【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑵

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「日常」を創造せよ

「日常」の断絶

アイデンティティ=自己同一性は、理解していない人にとっては理解しがたく、理解してしまえばそれほど優しく使いやすいことはない概念である。

そんな概念の説明として、まま代謝が用いられる。人間の細胞は細胞分裂代謝によって日夜新しくなっており、半年前の自分と今の自分では物質的身体をかなり共有していない。そんな自分をあくまで自分たらしめるものこそが、アイデンティティ=自己同一性である、という説明である。

しかし、この説明には致命的な欠陥がある。物理的に半年前と今の自分が身体を共有していないのはその通りだが、その半年間、あくまで「私は私である」という確信があったはずなのである。ある瞬間まで分かっていたのに、次の瞬間には「私は誰?」というようなことがない。細胞分裂代謝も、徐々に行われるのであって、「半年前のあなたと今のあなたは別人です」と言われても、それが腑に落ちる瞬間などやってこない。そこにある継続性こそがアイデンティティを形成していると言っても過言ではない。

そんな継続性によって維持されてしまうアイデンティティを、改めて問いかける作品として、漫画『いぬやしき』や『亜人』がある。『いぬやしき』では自分の体が記憶はそのままある日機械に改造されてしまった主人公・犬屋敷壱郎が、それでも自分が自分であり、人間であることを証明するために善行を行う。反対に同じ境遇を辿った獅子神皓は悪行を行うことで、自分が人間であると証明しようとする。いずれも、アイデンティティを保つ継続性を断絶されたために、アイデンティティクライシスに陥っているのである。

その作品の系譜に、「SSSS.GRIDMAN」も置くことができる。なぜなら、主人公・響裕太は、冒頭から記憶を失っているからだ。

彼がまさしくアイデンティティを失っている状態から物語は始まる。1話で響裕太は友人の内海将に「俺ってどんな人間なの?」と問いかける。そんな彼は冒頭「目を覚ました」のと同時に「目を醒ました」(1話のサブタイトルは「覚・醒」である)。彼だけには街にそびえる怪獣が見えているが、宝多六花には見えていない。*1

「セカイ」の創造

この作品は、最後に実写パートが挿入される。おそらくはそれが現実世界の新条アカネであり、それまでのアニメパートは、彼女が創造したコンピューター内の世界での出来事である、ということが示唆される。

彼女は「終わらない日常」に「退屈」し、それを打破する「非日常」を求めたのではなかった。むしろコンピューター内にあってすら「日常」を構築しようとした。その理由を宝多六花は「神様の世界にも色々ある」と推測しており、おそらく人間関係が上手くいっていないのだろう、と思われる。

新条アカネは折に触れて、この世界の人々は新条アカネを好きになるよう「設定」されているのだと発言する。つまりここは新条アカネ好みの世界なのだ。しかしそんな中響裕太は「僕らの世界」を「侵略」から守ろうとする。ここには「セカイ系」の片鱗が見えないだろうか。この「セカイ系」については東浩紀による定義を参照したい。

 たとえば、この数年、ブログを中心に、ライトノベルやその周辺作品に現れる想像力を形容するものとして、しばしば「セカイ系」という言葉が使われている。それは、ひとことでいえば、主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力を意味している。〔後略〕

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年)

響裕太にとっての「恋愛相手」は誰なのか。宝多六花がその相手であるような描写がある一方、それはほのめかされるだけに留まっており、彼がグリッドマンであると自認するのに対応するかのように、むしろ「無性化」=「非人間化」されているようである(これは「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か」で議論した内容とリンクする)。

この点を留保して考えると、実は本作における「小さく感情的な人間関係」とは、むしろ響裕太と新条アカネの関係を示しているように思われる。「僕らの世界」が「侵略」されるという「大きな存在論的な問題」は、この二人の関係によって喚起されるからである。言ってみれば、この作品でより問題にされているのは「新条アカネの存在論的問題」であり、それがこの世界全体に影響を及ぼすのである。

小さな「セカイ」

虎太郎 現実を直視しないで生きていけるのが中二病的想像力で、結局それが第三次世界大戦のために機能しなくなる。その中二病的想像力を取り戻す物語だと思います。

【第一回座談会】2018年アニメ総振り返り③ - 掌のライナーノーツ

ここにおける中二病的想像力とは、病める人々を癒やす圧倒的肯定能力を持つものとして提起した概念である。これはアニメ「シュタインズ・ゲート」について話した中での僕の発言だ。

アニメ「シュタインズ・ゲート」の舞台は、岡部倫太郎、椎名まゆり、橋田至の三人による未来ガジェット研究所。岡部倫太郎が中二病的想像力を実現させ、過去の自分にメールを送ることができる機械を発明したことで、世界は第三次世界大戦へと向かっていく。

巨大な組織の陰謀、第三次世界大戦タイムリープ。こうした要素は、全て岡部倫太郎の中二病的想像力の枠内にあったものだった。しかしこれらが順々に実現されていくことで、岡部倫太郎は治癒力を失っていく。

そんな未来ガジェット研究所には多くの仲間たちが出入りするようになるが、そうした仲間たちを絶対的に肯定する存在としての鳳凰院凶真(岡部倫太郎が中二病を発動し使う名前)は、中二病的想像力の実現と共に影響力を失い、全員がそれぞれ傷ついていくことになる。

このタームは、あらゆる側面において応用可能である。

例えば異世界モノについて考えてみれば、中二病的想像力が最終的に異世界にたどりつくのは、自らを肯定してくれる世界としての異世界を期待しているからである。

このような治癒能力を期待し、実際に精神疾患の治療に応用したのが「箱庭療法」である。これは河合隼雄が日本で治療に応用したことでも知られる。「箱庭療法」についての秋山達子の指摘を見たい。

