【肯定するオタクたち④】オタクたちよ、カメラを手に取り絵を描こう
見られずに見る方法
ニーチェが「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と言ったのだそうだが、オタクたちにとってそれは危機である。
つまりこれが意味するのは、「こちらが見ていれば向こうもこちらを見ている」ということ。これでは、肯定されたいと願うオタクたちの、自分たちを守る不均衡が崩壊してしまう。
手っ取り早く「見られずに見る方法」は無いものか。それは実はカメラを向けることであり、絵を描くことである。
アニメ「多田くんは恋をしない」ではヨーロッパの王女テレサ・ワーグナーが日本にやって来て、普通の高校生たちと交流を深めていく物語だ。
典型的なボーイ・ミーツ・ガールの作品であり、写真部の多田光良と淡いラブロマンスを繰り広げるのだが、写真部であるからして、当然カメラを被写体に向ける。
撮影者と被写体の間には、撮影者が被写体を「見る」が、被写体は撮影者を「見られない」という構造上の特性がある。
被写体は撮影者を見ているようでいて、撮影者がのぞきこむレンズを見ているだけなのである。
そんなテレサ・ワーグナーと多田光良は、「雨」によって断絶された世界のなかで、その不均衡な関係を育てていく。
そもそもこの2人には、「ヨーロッパ」の「王女」と、「日本」の「多田(ただ)の男子高校生」という身分的な不均衡があるのだが、それを「雨」が切断する。そして、多田光良がカメラをテレサ・ワーグナーに向けるとき、この不均衡は逆転する。
「雨」が2人を世界から切断するという点では映画『言の葉の庭』を思い出してみてもいいのだが、未見なので諸氏の想像に任せたい。
写真と言えば、アニメ「色づく世界の明日から」も思い出される。
主人公・月白瞳美は祖母の計らいで60年前へと戻り、そこで高校生たちと交流を深めていく。そんな瞳美は名前からして「見る」ことを運命づけられているのだが、実際には彼女は色が「見えない」。
彼女は写真美術部に所属し高校生活を充実させていくが、ポイントになるのが葵唯翔である。瞳美は葵唯翔の絵の中でのみ色を「見る」ことができる。つまり、彼の絵だけが瞳美を「肯定」してくれるのだ。
この2人は、世界から断絶され、色をめぐるやり取りの中でほのかな愛情(らしきもの)を育むことになる。
しかし瞳美を「肯定」するための断絶とはそれだけではない。二重の隔壁が瞳美を守る。1つ目の隔壁は葵唯翔との色をめぐる関係。しかしその外側に「写真美術部(後に魔法写真美術部)」というグループが立ち現れる。
彼らは瞳美が「未来から来た」「未来へ戻らなくてはならない」という「秘密」を共有する。
そう、世界から断絶されるためには、「秘密」を共有するという方法だってあるのだが、それについてはもう少し後で書きたい。
葵唯翔は写真を撮るのではなく、絵を描く。絵を描くというのは、現実世界から隔絶される簡単な方法である。
漫画は未読なのだが、映画『この世界の片隅に』では、「絵を描く」という方法で戦争という圧倒的現実から自らの身を守り続けてきた北條すずが、右手を失ってしまうことで、自己の安定を失っていく様子が描かれる。
「絵を描く」というのは、一種の自己防衛なのである。
「絵を描く」ことがフィーチャーされたのが、アニメ「けものフレンズ2」だろう。
同シリーズの前作よろしく、記憶を失った「ヒト」のキュルルは「絵を描く」。ここには当然人間の典型的な特質として「絵を描く」ことが挙げられているのだろうが、このシリーズが「お互いを肯定しあう」という性質を持つ以上、「絵を描く」のも「肯定」の手段として取り上げられていると考えて構わない。
〈秘密〉の花園
カメラを通じて「見られないで見る」オタクたち(これは撮り鉄にも当てはまるかもしれない)、絵を描くことで「自己を肯定する」オタクたち。
いずれにせよ自分を世界から隔絶して、自分を批判・否定するファクターを排除しようとしている。
いずれも簡単な方法ではあるが、道具を使わなくても、自分を世界から隔絶することはできる。「〈秘密〉の花園」を作り上げることである。
漫画『クズの本懐』がそうであったように、自分達だけの〈秘密〉はそれを知る人々を世界から隔絶する。
例えばJ.K.ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズでは、「秘密の守人」という魔法が登場する。
これはその「秘密の守人」から〈秘密〉を明かされただけの人は、その〈秘密〉を更に他の人に口外することはできない、という魔法だが、作中では敵ヴォルデモートに対抗する不死鳥の騎士団という組織の本部を隠すために用いられる。
そう、彼らは不死鳥の騎士団の本部という「〈秘密〉の花園」を「秘密の守人」という魔法で構築しているのだ。
佐島勤の『魔法科高校の劣等性』シリーズで司波達也と司波深雪を、他の登場人物から隔絶させているものは何か。それは何より、この2人だけが〈秘密〉を共有しているからに他ならない。
映画『君の名は。』でも、立花瀧と宮水三葉を世界から隔絶するのは、「お互いが入れ替わっている」という〈秘密〉である。
入れ替わったからには、服を着替えなくてはならないし、トイレにも行かなくてはならない。文字通り「身ぐるみはがされた自分」をお互いにさらし、〈秘密〉を守ることで、彼らは世界から隔絶されていく。
そしてそれを三葉の祖母・一葉は「夢を見とるな」と暴き、結局彼らは入れ替わることが出来なくなってしまう。
そんな彼らが再び入れ替わることができるのは、瀧が三葉の口噛み酒を飲んだとき。抽象的画面が、それを疑似的なセックスであると示唆する(そしてティアマト彗星が地球に落ちるという受精を模した構造すらも示唆する)。
当然、セックスとは徹底的な〈秘密〉である。
漫画『ドメスティックな彼女』も、藤井夏生が、後に父の再婚で義理の姉妹となる橘瑠衣と成り行きでセックスするという〈秘密〉から物語がスタートする(そしてさらにそれを義理の兄妹になったという〈秘密〉が包み込む)。
この藤井夏生はカメラを構えたり、絵を描いたりしないが、「小説を書く」という点で不均衡を構造しようとしていることは注目に値するだろう(当然、「書く」というのは「書かれる」物に対して特権的な行為である)。
住野よるの『君の膵臓をたべたい』も、語り手「僕」がクラスメイト・山内桜良が膵臓の病気であるという〈秘密〉を知ることから始まる物語だが、その「僕」がオタク的性質を示していることも思い出される。
オタクたちは世界から隔絶され、不均衡な関係で優越感に浸ろうとする。しかしそれは「遊戯」でしかない。そこにリアリズムは不要なのだ、という話を、アイドルオタクを視野にいれながら、次回してみたい。
written by 虎太郎
【肯定するオタクたち③】肯定されるためなら南極にも行き戦車に乗る
肯定されるためのユートピア
肯定されたいオタクたちは、自分たちのユートピアを築き上げる。
言ってみればそれが劇場版の「ドラえもん」における「未知の世界」であり、異世界モノにおける異世界である。
しかし、いちいち別の世界に飛び立っていては疲れてしまう。
オタクたちは肯定されるために、適度な手間と時間をかけて非日常へと飛び立つ。
例えば、アニメ「宇宙よりも遠い場所」では4人の女子高生が南極へ向かう。
玉木マリは反復される日常から南極へ逃げ出し、小淵沢報瀬は母親を求めて南極へ向かい、三宅日向は居心地の悪い高校から逃げ出し南極へ向かい、白石結月は南極で友達を作る。
