【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑶

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「日常」の創造

宮台真司は「終わらない日常」と化した社会を、オウム真理教のように終末を想像するか、援助交際する女子高生のように「まったりと生きる」しかないとし、そのうえで「まったりと生きる」ことを肯定する。

あれから長らく時間を経たが「終わらない日常」とは終わってはいないらしい。むしろ僕たちはその「終わらない日常」に「終わり」を導く徹底的破壊を期待しているようである。

例えばそれは漫画『進撃の巨人』における巨人の来襲に見出されるのかもしれないし、『暗殺教室』などにも見出される観念かもしれない。いつも通り普通に暮らしているところに、非日常が貫入してきて、戦いに身を投じる。いわば「戦争の想像力」に賭けているところがある。

しかし先の芥川賞候補作になった砂川文次「戦場のレビヤタン」に見られる感覚とは、そんな「日常」に「退屈」しており、だからこそ戦場に身を投じるにも関わらず、結局それでもなお「退屈」するというものだった。(その点については書評を参照されたい)

芥川賞を獲った町屋良平「1R1分34秒」も、ストイックで立派な精神性を彷彿とさせるはずのボクサーの、無気力な「日常」が描かれ続ける。(こちらも詳しくは書評を参照されたい)

さてここで、中島義道の時間論を援用したい。とは言うものの彼の時間論については新書一冊(『「時間」を哲学する』)で触れただけであるから、多少の誤解があるかもしれないことは予めご容赦願いたい。

中島は時間を「過去」と「現在」の対比の中で理解する。我々が「未来」と呼ぶようなものは本来的に存在しないと解釈する。その上で、我々が「行ってしまう『過去』」と「やがてやってくる『未来』」というようなふうに物理的・空間的に時間を解釈してしまう、その考えを棄却する。

中島によれば、「過去」とは想起によってその瞬間立ち現れるものであり、どこかにあるはずであるようなものではない。一方「現在」とは不在を認知することによって、その瞬間、あるコンテクストともに了解されるものであるとする。

考えてみればこの作品における「日常」というのもそうである。

目醒めていない人々は、怪獣によって記憶がリセットされ、クラスメイトが不自然に減っていようと違和感を抱かない。それはそのはずだ。なぜなら過去なるものは本来的に存在しないのだから。

その証左に、ある出来事Aが起こったとして、私たちは記憶違いを起こす。その記憶違いはいわばA'と呼ぶべき小さな違いかもしれないが、もしその記憶を自分しか持っていなければ、A'を想起したとしても、それが「過去」ではないと判断することなどできない。

これはAがBという全く別の出来事に移行したとしてもそうである。つまり、クラスメイトが怪獣によって殺されたという出来事Aを、怪獣によってすっかり忘れさせられ、そんなクラスメイトなどいなかったのだというBという記憶を植えつけられたとして、人々は出来事Bのみを想起するのだから、それが「過去」として存在することになる。

つまり、この作品を見ていると、クラスメイトたちは同じクラスメイトが殺されたという事実を「忘れてしまった」と悲観し、その「過去」を「覚えている」グリッドマン同盟や新世紀中学生の活躍を祈りたくなる。けれどそうした見方は本来かなり危うい。というのも、この作品自体が新条アカネやグリッドマン同盟の「過去」に寄り添う形で展開するためにそれを信じてしまいがちなのだが、その「過去」がもはや本当に正しい「過去」なのか、疑わしいのだ。

もしかすると、「本当に」クラスメイトは存在しなかったかもしれない。そもそもクラスメイトが存在したかどうかという主観的な「過去」の想起に、どちらが正しくどちらが誤っている、というような優劣・真偽判定を下すこと自体が無意味なのである。

問題はそこに「日常」の本質が見えることである。

「日常」とは「過去」がそうだった、のではなく、「過去」もそうだったように記憶している、という極めて曖昧な想起の結果、それが現在に至るまで継続性を持っていると認められるときに発生する。

