【第一回座談会】2018年アニメ総振り返り①
三ツ岩 では初めに軽い自己紹介を。
立月 今年はアニメをあまり見ることが出来ませんでした。誠に遺憾です。立月です。
踊るサバ 基本世間の後追いでアニメ視聴を開始する、踊るサバです。結局、生協で安定してうまいのはサバだと思います。
虎太郎 虎太郎です。普段は硬めの記事を書いています。アニメはあまり詳しくないですが、ノリと勢いで頑張ります。
葵の下 葵の下です。芸術系の記事が多めになるかと思います。
三ツ岩 座談会第一回目のテーマは「2018年アニメ総振り返り」ということですが。
葵の下 今年見たのは「ポプテピピック」と「からかい上手の高木さん」、「シュタインズ・ゲート ゼロ」 を少しくらいですかね…
三ツ岩 どれも話題になった作品ですよね。特に「ポプテピピック」は社会現象とまで言われてましたが。
虎太郎 今まではギャグアニメでも、ストーリーがあった。しかしそういうのを否定した、なおかつ同じ内容を繰り返し放送した。そういうのはかなり革新的でしたよね。個人的には実写シーンが混ざっていたのが印象的でした。*1
葵の下 「ポプテピピック」は、どうもスラップスティック喜劇的である、というのが芸術学ゼミでちょっと喋ってたことですね。踊るサバさん覚えてらっしゃると思いますが。
踊るサバ 懐かしいです(笑)
三ツ岩 スラップスティック喜劇というのは?
葵の下 ドタバタ喜劇のこと。っていうのが一般的な理解ですね。
三ツ岩 なるほど。「ポプテピピック」はドタバタ喜劇だと。
葵の下 その要素にプラスして、さっき虎太郎さんが言ってくれた、「あ、これ知ってるw」要素。視聴者に目配せするようなあの感じですね。
虎太郎 あのアニメはそもそも面白さが内在する作品だったんだろうか、という点なんですが、視聴者が面白さを付与するというか、「面白がる」という特性が強かったように感じます。
立月 「ポプテピピック」はメタが全面に押し出されていてそこがおもしろさだと思います。普段アニメを通してはこちら側に見えづらい声優がアニメの中でこちらにくっきりと明示された。そこにおもしろさを感じます。
葵の下 「ポプテピピック」は、新しいねと言われてましたが、いかなる点で「新しかった」のでしょうか?アニメをよく見るわけでは無いのでみなさんの意見を聞きたい。
虎太郎 声優が前面に出てくる。そういうのはやっぱり、見ていないけれど「おそ松さん」の系譜なのかもしれないですね。
葵の下 なるほど声優。
踊るサバ 確かに、声優が「声優個人」として目立ってた。演じろよってツッコみたくなるレベル。
葵の下 「杉田さん」とか今まで知らない人だったのに私も名前覚えました。
三ツ岩 声優を前面に押し出す感じは、アニメの常識をメタフィクション的に破壊しようとする意思を感じましたね。
立月 声優好きな人から見ると杉田、中村のように中の人がメインになっていた部分があったと思ます。普段外で仲のいい声優がアニメでも普段の感じを出しているというのがとてもメタ的だと感じます。
三ツ岩 前後半で内容が同じだから、視聴者は唯一の違いである声優に注目せざるを得ない、と。
立月 これまでも声優ありきはありましたが声優メインは無かったかと記憶しています。
虎太郎 「ポプテピピック」の場合は、放送まで声優が誰かわからなかった。それが結果的には多くの視聴者を引き付けた形でしたよね。見ざるを得ないというか。
踊るサバ そういう意味では、原作との差異化が出来ているので、アニメ化の価値があったのだと思います。
立月 中身ではないものを楽しみとして提示するというのはおもしろい試みだと感じます。
葵の下 なんというか、視聴者の期待や反応ありきで進むからライブ的というか、ネット時代的というか、そういうのは感じましたね。
三ツ岩 ニコニコやツイッターでも、次の声優はこのコンビがいい!というような楽しみ方をしている視聴者が多く見受けられましたね。
三ツ岩 「ポプテピピック」の内容については、そのほとんどがオマージュで構成されてるわけですが、そこについてはどうでしょう。元ネタがわからない人にとっては全く意味がわからない、という危険を孕んでいるともとれますが。
虎太郎 個人的には全く評価していません。オタクの中で「これは面白がらなきゃならない」みたいな圧力があったのだとは思いますが、外から見ると全く面白くなかった。*2
立月 元ネタを知っている人だけが楽しめるのではなくて知っていると二倍楽しいというように特化していると思っています。
葵の下 そのサークルに入れない身としては少し反感を持ちましたし、はずかしながらこっそり勉強しました。元ネタを。
三ツ岩 元ネタに馴染めない人は声優で楽しむ、という二層構造があったんでしょうか。
立月 実際あれを全てわかる人間はおそらく限られていてそれを補完する形での声優という覆いがあったのではないでしょうか。