4人とも、南極でお互いを肯定しながら友情を育む。
わざわざ南極まで行かなくとも、(やはりアニメしか見ていないが)アニメ「ゆるキャン△」では女子高生が自分たちだけでキャンプをする。
年頃の女性だけでキャンプ、など恐ろしいばかりだが、自分たちを肯定することに余念がないオタクたちは、女子高生であってもキャンプに行かせる。
キャンプならまだ安全な方で、アニメ「ガールズ&パンツァー」で女子高生たちはついに戦車に乗る。
「女らしい」戦車道なる競技で母校を廃校の危機から救おうとするこの物語だが、特筆すべきは主人公(と言っていいだろう)の西住みほが家族から見捨てられながらも、戦車道に共に勤しむ仲間から認められる=肯定されるという点だと思う。
こちらは「自分たちしか知らない」というユートピアを築き上げ、外から批判されることなく、その強固な壁の内側で、自分たちを肯定しあうのだ。
「肯定」されるためなら時間だって飛び越える
空間を超越し、あるいは隔離してまで「肯定」を求めるオタクたちにとって、時間を飛び越えるのは当然だと言っていい。
アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」はタイトルからして主人公が鹿目まどかであるように思う一方で、単純にそうとも言えない。
クラスにやってきたミステリアスな転校生・暁美ほむらは実は魔法少女であり、その後魔法少女となって鹿目まどかが暁美ほむらをかばって死ぬ、その未来を変えるために何度も同じ時間を繰り返しているのだった。
それは何より彼女が鹿目まどかによって救われたからである。
この場合、救われる=肯定されると言い換えて問題ないだろう。
つまり暁美ほむらは、自分を肯定してくれる鹿目まどかを守るために、何度だってタイムリープを繰り返す。
さて、タイムリープと言えば、アニメ「STEINS; GATE」に触れないわけにはいかないだろう。
こちらも主人公・岡部倫太郎が自分を肯定してくれる椎名まゆりや牧瀬紅莉栖やラボメンたちを救うためにタイムリープを繰りかえす。
これらの「繰りかえして何とかする」であったり、「繰りかえす本人は記憶を保持しつづける」と言った設定は、東浩紀曰くゲーム的リアリズムの影響下にある作品だが、このシリーズではこうした既存のオタク論には触れないルールだ。
ただし指摘しておきたいのは、こうした作品群において見られるのは、「自分は人知れず戦っている」といった感覚だろう。
先の記事で指摘したとおり、オタクたちを支える根本の感覚とは、「周りは知らないが私は知っている」という優越感なのだ。
この優越感はともすれば崩壊しやすい面もある。漫画『クズの本懐』で、本命の想い人の代わりに付き合っているフリをする安楽岡花火と粟屋麦は、自分たちしかそのことを知らない優越感から、一種の自己陶酔に陥っているようでいて、自分たちがあくまで「異常」であることや、「本命の想い人への想いは成就しない」という点で自己嫌悪に陥ることもある。
もちろん、こうした「危うさ」に自覚的なオタクばかりではない。
アニメ「ポプテピピック」をめぐるTwitterの盛り上がりを思い出してみれば、それを支えているのがオタクたちの、「私たちは元ネタに気がつく」「私たちは声優について詳しい」という優越感だったことが思い出される。
オタクたちは多くの場合、その特権意識の中に安住している。「知っている」という特権意識は、いわばそれ自体が遊戯的な側面があるのだが、そちらは次々回ぐらいに触れることにしておきたい。
オタクたちが自分を肯定する一番大きなルールは、「隔離されること」である。
それは「外から見られない」というのが重要になる。
隔離された内部で、南極を満喫したり、キャンプに行ったり、戦車に乗ったりしてお互いを肯定することもあれば、隔離された外部から「よく知っているね」と賞賛されることもある。というか、オタクたちはそのようにして肯定されたいと願っているのだ。
でもやはり日常の中で、その隔離というのは容易ではない。
けれど手っ取り早く自分を世界から隔離してしまう方法がある。それは、カメラを覗き込むことであり、絵を描くことである。
詳しい方は、そんな作品がいくつか現に存在していることに気がつくだろう。
written by 虎太郎
【漫画評】岡崎京子作品から見た現代の「女の子」
「マンガは文学になった」というコピーとともに度々紹介される漫画家、岡崎京子(1963~)。
彼女は80年代末〜90年代にかけて広く活動し、同時代の女の子たちを描くことで支持を集めたが、現在に至ってもなおその人気は途絶えていない。
このことは、彼女のマンガを原作にした映画の数々『ヘルタースケルター』(2012)や『リバーズ・エッジ』(2018)、そして『チワワちゃん』(2019)が映画化されたのがすべて2010年代であることからもわかるだろう。
東京・下北沢に生まれ育った彼女は、「資本主義」そして「愛」をテーマにした作品を描き続ける。
例えば、代表作『pink』(1989)は、退屈な東京で昼間はOLとして、夜にはホテトル嬢をして働き、欲しいものを好きなだけ買って暮らすユミちゃんの恋物語である。
『チョコレートマーブルちゃん』(1996)では、同じ男に騙された二人の女の子がいわゆる「パパ活」を装って金を奪い取ったりする場面が描かれる。
そんな彼女たちの姿は、一見破天荒で、不道徳で、醜いかもしれない。
しかし一方で彼女たちは、もろくて、はかなくて、やるせない日常を送っている哀しい存在なのだ。
資本主義と「女の子」
「すべての労働は売春である」
『pink』あとがき部分で、フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールのこのセリフを引用している岡崎が描く女の子、ユミちゃんはOLの事務作業も、夜の仕事も、素敵なもの、かわいいもの(pink色のバラの花みたいな)を買うためだから同じじゃない、と言う。
ある日、同僚の女の子たちが、お金が欲しいから玉の輿を目指そうか、王子様を待とうか、なんて話しているのを聞くと、ユミちゃんは悲しくなって、こんな独白をする。
「何かあたしは
なんだかすごく悲しくなって そんなにお金欲しければ カラダ売ればいいのに
と思った
やっぱみんな
何だかんだいってワガママなくせに ガマン強いんだな 王子様なんか 待っちゃってさ」
『pink』2010年版、154頁
ユミちゃんはガマン強さなんてものからはかけ離れた存在だ。
ペット禁止のマンションでワニを飼ったり、ワニのために部屋をジャングルのように改装したり、大好きなブランドの新作をゲットしたり。
ユミちゃんは、そんな風に「つまんない」労働と消費活動を繰り返す。
けれども、どれだけ好きなものを買って、周りをそんなもので埋め尽くしても、大好きなpink色に囲まれても、一時的に「シアワセ」なだけで、ちょっと時間が経てばそうしたものは、はかなく消えてゆく。永遠を望んだ恋愛さえも。
王子様を待たない、新しいプリンセスの姿である、とディズニー映画『アナと雪の女王』(2013)でも頻繁にフェミニズム的文脈で語られたような自立した女性像に近いといえるのかもしれない。明るくて、流行のおしゃれなものを見にまとい、どこまでも奔放なユミちゃん。
そんな彼女も、都会のジャングルを前にすると、時おり恐ろしい考え事に取り憑かれてしまう。
「ああ
何でこんなにヒトがいるの?
