【芸術評】 マイク・ケリー『DAY IS DONE』作品分析 —マイノリティに〈なる〉芸術—

 はじめに

「#MeToo」や「LGBT」等の言葉を目にする機会が増え、あらゆる意味合いでの「マイノリティ」に関心が高まっている昨今、芸術作品におけるその表象のなされかたを読み取ることの意義は大きいように思える。本記事では、この「別のものになること」を題材とした芸術作品についてドゥルーズ的な観点から論じたい。ドゥルーズの哲学、特に「生成変化」の概念(日本でも千葉雅也氏の著作『動きすぎてはいけない』等によって紹介され近年注目を集めている)は、「マイノリティ」をテーマに議論を始める際に有用性が高いと考えたためである。

さて、問題の分析対象であるが、2018年の展覧会を振り返るならば、ワタリウム美術館が企画したマイク・ケリー(1954-2012年)の回顧展(2018年1月8日-3月31日)で展示された作品、『DAY IS DONE』(2004-2005年)が挙げられるだろう。

以下では、ジル・ドゥルーズとマイク・ケリーという組み合わせに疑問を抱く読者の方々も多いと思われるのでその理由について軽く触れたのち、ドゥルーズの「生成変化」論とそれを読みかえた作品分析に移っていきたい。

ジル・ドゥルーズとマイク・ケリー

フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-1995年)は、精神分析家かつ左翼活動家のフェリックス・ガタリ(1930-1992年)との共著作をいくつか残している。彼らは70年代から協働し始め、まず『アンチ・オイディプス—資本主義と分裂症(1972年)』を、続いて『千のプラトー—資本主義と分裂症2(1980年)』を「ドゥルーズガタリ」の名で刊行する。『アンチ・オイディプス』では多方向に炸裂する欲望をテーマとし、『千のプラトー』ではその多方向へのダイナミズムを、系統や樹木と対立する新たな概念「リゾームrhizome」によって定義づけし直した*1。その『千のプラトー』で重要なキーワードとなるのが、「生成変化」である。ドゥルーズは「生成変化」を肯定し、近代すなわち資本主義時代から逃走してうまく生き抜き、内在的に革命を起こすための手段として「生成変化」を読者に勧めたのである。彼は、「男性」、特に「白人男性」ではないもの、具体的には、「女性への生成変化」、「子供への生成変化」、「動物への生成変化」、「分子状態への生成変化」、「知覚しえぬものへの生成変化」などを挙げる*2

このドゥルーズの思想は、「アンチ」とその著書に名付けられているように、フロイト精神分析に対してのみならず、現行の社会体制に対してもいささか批判的・反抗的な印象を受ける。場合によっては危険思想と捉えられかねなかった。事実、ドゥルーズの影響を受けて当時の若者の間で違法ドラッグが横行したことは今日でも広く知られている。

このような一般的なドゥルーズの性格を考慮して、今回、ドゥルーズ的観点からある芸術作品を論じるにあたって、選ばれるべき作品、作家も彼の思想同様にいわゆる「反抗的な」性格を持つものが良いと考えた。そこで、特に80年代末から90年代前半にかけて脚光を浴びたアメリカの「ボロ切れ(ルンペン)アーティスト」マイク・ケリーを選んだ。埃をかぶり汚れたぬいぐるみや、吐き気を催すような「おぞましいもの」を題材に用いた彼の作品は、通常人間が嫌悪を示す「別のもの」への意識とともに制作されていると指摘することができるだろう。

次章では、まずドゥルーズの「生成変化devenir」とは何かを明らかにしたのちに、ドゥルーズ的な観点によるマイク・ケリーの作品分析を行いたいと思う。

 

 ドゥルーズの「生成変化」とは何か

ドゥルーズは「生成変化」を肯定し、近代すなわち資本主義時代から逃走してうまく生き抜き、内在的に革命を起こすための手段として「生成変化」を読者に勧めた、と前章で述べたが、本章ではこれをもう少し具体的に見ていきたい。

「生成変化する」ことを、しばしば日本語版『千のプラトー』では〈なる〉ことと表現したりするが、これは真似たり、模倣することでも、「現実に」動物になるのでもない。ドゥルーズガタリによれば、生成変化は関係相互の照応ではない。かといって相似でも模倣でもないし、結局は同一化でもない。別の何ものかに〈なる〉ことは系列にしたがって進歩することでも退行することでもない。このように異質な要素相互間にあらわれる進化の形態を「逆行」と呼ぶのが望ましいという。逆行と退行は違うものである。逆行は創造的な営みであるのに対して、退行するということは分化の度合が最も低いところに向かう運動である。「逆行する」ということは、与えられた複数の項の「あいだ」を特定可能な関係にしたがって、みずからの線に沿って逃走するようなブロックをなすことなのだ*3

