【書評】鴻池留衣「ジャップ・ン・ロール・ヒーロー」

文学はどこに

橋本陽介『物語論 基礎と応用』の冒頭には、私たちがどんなに短い断片であろうと、そこに「物語」を見てしまうことが書かれている。野家啓一『物語の哲学』でも書かれているように、私たちは「歴史」さえ「物語」として見なしうるのだから、私たちの周りは「物語」に満ち、私たちは「物語」を生きている。

いわゆる文学というジャンルは、おそらく節を付けた詩、すなわち「歌」から始まったのだろう。そのことは無文字社会であったアイヌ民族が歌謡によって自らの民族の歴史を歌って語り継いだことが何より示している。

次にそうした神話は、節回しと舞踊を伴い、「演じる」、すなわち演劇の方向へと進化していく。

間もなくそれらは「文字」を伴って「小説」という形に到達し、それが充実していく。そして多くの人が「文学」と呼ばれればまもなく「小説」を思い出すだろう現状に到達する。

しかしTwitterにおいて例えば「#54字の文学賞」というハッシュタグがトレンド入りするように、「文学」はTwitterにまで進出してきているのではないか。なぜなら私たちはあらゆるものに「物語」を見出すことができるからである。

だとすれば、この小説全体が、「Jap'n'Roll Hero」なるアルバムのライナーノーツの体裁を取りつつ、また、冒頭部分以後がDANTURA DEO(ダンチュラ・デオ)なるバンドについてのWikipediaの記述を引用する体裁を取っていたとしても、これはあくまで「文学」である。

 妄想という文学

そう、この小説全体はアルバムに付されたライナーノーツであり、そのうち大部分はWikipediaからの引用。そしてその記述内容は、およそWikipediaのそれとは異なるような荒唐無稽さをはらんでいる。

荒唐無稽とはどういうことか。端的に言えばこの小説の内容は、「ヴィジュアル系バンドの荒唐無稽な設定をそれらしく記述したもの」ということであり、CIAやら何やら、もうほとんど都市伝説の領域を出ないような組織や人物が暗躍する。

何より小説において仮想される「語り手」なるものがこの小説では分からない。なぜならそれはWikipediaの「語り手」は誰なのかという問題と本質的に同じなのであり、それは多くの匿名の人々の部分修正の組み合わせられたキメラのような存在なのだから。

作中の大部分の文章の主語は「僕」となっており、なんだ一人称がはっきりしているじゃないか、「語り手」は「僕」で決まりだ、と考えたりするのは早計で、Wikipedia風のメンバー紹介をみれば「僕(ボーカル) ※「僕」というアーティスト名である」と書いてある。

本来Wikipediaなるものは、自分のことを自分で記述するのは禁止されており、第三者が客観的にその内容を編集する。一方この作品の大部分は「僕」が主語になっているものの、それが第三者としての、つまり三人称として用いられた固有名詞「僕」なのか、一般的に用いられる一人称の「僕」なのかが分からない。しかもそれだけに留まらず、Wikipediaが一人の執筆でありえない以上、その両方が混乱しているはずなのだ。

例えばこの小説の最後は次のようである。

 ダンチュラ・デオのベストアルバム発売に際し、ライナーノーツとしてウィキペディアから丸ごとコピーしようという案を出したのは有森だった。偽アルルは賛成し、喜三郎は何も言わず、僕は反対した。そして僕は、どうせそうなるならば、自分こそがライナーノーツの完璧な編集者でなければならないと思った。編集合戦に参加した僕だったが、結果この戦いに敗れた。

 そうはさせないのである。我々の勝利だ。SNS掲示板での呼びかけに応じてくれた沢山の人の助力のおかげで、こうして僕の目論見を阻止できたことに満足している。これが宣伝行為の執筆と見做され、規約(ガイドライン)違反と判断されれば、速やかに削除されると思われる。Clay Tabletのスタッフの皆さんは、急いで全文を保存しておくように。

このとき、「僕」はおそらく執筆者だろう、と思われるが、だからといって三人称の可能性も排除されない。もしかすると「我々」というのは「僕」ではない、例えばダンチュラ・デオのファンたちで、彼らが気ままにダンチュラ・デオの偽史を執筆しているのではないか。