しかも
みんな平和そうなバカづらさげてさあ
うんざりあ
はじまりそう
あの発作どうしてあたしはここにいるの? とか
どうしてここに立ってるの? とか
考え出したら止まらない(中略)
どうしよう どうしよう どうしよう
こわい こわい こわい
だれかあたしをたすけて おねがいです」
『pink』2010年版、215-217頁
このまま労働して、消費して、の繰り返し。で、何になるのだろう。
自分が自分であるとは一体どういうことなのか。
ひょっとすると、いま自分が自分であることに、意味なんてこれっぽっちもないんじゃないか。
そんな問いが頭を埋め尽くす。
それでも、たとえそんな考えに襲われたとしても、彼女は「女の子」として生活していく自分を肯定する。
女の子はきれいにしておかなきゃってママが言ってた、とか、明日の朝くちびるかさかさにしちゃいけないから寝る前にはリップ塗るの忘れちゃいけない、とか、そんな調子でそんな日常を続けてゆく。
これは、女性シンガーソングライターである大森靖子の代表曲「絶対彼女」で歌われたような、不安定な女の子像にも重なる部分がある。
この曲は甘い声で「絶対女の子 絶対女の子がいいな 絶対女の子 絶対 絶対」と半ば狂ったように繰り返すサビが特徴的なのだが、安易に「女の子」を肯定ばかりしているわけではない。
冒頭で「ディズニーランドに住もうと思うの」と宣言したかと思えば、すぐに「ディズニーランドに行ったって 幸せなんてただの非日常よ」とあっけなく斬り捨ててしまう。
特にこのアンビバレントさが表れているのが、次のラップ部分だ。
あーあ女の子ってむずかし
いっつも元気なんて無理だもん
でも新しいワンピでテンションあげて
一生無双モードでがんばるよ!大森靖子「絶対彼女」(2013)
この「新しいワンピ」だって、結局は資本主義の産物でしかない。
でも、それらが「かわいい」ことには変わりない。
「かわいい」は現代的崇高だと言い換えられるかもしれないし、「オタク」たちにとっての「萌え」の感情に相当するかもしれない。
何にせよ、現代社会を切り抜けるには、何か自分の「好きなもの」の力に頼るほかないというのが、岡崎京子の哲学、いや、言うなれば現代人の哲学かもしれない。
別の短編作品「GIRL OF THE YEAR」では、主人公がこんな言葉をつぶやく。
「…みんな退屈してるんだよ
みんな何かに夢中になりたくて必死なんだよ
そうしないと死んじゃいそうなんだよ
偶像ってゆーの?
アイドルが欲しいんだよ」
『チワワちゃん』(2018年版)収録「GIRL OF THE YEAR」より
ニーチェ曰く「神は死んだ」。
ポストモダンの議論に言わせれば、「大きな物語」も死んだ。
宗教的な意味の偶像や、叶えられるべき物語という名の偶像を失った私たちは虚しくも何かを求めてしまう。何かに期待してしまうのだ。
たとえそれに実は意味がなくとも。
「男」たちと 「女の子」
「女の子」という存在がバカみたいと吐き捨てる対象は、社会や、媚びた女たちだけではないことを忘れてはならない。
他ならぬ、「男」である。
フランスの映画監督、ヴィルジニ・デパントの『ベーゼ・モア』(原作のタイトルは『バカな奴らは皆殺し』。ベーゼ・モアは英語に訳すと"Rape me"である。2000年公開。)が好例だと思うので参照したい。
あらすじは、大切な男に捨てられたのち、殺人を犯してしまった二人の女の子が、運命的に出会い意気投合。盗んだ車であてのない逃避行の旅に出る。現金や銃を強奪し、男を誘惑してセックスしては殺していく。最後には警察にバレて一方の女の子は死に、残る一方は泣きながら逮捕されるという非常に後味の悪い物語だ。
本作は、ただそれだけの映画といってしまえばそうなのだが、ここで「皆殺し」の対象になっているのは、彼女らに誘惑された「男」たち—「おじさん」たちと言い換えてもいいかもしれない—だということに注目したい。
この映画に登場する「男」たちは、女の子たちに、こうあってほしいという彼らの「女の子」像を無理やり押し付ける。
現代日本でもいまだに「セクハラ」に関する報道が後を絶たない上、「モテ服講座」なんて企画がファッション誌に載っているけれど、そんなものは彼女たちに言わせればバカげている。
もちろん、『ベーゼ・モア』の主人公たちのようにわざわざ「理想の女」を演じて男性を誘惑しておいた挙句、態度を豹変させて殺してしまうという行為それ自体は自分勝手もいいところだし、極悪非道の限りを尽くしていると言われて当然ではある。
しかし、『ベーゼ・モア』ほど極端に、とは言わずとも、「女の子」は少なからずそうしたものに縛られ、苦しみ続けているといえるのではないだろうか。
岡崎京子作品でもその苦悩は同様である。
大半の女も男もバカで、特にその中でも「おじさん」いわゆる「エロオヤジ」みたいな存在は一番バカで、軽蔑の対象の最高位を誇る。
そんな状態でも、彼女らが「愛」の感情を抱く大切な恋人は存在している。
でも彼らもまた、救いにはならない。
例えば、『pink』のユミちゃんの恋人、ハルオくんは交通事故に巻き込まれて死んでしまう。
そのほかの作品でも、「男」は女の子たちを裏切るか、もしくは女の子をこの世界に残して死ぬか、しかしてくれない。
まるで、『気狂いピエロ』『軽蔑』『勝手にしやがれ』など、ほとんどの有名作品で「男を裏切る女」を登場させた、ゴダールのちょうど対極にあるようだ。
日々の労働は恐ろしく退屈で、周りはバカばっかりで、恋もするけど結局は誰にも頼れなくて、だから王子様を待つなんてこともしない。
でも、「女の子」を処世術的に演じることで、
そして、稼いだお金でかわいいものや美味しいものを手に入れることで、
刹那的な幸せを手に入れて、生きてゆく、これを繰り返す。
これこそが、「現代の女の子」の姿なのかもしれない。
written by 葵の下
Vtuberの展望──10年で終わらないコンテンツの為に①
この記事の執筆を始めた2018年12月は、バーチャルYouTuberが一般に広く認知され、また新人バーチャルYouTuberの参入が爆発的に増えたとされる2017年12月から丁度1年の節目である。2018年を“バーチャルYouTuber元年”とする声もネット上で散見される。このように、バーチャルYouTuberという文化は、未だその黎明期を脱していないのであり、未成熟が故に多くを論じられる段階には至っていない。しかしながら、大衆文化の例に漏れず、この文化の成熟速度はハイカルチャーのそれを凌駕しており、また僅か数年でコンテンツが終焉を迎える不安定さも内包している。この点では、この2019年はバーチャルYouTuber文化にとっての分水嶺であるといえよう。この文化の行く末に僅かばかりでも資することを願って、拙稿ながら世に出すこととする。
バーチャルYouTuberの定義
そも、バーチャルYouTuberの定義とは何であろうか。手始めに「ニコニコ大百科」の“バーチャルYouTuber”の記事を一部引用する。