 サンド・プレイ・テクニック(箱庭療法)は、今までの心理療法とは異って、サンド・プレイをしているうちに普通は意識されることのない心の奥深くにひそんでいる内的な世界が自然に作品の中に表現され、それを目で見たり心で感じたりしながら体験していくことによって、新たな洞察を得て意識の内容が豊かになり、治療が進められていくという深層心理学を利用した心理療法の一つです。

 私たちの日頃の行動は普通は時間と空間に支配された現実の世界の法則にしたがう合理的なものですが、しかし心の奥にある内的な感情や思考は時間と空間の束縛をはなれた自由な世界の中にあり、外界の現実とは違った法則のしたにあるように思われます。

(秋山達子「サンド・プレイ・テクニック(箱庭療法)について⑴」日本幼稚園協会『幼児の教育』第69巻第5号、1970年5月)

この言及は、まさしく異世界系そのものではないか。そしてこれは、新条アカネが構築した世界についても言えることである。秋山達子によれば、箱庭療法中に、その箱庭に怪獣を置くこともあるという。

 また怪獣類が好んで用いられることは、人類の意識の萌芽状態の時期である有史以前の世界の寓意的な表現であると考えられますが、まだ意識の統制下に入らない本能的な衝動や、無意識下に深く抑圧されて過度に成長した攻撃精神をあらわしているようです。現実上では高度に発展した機械文明による恐怖や、過保護の家庭における制約された日常生活からくる心理的な圧迫の表現ともいえましょう。

(秋山達子、前掲書)

新条アカネは箱庭としてコンピューター内に自分好みの世界を創造する。その世界には怪獣が配されるが、そこには「本能的な衝動」「過度に成長された攻撃精神」が見られ、「心理的圧迫の表現」としての側面が見える。

実際の箱庭療法では、患者の作った箱庭を解釈する、という過程が必要らしい。

箱庭を完成させた患者に、カウンセラーは「自己投影されているのはどれ?」や「このあとどうなるの?」といった質問を投げかける。それによって患者は自分自身と向き合うことができるようになるとともに、カウンセラーも、その配置や置いたものについて解釈を行い、その後の治療を円滑に進める。

このアニメにおける作品世界=新条アカネの箱庭が面白いのは、新条アカネが新条アカネ自身に投影されている上に、怪獣にも投影されていること。そして、この箱庭について新条アカネ自身が構想していた展開は、響裕太という不確定要素によって、構想が破綻してしまっていることである。

新条アカネは本来この世界の住民ではない。この物語が全てコンピューター内で起きているのだとすれば、新条アカネは、現実世界の誰かのアバターということになる。

映画『アバター』は、地球人ジェイク・サリーが双子の兄に代わって、衛星パンドラに出向き、現地人ナヴィの身体をアバターとして自分の意識をそのなかに移し込むことで、ナヴィとの交流を行う。本来の目的は、ナヴィたちをパンドラの鉱産資源が採掘される地域から移住させることだったが、ジェイク・サリーはナヴィと過ごす日々の中で人間の傲慢に気がつき、ナヴィたちと人間に戦いを挑むことになる。

この物語を、ジェイク・サリーらナヴィたちが人間の支配に屈さなかった、いわばアンチ・コロニアリズムの観点から見ることはできるかもしれない。しかし、結局ジェイク・サリーはナヴィとして認められてしまう点から考えて、人間はナヴィを仲間とすることに成功してしまっている。部分的にコロニアリズムに成功していると言えるのである。

よりミクロな視点で見れば、この物語は、人間体では下半身付随になってしまった退役軍人であるジェイク・サリーが、その障害を気にせず、自由に動き回れるナヴィのアバターを手に入れ、その世界で自分の居場所を見つけ出す、という極めてエゴイスティックなものとも読み取れる。

新条アカネは誰かのアバターである。彼女は、映画『アバター』のジェイク・サリーよろしく新たなる自分好みのフロンティア=箱庭に自分自身をエゴイスティックに位置づける。

アバターと言えば、映画『サマーウォーズ』や、アメーバピグが思い出されるところである*2。いずれも、全く別の理想世界が、自分の理想像を実現するために活用されている。

そんな新条アカネは、実は女子高生ですらないのかもしれないのである。

新条アカネがけしかける怪獣と戦うグリッドマン。そのグリッドマンをサポートする新世紀中学生は、その見た目からしてお世辞にも「中学生」とは言えない。しかし、彼らもまた現実世界では中学生であり、ネット世界では中学生とは似てもにつかない理想像を手にしているのだ、と解釈することは、十分可能である。

この物語は、周囲から好かれる女子高生を理想像とする何者かが、新条アカネに自己投影しながら、理想郷を構築した、というところから始まる物語である、とも考えられるのである。

written by 虎太郎

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*1:ちなみに「目」に関しては、グリッドマンに関する者が黄色、味方が青、敵が赤という風に塗り分けられているとの説もネット上では散見される。

*2:映画『サマーウォーズ』は、当初民主的で平等を期待されていたネット社会の理想を取り戻す戦いであると理解できる。ネット世界OZは各自が自己実現を果たすフロンティアであり、共有の箱庭であったと理解できる。それを占有しようとする人工知能ラブマシーンとの闘いが繰り広げられ、そこにおいて最も重要なのは現実の「家族」であったという筋書きである。旧来の家族主義的側面を批判することも可能だが、かつてインターネットに抱かれていた漠然として期待感を分析する上では興味深い。

【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑴

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現状を打破せよ

特撮をアニメが克服する

多くの反論を恐れず言えば、「ウルトラマン」シリーズはかつての栄華が信じられないほどに衰退している。対照的に毎年途切れなく作品が放送され、映画が製作される「仮面ライダー」シリーズやスーパー戦隊シリーズを考えれば、「ウルトラマン」がいかに困窮した状況であるかが分かるだろう。

