【ヤミ市と文学】中里恒子「蝶々」

はじめに

本論考の目的は、〈ヤミ市〉という空間について、文学作品におけるその表象から考えてみることである。今回は、中里恒子「蝶々」(1949)(マイク・モラスキー編集『闇市新潮文庫、2018年収録)を取りあげてみたい。

 

 ヤミ市とは何か

本論に入る前にヤミ市とは何かという点を明らかにしたい。

一般的な定義において〈ヤミ市〉とは、第二次世界大戦直後*1 、日本各地の駅前の空地に出現した多数の露天商のことを指す。ヤミ市の「ヤミ」とは、「違法な」という意味であり、公定(マルコウ) *2の対義語である。

では、それはどのように違法なのか。

まず、他人の土地が空地だからと言って無許可にそこで商売をすることは明らかに違法だろう。また需要の高さゆえ、公定価格を無視したヤミ価格での販売も横行していた。さらに、「バクダン」や「カストリ」といった悪質な密造酒が出回った。このように、様々な意味合いで「違法な」取引が行われたのである。

しかし、違法といえども、終戦直後の都市生活者にとってヤミ市は必要不可欠だった。配給物資のみでは足りるはずもなく、栄養失調で死ぬかヤミ市物資を調達するか、の二択だったという。

 

ヤミ市があった場所の代表例として挙げられるのは東京では渋谷、新宿、池袋など、大阪では梅田、天王寺、鶴橋などの駅前であろう。ヤミ市がこれらのエリアに集中した理由は以下の通りである。

第一に、これらのエリアは、食糧不足に悩まされた戦後日本で、郊外の農村へ鉄道を駆使して食料品を得るにあたって利便性が高かった。銀座などの都心部にも人が集まり露店が出店されたものの、郊外へのアクセスの悪さや木造長屋の建設が積極的になされなかったことなどが理由で、それらはヤミ市になることはなかった。先に挙げた東京のヤミ市の立地を確認すると、現在「副都心」と呼ばれていることに気づくだろう。

第二に、これらの駅周辺は第二次世界大戦の際、空襲による被害を緩和するため、事前(多くは戦況が悪化した1944~45年の間) にいわゆる「建物疎開」が行われており、戦災の有無にかかわらず空き地の状態で終戦を迎えた。例えば、梅田は焼け野原となったことが伝えられているし、予想に反して幸い空襲の被害を受けなかった鶴橋であれば、単に大きな空き地が広がった状態での戦後復興のスタートを切ったといえる。いずれにせよ、露天商を営むには絶好の条件だったということが確認できるだろう。

 

これらの元ヤミ市の駅はいまだに都市において重要な役割を担っていることが多い。

大阪を例にとるとするならば、江戸以来の流通の中心は船場などの水路に面するエリアであったが、鉄道の登場や大戦を経て梅田に中心が移動したといえるだろう。

つまり、戦後から現代に至るまでの、日本の多くの都市の基盤はヤミ市に見出せるといっても過言ではないのである。

だからこそ今ここで、ヤミ市という空間に同時代的な意味を付すことはそれなりの意義があるのではないだろうかと思う。

ヤミ市を「闇市」と表記していない理由はここにある。「闇」という字にはネガティブな意味がつきまとってしまう。しかし、本当にその側面だけだろうか。ヤミ市関連の書籍を探すと、しばしば「ヤミ市」表記を目にすることがあるが、これは上のような理由による。(松平誠『ヤミ市 幻のガイドブック』でも同様に「ヤミ市」表記が用いられている。)

戦後、単に必要に迫られたために形成され、黙認されていた違法市場として片付けて良いものとは思えないのである。

 

ヤミ市とは、果たして何だったのか。

次章以降では、中里恒子による小説からヤミ市を考えてみたい。

 

 「蝶々」という物語

中里恒子(1909~1987)は女性初の芥川賞作家として知られる小説家で、女性を主人公にした作品を多く残している。本作も例に漏れず、薩摩富久子という名の女性の物語である。

 