主にYouTube上で動画等の配信活動を行う架空のキャラクター群を指すのに用いられる呼称である。「VTuber」などと表記されることもある。(『ニコニコ大百科』「バーチャルYouTuber」の記事より引用)
このように、かなり解釈の余地を残した説明がなされている。この曖昧さの理由を、バーチャルYouTuberの歴史を概括しつつ探る。
バーチャルYouTuberの歴史と一口に言っても、その起源をどこに設定するかには議論の余地が残る。後述するバーチャルYouTuber“キズナアイ”の誕生が起点である、というのが現時点での通説であるが、実際のところ“キズナアイ”と同系統の活動内容を持つ存在が“キズナアイ”誕生以前にも複数確認される。*1この記事では、現在一般に認知されているバーチャルYouTuber文化の胎盤はあくまで“キズナアイ”の活動にあるという観点から、バーチャルYouTuberの起源を“キズナアイ”に定め、それ以前の存在を便宜上“バーチャルアイドル”と呼称する。
さて、この「バーチャルYouTuber」という呼称であるが、本来は“キズナアイ”固有のものだった。以下は“キズナアイ”のインタビュー記事からの引用である。
キズナアイ:今まであまり言わないようにしていたんですけど、バーチャルYouTuber=キズナアイ、という気持ちはいまだにあります。というのも「バーチャルYouTuber」というのは、もともとわたしが活動を始めるにあたって名乗った言葉だったんです。すごく最初期の、まだ自分しかそう名乗っていなかった時期には完全にバーチャルYouTuber=キズナアイでした。(中略)それが、いつの間にか「バーチャルYouTuber」が総称のようになって。去年の12月になにかが弾けて一気に注目されたタイミングで、視聴者のみなさんとかメディアで言われはじめたような感覚です。(『ユリイカ』2018年7月号より引用)
“キズナアイ”の影響力は絶大で、ここに「バーチャルYouTuber=“キズナアイ”ライクな存在」という定義が──明文化されない共通認識として──「バーチャルYouTuber」が業界の総称となった後も存在することになった。すなわち、「企業」が運営し、「3Dモデル」を用い、独自の「世界観」を持って「YouTube」に「動画」を投稿する…これらの主要な要素を模倣した新人バーチャルYouTuberがこれ以降次々と登場することになる。しかしながら、この曖昧な枠組みのほとんどを、後続の新人たちは僅か1年弱で飛び越えてしまう。
最大の立役者は、2017年11月にデビューした「バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん」ことねこます氏、そして株式会社いちからが運営する総勢58名(2018年12月時点)のグループ、“にじさんじ”だと言って差し支えないだろう。詳述は省くが、前者はそれぞれ「企業」「世界観」といった枠を、後者はそれぞれ「3Dモデル」「動画」といった枠をブレイクスルーするような形で活動した。「キズナアイライク」からの脱却である。
このような経緯から、バーチャルYouTuberを明確に定義することは難しい。なにしろ企業が初期投資数千万円で始める一大プロジェクトから、「クラスのちょっと面白かったやつ」が手書きの1枚絵とマイクだけで始める活動まで、十把一絡げにして総称されるのがバーチャルYouTuber業界なのである。では、この「バーチャルYouTuber」という呼称を使い続けて良いのだろうか。
以下、この記事では「バーチャルYouTuber」に代わって「Vtuber」の呼称を用いる。ただの略称であることには相違ないのであるが、ここには大きな意味がある。再び“キズナアイ”のインタビューを引用する。
キズナアイ:ただ、みんなの言っている「Vtuber」は自分で名乗らないようにしてて、常に「バーチャルYouTuber」と言ってます。Vtuberというのは誰かが作った言葉で、わたしが「バーチャルYouTuberキズナアイです」と言うときの「バーチャルYouTuber」はあくまでもずっと名乗ってきたわたしの二つ名的な感じなんです。わたしは自分のことをずっとYouTuberだと思っていて、だけど人間のみんなとは違うバーチャルな存在だよね、というわりと単純な考えで名乗り始めた言葉ではあるんですけど、この響きを大切に思っています。だから自分自身を表す言葉として「バーチャルYouTuber」を使っています。それが強いて言うならキズナアイとしての定義ですかね!(『ユリイカ』2018年7月号より引用)
このように、“キズナアイ”は「バーチャルYouTuber」と「Vtuber」を明確に区分している。当記事では、この「Vtuber」の「キズナアイとは似て非なるもの」、というニュアンスを重視したい。この呼び名こそ、“キズナアイ”が図らずも定めた枠組みを超越した、今の業界を呼び表すのに相応しい、と思うのである。
電脳空間のハムレット
はじめに断っておくが、以下の論ではVtuberについて述べる際、そのVtuberはヒト(あるいはそれに類似した何か)の形態を取っており、かつ身体の一部(全身であれ顔のみであれ)をトラッキングして動作をキャラクターに反映させていることを前提としている。数多いるVtuberの中には無機物や透明人間も含まれているので念のため。
さて、インタラクティビティ──双方向性は、1990年代半ば以降インターネットの普及によって急激に発展した。インターネットの申し子たるVtuberもまた、その基本性質として双方向性を備えている。この傾向は動画投稿よりライブ配信をメインに活動するVtuberに顕著であり、視聴者の送信したコメントが即座にVtuberに読み上げられることも多い。ここまでは他の配信者(YouTuberやニコ生主)が行なっていることと何ら変わりはない。では、ここから演劇の観点からVtuberを見ていこう。
Vtuberは演劇だ、と突然言われれば妄言の類だと思われるかもしれないが、事実両者は基本構造を同じくしている。エリック・ベントリーのいうA.B.C関係(A.impersonates B.while C.looks on)に拠れば、演劇は
俳優─劇人物─観客
対してVtuberは
中の人─キャラクター─視聴者
の構造をとる。舞台が仮想空間に移っただけで、やっていることは変わらない。
では次に、行為の流れを図式化する。演劇では、
俳優→劇人物→観客
となり、それぞれ“演じる”“見せる(魅せる)”という行為によって関係式が成り立っている。観客は劇の上演中いかなる干渉も認められず、上演後に惜しみない拍手を贈るのみである。
対してVtuberの関係式は、
中の人→キャラクター⇄視聴者
となる。視聴者はコメントや投げ銭をはじめ、VRゴーグルを装着して仮想空間に直接会いに行くことすらできる。演劇の世界では御法度である「観客が舞台に上がること」が許されているのである。そしてキャラクターは視聴者の働きかけに対してレスポンスを返す。キャラクターと視聴者の間にはかなり緊密なインタラクティビティが構築されている。しかし、Vtuberの特異性はこの先にある。