それは端的に言えばバックボーンの問題でもある。「仮面ライダー」シリーズやスーパー戦隊シリーズが、東映テレビ朝日バンダイが組み、「売れる」仕組みを構築することに成功しているのに対して、「ウルトラマン」シリーズは円谷プロ自体の経営悪化、作品のコンセプトの迷走もあって「売れる」状態とはお世辞にも言えない。現多くの「大きなお友達」の資金力に期待するしかない、というのが現状だろう。

そんな中、行き詰まりを見せる円谷プロが次に活路を見出したのは「アニメ」だった。

そもそも「特撮」と「アニメ」の親和性が高いことは、視聴者層が重なっていることに端的に現れている。それは具体的に言えば、例えば日曜日朝の「ニチアサ」と呼ばれる時間帯には「仮面ライダー」シリーズ、スーパー戦隊シリーズ、「プリキュア」シリーズが放送され、共存していることにも見える。

言ってみれば「特撮」の停滞を「アニメ」で打破しようとしたのである。

そこで白羽の矢が立ったのが、多くの特撮作品の脚本を手掛けてきた長谷川圭一であり、コンピューター草創期にコンピューター内での戦いを描いた「電光超人グリッドマン」だった。

特撮に向けられた「批評」的眼差しとして

特撮はその性質上、いかに前作品と違うか、ということに心血を注いできた。

仮面ライダー」シリーズについては今後言及するとして、スーパー戦隊について言えば、「宇宙戦隊キュウレンジャー」はそれまでの戦隊の人数から大幅に増員し、その中にいわゆる着ぐるみのキャラクターも入れた。その次の「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」は明らかに「特捜戦隊デカレンジャー」の影響を受けながら、戦隊同士の衝突を通して、多面的なキャラクター造形に成功している。

同じシリーズであるが故に、あくまで同じことを繰り返すのであってはいけない、という意識がこれを生み出すとするのであれば、「ウルトラマン」シリーズ衰退の原因は、その新陳代謝、「更新志向」の失敗にあると言えるかもしれない。

その結果特撮ヒーロー作品では、その作品が、それまでの別の作品を総括するように機能し、そうした作品に「批評」的眼差しを向ける場合も少なくない。

例えば、「仮面ライダーディケイド」は、それまでに放送されてきた10年分の平成ライダーについて総括したのだし、「仮面ライダービルド」はディケイド以後10年分の平成ライダーを総括し、それを更に大きく平成全体を総括する作品として「仮面ライダージオウ」があるはずだ。

「SSSS.GRIDMAN」はアニメであるがゆえに、時に特撮の限界を軽々と超越し、時に「特撮的」であることによって、特撮に「批評」的眼差しを向けている。

最も大きな点は、主人公の年齢だろう。

電光超人グリッドマン」の主役を演じた小尾昌也は当時15歳だったが、むしろ特撮ヒーロー作品ではそうした作品の方が少なく、多くの場合はスケジュールを抑えられる大人たちがヒーローを演じる。

他作品でも、いわば子供たちの作品内世界への参加可能性を担保するかたちで、子供自身がヒーローになる、という場合は全く見られないわけではないが、数が少ない。

しかしこの作品では、そこに配慮する必要が全く無いため、主人公たちは高校生である。

また、大江健三郎が自らのエッセイ中に、破壊された街並みが次回には元通りになってしまう「再建」の困難さに対する無関心を指摘しているが、この作品はその課題も乗り越えている。

破壊された街が次の日には元通りになり、多くの人が怪獣に襲われたという記憶すら失ってしまう、という設定は、むしろ特撮の限界を対象とし、視聴者の破壊への欲望を揶揄するかたちで機能している。

 

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【肯定するオタクたち⑥】彼らは一緒に登場しないがきっとデキている

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恣意的に不均衡を作る

オタクは「肯定されたい」という願望を満たすために、自分が「知っている」一方、その対象は自分を「知らない」という世界を構築しようと試みる。

この不均衡を、オタクは恣意的に作り上げようとする。その手段は2つしかない。

  1. 対象を深く知る
  2. 対象を知っていることにする

「対象を深く知る」というのは、調べる場合もあるだろう。

アニメオタクが声優に詳しくなるのは必然かもしれない。アニメ「ポプテピピックアニメ「おそ松さんなどはストーリーそれ自体以上に、その声優に注目した盛り上がりが気にかかる。

いずれも、「私は気づいた」「私はこれを楽しめる人間だ」というような特権意識が垣間見えるところである。

それ以上に容易に思い出されるのは、「考察」という文化である。

「考察」とは、自らを作品世界に没入させるのではなく、その作品世界のメタに位置し、「知ろう」とする試みに他ならない。つまり、作品世界と自分の間に、不均衡な関係を構築する営みである。

それは、のび太が劇場版で「未知の世界」を救うことにコロニアリズムが垣間見えるように、「支配しよう」という試みと通じるものがある。

「支配しよう」は「所有しよう」と読み替えてもいいと思うが、当然そこには反発があってしかるべきだ。

作り手としては、その「所有しよう」という「考察」に対して、「大いなる誤解」と言いたくなるのだろう。

「大いなる誤解」かもしれないが、作品をメタ的に「考察」し「所有しよう」とする。そこには当然不均衡がある。しかしこれはオタクの生態としては仕方の無いことである。その不均衡の中で「知っている」ことこそが、オタクの自己肯定に重要なのだ。

別に「大いなる誤解」でもいい

オタクはそれが「大いなる誤解」であることについてためらいを覚えない場合もある。

それが2つ目である。オタクたちは「対象を知っていることにする」ことで、恣意的に不均衡を作り出すのである。

例えば、アニメ「Free!を思い出してみよう。描かれているのは田舎の男子高校生たちが水泳に勤しむ姿だが、腐ったファンたちは、そこに同性愛を読みとく。

もちろん、そんな様子は描かれていない。しかしオタクたちは、描かれていないものを描かれていることにするというメタ的な特権をフルに活用して妄想するのである。

その妄想は、誰よりもその妄想した人が「知っている」世界の構築である。

言いかえれば、二次創作とは、作品の「所有」と、自分が特権的地位を占められる不均衡の創造である。そこに、「本当はどうなのか」などというリアリズムは求められていない。

