【書評】町屋良平「1R1分34秒」

酔いしれる自意識

物語の大まかな展開について、示唆に富む記述を含む次の記事を引用したい。

この作品は、私のなかでは「自意識肥大モノ」として分類している。プロボクサーの主人公はデビューこそKOを飾ったもののその後は鳴かず飛ばずの体たらく。試合後に体に残る痛みにボクサーとしての存在証明を頼るほどの情けなさ。負け続けの自分に一番愛想を尽かしているのは自分だが、周囲から人がいなくなることにも焦燥感を覚える。ついにトレーナーからも見放されたが代わりに担当についたウメキチとの出会いが転機となる。

第160回芥川賞⑬ 候補作予想「1R1分34秒」町屋良平(『新潮』11月号) - 象の鼻-麒麟の首筋.com

 要するにこれはぱっとしないボクサーの奮闘記だが、ここに「自意識肥大モノ」とあるように、それに伴うモノローグは甘ったるい。「自意識肥大」などと遠回しに表現するより、「自己陶酔」と言い当てた方が良いだろう。

鳴かず飛ばずで負けの込む自分に対する陶酔は全体を支配していて、最後まで変わることがない。ウメキチという担当との交流のなかで、自分の知らない自分を発見し、自分の新たな可能性に直感し、結局「そんな自分も好き」という具合なのが文章からあふれている。

「文章からあふれている」などという抽象的な言い方を避けると、それはあらゆる事象に「ぼく」が否定的な評価をくださないこと、なんだかんだいって現状を肯定してしまうところに見られる。

じゃあウメキチとはどんな存在なのか、という点については、これは別のブログに優れた指摘がある。

途中から現れるウメキチという人物との出会いが(おそらく彼らは似た者同士)、主人公の中で隠されていた人間の本性(彼の本質的なもの)を刺激して、より複雑な闘士へと彼を導いていきます(と、そのように私個人は読みました)。

『1R1分34秒』町屋良平(著)読書感想 | 純文学~猫夏先生の文学新人賞・読書感想

どこが優れているかというと、最初の( )内である。つまり「ぼく」とウメキチはよく似ているのではないだろうか。つまりウメキチが「ぼく」に何か言うのは、「ぼく」が「ぼく」に対して何か言っているのと変わりがない。その上、「ぼく」と違ってウメキチは「ぼく」を外から見ることができる人間だから遠慮なく言えてしまう。遠慮なく、というのは、遠慮した上で、あえてそれを乗り越えて、という意味をも含む。

「見る」人

はっきり言えばこの作品を文学的に評価するつもりはない。しかしそのうえで文学的エッセンスを「あえて」取り出すとすれば、それは「見る」人と「見られる」人の関係だろうと思う。

フーコーパノプティコンに権力構造を見出したように、「見られる」人は「見る」人に一方的に下敷きにされるしかない。

それを踏まえて見てみると、主人公「ぼく」は「ぼく」をメタ的に見ようと試みる。だからこそ全体のモノローグは過剰に詩的なのだし、「ぼく」は〈傷ついている〉。そしてそれは〈夢を見る〉という形で反復され、さらに「ぼく」は〈傷ついていく〉。

やたら美術館に誘い、自らも映画を撮影する「友だち」もまた「ぼく」にカメラを向ける。その映像を取り寄せて「ぼく」は改めて「ぼく」をメタ的に確認するし、「友だち」自身も「ぼく」以上に「ぼく」を見ている。

彼氏ではなくボーイフレンドという詭弁でセックスフレンドとなる「女のこ」も、「ボクサーの汗はいい匂い」などという新たな価値を付与する。これは「ぼく」が「ぼく」を見るのでは気が付かなかった新たな価値であり、外部から「見る」(というかこの例ではもっぱら「嗅ぐ」だが)からこそ付与できた価値なのだ。

「ぼく」はウメキチに見られ、「友だち」に見られ、「女のこ」に見られる。それは全て「ぼく」が「ぼく」を見るという構造に還元される。

これは権力構造を反映させると、「ぼく」1は鳴かず飛ばずのボクサーで、そんな「ぼく」1を、それに冷笑的に触れる「ぼく」2が見る。「ぼく」1の上位に「ぼく」2が設置されるわけだが、それは結局「ぼく」に総合されるわけで、メタ的な自己俯瞰は結局自己陶酔にしか還元されない。

そのうえで、別のブログで書いたことを引用せずに内容だけを伝えると、個人的には「自己陶酔」には「糾弾」が伴い、「自己否定」へと帰着してほしい。なぜならナルシシズムは自己の本質を捉えられないからだ。

その面でこの作品に物足りなさを覚えたのだが、これは世界中で僕しか抱いていない感覚なのだろうか。

 

written by 虎太郎