大戦中の富久子は、軍人の長官として活躍していた良人(おっと)を支え続け、良妻賢母として振舞っていた。娘も立派な飛行機乗りに嫁ぎ、家計に困ることはない生活を送っていたし、息子も海軍学校に通い、安定した軍人としての未来を約束されたかに見えた。

 

しかし、戦後になって状況は一変する。帰国した良人はすっかり精力をなくしており、かつて長官として羽振りの利いていた頃とはかけ離れている。このまま憂鬱な老人として一生を終えていく姿が容易に想像でき、まるで働き手にはなりそうもない。さらに、戦災で財産も何もかも失ってしまった。あてにするものは、何もなくなってしまったのである。 

現在の良人は、柱に一本の釘を打つことさえうまく出来ぬ、全く実生活に役立たない男としか見えなかった。おそらく、小学校の小使いにだって、雇ってもらえる資格はなさそうだった。

富久子はここで、

「仕様がない、こうなったら、もうあなたは使い途がなくなりましたね、あたくしが世間に出ることにしますからね、一切口出しをなさらないで下さいまし、」

と良人に告げる。

かつては長官夫人である自分に対して良人が「女は口を出すな」と決めつけていたのであったが、その状況を逆転させたのだ。

知り合いの元少佐と焼き鳥屋を始め、従来のように「奥さん」ではなく、「おかみさん」と呼ばれるようになる。

こうして、彼女らのヤミ市商売生活が始まる。

初めは慣れない商売人、経営者として振舞うことに苦労した富久子であったが次第に慣れ、女主人としての自らの顔を確立させてゆくのである。これまでの「猫をかぶっていた自分」を辞められた喜びを見せる。

それが如実に表れているのが息子との会話シーンだ。まだ大学を卒業していない息子は友人とジャズバンドを結成して、都会のダンスホールで演奏するほどにまで成功している。そんな息子は、現在の母の姿を以下のように評価する。

「長官夫人として、威張ってすました生涯を終ってしまえば、母さまは、人間らしい自覚なんて、無しに死ねたかもしれない、だけど、うんと悲しい目に遭ったり、本当に嬉しいことに打つかったり、骨を折った甲斐があったり、(中略)ずいぶんいろんなことに素手で触れていらしたでしょう、そして、その方がどんなに生き生きと人間らしい感情を呼びさましたか、お感じになったでしょう。もともと母さまは鋭敏な質なんだ、人間らしい感情の豊富なひとなんだ、それが、眠らされていたんじゃないかな……」

 この台詞で幾たびも強調されるのが「人間らしい」というキーワードだ。

ヤミ市生活で富久子が「人間らしさ」を回復したというのである。この点については議論の余地があるだろうと思われるので、後の章で触れたい。

 

「人間らしさ」を回復した富久子は、ヤミ市からの脱出を図るようになる。

すでに終戦から3年が経っており、ただ生活費を稼ぐだけの暮らしに退屈したというのである。

 

ある日、彼女は少佐とどこかに行ってしまいたいような気を覚え、彼を誘うような言動をとる。しかし、堅物な少佐には、その提案をさらりと断られてしまう。

 

どこかに行ってしまいたい気持ちを持ったまま街へ出た富久子は、見知らぬ女から紅を買い、帰ってくる。

その時にはもう、迷いは消えていた。

帰ってきた夫人の顔が、まぶしい白日のように輝いているのを、そっと見た。魔の刻を通り過ぎたあとの冷涼さが、顔面に満ち満ちているのである。何があっても、それはもうびくともしそうもなかった。花粉の落ちた花に似通っているのであった。

本作は、上の引用箇所をもって閉じられる。

「抑圧→回帰→迷い」というルートを抜けて、富久子は最終的に「花粉の落ちた花」、つまり実を結ばせる前段階にまで到達するということだ。

 

解放区としてのヤミ市  

本作が収録されている新潮文庫闇市』編者のマイク・モラスキーは、猪野健治が『東京闇市興亡史』の中で闇市を解放の象徴として捉えていたことがわかるという前提のもと、「蝶々」をはじめとする作品が解放を表象していると述べる。