七瀬遙と松岡凛がデキているはずがない、などというリアリズムは必要ではなく、「デキていたら」という妄想の世界を創造し、所有することにこそ意味があるのだ。

実は「Free!」に関して言えば、監督・内海紘子の異様なまでの筋肉へのこだわり、女性っぽい名前が、そうした妄想を後押ししている節はある。むしろ「所有してください」と言わんばかりの様子は、オタクたちに媚びていると見ることもできるかもしれない。

結局オタクとは

オタクの生態について、6本の記事を通して考えてきた。その様子は以下の通りにまとめられる。

  1. オタクは肯定されたいと願う。
  2. オタクは肯定されるために、自分(たち)を世界から隔絶する。
  3. オタクは隔絶された内部でのみ「知っている」という特権的地位を占める。
  4. オタクたちは特権的地位を利用して〈救い〉になろうと試みる。
  5. オタクは隔絶された外部では「ふがいない」ことも多い。
  6. オタクは「知っている」が「知られていない」という不均衡を維持するために、恣意的に「知ろう」とする。

オタク論をあまり参照してこなかったので(というか、それが自分に課したルールなのだが)、ここで一気に紹介したい。

3は、東浩紀言うところのゲーム的リアリズムに通じる。というのも、ゲームにおけるプレイヤーは、ゲーム内のキャラクターに対して「全体を見通す」というような特権的地位を占めるからである。

また、この「知っている」という状況は、データベース消費へと繋がる。キャラクターの向こう側にあるデータベースについて「知っている」ことが、作品を「所有する」という営みへと繋がるからである。

5は、町口哲生のネットワーク的リアリズムや関係性消費といった概念を想起させる。もはや既存の「設定されたもの」に囚われず、そのメタに立ち、「描かれていないもの」を妄想し「所有する」営みは、関係性消費に他ならないからである。

ここまで頑張ってみたものの、オタクと呼ばれる人々に対して、失礼な発言があったかもしれない。文末にはなるが、謝罪しておきたい。

 

written by 虎太郎

【肯定するオタクたち⑤】童貞は引くが、結婚はやめてほしい

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設定を甘受するオタクたち

ここまでで見てきたのは、オタクたちの「肯定されたい」という生態。

そしてそんな欲求を、世界からあらゆる手段を使って満たしていく様子だ。あらゆる手段とは、南極へ行き、キャンプへ行き、戦車に乗り、時間さえ飛び越えてしまうことだ。

そこで重要なのは、世界から「隔絶される」ということ。だから、別にそういう手段を使わなくてはならないというわけではない。カメラで被写体を覗き込み、絵に描くことでも、世界から2人は「隔絶される」し、お互いを「肯定する」。

そういう手段以外にも〈秘密〉を作ることで、それを知る人同士の「〈秘密〉の花園」を作るという方法もある。

オタクはあらゆる手段で世界から「隔絶」され、そこで「知っている」「知らない」という二者間の不均衡を構築しようとするのだ。

さて、オタクたちはその不均衡を構築するために、当然「知ろう」と試みるのだが、そこで得る知識は、必ずしも嘘偽りないものである必要は無い。

オタクたちは、ジャーナリスティックな意味で「知ろう」としているのではなく、遊戯として「知ろう」としているのだ。

もちろん、鉄道オタクが鉄道について「知ろう」としたとき、鉄道が嘘をつくことなどないのだが、アイドルオタクではそうではない。かといってアイドルには詳しくないので、アイドルとは言えないが、DISH//というバンドを紹介したい。アイドル的人気を誇るバンドだ。

例えば、「サイショの恋~モテたくて~」では、タイトル通り、「モテたい!」と願う(おそらく)男子のウジウジした苦悩が歌われている。

しかし冷静に考えてみれば、彼らが「モテたい!」と願っているとは到底思えない。何よりこれを歌うボーカルの北村匠海は「イケメン俳優」と紹介されることも多い。

ファンは別に本当に「モテたい!」と願う彼らを望むわけではない。

むしろ、本当に彼らが「モテたい!」と願っており、例えば童貞であったらどうだろう。

つまりファンは心のどこかで「モテているだろう」「モテていてほしい」と思いつつ、その一方で、「モテたい!」と叫ぶ曲を聴いているということになる。

「私が〈救い〉になる」

そんな構造は、別に女性アイドルにも見られるだろう(が、あまり詳しくない)。

オタクたちは、「モテたい!」と願ったり、その他でも悩み苦しむ対象に対して、自らが特権的地位からパターナリスティックに振る舞い、〈救い〉になることを願っている。(簡単に言えば、「モテたい!」なら「私が恋人になってあげる」という具合に)

これは最初の記事の劇場版「ドラえもん」にも共通する性質だ。

のび太は支配者に困っている「未知の世界」の住人の〈救い〉になろうとするのである。

つまり、オタクは不均衡な関係を構造し、そこで〈救い〉としてふるまうことを目指していると言っていい。

アニメ「色づく世界の明日から」では色の見えない瞳美の〈救い〉として、葵唯翔が絵を描いて色を見せる。

アニメ「SSSS.GRIDMAN」では孤独に悩む新条アカネを響裕太・内海将・宝多六花らグリッドマン同盟が〈救い〉に行く(そのことは主題歌「UNION」を聴けば明確だ)。

