【書評】高山羽根子「居た場所」

常にあるものに気がつかないこと

とても不思議な感じがするこの小説の舞台は、大まかに三ヶ所で、まず最初は日本であろうどこかの街で、「私」の住む街。次は、その妻となった小翠(シャオツイ)が生まれ育った街。おそらくこちらは中国で、三ヶ所目は、その小翠が初めて一人暮らしをしたという街。多くの国に植民地にされた、というような話を考え合わせると、香港か、マカオか、多分そういうところだと思う。

「私」は酒蔵で一家で働いている。その母と仲が良かった介護実習生・小翠が、その酒蔵を見学しに来たところから物語は始まる。その中に次のような一節がある。

 ただ、それから後の作業を続けているあいだ、視界の端にあるかないか、彼女の姿とも影とも言えないくらいのかすかな気配が、ほとんど見えないぶんかえってなおさら気にかかってしまった。あの後、音はしていなかったので、もういないのだと思えばいないようにも、ずっといると思えばそのようにも感じられた。

存在は認識されるものではなく、むしろ認識されることによって存在するのだ、というようなのがカントの言ったことだとすると、やっぱりこれはそれと似た記述だろうと思う。

酒蔵でモクモクと蒸気の漂う視界が不明瞭な中で、普段から同じようなことをしている家族は、もうほとんど自動的に作業の引き継ぎができるのだけれど、小翠には見えない。ただ、「いる」と言われれば、なるほど確かに「いる」のかもしれないと思うし、「いない」と言われれば、確かに「いない」のだろうと思う。

そうした存在の不明瞭さ、いわば認識しない存在の問題は、酒蔵というところを媒介にして、微生物の問題に直結する。

酒にまつわる微生物の話に興味を抱いた小翠は、「私」の説明を次のように聞く。

「もちろん、いろんな種類の微生物がいます。多くなりすぎるとヒトの身体に害を及ぼすものも。それらが体の中で戦い続けているのか、または譲歩しながら総意を決定しているのか……その両方の場合もあるのかな。ようはバランスですかね」

「ヒトの外側の世界と同じ」

こうして人の世界は擬似的に微生物の世界へと接続され、そしてそれは認識しなくては存在しないと同じだというようなことともつながっていく。

あったものに「なる」こと

市役所でも勤めていた都合があって外国からやってきた小翠にも目をかけていた「私」の母は、ガンで亡くなってしまった。その直前に「私」と小翠は結婚するというようなことになるのだが、そのときの小翠の様子が面白い。

 彼女はまるで母の外部記憶装置みたいにして、家の細かな状況や必要な家事全般をすっかり把握していた。外から来た人に家のことをここまでしてしてもらうのは申し訳ないというような、ふつうに起こる感情さえも鈍ってしまうほど、あのときの私たちは八方ふさがりだった。〔後略〕

母が亡くなり、結婚したあとの小翠は次のような感じである。

 日本に戻って私と籍を入れてからの小翠は、家のことだけでなく、母の看護で休んでいた介護施設の手伝いを再開し、母の代わりに役所の仕事をし、さらに繁忙期には私たちといっしょに仕込みの作業もした。妹夫婦の結婚式では母の代わりに花束を受け取ってぽろぽろ泣いた。

 そのうえおもしろいのは、母がつくるいまいちな味つけの煮物も、彼女はそっくりにいまいちな味に作ったし、母の真似ごとみたいにして、買い過ぎた食材をよく腐らせた。〔後略〕

亡くなった母の代わりのように振舞う小翠は、まさに酒蔵に「居場所」を求めてきたのかもしれないし、その後、そこに「母の代替物」以上のアイデンティティを取り戻すために「居た場所」を訪れることにしたのかもしれないが、この旅が、なんとも不可解なのである。

黄緑色

小翠が小さい頃に学校で遺跡が見つかったので、夜にその遺跡に忍び込んで、そこにある無味無臭の液体を舐めてみると、耳から黄緑色の液体が出てきた、という話があった。

なんだか不気味でよく分からない話なのだが、それが無味無臭であったことを、小翠は「もしかして、私たち自身とまったく同じ味だったから、私たちはその味を『無い』と思ってしまったのかもしれないけれど」と語る。