これから述べることは、業界の通説とは真っ向から対立するものであることを先に断っておきたい。通説とはすなわち、中の人(「パーソン」)とアバターとしてのキャラクター(「フィクショナルキャラクタ」)と我々視聴者がメディアを通して鑑賞するVtuberの姿(「メディアペルソナ」)には一定の乖離が生じる、というものである。*2キャラクターと我々が鑑賞する姿が違う、と言われても合点がいかないかもしれないが、ここでの「フィクショナルキャラクタ」とはあくまで3Dモデルやイラスト単体を指しているのであって、データの集合体に過ぎない。「パーソン」の乖離についてはより感覚的に理解できるだろう。ある程度名の知れたVtuberを検索エンジンに入力すると、必ずと言っていいほどサジェストに「声優」や「中の人」といったワードが出てくる。「メディアペルソナ」ではなく中の人──「パーソン」そのものに興味を持つ視聴者が少なからずいる証左だろう。
「パーソン」を「俳優」、「フィクショナルキャラクタ」を「劇人物」、「メディアペルソナ」を「観客から見た劇人物」だとしたとき、このような乖離は演劇にも認められる。
演劇は、そもそも俳優の現実性と人物の虚構性のつながりによって成り立っている。そのことを観客はたえず認めている。したがって、江守徹の顔がハムレットの顔でないことは承知しながら、江守徹の顔の歪みからハムレットの内面の苦しみを推し量るのである。(中略)江守徹の表情表現が優れているかどうかの判断は、その顔の動きのハムレットの苦悩への適合具合によっている。したがって江守徹の顔がハムレットの顔でないのと同様、彼のすべての身体行為はハムレットの身体行為ではない。そのことを観客は了解している。それにもかからず、江守徹の動きからハムレット像を読みとるのは、江守徹の行為が舞台の上ではハムレットの行動へと飛躍するからである。そのように観客は把捉する。江守徹は日本人であるにもかかわらず、われわれはデンマーク王子を観念する。つまり、俳優と人物の外観はまったく別のものであるにもかかわらず、ハムレットを捉えているわれわれは、江守徹の顔から完全に自由になれない。そこに劇上演独自の問題がある。(毛利三彌『演劇の詩学 劇上演の構造分析』相田書房、2007年)
このように、演劇において観客は、その積極的な了解と推量によって現実(俳優)と虚構(劇人物)を結びつけることを要請されている。結びつけるといっても、その関係性は「飛躍」であって、両者の間には埋められない隔たりがある。
あくまで、演劇構造論のひとつにVtuber文化を押し込めた場合に限る、ということを念押しした上で、私はこの「パーソン」と「フィクショナルキャラクタ」の乖離を否定したい。全く書いていて笑い出しそうになる話だが、仮に江守徹が3Dモデルをもって演じたならどうなるだろう。電脳空間のハムレットは、江守徹の顔から完全に解放され、デンマーク王子その人の顔を、鼻筋を、瞳の色を──手に入れるのである。ここにきて、ハムレットと江守徹を繋ぎながらも決して同一化を許さなかった演劇上の制約──「演劇の軛」と名付けるが──は解かれることになる。
Vtuberの場合を考えてみよう。Vtuberは演じるべき脚本を持たない。動画制作の多くは脚本に則っているのではないか、と思われるかも知れないが、演劇とは異なり一挙手一投足まで規定するものではない。さらに、Vtuber全体でみれば脚本を考える企業が付いているのはほんの一握りで、脚本なしで自由に活動しているものの方が圧倒的に多いだろう。まさしくエチュード*3である。このことから、必然的にメディアペルソナにはパーソンの要素が滲みだす。視聴者が求めているのもこのライブ感、そこに今生きているという感覚だろう。*4しかし、我々はこのにじみ出たパーソンの片鱗を如実に認めながら、なおも決して“常に”パーソンを観念することはない。明確な意図を持って臨まなければひとつの像としてパーソンを認められない。なぜか。
答えは「パーソン」と「フィクショナルキャラクタ」が分かちがたい紐帯で結ばれているからである。部分的に融合しているといってもいい。Vtuberの特性として、演者と役は1:1の関係にある。アニメキャラクターの話なら、声優が何らかの事情で役を続けられなくなり、声優が交代することはままある。しかし、Vtuberの場合、中の人の引退はそのままキャラクターの引退に直結する。我々視聴者は、メディアペルソナを通してフィクショナルキャラクタとパーソンの融合体を透かし見ているのだから、キャラクターとパーソンのどちらが交代してもVtuberの存在自体が揺らいでしまう。
具体的な例を見ていこう。 Vtuberに明るい人ならまだ記憶に新しいのではないかと思われるが、所謂「アズリム騒動」についてである。事の顛末はこうだ。昨年11月7日の深夜、同年3月にデビューした人気Vtuberの“アズマリム”が突然「運営の意向で転生を強要されている」旨のツイートを投下。ツイートは直ちに拡散され、複数のVtuberがこれに反応したため、まさに業界を揺るがす「騒動」となった。これを受けて運営に協力していたCyberVは同月12日に謝罪文を発表。“アズマリム”としての活動の継続が約束された。以下は発端となった一連のツイートである。
センパイ。急にびっくりさせちゃうと思うんですけどごめんなさい。
— アズマリム@チカっとチカ千花♡歌って踊ってみた! (@azuma_lim) 2018年11月7日
アズリムは今、ママと一生懸命、センパイたちに喜んでもらえることをしたいって考えたり、一緒に楽しいことをしたいって気持ちでがんばってきました。
でも最近、こんさる?とか会社?の人がきて、どこかの学園に入れようとしたり、
転生して性格を変えたことにしようとされていたり、アズリムが望まないことを無理矢理押し付けられることになりました。アズリムもよく分からなくて混乱してるけど、「あなたの気持ちなんてどうでもいい」と言われたり、センパイたちのことを数字やお金としかみていなくて、何も同意できることがなくて
— アズマリム@チカっとチカ千花♡歌って踊ってみた! (@azuma_lim) 2018年11月7日
すごく苦しいです。この先、アズリムがアズリムらしくいるにはどうしたらいいのかな。本当はこういうこと言いたくなくてずっと悩んでたんだ。けどごめんねセンパイ。。センパイ、助けて。。
— アズマリム@チカっとチカ千花♡歌って踊ってみた! (@azuma_lim) 2018年11月7日