映画『君の名は。も東京の男子高校生・瀧が、本来深く知るはずもなかった糸守という田舎町を〈救う〉ために奔走する。

こうした作品群を上げてもまだ一部。オタクたちが〈救い〉になろうと試みる作品は枚挙にいとまがない。彼らは〈救い〉として特権的地位を占めたいと願っているのである。

それが結実したのが、映画『シン・ゴジラかもしれない。

この映画では、謎の怪獣ゴジラを眼の前に、日本を〈救う〉ために活躍するオタクたちの姿が描かれる。彼らは「知っている」という特権を、巨大不明生物特設災害対策本部巨災対という外部から隔絶された空間で、お互いを肯定し合いながらフルに活用し、日本を〈救う〉ために奔走するのである。

肯定される自分はもしかするとふがいない

異世界モノを引くまでもなく、オタクたちは自分を「肯定してほしい」と願うものの、その自分が「肯定」されるに値するかについては、かなり疑心暗鬼である。

ここまで挙げて来た〈救い〉になろうとするオタクたちが、いずれもある面について「知っている」ものの、隔絶されない世界では「ふがいない」という特徴を持っていることが分かるだろう。

「ふがいない」は言い過ぎだったとしても、そのオタクたちは「平凡」であったりする。

アニメ「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」を見てみれば、比企谷八幡は老成しており、ぼっちで「ふがいない」。

しかしそんな比企谷が老成っぷりを発揮して事態を打開したりする。そんな彼は「奉仕部」という限定された中では肯定されるが、その外では否定・批判される。

彼らは〈救い〉であろうとするが、それはあくまで限定された中で特権的地位を得られた場合のみであり、それ以外においては「ふがいない」存在なのだ。

ここで文章を読みかえてみたい。

彼らは限定された中で「知っている」という特権地位を占めるが、それ以外においては「ふがいない」。

言いかえれば、彼らは普段は「ふがいない」が、限定された中で「知っている」という特権的地位を占める

この読み替えこそが、内弁慶的なオタクの性質を支えていると言っていいだろう。

だからオタクたちは、あらゆる対象を「読み替える」ことを試み、「知っている」世界を構築しようとする。この営みを人々は「考察」と呼ぶ。

それについては次回考えたい。

 

written by 虎太郎

【肯定するオタクたち④】オタクたちよ、カメラを手に取り絵を描こう


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見られずに見る方法

ニーチェが「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と言ったのだそうだが、オタクたちにとってそれは危機である。

つまりこれが意味するのは、「こちらが見ていれば向こうもこちらを見ている」ということ。これでは、肯定されたいと願うオタクたちの、自分たちを守る不均衡が崩壊してしまう。

手っ取り早く「見られずに見る方法」は無いものか。それは実はカメラを向けることであり、絵を描くことである。

アニメ「多田くんは恋をしないではヨーロッパの王女テレサワーグナーが日本にやって来て、普通の高校生たちと交流を深めていく物語だ。

典型的なボーイ・ミーツ・ガールの作品であり、写真部の多田光良と淡いラブロマンスを繰り広げるのだが、写真部であるからして、当然カメラを被写体に向ける。

撮影者と被写体の間には、撮影者が被写体を「見る」が、被写体は撮影者を「見られない」という構造上の特性がある。

被写体は撮影者を見ているようでいて、撮影者がのぞきこむレンズを見ているだけなのである。

そんなテレサワーグナーと多田光良は、「雨」によって断絶された世界のなかで、その不均衡な関係を育てていく。

そもそもこの2人には、「ヨーロッパ」の「王女」と、「日本」の「多田(ただ)の男子高校生」という身分的な不均衡があるのだが、それを「雨」が切断する。そして、多田光良がカメラをテレサワーグナーに向けるとき、この不均衡は逆転する。

「雨」が2人を世界から切断するという点では映画『言の葉の庭を思い出してみてもいいのだが、未見なので諸氏の想像に任せたい。

写真と言えば、アニメ「色づく世界の明日から」も思い出される。

主人公・月白瞳美は祖母の計らいで60年前へと戻り、そこで高校生たちと交流を深めていく。そんな瞳美は名前からして「見る」ことを運命づけられているのだが、実際には彼女は色が「見えない」。

彼女は写真美術部に所属し高校生活を充実させていくが、ポイントになるのが葵唯翔である。瞳美は葵唯翔の絵の中でのみ色を「見る」ことができる。つまり、彼の絵だけが瞳美を「肯定」してくれるのだ。

この2人は、世界から断絶され、色をめぐるやり取りの中でほのかな愛情(らしきもの)を育むことになる。

しかし瞳美を「肯定」するための断絶とはそれだけではない。二重の隔壁が瞳美を守る。1つ目の隔壁は葵唯翔との色をめぐる関係。しかしその外側に「写真美術部(後に魔法写真美術部)」というグループが立ち現れる。

彼らは瞳美が「未来から来た」「未来へ戻らなくてはならない」という「秘密」を共有する。

そう、世界から断絶されるためには、「秘密」を共有するという方法だってあるのだが、それについてはもう少し後で書きたい。

葵唯翔は写真を撮るのではなく、絵を描く。絵を描くというのは、現実世界から隔絶される簡単な方法である。

漫画は未読なのだが、映画『この世界の片隅にでは、「絵を描く」という方法で戦争という圧倒的現実から自らの身を守り続けてきた北條すずが、右手を失ってしまうことで、自己の安定を失っていく様子が描かれる。

「絵を描く」というのは、一種の自己防衛なのである。

「絵を描く」ことがフィーチャーされたのが、アニメ「けものフレンズ2」だろう。

同シリーズの前作よろしく、記憶を失った「ヒト」のキュルルは「絵を描く」。ここには当然人間の典型的な特質として「絵を描く」ことが挙げられているのだろうが、このシリーズが「お互いを肯定しあう」という性質を持つ以上、「絵を描く」のも「肯定」の手段として取り上げられていると考えて構わない。