小翠はこの黄緑色の液体でタッタなる小動物を捕まえて食べていたという。この記憶は「私」が酒蔵から出る醸造かすで虫を集めた話を喚起するのだが、それによって、おそらくこの「黄緑色の液体」なるものが、何らかの発酵物、あるいは微生物のいる液体なのだろうと分かって、次のせりふのやりとりの理解にも役立つ。

「なんで、島を出てこの街に来たの」

 小翠は、問いかける私のほうを見あげた。そうして少し考えてから答える。

「わからない。でも、あのときは、あの島から、家から出なくちゃと思ってた」

「なにもないから?」

「ちょっとちがう。ええと、たぶん、増えすぎた」

「増えすぎたって、家族が?」

「それもちょっと、違う……」

多分「増えた」のは微生物なのだろうと分かってくる。そんなことあるものか、そんな非科学的なことあるものかと思うかもしれないが、実はこの国が、そうした非科学的なものに支配されていることが次の部分から読み取れる。

〔前略〕今まで起こった戦争の一部はぼやかされ、英雄譚はおおげさになっていくので、最終的にはなにが正確な事実なのかがごっちゃになって、狼と鹿が戦い、空から鷹が、海から大蟹がやってきて国ができたというくらいの、神話めいた教育が今でもほんの小さい子ども相手になら普通にされているらしかった。彼女もそういった教育を受けたという。〔後略〕

「おとぎ話」的な教育を受けた小翠の「居た場所」が「おとぎ話」的なのはもうほとんど必然だろう。そのあとに語られる遺跡についての歴史は次のようなものである。

 どうやら島の遺跡は、現在この国で知られている、今の街とか港を作った開拓者とよばれている人たちが来るよりも少しだけ早い時期にやってきていたという人々の集落の痕跡だった。なぜか、その集団はこの土地に国をつくることができないまま、あるとき突然、集落ごとなくなった。それがもともと島に暮らしていた先住民や生きものとうまくいかなかったのか、突発的な嵐や地震、火事、または疫病の蔓延だったのか。

結論は出されないが、ここまで読めば、要するにそれが「微生物」の問題なのだろうと分かる。「微生物」に適応できる人が生き残り、適応できなかった人は滅んでいくのだ。

再び「居た場所」へ

不思議な感覚の旅行から帰った「私」を次のような感覚が襲う。

 毎日のことだったからそんなに気がつかなかったけれども、数日家にいねいだけで、ずいぶん我が家の中で線香のにおいが存在感を持っていることに気づかされた。なんだか妙に清潔に思えるそのにおいを鼻で吸い込みながら、リビングを通りぬけて私たちの部屋に入る。〔中略〕

 私の足にも、なにかが触れた。洋服でも落ちているのかと思って足元に手を伸ばすと、指先にふわっとした温度のある毛が触れて、驚いて手を引っこめる。すぐもう一度同じところを探るけれども、そこにはもうなにもなかった。動いているものなのかもしれない。

「私」の家は、本来「居場所」であったはずだが、この旅行を経て帰宅した「私」にとっては、当然そこが「居た場所」となる。

「居た場所」あるいは「居たことのない場所」を訪れたとき、普段と何か違うという微小な感覚があって、それは体の中の「微生物」のバランスが崩れるというようなものなのかもしれない。

この指先の感覚の正体は、残念ながら通読しただけでは分からなかったのだが、海を越えて着いてきたタッタなのかもしれないし、しゃがみこんだ小翠なのかもしれない。

いずれにせよ、おそらく「微生物」は「私」をも毒しているのであり、「居た場所」に戻るとき、それが何らかの形で姿を現したのだろう。

一見、というかおそらく何度読んでも、この全体的に不思議な感覚は残る。ただそれがモヤモヤ感のようなものかというと違って、例えば『世にも奇妙な物語』を見終えたあとのような、何かいけない世界を覗いてしまったような感覚。

この物語は現実世界と「おとぎ話」の世界を「微生物」と「居る・居た」といった事柄で結び付けていく作品であり、だからこそ、その感覚に「奇妙な」感覚を得る。

あまりに多すぎる謎が、せめてそのかけらでも解決されてくれないかと思ってしまうが、それはこの小説の魅力の下では野暮というものだろう。

 

written by 虎太郎