【書評】古市憲寿「平成くん、さようなら」

モノフォニックな物語として

かつてロシアの文芸批評家であるミハイル・バフチンは、ドストエフスキーの小説を「ポリフォニック(多声的)」であると表した。

普通、小説を書けば、その登場人物はいずれも作者の自己投影となってしまって、予定調和的に物語を進める装置となりかねない。しかしドストエフスキーの小説では一人ひとりが確固たる「一人」であるように書かれているというのだ。

既に文学を語る中でほとんど顧みられなくなっている伝記的な側面からこの小説を見ると、一読者として僕は、この登場人物たちが作者・古市憲寿の自己投影であると読んでしまう。

小説は、平成元年に生まれ、「平成(ひとなり)」と名づけられた人物を描いているようで、語り手はその恋人(と言って構わないだろう)である瀬戸愛だ。平成は東日本大震災を契機に、ちょうど提出していた原発に関する卒業論文を出版したことで話題となり、現在はテレビのコメンテーターをやったり脚本を書いたりしている。一方瀬戸愛は、父親の『ブブニャニャ』という作品の著作権管理を仕事にしており、どちらもホワイトカラーで、所謂「勝ち組」のような雰囲気をたたえている。

この二人の会話から始まる物語だが、その際瀬戸愛はネットでセックストイを探している。セックスが介在しない恋人関係の二人の中で、平成が愛のセックストイ代を負担するというのが約束だった。

平成はそこで自分が安楽死しようとしていることを告げる(ちなみにこの作品世界では積極的安楽死が既に合法化されている)。愛はその場では「いいんじゃない」と言ってしまうが、その後やはり思い直して平成を説得する。ストーリーは概ねそういったところだ。

この平成、愛、そして平成の学生時代の友人である牛来祐輔。この三人は、当然物語の中では別人格だが、しかしその本質は一人なのではないか、という気がしてならない。そしてその時、その「一人」とは作者本人なのではないか。

平成は合理的な人物として描かれる。彼は非常に合理的に安楽死を選択する。しかし愛はそれを止めようとする。そもそも平成は愛に安楽死を止めてほしかったのではないか。もっと言えば、平成は愛に愛されたかったのではないか。そしてそのことは、「愛」という名前に刻み込まれている。

そして平成は愛を「検算」と形容する。自らの決断を、外部から検める役割。しかし本来それは、各個人の内部にある。物事をメタ的に見て、それを「検算」するのは、実は「一人」の中で完結する事柄のはずである。ここに愛の「機能」を感じざるを得ない。

ワンシーンしか登場しない牛来は哲学を修めた人間で、平成が安楽死しようとする理由を平成の過去にあると考えた愛は、過去を知る人物として牛来に会いに行く。そんな牛来は次のように言う。

「ちょっとのきっかけで、人はあっさりと死にますよ。哲学を勉強している人間がいうのには憚られますが、人文学は自殺に過剰な意味を見出しがちです。実際、世をはかなんで死ぬ人よりも、腰が痛くて自殺する人のほうが多いんじゃないですか」

なるほど確かにそうかもしれない。多くの文学者や哲学者が自殺を選択し、また、文学においても自殺を描き続けてきた。自殺には「自死」という現象名以上の何かが仮託されているように思われなくもない。

また、牛来は次のようにも言う。

形而上学的に世界を把握しようとして失敗している僕と違って、彼はきちんと現実世界に生きている。だから、もしも彼が死を考え直すとしたら、旧友の説得ではあり得ないでしょうね」

ここまで来て、ふと、これもまた、平成がこのように言って欲しかったのではないか、と思わずにはいられない。深読みに斜に構えた読み方を重ねるとすれば、平成には形而上学的なものに対するコンプレックスがあって、牛来が「コンプレックスを感じる必要は無い」と言っている、そういう構造なのではないか。

バフチンはポリフォニックを評価した。だとすれば、限りなくモノフォニックなこの作品は、あくまでバフチン的には評価されないのかもしれない。けれど、その評価は、この作品が扱ったテーマについて考えるまで留保しておきたい。

「平成の精神」に殉死する

登場人物に明確な役割が与えられる作品に、夏目漱石虞美人草』がある。

この作品では、甲野欽吾が哲学、宗近一が法学、小野清三が文学を修めており、そのキャラ付けが学問特性によって行われている。思考のパラダイムディシプリンに求めるのは、あらゆるものを「擬人化」する作品形態の走りのようで微笑ましくある。

そう言えば「安楽死」つまり「自殺」という点では、夏目漱石『こころ』が思い出されるところだ。

『こころ』では、「私」として上と中を語る人物と邂逅した「先生」が最後には自殺を選び、下はその遺書という体裁をとっている。

なぜ「先生」は自殺せざるを得なかったのか。概ね解釈は二つに収斂する。まず、「先生」が過去、Kという友人に抜け駆けする形で女性と結婚しており、結果Kを自殺に追い込んでしまった(と思っている)。それに負い目を感じていた「先生」が、明治天皇崩御という機を得て自殺したという解釈。

次に、「先生」が「私」との交流の中で、自分が同性愛者であることを自覚し、生きてはいられなかったのだという解釈。

前者は伝統的だが、高田知波などの解釈が優れており、後者は東浩紀などが言うが、どちらもかなり説得力を感じる。

さて、いずれにせよ「先生」は、遺書中では「明治の精神に殉死する」という言い方をする。彼は明治を生きた人間であり、大正は生きられなかった。そして大正を生きていくべき「私」との邂逅の中で、そのことを確信した。だから「先生」はついに命を絶ったのかもしれない。