〈秘密〉の花園

カメラを通じて「見られないで見る」オタクたち(これは撮り鉄にも当てはまるかもしれない)、絵を描くことで「自己を肯定する」オタクたち。

いずれにせよ自分を世界から隔絶して、自分を批判・否定するファクターを排除しようとしている。

いずれも簡単な方法ではあるが、道具を使わなくても、自分を世界から隔絶することはできる。「〈秘密〉の花園」を作り上げることである。

漫画『クズの本懐がそうであったように、自分達だけの〈秘密〉はそれを知る人々を世界から隔絶する。

例えばJ.K.ローリングのハリー・ポッター』シリーズでは、「秘密の守人」という魔法が登場する。

これはその「秘密の守人」から〈秘密〉を明かされただけの人は、その〈秘密〉を更に他の人に口外することはできない、という魔法だが、作中では敵ヴォルデモートに対抗する不死鳥の騎士団という組織の本部を隠すために用いられる。

そう、彼らは不死鳥の騎士団の本部という「〈秘密〉の花園」を「秘密の守人」という魔法で構築しているのだ。

佐島勤魔法科高校の劣等性』シリーズ司波達也司波深雪を、他の登場人物から隔絶させているものは何か。それは何より、この2人だけが〈秘密〉を共有しているからに他ならない。

映画『君の名は。でも、立花瀧宮水三葉を世界から隔絶するのは、「お互いが入れ替わっている」という〈秘密〉である。

入れ替わったからには、服を着替えなくてはならないし、トイレにも行かなくてはならない。文字通り「身ぐるみはがされた自分」をお互いにさらし、〈秘密〉を守ることで、彼らは世界から隔絶されていく。

そしてそれを三葉の祖母・一葉は「夢を見とるな」と暴き、結局彼らは入れ替わることが出来なくなってしまう。

そんな彼らが再び入れ替わることができるのは、瀧が三葉の口噛み酒を飲んだとき。抽象的画面が、それを疑似的なセックスであると示唆する(そしてティアマト彗星が地球に落ちるという受精を模した構造すらも示唆する)。

当然、セックスとは徹底的な〈秘密〉である。

漫画『ドメスティックな彼女も、藤井夏生が、後に父の再婚で義理の姉妹となる橘瑠衣と成り行きでセックスするという〈秘密〉から物語がスタートする(そしてさらにそれを義理の兄妹になったという〈秘密〉が包み込む)。

この藤井夏生はカメラを構えたり、絵を描いたりしないが、「小説を書く」という点で不均衡を構造しようとしていることは注目に値するだろう(当然、「書く」というのは「書かれる」物に対して特権的な行為である)。

住野よる『君の膵臓をたべたい』も、語り手「僕」がクラスメイト・山内桜良が膵臓の病気であるという〈秘密〉を知ることから始まる物語だが、その「僕」がオタク的性質を示していることも思い出される。

オタクたちは世界から隔絶され、不均衡な関係で優越感に浸ろうとする。しかしそれは「遊戯」でしかない。そこにリアリズムは不要なのだ、という話を、アイドルオタクを視野にいれながら、次回してみたい。

 

written by 虎太郎

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【肯定するオタクたち③】肯定されるためなら南極にも行き戦車に乗る


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肯定されるためのユートピア

肯定されたいオタクたちは、自分たちのユートピアを築き上げる。

言ってみればそれが劇場版の「ドラえもん」における「未知の世界」であり、異世界モノにおける異世界である。

しかし、いちいち別の世界に飛び立っていては疲れてしまう。

オタクたちは肯定されるために、適度な手間と時間をかけて非日常へと飛び立つ。

例えば、アニメ「宇宙よりも遠い場所では4人の女子高生が南極へ向かう。

玉木マリは反復される日常から南極へ逃げ出し、小淵沢報瀬は母親を求めて南極へ向かい、三宅日向は居心地の悪い高校から逃げ出し南極へ向かい、白石結月は南極で友達を作る。

4人とも、南極でお互いを肯定しながら友情を育む。

わざわざ南極まで行かなくとも、(やはりアニメしか見ていないが)アニメ「ゆるキャン△では女子高生が自分たちだけでキャンプをする。

年頃の女性だけでキャンプ、など恐ろしいばかりだが、自分たちを肯定することに余念がないオタクたちは、女子高生であってもキャンプに行かせる。

キャンプならまだ安全な方で、アニメ「ガールズ&パンツァーで女子高生たちはついに戦車に乗る。

「女らしい」戦車道なる競技で母校を廃校の危機から救おうとするこの物語だが、特筆すべきは主人公(と言っていいだろう)の西住みほが家族から見捨てられながらも、戦車道に共に勤しむ仲間から認められる=肯定されるという点だと思う。

こちらは「自分たちしか知らない」というユートピアを築き上げ、外から批判されることなく、その強固な壁の内側で、自分たちを肯定しあうのだ。

「肯定」されるためなら時間だって飛び越える

空間を超越し、あるいは隔離してまで「肯定」を求めるオタクたちにとって、時間を飛び越えるのは当然だと言っていい。

アニメ「魔法少女まどか☆マギカはタイトルからして主人公が鹿目まどかであるように思う一方で、単純にそうとも言えない。

クラスにやってきたミステリアスな転校生・暁美ほむらは実は魔法少女であり、その後魔法少女となって鹿目まどか暁美ほむらをかばって死ぬ、その未来を変えるために何度も同じ時間を繰り返しているのだった。