いわば「日常」を創造するというのは、「過去」を「現在」と同じようなものだった、そ想起することと同じであり、そこに継続性を見出すことそのものなのである。

しかし、本作において何より特徴的なのは、その「日常」が、新条アカネがアレクシアの協力を得て人工的に創造したものである点だろう。

言ってみれば創造主たる新条アカネとアレクシアは、創造した世界に自らもまた没入する。神であるのに不意に自らの作り上げた世界を訪れてしまう様子は、折口信夫の言うところの「まれびと」を彷彿とさせる。

 てつとりばやく、私の考へるまれびとの原の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村村に、海のあなたから時あつて来り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味して居た。

折口信夫「国文学の発生(第三稿)」民俗発行所『民族』第四巻第二号、1927年10月)、ここでは『折口信夫全集』第一巻(中央公論社、1954年)を参照)

しかし折口はその後、この神々を人々がいかにして迎え入れるのかに注目していく。いわば、その歓待に国文学の起源を見るのである。

本作に戻ってみるとどうだろう。新条アカネは歓待を期待していない。むしろ現実世界で成しとげられなかった人間関係の失敗を、自らの仮構した世界で埋め合わせしたいというようにも思われる。

「歓待を求めない上位者」というような像は、ある種理想的なものに人々の目には映るかもしれない。「○○様がお忍びで」というようなことを微笑ましく語る時代劇は枚挙にいとまがないだろう。

他にも、落語「目黒のさんま」は、殿様が目黒に出かけた先で偶然口にした炭火焼きのさんまがいやに美味しく、それを自邸に帰ってきて再現させようとしたところ、小骨が取り除かれ脂も抜かれたぐずぐずのさんまが出され、そのさんまが日本橋魚河岸で求めたものだと聞くと、殿様は「さんまはやっぱり目黒に限る」と言って演目がオチる。

面白いのは大きく分ければ二か所で、庶民の魚であるさんまを初めて口にした殿様がそのあまりの美味さに感激したという点、そして殿様であることを気に留めすぎて、家臣がさんまの醍醐味をすっかり台無しにしてしまったという点だろう。

もちろんここには無知な殿様を笑う含意もあるに違いない。しかし殿様が馬鹿だと嘲笑うのではなく、後半に家臣がぐずぐずのさんまを出す場面など、聴いていてもなんだか殿様に同情してしまう。

普段は高級魚ばかりの殿様だが、出先の目黒では歓待は期待できそうにない。そこで庶民と同じ地平に立った瞬間の感慨を、江戸の人々はどんな気持ちで聴くのだろうか。

もちろんこれは新条アカネとは少し異なる。「目黒のさんま」では、殿様が今まで見てこなかった社会の別側面=庶民の食事にすっかり感動するが、本作では新条アカネは現実世界で得られなかった人間関係を、仮構されたコンピューター内に期待しているのである。つまり、無かったものに感動する殿様と、無いものをあるものにしようとする新条アカネの違いである。

そうした点を差し置いても何よりこの二者の違いは、権力者であるかどうかではないか。殿様は権力者であり、国全体をどうこうできなくとも、ある程度のことは随意にできたはずである。しかし新条アカネはそうした振る舞いすら拒絶し、当たり前の友情関係を求める。そこに政治性は不在である。

宇野常寛は次のように言う。

宇野 たとえば、震災によって「終わりなき日常」が終わった、という言説があります。「終わりなき日常」というのは宮台真司さんが用いていた言葉で、当時の消費社会を説明するキーワードだった。言い換えればそれは、ポストモダン状況における「政治と文学」の断絶を意味していました。

宇野常寛濱野智史『希望論』NHKブックス、2012年)

私的空間としての「文学」と、公的空間としての「政治」が断絶することが、「終わりなき日常」を作り上げる。

しかし本作ではそれ以前の話になっている。「政治」が中学生の公民の教科書通り「集団が意思を決定するプロセス」とするのなら、新条アカネの世界に、そんなプロセスは存在し得ない。世界の命運は、いわば新条アカネの思うまま。新条アカネ自身が「政治」ということもできるし、この世界で「政治」なるものはキャンセルされていると考えることもできる。