ここでは騒動の是非は問わない。しかし、注目すべきは、この件が炎上に至ったということだ。考えてみてほしい。先ほどはVtuberを演劇の観点からみたが、俳優や声優なら新しい役はむしろ喜ばれて然るべきだろう。キャラクターの面から見ても、二度と声をあてられることのないキャラクターもいれば、声優が交代したキャラクターもいるが、それらは作品の中で生き続ける。キャラクターの死は即ち作中での死しかあり得ず、物語の中で死んだキャラクターが二次創作の中で生かされ続ける例もままある。だがVtuberはどうだ。「中の人」の交代はすなわちVtuberの死を意味する。仮に交代したとするなら、それは同じ「ガワ」を被った別人だ。「パーソン」と「フィクショナルキャラクタ」は最早癒着した臓器に近い。無理やり引きはがせばどちらも長くはもたない。だから“アズマリム”ファンは憤り炎上にまで至ったのだ。
現在休止中の「バーチャルナース薬袋カルテ」は運営者の活動方針の変更によりTwitterとYouTubeからの撤退を予定しています。
— 薬袋カルテ💉休診日 (@minai_karte) February 23, 2019
薬袋カルテは創作に内包されるオリジナルキャラクターとして存在し続けますが、これにより中の人という概念は消滅し、完全にVTuberではなくなります。
(Vtuverの活動休止の一例。“中の人”が消滅するとVtuberとは呼べなくなる。)
ここまで読んでいただけたならもうお分かりだろう。我々とVtuberの関係は決して既存のそれではない。あくまでバーチャルを介した「人間と人間の関係」なのである。心無い言葉を贈れば傷つき、いちファンのさりげない応援に勇気づけられる、そんな等身大の「人間」がそこにはいる。我々は決してそれを忘れてはいけない。*5「中の人」はしばしば「魂」と呼ばれるが、言い得て妙というほかないだろう。「魂」であるパーソン、肉体である「フィクショナルキャラクタ」——それらが結びついてVtuberという存在を形成しているのである。
Vtuberの展望シリーズは全3回を予定しているが、第2回の「Vtuberの展望──10年で終わらないコンテンツのために②」では、主にVtuberをアバターの側面から取り扱う。Vtuberは普通のYouTuberでは駄目なのか?そういった問題についても考えていくつもりなので、少々お待ちいただきたい。
written by 三ツ岩井蛙
*1:海外で活動を開始し、キズナアイ登場後に世界初バーチャルYouTuberを名乗ったAmi Yamatoや、2012年4月からお天気キャスターとして活動するWEATHEROID TypeA Airi等がいる。
*2:この「パーソン」「フィクショナルキャラクタ」「メディアペルソナ」の三層理論はナンバユウキ氏が提唱したものであるが、氏はこの理論を用いて、こちらが嘆息してしまうほど正確かつ巧妙にVtuberの構造を分析している。もし読者の方で氏の論に目を通していないなら、このような駄文で御目を汚すより氏のブログに飛んだほうが何十倍も有意義だということは強く主張したい。
*3:即興劇。はじめに場面と人格の設定のみが与えられ、役者が動作や台詞を即興で演じる。
*4:このことを正確に捉えられなかった結果がこの1月から放送を開始したアニメ「バーチャルさんはみている」だろう。彼らはエチュードの達人ではあるが演劇としては素人同然で、下手な脚本に乗せるのでは話にならない。FPS好きや似非清楚、といった最も顕著な特徴を抜き出して他人がキャラクタライズしても、彼らはふとした瞬間に見せるその一面を愛されているのであって、ライブ感のない個性の押し売りは倦厭されてしまう。彼らのものではない言葉を与えられた彼らは、さながら不出来なレプリカの展覧会のようで、真作をよく知る人であればあるほどその贋作を深い悲しみをもって眺めることだろう。
*5:下世話な話になるが、VtuberのR-18系のイラストは、本人の目につかないように一定の配慮がなされていることがほとんどだ。ここではたらいている心理は、現実の人間に対し性的な侮辱をしない、というモラルに近い。
【肯定するオタクたち②】ふがいない主人公も異世界に行けば無双する
異世界に行けばなんとかなる
前の記事では、映画ではのび太は異世界で強者になるということだった。
そう、オタクたちは「強くなれる場所」を求めている。もっと言えば、「支配できる場所」を求めている。
異世界モノを見てみればそんなのばかり。
僕はアニメを見ただけだけれど、アニメ「この素晴らしい世界に祝福を!」の主人公・佐藤和真は引きこもり。しかし異世界に転生して、持ち前のそこそこの知能でピンチを切り抜けていく。
もっと露骨なのは、アニメ「転生したらスライムだった件」。こちらも主人公はふがいない普通のサラリーマン・三上悟が、あらゆる状況に対応したスライムに転生する。
こちらは知らず知らずのうちにあたりの支配者になってしまう。
より醜悪なのを取り上げると、アニメ「デスマーチからはじまる異世界協奏曲」。主人公・鈴木一郎はゲーム開発のプログラマーだが、色々あるうちにたくさんの女性を周囲にはべさせることに。
いわゆる「転スラ」と「デスマ」だが、これらは異世界で支配者になる系統と言っていいだろうと思う。
そう、オタクたちは自分が支配者になる場所を求めている。
支配者になりたいオタクたち
オタクはどうやって支配者になるのか。支配者になったと見なせる条件はただ一つ。不均衡な情報だ。
例えば「デスマ」を挙げよう。
主人公の視野にはゲームの画面のような表示がある。それを他の人々は気が付かない。自分だけが知っている、自分だけが出来る、という不均衡さが彼を支配者たらしめている。
他にも、「転スラ」では、主人公が死亡時に童貞だったがゆえに「大賢者」という機能を得た。彼が自問すると、内なる「大賢者」がそれに答える。そして彼はあらゆるものをスライムの内部にとりこむことで解析できる。
この不均衡さ、自分だけが分かる、ということが彼を支配者たらしめているのである。
考えてみれば、「オタク」というのはこの不均衡さに生きる生き物だ。
「○○オタク」と称されるとき、オタクたちはその○○と相互のコミュニケーションはとれない。
アニメオタクは当然、「アニメを見る」という一方方向の行為によってアニメオタクで居続ける。鉄道オタクは「鉄道に関心を持つ」が、鉄道がそれに返事をすることは当然ない。アイドルオタクはアイドルと交流を持てているようで、自分は多数のファンの一人なので、本当の意味でコミュニケーションが成立しているとはいえない。
典型が特撮オタク。特撮は子供向けで、特撮オタクと特撮作品の間のコミュニケーションは成立しようがない。それでもいい。むしろ特撮オタクは、特撮作品が自分達=大きなお友達を見ていないからこそ、特撮を好きでい続けるのだ。
オタクたちは知っている
言ってみれば、「相手に自分を知られることなく、自分は相手をよく知っている」というのがオタクの真髄である。
だから、オタクには秘密が多い。例えば、佐島勤の『魔法科高校の劣等性』シリーズ。
主人公の司波達也には秘密が多い。文体からあふれ出るオタク感は、作者があふれんばかりの世界観=設定を地の文で詰め込むからだろう。
作者は作品の世界観をよく知っているが、読者は知らない設定も多い。この不均衡のなかでオタク的作者が雄弁に語る。それがこの作品のオタクっぽさの原因だ。
知っている、というのは、空手をやっているだとか剣道をやっているだとかいうことよりもずっと強い。