葵の下 ただ、アニメから遠すぎる層からすると声優も元ネタ同様、知ってないと楽しめないかな、という気がしました。ただ、そういう遠すぎる人はそもそも見ないと思うので、私が特殊な層なだけかもしれません。
虎太郎 でもまあよくよく考えてみると、文学もそうですよね。シェイクスピアを知らないと楽しめない、みたいな作品は結構あるわけで。
葵の下 翻案というやつね。
虎太郎 アニメがアニメとしてかなり成熟してきている、ということなのかもしれない。
葵の下 それはありますね、映画でも、ある程度その分野が育ってくると「モダニズム的な環境になる」という論があります。
三ツ岩 モダニズム的な環境、というのは?
葵の下 70年代、スタンリーカヴェル、『眼に映る世界』。絵画で見るとわかりやすいです。例えば、遠近法のアンチとしてマネの平面的でのっぺりした絵画が出てきて、そこからさらにぼんやりした印象派が登場して。
虎太郎 より抽象的にいうと「歴史が書けるようになる」みたいなことでしょうか。
葵の下 そうですね、進歩史観的というか。これは違う、だからこれって、否定していく流れですね。
三ツ岩 今までのアニメ文化の否定として「ポプテピピック」があると?
葵の下 「ポプテピピック」で言えば、従来のギャグアニメを否定したような感じがなくは無いかなと。否定というのは必ずしもマイナスな意味ではなくて。
三ツ岩 どちらかといえば進化に近い?
葵の下 少なくとも、そのアニメーションを打ち出してる側はそう思っている。信じている。
虎太郎 でも結局それが続いていない、という感じがしないでもないですね。「ポプテピピック」を継ぐ作品はなかなか出てこない。*3
葵の下 あれをさらにどう新しくするんだって問題はある(笑)
立月 出てきても「ポプテピピック」の贋作と言われる気もしますね。
三ツ岩 メタフィクションやアンチテーゼとして登場したものを継承するのは想像以上に難しいのかもしれませんね。
葵の下 ちなみに、なにかの元ネタを知れば楽しいアニメって、何か他にありますか?「ポプテピピック」が初なのでしょうか?
三ツ岩 ギャグアニメは元ネタがあるのでわかりやすいですが、あらゆるアニメにオマージュというか、元ネタは散りばめられてる気はします。
虎太郎 「銀魂」であるとか、そういうのはやっぱり昔からあるにはあるんだと思いますね。
立月 「月がきれい」というアニメの各話のタイトルが文学作品になっていてそれを知るとより楽しめるのかなとも思います。
虎太郎 「BANANA FISH」も各話のタイトルは英米文学から取られているわけだけれど、そこまでいくと「教養」という感じですよね。*4
三ツ岩 アニメ視聴にも教養が求められる時代ですか。
葵の下 名前を他作品のキャラからとってることとかもありますよね。それは文学でもしかりですが。
虎太郎 近畿大の町口哲生が数年前から『教養としての10年代アニメ』という本を出してますが*5、教養深く、考察に耐えうるような作品を、という流れはあると思います。
葵の下 「教養」っぽいものを見る層は「アタマのいい人」に限られるのか、それともそうでないのか、という点に関してはどうでしょうか?誰でも見てますか?分岐してるなら寧ろ、アニメのポストモダンって言い方ができるかなと思ったのですが。
立月 考察に耐えうる作品が出てくる中でやはり僕はアニメは娯楽であり好きなように見ていいと思うので見る人を選ぶのではなく、気付ける人を選ぶのかなと思います。
虎太郎 テレビドラマとかでもそうですが、SNSの発展とともに視聴者が成熟してきて、考察が盛んに行われるようになった。*6その時に一番簡単なのは、タイトルとかストーリーを他作品から引用することでしょう。
三ツ岩 知っていれば楽しめるけど、「アタマ」は必要ないと。
葵の下 まぁ、話題作り、的な意味も込めてということでしょうかね。大人の事情というか。アタマは必ずしも必要ないってことですが、とりあえず何かしらの作品を「みんなで」観ている感じはなんとなくありますよね。SNSでエゴサすれば幾らでも出てくる。
虎太郎 考察ありきという点では、「色づく世界の明日から」や「SSSS.GRIDMAN」や「シュタインズゲート ゼロ」なんかはかなり意図的に伏線を張ってたと思いますよ。
立月 「色づく世界の明日から」なんかはむしろ伏線を前面に押し出して、視聴者に考察してみろと言わんばかりのようにも感じます。そのことによって象徴されるものが明確にならないのでどこか説明不足、物足りなさを感じさせるようにも思えますよね。
三ツ岩 考察の余地を増やしすぎると、逆にストーリーラインが不明瞭になる、というのは確かにある気がしますね。
虎太郎 「色づく世界の明日から」にはものすごく寓話的な側面がありますよね。
葵の下 寓話というと?
