【書評】砂川文次「戦場のレビヤタン」

語り手・K

最近、橋本陽介の『物語論 基礎と応用』のおかげなどもあって、小説を読むときに「語り手」という問題に注意を払うことが多くなった。そうなると「今となっては」というような語り方が目に付くようになり、それだけで小説を読むのが楽しくなったりする。

この小説の語り手は、自衛隊を退役し傭兵として働いているKが主人公で、「おれ」と書き始められるので、なるほど一人称か、と思う。

けれど読み進めると自然に「K」という主語がちらほら見え始め、「あれ、語り手『おれ』じゃなかったっけ」という具合になる。

勿論一人称に自分の名前を使うことはある。小さい女の子とか、矢口真里だとか。

ただ、そういえば「移人称」という言葉を聞いたことがあるのを思い出して、それを調べるきっかけにはなった。これはかの有名な(というか、醜聞によって変に有名になってしまった)渡辺直己の提示した概念らしいのだが、佐々木敦なども言及しているらしく、もうちょっとよく分からない。

要するに一人称と三人称を自然に往復する、という小説の形式の事を言うらしいのだが、そう聞くと、中学生ぐらいに適当に小説を書かせると移人称が起きそうなのだが、という感じもする。

そこで揺れる「私」という主体の問題が面白いのだが、その議論はこの「戦場のレビヤタン」という作品に当てはまるのだろうか。

そこでふと考えてみると、あることに気が付く。これは映画の風景なのだ。

例えば映画『アバター』でジェイク・サリーという主人公が、惑星パンドラに降り立つシーン。ジェイクを移すカットもあれば、ジェイク自身からの目線のカットもあって、惑星パンドラという異世界に、観客が自然に引き込まれつつ、ジェイクを対象化する働きもしている。というのは全て記憶の話なのだが、何となくそんなカットの組み合わせの映画は、あちらこちらで見たことがあるような気がする。

そう、この小説は映画なのだ。

ただ、この小説は映画にはできないことをしている。難しく「内的焦点化」などと呼ばれたりするものだが、要するに登場人物の心情が丹念に描かれる。「おれ」という主語の文章で心情が書かれるのは、心情の吐露なのだから何の変哲もない。「K」という主語だからこそ、面白い。

考え直してみると、じゃあこの小説は映画の補完でしかないのではないか。自分じゃ戦場をテーマにした映画なんて撮影できないから小説に……という風に思えてしまう。

「退屈」

なぜ現代人はこうも死にたがるのか。

冲方丁『十二人の死にたい子どもたち』しかり、古市憲寿「平成くん、さようなら」しかり、安楽死しよう、という人たちがたくさんいる。結局彼らは「自殺」というワードが嫌いなので、「安楽死」と美化したいだけなのではないか、という気がするし、それなら西部邁よろしく「自裁」などと称して死ぬのがよろしいだろう。いずれにせよ、この辺は誰かがきっと論じてくれるはず。

主人公のKは、日常に退屈していて、その退屈を打破できるのが「死」だと考えている。その「死」は、戦場、そして彼が所属する警備会社というところに接続して、結局「資本主義」の問題になる。そういえば好きな段落があるので引用したい。

 ひょっとすると、あっち側にいる連中も、さらには国境を越えた向こうで先進国とか西側とか呼ばれている地域から義勇軍として参加している彼らもまた、そんな緩慢なる生からの脱出を試みているだけなのかもしれない。ともすれば、両陣営に分かれてお互いに死を提供し合うこの関係は、まさに原始的な交換社会なのではなかろうか。

前半部は、ようするに「メメント・モリ」的な希死念慮の話だろう。2012年版のテレビドラマ「GTO」で神崎麗美役を演じた本田翼が「人生は長い長い暇つぶし」と言っているのが思い出されるが、「退屈だから死にたい」というような考え方というのは珍しくない。ただ本当に「死にたい」かと言えば、やはり「メメント・モリ」は「死を忘れない」ことが大切なのであって、本当に死んじゃ意味がない。

僕が気にかかるのは後半部分で「原始的な交換社会」と形容される「戦場」のあり方である。

僕は長らく気にしていることがあって、それはニュースで、アメリカでは無人戦闘機が開発され、というような話を聞いたことに思ったことなのだ。というのも、無人の兵器が無人の兵器どうしで〈壊し合う〉のなら、それってもうゲームじゃないか、ということだ。

それでもなお人々が〈殺し合う〉のなら、それは要するに〈殺したい〉ということなのだろうし、それは〈殺されたい〉ということなんじゃないだろうか。だって〈殺されたくない〉のなら、自分も殺さなければいいのだから。

戦争は、民族や宗教や領土の問題ではなく、最も原始的な〈死の交換〉なのかもしれない。

考えてみれば「安楽死」というのも、本来はある日突然訪れ〈贈与〉される死を、あくまで想定可能な〈交換〉の世界の中に押し込んでしまおうという話なのではないか。

というのも〈死の交換〉という話は、もちろん、戦争が資本主義的に行われているという話から飛び込んできた考え方なのだが、我々は死というものが何らかの超越的存在から贈与されるものだと解釈してしまうことがある。「○○さんがお迎えに来た」みたいな言い方をして死んでいく様などはそうだ。

この考え方は好きだし、それで別の本を読んでみると面白いのかもしれない、と思ったのだが、だけれどこの作品に関して言えば、やっぱりその深さが物足りない、と感じた。

〈死の深さ〉とは何か。それは「メメント・モリ」を飛び越えた先の峡谷の話だと思うのだが、今はまだ分からない。

 

written by 虎太郎