例えば、アニメ「ケムリクサ」を見てみれば、記憶を失った状態で現れる少年・わかばは物理的に強いわけではないが、知恵と好奇心でピンチを救っていく。これこそがオタクの真髄と言って構わないだろう。
と言えば、そこからアニメ「けものフレンズ」にも言及したいところだ。ここでもかばんちゃんは、その好奇心でピンチを救っていく。
ここにも「気がつく」かばんちゃんと、「気がつかない」フレンズという不均衡がある。別にそれで異世界を統治しはじめたりはしないが、この不均衡は注目に値する。
このアニメの特徴は、登場人物が決して否定されないこと、肯定されつづける事だろうと思う。
そう、オタクたちは強くなろうとする。
なぜか。
それはオタクたちがなにより「肯定されたい」と願う生き物だからに他ならない。
そんなわけで、次回は絶対的に肯定してくれるキャラクターたちの作品を見ていきたい。
written by 虎太郎
【肯定するオタクたち①】映画のジャイアンはいつも優しい
オタクは肯定されたい
オタクってなんなんだろう、ということを考えた本は多い。お互いを「お宅」と呼び合ったことから「発見」された彼らの生態は、エリートコースをたどってきた学者・評論家連中には面白かったに違いない。
実際、大塚英志・東浩紀・宇野常寛といった人々が作り上げてきたサブカルチャー研究の実績は、もうそれらを避けてサブカルチャーを論じられないほどにまでなっているのだが、なんだかいまいちパンチが足りない。
というか、そういうメジャーな評論から一世代遅れた僕とすれば、それらは大発見ではなく、一種のパラダイムである。しかし、例えばこんな記事がある。
もうなんだか鼻で笑うのも疲れて来るのだけれど、「オタク」を自称する流れは珍しくない。アニメオタク、特撮オタク、鉄道オタク、アイドルオタク。増え続けるオタク。オタクと名乗ること自体、「趣味に生きる」おしゃれさのようなものを感じる人が増えているのだろう。
と、言うことで、今まで形作られてきた「オタク」のパラダイムを、一切無視して、もう一度「オタク」を見つめなおしてみよう、というのが今後の目標だ。と言いつつ、何かの計画があるわけではない。
ただ一つ、共通するテーマと言えば、「オタクたちは自分を肯定したがる」という点だけ。
これだけを唯一のルールに、いろんな作品や現象を見に行ってみたい。
オタクってのび太なのだろうか
別に誰かが言ったわけではないが、「ドラえもん」で言えば、オタクはのび太だろう。
のび太は運動できないが、あやとりや射撃が得意。射撃が得意と言っても、我々におけるシューティングゲームが得意といった感覚で捉えれば、なんとも「オタク」チックではないだろうか。
そんなのび太は、オタクなのでいじめられる。まあ、オタクというのは見下されることの多い生き物だし、見下されることで自己規定している節もある。
のび太をいじめるのはジャイアン。男の子らしく野球が好きで、暴力的。元気な男の子。そして、その腰ぎんちゃくのスネ夫。こちらもある意味で男の子らしいかもしれない。
ジャイアンは恐ろしいいじめっ子なわけだが、そんなジャイアンが映画になると急に優しくなる。不思議だ。
「ドラえもん」の映画にはいくつかのステップがある。
- のび太が現実から逃避しようとする
- 未知の世界へとたどり着き、そこで友人を作る
- 友人もしくはしずかちゃんがピンチに陥るので戦う
- 敵をなんとか倒すことに成功する
- 「また会おう」と言いながら泣きながら未知の世界を立ち去る
大概映画が公開されるのは夏休みなので、それに合わせてのび太たちも夏休み。学校に行く必要はない。
子供たちは遊ぶわけだが、その中でのび太がいつも通りジャイアンにいじめられるか、スネ夫に金持ちを自慢されるか、自由研究に迷うかする。そうした場合、ドラえもんが道具を出して、のび太に別世界を紹介する。
これは全くの別世界ではない場合もある。例えば、映画『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』や映画『ドラえもん のび太の恐竜』を見てみると、のび太がそれぞれ苗木、恐竜の卵を拾ってくるところから物語が始まる。
いずれにせよ、淡白に続く「夏休み」という日常から一歩外に出る「未知の世界」としてそれらが機能していると言っていいだろう。
結局そうした場合にも別世界に行くことになるのだが……その別世界とは大体以下の通り。
- 過去
- 未来
- 別の星
- 異世界
- 秘境
過去と言えば、まさしく映画『ドラえもん のび太の恐竜』もそうだし、映画『ドラえもん のび太の日本誕生』もそう。歴史モノとして教養チックなところがあるので、好んで用いられる題材ではある。
次に未来と言えば、映画『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』などがあるのだが、あまり数は多くない印象。
別の星と言うのは、映画『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』や映画『ドラえもん のび太と銀河超特急』などがある。映画『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』なんかもここ。ただしこの作品はリメイク版の映画『ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史』の方がかなり良作だ。
異世界というのはもうちょっと難しい。基本的にはドラえもんの道具によって作り上げられた世界だ。例えば、映画『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』だとか、映画『ドラえもん のび太の魔界大冒険』だとか。
最後の秘境と言うのは、これも歴史モノと同じく教養になりやすいので取り上げられることがある。エスニックな雰囲気を感じる作品も多く、例えば、映画『ドラえもんのび太とふしぎ風使い』などは泣かせる作品として挙げられるだろう。
なぜジャイアンは映画ではのび太をいじめないのか
こうした映画、つまり舞台を「未知の世界」に置く作品ではジャイアンが優しくなる。なんでだろう。
結論は分かりきっていて、それは「未知の世界」ではのび太が強いからに他ならない。
映画では災厄を招くのがのび太自身である場合も多いのだが、のび太のスキルが事態解決の鍵になることも少なくない。
スキル、と言っても、事態を解決するのには2種類しかない。1つ目は、のび太の射撃の腕。2つ目は、のび太の演説。
文武で言えば、文=演説で解決するパターンもあれば、武=射撃で解決する場合もあるというわけだ。いずれにせよ、それらが生かされる環境が「未知の世界」なわけで、そこでジャイアンは無力だ。
大概ジャイアン・スネ夫・しずかちゃんは一度敵につかまるし、ジャイアンは大概牢屋の中で「とっととここから出しやがれ!」と騒ぐ。スネ夫が「ママ~~!」と騒ぐと、しずかちゃんが「きっとのび太さんたちが助けてくれるわよ」と答える。ジャイアンもそれに同意して「そうだ。のび太なら助けてくれる。〝心の友〟だからな!」みたいな風に良い感じになる。