虎太郎 主人公は色が見えない、という設定なのだけれど、多分ここには何か別の意味がある。つまり、色が見えないというのは、別の何かを表現しているけれど、それが隠されている。
葵の下 明確にならない寓話か。それは考察意欲をそそるなぁ。
虎太郎 「色づく世界の明日から」に関して言えば、個人的にはまだまとまりがあるかな、という感じです。ストーリーは基本的に部活動の範疇で展開しますから。
踊るサバ 「色づく世界の明日から」は全く観てないんですが、セカイ系の要素はありますか?
※セカイ系…主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。
虎太郎 ないと思います。基本的に主人公のビルドゥングスロマンというか。
※ビルドゥングスロマン...教養小説。少年少女が、周囲の人々との関わりの中で成長する物語。
虎太郎 「色づく世界の明日から」は、色の見えない女の子が、祖母の計らいで60年前に送られ、そこで成長、という話だと思いますよ。今のところは。
立月 あの60年後の琥珀は過去に自らも未来の自分からあの試練を課されたと言えますかね?
虎太郎 そこは最終回見ないとわからないけれど、「できるだろう、だって自分も60年前にできたから」ってだけの話なのかもしれない。
立月 そうなるとどうしても予定調和感を感じてしまう。
虎太郎 そう、そこが問題で、結局あの物語は誰を成長させたいのか、結局みんな成長したということなのだろうけれど、かえってそれで曖昧になっている感はあると思います。
立月 主軸に置かれているはずの瞳美と琥珀ですら若干薄いところがある気がします。
虎太郎 「宇宙よりも遠い場所」みたいに、ものすごく革新的な舞台設定ではなく、普通の高校なのにあんなにたくさんの人が「成長した」と語るには、舞台のキャパシティというか、そういうのが足りていないんじゃないかと思いますね。
三ツ岩 成長を描く、というのもなかなか難しいのですね。主人公達の成長といえば、「ゾンビランドサガ」はかなりの成功例だと思うのですが、記事を書いてくださった踊るサバさんは何かありますでしょうか。
踊るサバ 「色づく世界の明日から」を見てないのではっきりとは言えませんが、未来⇒過去と時間軸をずらしたのであれば、その設定が「成長」と結びついていないと評価はしにくいと思います。少なくとも、過去→未来の予定調和で終わるのであれば、わざわざ時間軸をずらす必要はないと思います。
虎太郎 それは過去に行った後、瞳美が琥珀を「おばあちゃん」と呼ばないという問題だと思うんですが。琥珀は、瞳美が色が見えないことを知っていて、自分の学生時代に招いた、ということなんだけれど、その未来の琥珀の学生時代には瞳美はいたのか、ということだと思うんですよね。いたのだとしたら、全て上手くいくと知っていてやっていたことになる、いなかったとしたら、それは大きな冒険で、話が面白くなってくる。
踊るサバ もはや恒例のタイムパラドックス問題ですね。
虎太郎 そうです。結局瞳美は琥珀を「おばあちゃん」と呼ばず、友達として接する。
ここで瞳美を過去に送った目論見はすでに成功しているでしょう。祖母と孫の関係ではできない治療をしている。*7
三ツ岩 タイムパラドックスの話で、仮に琥珀の学生時代に瞳美がいなかったとしたら、瞳美の行動次第で琥珀の交友・恋愛関係が変化して、瞳美が消滅する危険性すらあると思うんですけど。
虎太郎 三ツ岩さんの話を重視すると、この物語は琥珀が自分の青春を理想の形にするために瞳美を利用した、という解釈もできる。
三ツ岩 瞳美が来ていなかったら、琥珀は美術写真部に入っていなかった…?