彼らは、より程度の軽い生成変化から順に「女性への生成変化」、「子供への生成変化」、「動物への生成変化」、「分子状態への生成変化」、「知覚しえぬものへの生成変化」を挙げていく。しかし、この中に人間(男性)への生成変化は登場しない。それはなぜだろうか。彼らは『千のプラトー』の中でその答えを記している*4。彼らは女性蔑視をしているわけではないという。人間(男性)はメジャー性そのものであり、生成変化の主体である。事実、男性、それも特に白人男性は相対的に量が大きいとかいうことではなく権利・権力においてマジョリティの地位を獲得してきた。常に、男性が尺度となってきたということである。

生成変化はマジョリティ/マイノリティというキーワードから考えることができる。ドゥルーズによれば、女性への生成変化やユダヤ人への生成変化というのはまず一つには、一つの項(主体)がマジョリティから離脱する運動であり、二つ目には、一つの項(媒体ないしは動因)がマイノリティから抜け出す運動なのである*5

 

マイク・ケリー『DAY IS DONE』作品分析

以下からは、前章でのマジョリティ/マイノリティの議論を含めたドゥルーズ解釈を踏まえた上で具体的な作品分析に移っていきたい。

マイク・ケリーはアメリカのアーティストであり、1970年代後半から2012年に自ら命を絶つまで、パフォーマンス、ペインティング、ぬいぐるみやサウンドを用いたインスタレーションなど、多形態、多様式な作品を精力的に発表し続けた。同じくアメリカの現代美術家ポール・マッカーシーやノイジーなロック音楽で高い評価を受けたバンド、ソニック・ユースとのコラボレーション、音楽活動やアルバムジャケットの制作など、幅広い活動も行った。「ニューヨーク・タイムズ」によると、「過去四半世紀で最もアメリカ美術に影響を与えた一人であり、アメリカにおける大衆文化と若者文化の代弁者」とされる。本稿では彼の作品のうち、2018年春に東京・ワタリウム美術館において大々的な展示がなされた『DAY IS DONE(デイ・イズ・ダーン)』について分析していきたいと思う。展覧会ホームページ*6によれば、『DAY IS DONE』は「課外活動再構成#2−#32」の総称であり、ケリーは、もともと1日1つの映像で1年間に365になるマルチメディア大作として構想し、生涯この作品を作り続けたが計画全体が完了することはなく31作品で全てとなった。作家本人がこれまで通ったすべての学校を組み合わせて作った彫刻作品「教育施設(Educational Complex)」がこの映像シリーズの舞台である。

ケリーは高校のイヤーブックや地域の新聞からとった放課後の「課外活動」のモノクロ写真を基に物語を「再生」(参考:図1、2)し、ダンスの原案や音楽、シナリオテキストなどすべてを自身で制作した。

 

f:id:theyakutatas:20181226231250j:plain図1:ファームガール 課外活動 再構成#9  2004−2005年

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図2:チキン・ダンス 課外活動 再構成#21 2004-2005年

 

作品は、各番号につき二枚一組の写真(オリジナルのモノクロ写真と、創作した物語の演者たちによるコピー写真を並べたもの)、ひとつあるいは複数の映像、そしてそれらの映像を小道具と組み合わせたビデオ・インスタレーションからなる。学校の演劇や職場のドレスアップデイ、ハロウィーン、地域のお祭りといった、アメリカの典型的な大衆のイベント(儀式)をベースにつくられた『DAY IS DONE』の物語には、ヴァンパイア、田舎者、ハロウィーン、悪魔といったモチーフが登場する。奇妙な登場人物と設定は、トラウマを生むような異常な状況の表現でもある。物語の内容はケリー自身の経験だけでなく、映画や漫画や文学などの記憶から創作された「偽りの記憶」である。彼は、これを個人的なトラウマだけでなく、マイノリティといった社会的な集団のトラウマをも表現するためだと説明している。同じく、対象を学校や若者に制限しないように、あえて一見意味の分からない写真が選ばれ、あらゆる年齢の役者が登場している。

実際にこの作品に登場する「マイノリティー」には、どんなものがあろうか。例えば、それは性的不能の悩みを持つヴァンパイア(男)、霊媒師の男、白人に対する黒人・黄色人種の女性(図3)、周囲にいじめられるユダヤ教徒の女性、ロックバンドKISSのファンの女性、田舎者の女性、太った少女、年齢とは不釣り合いに幼稚な服装に身を包む女性、叫びながら子どもを追いかける狂った女性…。こう列挙してもわかるように、男性はほとんど登場せず、圧倒的に女性が多い。登場したとしてもその姿はハリウッド映画の主人公のようなマッチョな男性ではなく、役者が男性であることよりも、「現実には存在しないような性格を持っていること」の方が強調されて登場している。また、そのほかの「女性」は現実に存在するが、誰一人として「マジョリティ」とは言えないような奇怪な性格を持っている。

