【音楽】ザ・スミス ”There Is a Light That Never Goes Out"

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 「ザ・スミス」というこのシンプルな名前のバンド。彼らは、80年代のイギリスを代表するオルタナティヴ・ロック・バンドだ。全メンバーが労働者階級出身で、マンチェスターにて結成された。彼らの少し後の世代ならoasisや、最近のロックバンドであれば、The 1975などもこの街出身だ。代表的なイギリスの郊外都市であり、現代に翻弄される街と言ってもいいだろう。

 

 ユースカルチャーに含まれる彼らの音楽だが、太宰治が著したような、個人に中心を置いた現代的生の表れとして見ることができるのではないだろうかと思う。

 今回は、そうした観点から、彼らの金字塔的アルバム"The Queen Is Dead"('86)収録曲で、かつおそらく最も知名度が高い曲の一つである、"There Is a Light That Never Goes Out"を考察してみたい。

 歌詞は非常にシンプルかつ文法的にも平易なもので、冒頭のフレーズは "Take me out tonight" である。これ以降の歌詞も含めて簡単に日本語訳すれば、「今夜僕を連れ出して 僕には家がないんだ 君のそばで死ねたらなんて最高だろう」という内容の詞が綴られる。そして最後に"There is a light and that never goes out" (決して消えない光があるんだ)という、この曲のタイトルにもなっているフレーズが何度も繰り返される。

 

 疲れと恍惚の中にあるようなボーカル、モリッシーの声はこのバンドの特徴だが、その声で歌われるこの詞は、郊外に生きる若者の心を掴んだ。

 戦後、消費文化が拡大する中で、「私は一生つまらないウエイトレスの人生」と『俺たちに明日はない(1967)』のヒロイン、アメリカ郊外のボニーは語り、60年代イギリスを舞台にモッズとロッカーズの争いを描いた『さらば青春の光(1979)』でも「一生帽子屋」であることを嘆く青年の姿が映し出される。

 永遠に抜け出せない、つまらない人生。自己実現などとはかけ離れた世界。そこには狭いコミュニティのみが存在し、彼ら彼女らは恋愛や友人関係といったものに没頭する。上に挙げた2つの映画でも、主人公はつまらない生活の中の恋愛の末に犯罪を犯して逃亡し最終的に殺されたり、裏切られ「青春」に別れを告げたりする。

 

 ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行という問題がある。それが意味するのは、かつて「家」や「村」といった共同体中心だったものが移行し、極度に「個人」中心に人生を見るようになるということだ。つまり、「家」のために「村」のために身を粉にして働き、老いて、死んでゆくという、そうした人生のあり方が基本だったのが、近代化に伴って「私」のために生きる人生に変化したのである。ゲゼルシャフトに移行することで、ゲマインシャフトにおいては「私」の人生の意味は全体に寄与することだった故に出てこなかった新たな問いが生ずる。すなわち、「私」の人生がなんのためにあるのかという問いだ。そうなれば「死にたい」と考える層が一定数出るのは当たり前のことかもしれない。生きる意味が見出せないという行き止まりが待っているからだ。

 日本において因習的な「家」から離れ、「個人」を描いた作家として挙げられるのは太宰治だろう。シェイクスピアの翻案作品「新ハムレット(1941)」では、デンマーク国の王子であるハムレットやその周りの登場人物が「個人」に囚われている様子が描かれる。特に象徴的なのはハムレットの実母、王妃がオフィーリヤと会話する場面のこの台詞だ。

王妃。「こんな歳になっても、まだ、デンマークの国よりは雛菊の花一輪のほうを、こっそり愛しているのですもの。(中略)人間というものは、みじめな、可哀そうなものですね。成功したの失敗したの、利口だの、馬鹿だの、勝ったの負けたのと眼の色を変えて力んで、朝から晩まで汗水流して走り廻って、そうしてだんだんとしをとる、それだけの事をする為に私たちは此の世の中に生まれてきたのかしら。虫と同じことですね。ばかばかしい。」

(引用元:新潮文庫『新ハムレット』収録「新ハムレット」)

 「こんな歳になっても」と発言していることから、おそらく王妃には個人的な感情に重きをおいて生きることは甘ったるく若者のすることだという前提がある。しかし王妃はそうできなかったのである。

モリッシーは「家がない」と語るが、これは生みの親がいない孤児だという意味にも取れる一方で、自分が所属する場所がないという意味にも聞こえる。

いくら親に良い成績を修めることや仕事で出世することを勧められても、「虫と同じこと」では生に意味が見出せないのだから、そうした提案も切り捨てたくなってしまう。

 さらに、ザ・スミスの時代は保守党のサッチャー政権(1979~90)の真っ只中である。

スタグフレーション打開策として国有企業の民営化、社会制作費の削減などをおこない、経済の活性化を計った。

 しかしそれは、下層の子どもたちにとっては学校で全員に出されていた牛乳が消えたことであり、またロンドン各地でジェントリフィケーションが進み、街に「そぐわない」とされた者たちが排除されたということでもあった。つまり、格差が進行したのである。そうした80年代的な絶望感とも呼応してこの曲は支持されたのだろう。

 

 だが、そんな中でも「消えない光」があるという。モリッシーは消え入りそうになりながらも絶望の中の希望を歌う。

 これも、太宰の「待つ」という短編に見られる価値観であるように思う。大戦争が始まって、国家的なものに翻弄されるように思えるが自分でも不可解な、しかし確固たる信念とともに、駅前で誰か/何かを待ち続けている二十歳の娘の独白形式の作品だ。

家に黙って座って居られない思いで、けれども、外に出てみたところで、私には行くところが、どこにもありません。

(引用元:新潮文庫『新ハムレット』収録「待つ」)

 この辺りも先ほど述べた家がない感覚に共鳴するものがあるのだが、タイトルにもある「待つ」という行為が、モリッシーのように、「"light"がある」と主張することと同義なのではないだろうか。

 一体、私は誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何も無い。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。(中略)

 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて待っているのだ。

(引用元:同上)

 「ぱっと明るい」という言葉にもみられるように、光の特徴と一致する。けれども光は、はっきりとした形をともなって見えるものではない。これこそが、この曲における"light"を言語化したものではないかと思える。

 虚無の中で、何かわからない光のようなものを待ちながら生きる、ということ。これこそが、現代的な感覚で捉えた生の本質なのではないだろうか(余談だが、日本でヒットしている米津玄師『Lemon』歌詞の一番最後の箇所でも救いとしての「光」が登場するし、映画『君の名は。』においても登場するモチーフである。現代における「光」のイメージにはさらなる検討の余地があるだろうと思われる。)

 だからこそザ・スミスの音楽は、個人の沼に捕らえられてしまった現代人たちの心を打つのであろう。

 

written by 葵の下