【特撮の存在論②】「SSSS.GRIDMAN」の新地平⑸
本当の敵を見つけ出せ
アンチ
特撮ヒーロー作品において、長らく対立してきた敵が、実は敵ではなく、その背後に黒幕がいた、という構造を持つものは多い。
この作品では、アンチというキャラクターが敵であるように見えて、実はその背後には新条アカネがおり、新条アカネこそが黒幕だと思いきやその背後にはアレクシス・ケリヴがいた。
このアンチについて考えてみよう。
アンチは、その名の通り、「アンチ・グリッドマン」として、グリッドマンを打倒することを存在論的至上命題として与えられ存在する。彼のアイデンティティとは、「アンチ・グリッドマン」で居続けることにこそある。そんなアンチは、響裕太を殺すとグリッドマンを倒せない、別の敵にグリッドマンを倒されると、自分はグリッドマンを倒せないというジレンマの中で、グリッドナイトとなる。
グリッドナイトとは、GRID KNIGHTだろう。というのも、本作で読まれないものの「GRIDMAN」の前に付される「SSSS」とは、「電工超人グリッドマン」のアメリカ版リメイク作品「Superhuman Samurai Syber-Squad」が語源であるとされる。言ってみれば、グリッドマンとはSamuraiあり、アンチ=グリッドナイトとはknightなのである。
ここから分かるように、グリッドマンとアンチの対立とは、日本的サムライと、西洋的ナイト(騎士)の対立でしかなかった。それを習合し、昇華した先に、やはり「同盟」の姿が見える。彼らは、新条アカネを救うという点で「同盟」を結ぶのである。
アレクシア
アレクシアは、グリッドマンや新世紀中学生と同じように、この世界の「外部」からやって来た存在である。その点で「ウルトラマン」と全く同じだ(「ウルトラマン」の外部性については、既に記述した通りである)。
そもそも「電光超人グリッドマン」について鑑みれば、その本質とはグリッドマンとカーンデジファーの戦いであり、そのカーンデジファーが本作におけるアレクシアに当たる。
彼らの戦いは、実は「外部」で行われる。というのも、彼らの戦いはコンピューター内で行われるために人々の目にはつかない。コンピューターと言えば、「内部世界」という感じがするのだが、その「内部」を完全には理解し得ないという点で、「〈内部〉外世界」とでも言うべき複雑さを伴っている。
それが本作においては、新条アカネが構築した「〈現実世界〉内〈想像世界〉」におけるコンピューターという「〈内部〉外世界」という更なる複雑さを伴っている。
分かりにくいので図解していこう。
「電光超人グリッドマン」の場合はこうなる。
現実世界からコンピューター内の世界=電脳世界は見えない。むしろ、「見えないところで戦っている」という事実が重要視される。「人知れず平和を守るために戦うヒーロー」としての側面が強化されているのである。
それがこの世界ではより複雑化している。新条アカネの想像世界内で起こる出来事であるがゆえに、枠が一つ追加されているのである。
想像世界は、新条アカネが現実世界から逃避したことで構築された。新条アカネは最終話「覚醒」で、その想像世界から「覚醒」する。
その想像世界内のコンピューター内に吸い込まれる形で響裕太は「変身」するが、さらにそのコンピューター内から飛び出て「具現化」する。
アレクシアは電脳世界に生きるわけだが、それは世界内世界内世界である。
内海将
内海将は、先述の通り、記憶を失い、アイデンティティを失った響裕太に対して、「また友達になる」ことでそのアイデンティティ=「継続性」を取り戻させる役割を果たす。しかし、それだけではない。
この物語が、グリッドマン同盟と新条アカネの和解の物語である限り、内海将もまた、その任を担ってしかるべきである。実際、新条アカネと内海将の間には「怪獣が好き」という共通点がある。
内海将が、現在の特撮における「大きなお友達」=特撮クラスタを代表していると考えて問題ないだろう。実際、「電光超人グリッドマン」でも、主人公・翔直人の友人・馬場一平はバルタン星人の真似をするなど、こちらの世界でも「ウルトラマン」シリーズが放送されている様子である。
新条アカネは「怪獣」それ自体を肯定する。だから、「怪獣」が倒されることを悲しみ、「怪獣」の勝利を志す。
一方,
内海将はそうではない。彼は、「怪獣」が「ウルトラマン」に倒されることにこそ意味があると考える。言ってみればプロレスにおけるヒールだろう。言ってみれば彼の判断は「正常」だ。「正常」な特撮視聴者であると言って良い。その立場を、まさに彼は代表している。
それと同時に、そのことは新条アカネに対して「分かりあえない」と伝えることである。結局そんな新条アカネは、宝多六花による救済を待たなくてはならない。
宝多六花
宝多六花のもっとも重要な役割は二つある。一つ目は、内海将の言葉をタイピングによってグリッドマン=響裕太に伝えることである。二つ目は、グリッドマン同盟と新条アカネの和解の仲介者となることであった。
まず一つ目について言えば、これはコミュニケーションの成立しえないヒーローと、知識を持つ内海将のディスコミュニケーションを解消し、そのコミュニケーションを仲介するメディアの役割であると言い換えられる。*1
乱暴な解釈では、宝多六花が媒介する響裕太は特撮ヒーローの寓意、内海将は特撮ヒーロー視聴者の寓意であるとし、それを媒介する宝多六花は母親である、とみなすこともできるかもしれない。
しかしその際問題になるのは、宝多六花の母親も登場することである。もし宝多六花に母性が付与されるのであれば、その母親には「祖母性」が付与されるということになるのだが、その様子は見えない。
むしろ宝多六花の母親が経営するジャンクショップと、そこに集うグリッドマン同盟や新世紀中学生との関わりを見れば、彼女こそが母性を発揮しているように思われる。
よくよく考えてみれば、グリッドマンは新世紀中学生などのように具現化できず、ジャンクショップのコンピューターの中にしか存在しない。その点においてジャンクショップとは、新条アカネやアレクシアの支配が及ばない「聖域」と化す。
その際、グリッドマン同盟や新世紀中学生の味方の瞳は青く、新条アカネの瞳は赤いという対称の中で、宝多六花の母親の瞳だけが、グリッドマンに覚醒した響裕太のように黄色いということが示唆的である。
いわば、青と赤の対立を俯瞰する聖域の主である宝多六花の母だからこそ、その瞳は黄色いのではないか。
宝多六花の母が経営するのはジャンクショップ。ジャンクと呼ばれるようなガラクタに価値を付与し、それを商品にするのが彼女の仕事である。しかし、新条アカネの部屋には無数のゴミ袋が置かれる。おそらく怪獣の造形に失敗するなどしたために生まれたゴミだろうと思うが、そこには新条アカネによって価値を付与されることなく、ただそこに放置されるだけのゴミを見出すことが出来る。
この好対照は何より「戦闘」という分かりやすい対立ではなく、「価値付与」という倫理的問題の上で彼女たちが対立関係にあることを示している。そしてゴミにも「価値付与」がなされた空間はグリッドマン同盟や新世紀中学生の根城となり、ゴミを放置した新条アカネは、部屋で孤独を深めていくしかない。
written by 虎太郎
*1:特撮作品において、女性はままこの「メディア」としての振る舞いを強いられてきた。そのことは、怪獣出現を前にして、女性隊員は前線に出撃せず、基地で男性隊員たちに情報を提供するなどの後方支援を命じられていた点に端的に現れている。また、特撮作品に限らずとも、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』でハリー・ポッターとロン・ウィーズリーが仲たがいした際に、フクロウのように伝言を頼まれていたのも、女性であるハーマイオニー・グレンジャーだった。