「解放区」と言うのは、多面的に捉えてしまえば、ただ戦前の体制が崩壊した関係で軍国主義から解放されただけではなく、男女における支配関係から解放されたように感じる女性作家の作品もあります。(井川充雄・石川均・中村秀之編『〈ヤミ市〉文化論』、ひつじ書房、2017年) 

このように、終戦まで抑圧されていた人々が、社会の「裏」的存在であるはずの「ヤミ」市を、逆にある種の「表」舞台と捉えて活躍していたという見方は可能だろう。

成年男子の大部分は兵士として戦場へ送り出された。そして、残った老人や女性子供は、空襲の罹災者となって、家や命までも失った。そうした中で東京に残った人びとが、生活の糧を求めて敗戦直後の鉄道駅前に集まったのである。(中略) ヤミ市商売を実際に手掛けはじめた者の多くは、露店の商売とは全く無縁な人たちであった。(松平誠『ヤミ市 幻のガイドブック』、筑摩書房、1995年)

戦場に行くことなく日本に残り、かつ露店の商売とは全く無縁だった人々。東京では約8割が素人による店舗だったという。

「( 日本人)男性」優位の「軍国主義」に支配されていた人々。

それは女性、子供たちのことであり、また在日外国人*3(主に朝鮮・韓国人、台湾人)のことでもあった。彼らはヤミ市においては平等を獲得することができた。こうした意味で、解放区としてのヤミ市と呼ぶことができるのだ。

 

化粧する女性

特に「女性の解放」という視点からこの物語を見るとするならば、物語最後で、化粧する女性が描かれることにも注目すべきであろう。

詩人・寺山修司は1974年初版のエッセイで、化粧に対して以下のように言及している。

私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。そしてまた化粧はゲームでもあります。顔をまっ白に塗りつぶした女には「たかが人生じゃないの」というほどの余裕も感じられます。(寺山修司『さかさま恋愛講座 青女論』、角川文庫、2005年)

富久子の台詞でも、自らが買ってきた紅について、

「…甘くて血の色がするでしょう、あんまりみんな血の気がないから、こういうものがはびこるのよ……麺麭(パン)はなくても、誰も死なない世の中ね。

と語られており、終戦直後という物質的には満たされることがなく、「生」への不安を抱える時代*4を、化粧という虚構の力によって乗り越えようとする姿勢、女性の強さのようなものがうかがえる。

女性の活躍が描かれるという意味では、本作をフェミニズム文学として読むことも可能だろう。それは、物語のラストで男性(少佐)が富久子の「輝き」に圧倒されている描写からも感じ取れる。

 

しかし、本作を単に解放の歴史、戦後復興の物語として歴史的に回収してしまうだけでは〈ヤミ市〉の現代的意味には辿り着かないだろうと考える。

次章のトピック、「人間らしさ」から、さらなるヤミ市観の展望を広げたい。

 

人間らしさの回帰

ヤミ市に生きた人々は既に述べたとおり、その日その日の食糧とに必死であり、そこでは「かっぱらい」等の犯罪も横行していたという。

生命維持のために無法地帯が形成される様子は一見、人間的どころか、「動物的」とも取れるのではないか。

それにも関わらず、「蝶々」において、富久子は「人間らしさ」を回復したという記述が見られることに着目したい。

ここでいう人間らしさとは何だろうか。

それを解き明かすには、ここで描かれている「人間」の対義語は「動物」なのか「機械」なのか、或いはそれ以外の何かなのかを問う必要があろう。

富久子の息子が、父について噂する台詞からその答えが読み取れる。

「全く長官は人造人間みたいですよ、以前は司令部のこと以外に耳をかさず、現今は、庭の松の木を薪にするよりほか、なんの野心もない、長生きするように、できてますね。」(太字は引用者による)

「人造人間」と評していることから、「人間」の対義語として「機械」が選ばれていることがわかる。

与えられた役職、階級…といったものに従うだけの存在では人間らしさが損なわれる。富久子は「長官夫人」という既存のキャラ設定をヤミ市という空間で脱することに快感を覚えるのである。

