【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑹

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目を醒ませ

目を醒ましたグリッドマン或いは響裕太

本作は、響裕太の「覚・醒」とともに幕を開ける。その時点で彼には過去の記憶がないが、それは彼のなかにグリッドマンが宿っているからである。つまり彼は、本来の人格のうえにグリッドマンの人格が上塗りされ、その状態でさらにそのことを忘れているという状況から物語が始まる。

そんな響裕太のグリッドマンとしての本性が現れるのは、コンピューターの内部のみである。そんな彼が、前述したとおり、「戦う」ということによって拡散した継続性というアイデンティティを取り戻そうとしたのは必然と言える。「戦う」間、グリッドマンでいる間、本来の人格を取り戻していると言えるからだ。

こうした特撮の「戦う」というエゴイズムについては、仮面ライダーについて分析する中で詳しく見たい。そうした特撮ヒーローのエゴイズムは、本作品においてもやはり典型的に示されているのである。

目を醒ました新条アカネ

本作第1話は「覚・醒」であり、最終話は「覚醒」である。最終話直前の第11話までは例外なく二字熟語の中央に中黒(・)が打たれている。これはどういうことなのだろうか。

この中黒が断絶するものとは、「同盟」を破棄した状態の新条アカネと、グリッドマン同盟の関係を示しているのではないか。

新条アカネとグリッドマン同盟の各人は関係が悪いわけではなかった。むしろ新条アカネがそう「設定」していることもあり、良き友人であったと言えるだろう。しかしこれが「グリッドマン同盟」ということになると話は変わる。新条アカネとグリッドマン同盟は、最後に至るまで、本当の意味で「同盟」を締結できはしなかったし、「和解」もできなかった。

その分裂状態が中黒に現れている。

そして当然、この中黒には断絶される2つの世界、つまり新条アカネの「中の人」が生きる現実世界と、物語が展開するコンピューター内の世界の分裂を示しているだろう。

新条アカネは現実世界とコンピューター内の世界を行き来するようではなく、どっぷりとコンピューター内の世界に没入する。つまり、そこに2つの世界の融合は見えず、はっきりど断絶されている。その断絶もまた中黒に端的に表されている。

最終話で新条アカネは現実世界で「覚醒」し、実写パートへと帰結する。それは現実世界とコンピューター内世界が適切な関係を取り戻すこと──断絶が修復され、出入りが可能になることを意味する。そしてそれこそが中黒の消失になる。

慣性としての「日常」

折に触れてこの記事では、「日常」とは何かを考えてきた。

「日常」とは継続性であり、それは「過去」を「現在」と同じようなものであると想起することによって生じる、というところまで話は展開されてきた。「これまでもそうだったしこれからもそうである」という継続性は(それが正しいかは別にして)、時にアイデンティティそのものとなり、時に「日常」と化す。

この留保に注目したい。そもそもそんな「継続性」なるものは実在するのか?

「日常」とは、「『過去』もそうだったはずだ」と「過去」を想起し、「『未来』もそうであるはずだ」と存在しない「未来」を推量するところにこそ現れる。言ってみれば、そこに働くのは「慣性」である。

しかし、この「慣性」とは考えてみれば不思議だ。なぜなら、本当にそこに「継続性」があるのではなく、「継続性」がある、と見なすのであるから、本当は大きな変化があるのかもしれない。

実際にはそれが特撮作品とも共通する。

「シリーズ」でくくられ、毎年新作が制作されるが、それらは本質的に別種で、世界観を共有しない場合も少なくない。しかしそれらは毎年「継続」するものとして扱われる。そこに存在するものこそ、まさに「慣性」ではないか。

そこでここからは、「仮面ライダー」シリーズでも、毎年の放送が慣例化し、しばらくが経過した平成2期を概観することで、その「慣性」について考えていきたい。

 

written by 虎太郎