この作品には多くの〈なる〉という行為が現れている。この芸術作品をめぐる複数の生成変化が起こっていると読むことができるのではないかと考える。『DAY IS DONE』の『第1作目の課外活動 再構成#2 トレイン・ダンス(図3)』について考察してみよう。

 

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 図3 トレイン・ダンス 課外活動 再構成#2  2004-2005年

 

「再構成」前の写真は白人女性3人がまるで電車のように連結して踊っているというモノクロ写真であるが、ケリーはこれをアジア人の女性、白人女性、黒人女性の3人の役者を白塗りにさせて「再構成」する。

この作品において、〈なる〉ということは三つの観点から説明できる。まず、作家マイク・ケリーが別のものに〈なる〉こと。白人の男性であるマイク・ケリーが脚本からダンスまで全て手がけたこの作品において、ケリー自身の女性への生成変化、マイノリティな人種への生成変化が見られる。次に、役者が「白塗りの女性」に、〈なる〉ということが挙げられる。一見、これは白人性の誇張とも取れるだろうが、ケリーの態度から考えて、これは白人を賛美する目的ではない。何者でもない、見た人がゾッとするような「白塗り」への生成変化。また男性を誘惑するような表現が見られることから、これは同時に役者の女性による、括弧付きの「女性」への生成変化でもある。(ケリーはしばしば作品に性的な要素をちりばめる。)また、この作品において、題材となるのはお遊戯のようなものが多いことからもわかるように、役者は「何かを演じている人」を演じているので、ここでも二重の生成変化が起こっているということもできるだろう。最後に、観客が別のものに〈なる〉ということがこの展示空間では起こると言えるだろう。単に登場人物に感情移入するのでもなくて、自身のあり方に対して問いが生じる。「私」は一つではない。しかし誰でもない。典型的なアメリカのマイノリティかと言われればそうでもない。観客はそれらの間の微妙な点を移動するのだ。つまり、この作品を前にした観客は「逆行」、つまり別のものへ生成変化するのである。

最後に、マイク・ケリーの残した言葉から、『DAY IS DONE』をどのように論評すべきかということについて考えたいと思う。

 

ぼくはポップ・カルチャーに関心があるが、それを賞賛しているわけじゃない。たいていのポップ・カルチャーは嫌いなんだ。つまり、ぼくたちは支配的な文化の影響を受けながら制作するほかないから、それを使って遊ぶのさ。分解して再構成するんだ*6。         

 

この言葉には、支配的なもの、ドゥルーズの言う所の男性的なもの、上位なものから別のものへ生成変化を遂げるケリーのドゥルーズ的な姿勢を顕著に現れていると受け取ることができるだろう。『DAY IS DONE』はそうした「マイノリティへの生成変化」を肯定し、資本主義に支配されてしまった現状から焦点を少しずらして、その異常さや本質をあぶり出すことで、そこからの逃走を計るのである。

 

【引用】

*1 千葉雅也『動きすぎてはいけない』、河出書房新社、2013年、序——切断論、19頁

*2ドゥルーズガタリ千のプラトー』、宇野邦一 訳、河出書房新社、1994年、10章、325頁

*3 ドゥルーズガタリ、前掲書、274 276頁

*4 同上、334頁

*5 同上、335頁

*6 ワタリウム美術館『マイク・ケリー展 デイ・イズ・ダーン』

http://www.watarium.co.jp/exhibition/1801mike/index.html

【参考文献】

ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ千のプラトー』、宇野邦一 訳、河出書房新社、1994年(※原書は1980年)

・千葉雅也『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』、河出書房新社、2013年

宇野邦一ドゥルーズ流動の哲学』、講談社、2001年

松井みどり『“芸術”が終わった後の“アート”』、朝日出版社、2002年

・Foster Hal, The Return of the Real (1996) (ハル・フォスター 論文『リアルなものの回帰』)

 

ワタリウム美術館

(http://www.watarium.co.jp/exhibition/1801mike/index.html)

 

【図版引用元URL】

図1 (http://www.watarium.co.jp/exhibition/1801mike/index.html)

図2  (http://www.watarium.co.jp/exhibition/1801mike/index.html)

図3  (https://www.youtube.com/watch?v=Py73uQ6jMjc&list=LL-k8TFIx65rcEOgyDrzDwyg&index=6)

written by:葵の下