立月 先ほどの話で、「色づく世界の明日から」では過去→未来ではなくて過去→現在、もしくは現在→未来のような気がするのですが。
三ツ岩 といいますと。
立月 予定調和という話を無視してもこの作品はどうしても瞳美か琥珀が主軸に置かれることになるんですね。それを踏まえると瞳美主軸だと現在を生きている瞳美が過去にとばされた話になりますし、琥珀を主軸に置くと現在から未来に動く話になるのではないかと思うんですよね。だから「過去」→「未来」のような表現の方がしっくりくる。かっこつきの過去、ないし未来だと思うんです。
虎太郎 生きる時代が違う2人の登場人物のために、相対的に「過去」と「未来」が動きうると。
立月 そういう解釈をしています。
三ツ岩 あくまで彼女の「現在」を生きる琥珀にとって、これは「過去」ではなくて「未来」に進む話なんですね。
立月 この作品に絶対的な過去と未来は存在しないと思います。
虎太郎 というか、そう解釈しないと、瞳美の成長に現代の学生たちが利用されている、ということになりますよね。
立月 相対であることで双方の成長が可能になる。
虎太郎 そうです。
【第一回座談会】2018年アニメ総振り返り②に続きます。
*1:座談会後ではあるが、アニメ「SSSS.GRIDMAN」の最後にも実写シーンが挿入された。これは今までのアニメのストーリーが非三次元的な世界(おそらくはコンピューター(電脳)内)での出来事であることを象徴的に示していたと思う。似たような構造を持つものに映画『シュガー・ラッシュ』などがあるがここには実写は登場しない。同じディズニー作品では映画『魔法にかけられて』はアニメの世界と実写の世界を行き来する物語だが、今後、どこまでを実写作品と見なし、どこからをアニメ作品と見なすのかの定義はますます曖昧になっていくことが容易に想像される。(虎太郎)
*2:似た現象にゲイ向けアダルトビデオから生まれた「淫夢語録」がある。所与の面白さというより、「こういったときには面白い」とルールで決まっているような感覚があり、部外者からすると全く面白くない。(虎太郎)
*3:2018年にも「あそびあそばせ」があった。女子高校生を主人公にした点で、「ポプテピピック」と近いようではあるものの、一定のストーリーはあった。しかしその中で破天荒なシュールギャグを織り交ぜており、個人的には「ポプテピピック」より高く評価されるべきだと考えている。(虎太郎)
*4:韓国ドラマ「キノピオ」が各話のタイトルを童話から採りながら、実際にその童話の内容に関わった展開を見せたのと比べると、タイトルのみを引用するのはそれほど「考察しがいがある」とは言えない。(虎太郎)
*5:『教養としての10年代アニメ』『教養としての10年代アニメ 反逆編』が既に上梓されているが、いずれも作品の分析というより、作品に見られる要素を足掛かりに、別の「教養」を紹介するという色彩が強い。いずれにせよ良書である。(虎太郎)
*6:「あまちゃん」「家政婦のミタ」などをきっかけにTwitterでの考察などが盛んになって来た。特に野木亜紀子脚本の「逃げるは恥だが役に立つ」「アンナチュラル」や、坂元裕二脚本の「カルテット」などは盛んに考察が行われた。「アンナチュラル」「カルテット」は視聴率は振るわなかったものの、良作として評判を得ている。(虎太郎)
*7:伊丹十三が『モノンクル』という雑誌を創刊した際、上下関係ではなく親戚のおじさんのような斜めの関係の重要性を説いたが、その概念を借用するならば、祖母と娘のタテの関係ではなく、友人同士としてのヨコの関係に治療の活路を見出したと説明することもできる。(虎太郎)