なぜ暁美ほむら鹿目まどかを救おうと試みるのか。

それは何より彼女が鹿目まどかによって救われたからである。

この場合、救われる=肯定されると言い換えて問題ないだろう。

つまり暁美ほむらは、自分を肯定してくれる鹿目まどかを守るために、何度だってタイムリープを繰り返す。

さて、タイムリープと言えば、アニメ「STEINS; GATE」に触れないわけにはいかないだろう。

こちらも主人公・岡部倫太郎が自分を肯定してくれる椎名まゆりや牧瀬紅莉栖やラボメンたちを救うためにタイムリープを繰りかえす。

これらの「繰りかえして何とかする」であったり、「繰りかえす本人は記憶を保持しつづける」と言った設定は、東浩紀曰くゲーム的リアリズムの影響下にある作品だが、このシリーズではこうした既存のオタク論には触れないルールだ。

ただし指摘しておきたいのは、こうした作品群において見られるのは、「自分は人知れず戦っている」といった感覚だろう。

先の記事で指摘したとおり、オタクたちを支える根本の感覚とは、「周りは知らないが私は知っている」という優越感なのだ。

この優越感はともすれば崩壊しやすい面もある。漫画『クズの本懐で、本命の想い人の代わりに付き合っているフリをする安楽岡花火と粟屋麦は、自分たちしかそのことを知らない優越感から、一種の自己陶酔に陥っているようでいて、自分たちがあくまで「異常」であることや、「本命の想い人への想いは成就しない」という点で自己嫌悪に陥ることもある。

もちろん、こうした「危うさ」に自覚的なオタクばかりではない。

アニメ「ポプテピピックをめぐるTwitterの盛り上がりを思い出してみれば、それを支えているのがオタクたちの、「私たちは元ネタに気がつく」「私たちは声優について詳しい」という優越感だったことが思い出される。

オタクたちは多くの場合、その特権意識の中に安住している。「知っている」という特権意識は、いわばそれ自体が遊戯的な側面があるのだが、そちらは次々回ぐらいに触れることにしておきたい。

オタクたちが自分を肯定する一番大きなルールは、「隔離されること」である。

それは「外から見られない」というのが重要になる。

隔離された内部で、南極を満喫したり、キャンプに行ったり、戦車に乗ったりしてお互いを肯定することもあれば、隔離された外部から「よく知っているね」と賞賛されることもある。というか、オタクたちはそのようにして肯定されたいと願っているのだ。

でもやはり日常の中で、その隔離というのは容易ではない。

けれど手っ取り早く自分を世界から隔離してしまう方法がある。それは、カメラを覗き込むことであり、絵を描くことである。

詳しい方は、そんな作品がいくつか現に存在していることに気がつくだろう。

 

written by 虎太郎

theyakutatas.hatenablog.com

【漫画評】岡崎京子作品から見た現代の「女の子」

「マンガは文学になった」というコピーとともに度々紹介される漫画家、岡崎京子(1963~)。
彼女は80年代末〜90年代にかけて広く活動し、同時代の女の子たちを描くことで支持を集めたが、現在に至ってもなおその人気は途絶えていない。
このことは、彼女のマンガを原作にした映画の数々『ヘルタースケルター』(2012)や『リバーズ・エッジ』(2018)、そして『チワワちゃん』(2019)が映画化されたのがすべて2010年代であることからもわかるだろう。


東京・下北沢に生まれ育った彼女は、「資本主義」そして「愛」をテーマにした作品を描き続ける。
例えば、代表作『pink』(1989)は、退屈な東京で昼間はOLとして、夜にはホテトル嬢をして働き、欲しいものを好きなだけ買って暮らすユミちゃんの恋物語である。
『チョコレートマーブルちゃん』(1996)では、同じ男に騙された二人の女の子がいわゆる「パパ活」を装って金を奪い取ったりする場面が描かれる。

そんな彼女たちの姿は、一見破天荒で、不道徳で、醜いかもしれない。
しかし一方で彼女たちは、もろくて、はかなくて、やるせない日常を送っている哀しい存在なのだ。


資本主義と「女の子」

「すべての労働は売春である」
『pink』あとがき部分で、フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールのこのセリフを引用している岡崎が描く女の子、ユミちゃんはOLの事務作業も、夜の仕事も、素敵なもの、かわいいもの(pink色のバラの花みたいな)を買うためだから同じじゃない、と言う。

ある日、同僚の女の子たちが、お金が欲しいから玉の輿を目指そうか、王子様を待とうか、なんて話しているのを聞くと、ユミちゃんは悲しくなって、こんな独白をする。

「何かあたしは
なんだかすごく悲しくなって そんなにお金欲しければ カラダ売ればいいのに
と思った
やっぱみんな 
何だかんだいってワガママなくせに ガマン強いんだな 王子様なんか 待っちゃってさ」
『pink』2010年版、154頁

ユミちゃんはガマン強さなんてものからはかけ離れた存在だ。
ペット禁止のマンションでワニを飼ったり、ワニのために部屋をジャングルのように改装したり、大好きなブランドの新作をゲットしたり。

ユミちゃんは、そんな風に「つまんない」労働と消費活動を繰り返す。
けれども、どれだけ好きなものを買って、周りをそんなもので埋め尽くしても、大好きなpink色に囲まれても、一時的に「シアワセ」なだけで、ちょっと時間が経てばそうしたものは、はかなく消えてゆく。永遠を望んだ恋愛さえも。

王子様を待たない、新しいプリンセスの姿である、とディズニー映画『アナと雪の女王』(2013)でも頻繁にフェミニズム的文脈で語られたような自立した女性像に近いといえるのかもしれない。明るくて、流行のおしゃれなものを見にまとい、どこまでも奔放なユミちゃん。
そんな彼女も、都会のジャングルを前にすると、時おり恐ろしい考え事に取り憑かれてしまう。

「ああ
何でこんなにヒトがいるの?
しかも
みんな平和そうなバカづらさげてさあ
うんざり


はじまりそう
あの発作

どうしてあたしはここにいるの? とか
どうしてここに立ってるの? とか
考え出したら止まらない

(中略)