この信用ならなさは、そのままWikipediaの信用ならなさと直結する。

東浩紀は『動物化するポストモダン』で二次創作という現象を「データベース消費」として説明しているが、それが行われている、と解釈できなくはない。なぜならWikipediaが編集可能性があり、公に開かれたテクストであるからだ。

誰の妄想か

このダンチュラ・デオなるバンドを巡る「妄想」について考えてみよう。

その「妄想」とは、ダンチュラ・デオを始めた喜三郎に端を発する。ダンチュラ・デオなるバンドがかつて存在して、そのコピーバンドとしてダンチュラ・デオを結成した。ちなみにそのかつての(オリジナルの)ダンチュラ・デオは歴史の陰謀の中で抹殺され抹消された存在であるという。

これを言いだしたのが喜三郎であるが故に、次のような記述も見られる。

僕は喜三郎に尋ねた。ライウとヘイジって本当にいたのか、と。喜三郎は頭を抱えて唸る。そんなようだった気がしないわけでもないんだよなあ、どうだったかなあ。喜三郎が証言したわけではないのなら、それは嘘であるということだ。むろん、オリジナルのダンチュラ・デオとて嘘であるのだが、喜三郎の「嘘」が公式なのである。

これはダンチュラ・デオのWikipediaの記述に、かつてのオリジナルメンバーとしてライウ・ヘイジの二人の名前が誰かによって勝手に追記された後の場面である。つまり、喜三郎の範疇を超えた記述だったので、それは「嘘」ということになる。なぜなら喜三郎の「嘘」が公式だから。

こうした荒唐無稽なストーリーについて、ファンはどのように反応するのか。

 客たちはこれらの設定に同意しているけれども、真実としてではなく、むしろ物語として同意している。

喜三郎に端を発する「嘘」は、あらゆる人の「嘘」にその所有者を転々とする。そして多くの人がその「嘘」=「設定」に「同意」する。

実際こうした「嘘」は、バンドメンバーであったはずのアルルによって、そしてその後はマネージャーの有森によって、「物語」は大きく様相を変えていく。しかし「僕」はそれを突き放すことが出来ない。

そろそろダンチュラ・デオの先を見定める時期なのではないか。違う。有森はわかっていない。嫉妬などするものか。僕にとって必要なのは喜三郎ではなく、「ごっこ」としてのダンチュラ・デオなのだ。

こんなもの「ごっこ」だと分かっていて、なおそれに付き合う。それは喜三郎の手を離れたものであったとしても、その世界の中に生きていくことしかできない。

「物語」にはあるアポリアが付きまとう。

というのも、この「鎖国」という設定は極めて巧妙に機能していて、普通ならSFでは「他の国はどうなっている」というようなことを書いてくれるのだけれど、それが分からない。つまり日本は、老人は死ねず、若者はいつ死ぬか分からないくらい弱弱しい、外来語アレルギーで何もかもがおかしい、という気がするのだけれど、じゃあこれがこの作品で「普通」なのか分からない。

【書評】多和田葉子『献灯使』 - 掌のライナーノーツ

 例えばここで書いたのは、「献灯使」の日本は鎖国されたために、その日本の状況がいかにおかしいか、他国と比較する、というようなことができない、ということである。

つまり「物語」に付きまとうアポリアとは、「書いていないことはわからない」ということである。

だからこそ、司馬遼太郎は「神の視点」から登場人物に歴史的な論評を、時に文脈を逸脱してでも加えるのだし、『魔法科高校の劣等生』などを読んでみると、ストーリーの展開上は不必要な設定であっても精密に説明される。いずれも、読者と作者が高度に一致した世界観を共有するためである。

しかしこの作品は、端からそんな試みを拒絶している。

Wikipediaという体裁には、あまりに書かれていないことが多すぎる。つまり、この内容がどの程度真実であるかという判断はできず、全く信用しないか、反対に全て信じるしかできない。

私たちはこれをどのように読みうるのか、という試みは、ポスト・トゥルースの時代に生きる私たちへの一つの試金石として機能しているのだろう。つまり、私たちは、この小説をいかに読むかという形で、試されている。

 

written by  虎太郎