いずれにせよ、私的空間としてのだだっ広い「文学」に覆われた小さな街に「日常」が永続することは、いわば当然である。

「日常」の破壊者

「無知な主人公」というのは、物語に優しい。例えばJ.K.ローリングによる「ハリー・ポッター」シリーズが挙げられるだろう。主人公ハリー・ポッターは魔法使いの少年だが、それを隠され、マグル(非魔法族)の中で育てられることで、魔法界については無知だった。

ハリー・ポッターが魔法界に対して持っている知識量は読者と同じであり、だからこそ読者が抱く疑問をハリーが代弁する。その疑問に同級生ハーマイオニー・グレンジャーや魔法学校の校長アルバス・ダンブルドアが答えることで、読者に魔法界の情報が漸次与えられる。

主人公・響裕太が自分についての記憶を失っていることで、視聴者と主人公の情報量が同じになり、視聴者の参加可能性が開かれた、その点では極めて特撮的だと言えるだろう。

最近でこれと極めて似た形式を持った作品に映画『君の名は。』が挙げられる。これは田舎の女子高生・三葉と、東京の男子高校生・瀧が入れ替わってしまうところから始まる物語だが、お互いの置かれている状況について無知であることで、周りの友人たちがそのキャラクターについて説明する。観客はそれと同時に情報を与えられていき、キャラクターの設定を理解していくのである。

今回も記憶を失った響裕太に、友人・内海将が設定を教える。しかし、その設定が単調に明らかにされていくのではつまらない。この作品ではそこに唐突にグリッドマンというヒーローが投げ込まれることによって、視聴者に有無を言わせず牽引する勢いの良さがある。

有無を言わせず戦わなければならない、というのは特撮ヒーローにはままある展開であるが、それによってアイデンティティゼロの状態だった男子高校生には「戦う」というアイデンティティが付与される。

「戦う」のがアイデンティティとはなんとも物騒な話だ。しかもそれが男子高校生だと言う。言ってみれば少年兵である(多くの少年兵より年齢はずっと上であるとはいえ)。しかしこの作品に殺伐とした戦場の風景は見られない。むしろクラスメイトが消滅しようといつもどおりにふるまう高校生活の「日常」こそ、その戦いの異質さや恐ろしさを表している。

三崎亜記の『となり町戦争』は、渡辺白泉が「戦争が廊下の奥に立つてゐた」と詠んだ空恐ろしさを小説の形でよく表現している。主人公・北原修路の住む舞坂町は、ある日となり町と戦争を始めた。広報誌でしか認識していなかった戦争。広報誌は日々着々と増え続ける戦争の死者を報告するが、北原は実感を伴えずにいた。そんな中、北原はとなり町の職場への通勤過程のとなり町の様子を報告する「スパイ」として活動するようになる。

言ってみれば彼は「日常」の中にいて、どこかで行われている「戦争」のことは、数字の上で「存在しているらしい」と認識するに過ぎなかった。しかし通勤という「日常」がいつのまにか「戦争」に貫入していたスリリングな感覚がよく描かれている。

しかしより現代の感覚に近いのは野木亜紀子脚本のドラマ「フェイクニュース」だろう。この作品はサブタイトルに「あるいはどこか遠くの戦争の話」とあるように、スマートフォンを通じてみるどこか遠くの「戦争」が、スマートフォンばかり見ている間に、私たち自身の問題になっていた、というドラマである。

「日常」にいる人々が、スマートフォンのカメラを通して「〈擬〉戦争」的情景を見る風景は感動的ですらある。アニメ「SSSS.GRIDMAN」はむしろこちらに近い。

実際、怪獣が訪れ、今まさに「日常」が破壊されようとしても、人々はスマートフォンのカメラを怪獣に向けるばかりで逃げようとしない。そこにはスマートフォンの向こうの「非日常」が決して画面のこちら側=「日常」には貫入しないという、慣性の盲信があるようである(この「慣性」については後述する)。

 

written by 虎太郎 

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