どうしよう どうしよう どうしよう
こわい こわい こわい
だれかあたしをたすけて おねがいです」
『pink』2010年版、215-217頁

このまま労働して、消費して、の繰り返し。で、何になるのだろう。
自分が自分であるとは一体どういうことなのか。
ひょっとすると、いま自分が自分であることに、意味なんてこれっぽっちもないんじゃないか。
そんな問いが頭を埋め尽くす。


それでも、たとえそんな考えに襲われたとしても、彼女は「女の子」として生活していく自分を肯定する。

女の子はきれいにしておかなきゃってママが言ってた、とか、明日の朝くちびるかさかさにしちゃいけないから寝る前にはリップ塗るの忘れちゃいけない、とか、そんな調子でそんな日常を続けてゆく。

これは、女性シンガーソングライターである大森靖子の代表曲「絶対彼女」で歌われたような、不安定な女の子像にも重なる部分がある。
この曲は甘い声で「絶対女の子 絶対女の子がいいな 絶対女の子 絶対 絶対」と半ば狂ったように繰り返すサビが特徴的なのだが、安易に「女の子」を肯定ばかりしているわけではない。
冒頭で「ディズニーランドに住もうと思うの」と宣言したかと思えば、すぐに「ディズニーランドに行ったって 幸せなんてただの非日常よ」とあっけなく斬り捨ててしまう。
特にこのアンビバレントさが表れているのが、次のラップ部分だ。

あーあ女の子ってむずかし
いっつも元気なんて無理だもん
でも新しいワンピでテンションあげて
一生無双モードでがんばるよ!

大森靖子「絶対彼女」(2013)


この「新しいワンピ」だって、結局は資本主義の産物でしかない。
でも、それらが「かわいい」ことには変わりない。
「かわいい」は現代的崇高だと言い換えられるかもしれないし、「オタク」たちにとっての「萌え」の感情に相当するかもしれない。

何にせよ、現代社会を切り抜けるには、何か自分の「好きなもの」の力に頼るほかないというのが、岡崎京子の哲学、いや、言うなれば現代人の哲学かもしれない。
別の短編作品「GIRL OF THE YEAR」では、主人公がこんな言葉をつぶやく。

「…みんな退屈してるんだよ
みんな何かに夢中になりたくて必死なんだよ
そうしないと死んじゃいそうなんだよ
偶像ってゆーの?
アイドルが欲しいんだよ」
『チワワちゃん』(2018年版)収録「GIRL OF THE YEAR」より

ニーチェ曰く「神は死んだ」。
ポストモダンの議論に言わせれば、「大きな物語」も死んだ。
宗教的な意味の偶像や、叶えられるべき物語という名の偶像を失った私たちは虚しくも何かを求めてしまう。何かに期待してしまうのだ。
たとえそれに実は意味がなくとも。


「男」たちと 「女の子」

「女の子」という存在がバカみたいと吐き捨てる対象は、社会や、媚びた女たちだけではないことを忘れてはならない。
他ならぬ、「男」である。

フランスの映画監督、ヴィルジニ・デパントの『ベーゼ・モア』(原作のタイトルは『バカな奴らは皆殺し』。ベーゼ・モアは英語に訳すと"Rape me"である。2000年公開。)が好例だと思うので参照したい。
あらすじは、大切な男に捨てられたのち、殺人を犯してしまった二人の女の子が、運命的に出会い意気投合。盗んだ車であてのない逃避行の旅に出る。現金や銃を強奪し、男を誘惑してセックスしては殺していく。最後には警察にバレて一方の女の子は死に、残る一方は泣きながら逮捕されるという非常に後味の悪い物語だ。
本作は、ただそれだけの映画といってしまえばそうなのだが、ここで「皆殺し」の対象になっているのは、彼女らに誘惑された「男」たち—「おじさん」たちと言い換えてもいいかもしれない—だということに注目したい。

この映画に登場する「男」たちは、女の子たちに、こうあってほしいという彼らの「女の子」像を無理やり押し付ける。
現代日本でもいまだに「セクハラ」に関する報道が後を絶たない上、「モテ服講座」なんて企画がファッション誌に載っているけれど、そんなものは彼女たちに言わせればバカげている。

もちろん、『ベーゼ・モア』の主人公たちのようにわざわざ「理想の女」を演じて男性を誘惑しておいた挙句、態度を豹変させて殺してしまうという行為それ自体は自分勝手もいいところだし、極悪非道の限りを尽くしていると言われて当然ではある。

しかし、『ベーゼ・モア』ほど極端に、とは言わずとも、「女の子」は少なからずそうしたものに縛られ、苦しみ続けているといえるのではないだろうか。


岡崎京子作品でもその苦悩は同様である。
大半の女も男もバカで、特にその中でも「おじさん」いわゆる「エロオヤジ」みたいな存在は一番バカで、軽蔑の対象の最高位を誇る。
そんな状態でも、彼女らが「愛」の感情を抱く大切な恋人は存在している。
でも彼らもまた、救いにはならない。

例えば、『pink』のユミちゃんの恋人、ハルオくんは交通事故に巻き込まれて死んでしまう。
そのほかの作品でも、「男」は女の子たちを裏切るか、もしくは女の子をこの世界に残して死ぬか、しかしてくれない。

まるで、『気狂いピエロ』『軽蔑』『勝手にしやがれ』など、ほとんどの有名作品で「男を裏切る女」を登場させた、ゴダールのちょうど対極にあるようだ。




日々の労働は恐ろしく退屈で、周りはバカばっかりで、恋もするけど結局は誰にも頼れなくて、だから王子様を待つなんてこともしない。

でも、「女の子」を処世術的に演じることで、
そして、稼いだお金でかわいいものや美味しいものを手に入れることで、

刹那的な幸せを手に入れて、生きてゆく、これを繰り返す。

これこそが、「現代の女の子」の姿なのかもしれない。


written by 葵の下