この作品で考えてみれば、平成は「平成の精神に殉死する」といった具合だろうか。作中で「今の天皇崩御して改元されるわけじゃないから殉死にはならない」というような発言があるから、「殉死」というのは正しくないかもしれない。ただそう考えた時、では「平成の精神」とは何なのか。

それは『こころ』中におけるような何か深い時代の断絶感覚ではなく、もっと簡単な言葉で言い表せる感覚だろう。現代ではそれは「オワコン」と呼ばれる。

「僕はもう、終わった人間だと思うんだ」

東日本大震災をきっかけに注目を集めた平成は、平成終了と共に自分が時代遅れの人間になるだろうと考えた。具体的な「平成の精神」というのは分からないが、それがまもなく「オワコン」と化すという漠然とした感覚だけがある。

 

名前の限界

先に述べたように、この小説の語り手である瀬戸愛は、平成を「愛」することを規定された人間だった。

そして作中において重要な役割を担うのが、平成と愛が飼っている猫の「ミライ」である。

「ミライ」は猫にしても長命で、作中では遂に死んでしまう。というのも病気ではなく、病気に苦しむのを見かねて、愛がいない間に平成が安楽死させてしまう。

自らも安楽死しようとしている平成にとっては、苦しむミライを安楽死させることで楽にさせるのは正しい選択だが、父がその名を付けたネコを愛してきた愛にとって、自分がいない間にミライが安楽死させられ、挙句火葬までされていたというのはショッキングだったに違いない。

その命名のシーンには次のような発言がある。

 ミライという名前は、まだ生きていた父がつけた。「この子は、21世紀を生きていくんだから」と、まるで本当の息子ができたかのような命名理由だった。あれだけ未来を舞台にした作品を描いてきた父は、自分が21世紀を迎えられないことを何となく悟っていたのかも知れない。

この名前は、父から「ミライ」を託されたことを意味する。しかしそれと同時に、父は「ミライ」を生きられないという限定を規定する。

命名行為は、本質的に限界の設定に他ならないのではないか。だからこそ「平成」は平成を生きられないと感じるし、「愛」は平成を愛さざるを得ないし、「ミライ」と名づけた父親は未来を生きられない。

「平成」は平成を生きられないと感じる、と書いたが、実は平成が安楽死を望む本当の理由は、「オワコン」ではない。ここも平成が愛に安楽死を止めてほしかったのではないかと感じる箇所だ。

実は平成は目が徐々に悪くなっている。彼は「平成の次の時代を生きる」ことを恐れているよりも、「よく見えない次の時代を生きる」ことを恐れている。

この病気は遺伝性という設定であり、平成がセックスをしたがらないのも、コンドームでは完全な避妊が不可能で、不意に子供が出来たとき、病気が遺伝してしまうのを怖がっていたのだ。

最後には平成は愛とセックスすることを選び、二人の約束のセックストイは意味を不要になる。平成は、子供ができるかもしれないという恐怖心を克服したということになる。

子供、外部記憶、「死ぬ」とは何か

子供ができるとはどういうことか。

遺伝子的に考えれば、子には親の半分の遺伝子が受け継がれる。そう考えると、実は死んだとしても、その人物の半分は子に受け継がれているということになる。

自己の存在を否定したいとき、子供はそれに反対する。なぜなら子供は自らの半分であり、自らが死んだとしても、自分自身が生きていることに他ならないからである。

実際『こころ』においても、「先生」は子供をつくらない。それは罪深いと感じる自分が、結局子供の中で生き続けるからだろう。

「死ぬ」ということを考えた時、それをラディカルに「心臓が止まること」と定義することは十分に可能だが、しかし他者にとって「死」とはより定義が難しくなる。

葬式で棺の中を覗いて「まるで生きているみたい」と言うとき、もしかすると本当に生きているのかもしれない。私たちは「この人は死にました」という符号によって他者の死を意識するのであって、それが与えられない場合は「生きている」ものだと想定する。

例えば芸能人でも、実際に死んでから数か月経ってからその死が公表されることがある。あるいは孤独死などで、死体の発見が遅れることがある。そのとき、その人を知る人物たちの中でその人はたしかに生き続ける。このように、外部の記憶によって、「生きている」ということが担保される。

まさにこの作品はそのことを活かしていると言えるだろう。

平成は最終的に安楽死を悩み始め、旅に出ることに決める。そんな平成は愛に、「平成くん」と呼びかけると反応するAIを遺す。しかしこのAIには更なる改良がくわえられており、平成が生きている限りにおいて、平成自身も世界のどこかから返事をすることができる。つまり「平成くん、おはよう」と呼びかけた時、「おはよう」と答えたとしても、それがAIなのか、もしくは平成くん本人が世界のどこかから反応しているのか分からないのだ。

その限りにおいて、愛の中で平成が死ぬことはない。いつか平成が死に、ずっとAIが反応を続けたとしても、それが確かにAIであり、平成本人ではないという保証がない限り、死んでいると判断することができない。

ある文芸時評に、この作品は文学的テーマをあまり内在していない、と書かれていたが、果たしてそうだろうか。

むしろそれよりもより大きな、人類の存在を問い直すようなテーマが内包されているのではないか?

そしてその思考が、極めてモノフォニックな文章で行われていることに思いをはせるとき、この作品はあながち捨てたものではないという感じがするのである。

 

written by 虎太郎