となると、やはり前章でも触れた「解放」「平等」が人間らしさの構成要素となるのだろうか。

 

それだけではないだろう。

富久子はヤミ市で「猫をかぶった自分」「良人のために生きる自分」からの脱却ができたと言えるが、これは本来持っていた性質の顕現だけでは成り立たないものだった。

「自分のために生きる」ために、他者との新たな関わり方、その術を習得することが必要とされたのだ。

客として店を訪ねてくる見知らぬ人々の応対をしたり、紅を売る女と会話する経験を通して、富久子は新しい公共圏に突入した。

 

ヤミ市〉の、解放区としての側面、公共圏としての側面の両方が富久子に「人間らしさ」を与えたのである。

 

それをまさに言い当てているのが、本作のタイトル「蝶々」だ。

蝶は縛られることなく(解放区)、「擬態」という仕方で美しい模様を身に纏い(化粧)、ひらひら花から花へと移動を重ね、その場ごとに他者と関係性を築く(公共圏)。

このような蝶々の生態が、富久子の理想的な「人間らしさ」だったのだ。

 

本作は、〈ヤミ市〉で「人間らしさ」を見つける女性の物語であった。

こうした視点からヤミ市を眺めてみることは、現代日本における「人間らしさ」について、新たな視座を与えてくれるといえよう。 

 
おわりに 

ヤミ市は、1949年にGHQによって解散が命じられ、2年後の51年にはほぼ完全に解体した。犯罪の温床、不衛生…といった負のイメージをまとった「闇」市は、消滅に追い込まれて当然かもしれない。

しかし、制度的には消え去ったにも関わらず、ヤミ市的な風景は未だ消えていない。それは、大阪・鶴橋のように戦後再開発が行われていないことが理由なのではない。

例えば川本三郎氏は東京・新宿の地下ビルなどには、何度再開発を重ねてもヤミ市的な空間が残り続けると指摘しているし、関西では大阪・梅田の地下街や神戸・元町のガード下を例に取っても残存しているといえる。またモラスキーはアメリカの床屋、日本の居酒屋にそれを見出す。

 

闇でも光でもあった〈ヤミ市〉には多面的な見方が必要なことはいうまでもないが、本稿では「人間らしさ」が立ち上がる空間としてのヤミ市を取り上げた。

ヤミ市からおよそ70年の月日を経た2019年日本に生きる私たちは果たして人間的だろうか?人間的なものとはなんだろうか。

私たちがいま「人間」と呼んでいるものは「非人間」と表裏一体なのかもしれない。

 

 

written by 葵の下

*1:ヤミ市は一般的には戦後の市場を指すが、実際には戦時中からヤミ市のような違法かつ必要悪といった市場空間は存在していた、という見解も存在する。

*2:マルコウとは、日中戦争下の価格統制令および第二次世界大戦後の物価統制令による公定価格の俗称である。しばしば「公」の字を丸で囲った記号で示された。

*3:在日外国人の存在も忘れてはならないだろう。ほとんど記録に残っていないようだが、ヤミ市登場以前は貧窮のどん底にあった彼らは、軍需工場での労働に従事していたが、終戦とともに「ヤミ市」を活躍の場とするようになる。ヤミ市で元は捨てられていた部位のホルモンやマッコリを普及させたのは彼らで、日本の食に多大な影響を与えることとなる。文学における在日外国人の表象については、『闇市』収録の、鄭承博「裸の捕虜」を参照されたい。

*4:モダニズム芸術の分野でも、「生」の現実感を求めようとする動きが高まったというから、当時ある程度は世界共通の感覚だったのかもしれない。アメリカの「抽象表現主義」あるいは「アクション・ペインティング」と呼ばれる手法は、画家が「描く」という行為の過程と痕跡を絵画に表現することを目指した。少なくとも美術史上の文脈では、彼らは作者自身の内面や感情、思想を激しい筆触で表現することで「生」の実感を叶えたとされる。