地などであり、「仮面ライダー」シリーズではヒロインのもとである。

ヒーローが戦ったあと、「帰ってくる場所」を、特撮作品は希求する。それがこの作品ではグリッドマン同盟だ。

しかしグリッドマン同盟の機能とはそれだけに留まらない。

グリッドマン同盟は、新条アカネと和解する。それによって物語は終わりに向かう。そして「日常」が取り戻される。

新条アカネとグリッドマン同盟の和解を一身に担ったのは宝多六花だった。彼女は元から新条アカネの友人だったはずだ(そう設定されていたのだから)。しかしそれが崩れたのは何より、二人の間に横たわる知の非対称性が暴かれてしまったからである。

「知っている人」と「知らない人」の間には権力構造が生まれる。病院の診察室では、自分の病状を知らない患者が、それを把握している医師に向かって「先生」と呼びかけ敬意を露にするし、学校の教室でも教授内容をあらかじめ知っている教師に、生徒は「先生」と呼びかける。

権力構造にはそれが通用する「空間」の問題が横たわるが、ここではその「空間」とは新条アカネの「箱庭」と置き換えられると考えて良い。巧妙に友人であるかのように隠蔽されてきはしたものの、実はそこには「知っている」新条アカネと、「知らない」宝多六花という権力構造があった。だからこそこの「友・情」は保たれていた。

しかし、宝多六花は「知っている」存在となった。そのとき、この権力構造は崩れ、「友・情」も大きく揺らぐ。しかしそこで彼女たちはお互い「知っている」という水平線上で再び「友情」を結ぶ。だからこそ、この二人の和解が、物語を終わらせられるのである。

written by 虎太郎

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