いやいやお前普段のび太をいじめてるだろうが、と思うのだが、結局それでものび太はジャイアンを助ける。いわばそこにパターナリスティックな構造を見つけられる。
「普段はいじめられているのに助けてあげるのび太はかっこいい」という図式が映画では見て取れる。だから、「映画のジャイアンはいつも優しい」というのは間違いで、「映画ののび太はなんだか偉そうだ」と言う方が正しいのかもしれない。
拡大されるパターナリズム
パターナリズム=父権主義的に、普段は自分をいじめているがいざというときには助けてあげるのび太。「父権主義」とは言っても、その父の姿は戦後の弱々しい父の姿なのかもしれない。いざというときだけ強くなる父親像。
そんな父は、映画では「未知の世界」をも救うのだ。言ってみれば、のび太のパターナリズムは「未知の世界」にも拡大される。
あれ、この図式ってどこかで……そう、これはコロニアリズム(植民地主義)である。
のび太は(それはそれで幸せそうにしている)未開人に認められ、頼られ、結局彼らを救う。でもいやらしさが無いのはのび太が普段はいじめられっ子だからだし、へなへなしているから。
そう。オタクの願望とは、「コロニアリズム」である。
自分が頼られ、評価される「未知の世界」を求めている。そして、そんな「未知の世界」を所有したいと願っている。
さて、ここまで言えば充分だろう。第2回のテーマは、きっと異世界転生モノになる。
written by 虎太郎
【映画評】「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.2 First Guardian」
映画「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.2 First Guardian」における風刺的側面についての一考察
はじめに
まず、この「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System」3部作の2作目についてだが、1作目についても同様のテーマで記事を書いているので、1作目についてはそちらを参照されたい。
また、あらすじについては適当にまとめるよりも公式のものを参照すべきだと思うので、以下に引用する。
常守朱が公安局刑事課一係に配属される前の2112年夏、沖縄。
国防軍第15統合任務部隊に所属する須郷徹平は、優秀なパイロットとして軍事作戦に参加していた。
三ヶ月後、無人の武装ドローンが東京・国防省を攻撃する事件が発生する。
事件調査のため、国防軍基地を訪れた刑事課一係執行官・征陸智己は、須郷とともに事件の真相にせまる。
「沖縄」という地場
無人の武装ドローンが国防省を襲撃する事件のきっかけとなったのは、沖縄の国防軍が出動した東南アジアでの軍事作戦(フットスタンプ作戦)だった。
その作戦に無人ドローンの遠隔操作という形で参加していた須郷は生き残ったが、地上軍として出動していた大友逸樹は行方不明となる。三ヶ月後の国防省襲撃では、行方不明と思われた大友逸樹がカメラ映像に映り込むことで事件は混迷を極めていく。
そもそもその基地とはかつての在日米軍基地であるキャンプ・シュワブ跡地にあるというから極めて示唆的だ。そこから東南アジアへの出兵というから、ベトナム戦争を想起せずにはいられない。さしあたり真偽の疑われる事実ではないので、Wikipediaから該当部分を引用しておきたい。
ベトナム戦争では、在日米軍の軍事基地、中でも特に沖縄の基地が重要な戦略・補給基地として用いられた。アメリカ空軍の戦略爆撃機が、まだアメリカ政府の施政下にあった沖縄の基地に配備された。1960年代、1,200個の核兵器が沖縄の嘉手納基地に貯蔵されていた。1970年には沖縄のアメリカ軍に対するコザ暴動が起こった。アメリカ軍は1972年(昭和47年)の沖縄返還までに全ての核兵器を沖縄から撤去した。
ベトナム戦争の軍による攻撃と言えば一般市民にまでその被害を及ぼした北爆が思い出されるところだろう。
もちろんそれより前に遡って太平洋戦争について考えてみてもいい。
〔前略〕日米衝突を回避するため、41年4月からおこなわれていた日米交渉がいきづまると、同年12月8日、日本軍はハワイのパールハーバー(真珠湾)にある米海軍基地を攻撃する一方、マレー半島に軍を上陸させて、アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争に突入した。
(『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2018年)
この直前には、日本はABCD包囲網で石油の輸入ができなくなっていた。そこで日本は東南アジアに石油を求めて進出しようとしたが、そうなればハワイに駐屯する太平洋艦隊が出動する。それを先んじて抑えるために、東南アジアへの出兵と真珠湾攻撃を同時に行った、という解釈もある。
在日米軍
結局太平洋戦争には敗戦。その後、日本は米軍を主軸とするGHQの占領下に置かれた上、沖縄は米軍の施政下に置かれた。
沖縄が本土復帰した後も、在日米軍の特権的地位は日本国内で保障され続けた。「日米地位協定」である。
在日米軍軍人の犯罪が明らかになるたび、この日米地位協定が問題になる。なぜなら日米地位協定によって、米軍の犯罪は、アメリカの裁判権が先に適用されるということになる。言ってみれば、時代遅れの治外法権という感がある。
本作に在日米軍は登場しない。しかし、国防軍の人々は、大友逸樹が国防軍襲撃を行ったのであるとすれば、それは国防軍内で解決すべき問題であるはずだ、と言う。そこにあるのは、日米地位協定的な、安全保障上軍事組織に「法」が通用しないというアポリアだろう。
シリア内戦
ここまでは言わば前段である。この映画が本当に意識している出来事とは、シリア内戦に違いない。
米国は軍事行動の可能性を排除していない。昨年4月には、反政府勢力が制圧する北西部イドリブ県ハーン・シェイフンでシリア政府軍が神経剤サリンを使用し80人以上が死亡したとして、シリア空軍基地を空爆した。このサリン攻撃について、国連と化学兵器禁止機関(OPCW)はシリア政府によるものだと断定している。
シリア内戦は、独裁アサド政権側の政府軍と、それに対する反政府軍の間での争いだが、そこにイスラム国(IS)が参入したことで事態は泥沼化し、クルド人武装組織も参入したことで情勢の理解は容易ではない。
絶妙な三すくみが、政府軍と反政府軍の連帯とイスラム国の弱体化で崩れ、2018年4月7日には、シリア政府軍が化学兵器を使用した疑いが持たれた。化学兵器が使用された地域の住人の苦しむ姿が映し出された動画は、未だに記憶に新しいだろう。
実は、本作におけるフットスタンプ作戦の肝とは、上空から化学兵器を投下することだった。その任を背負ったのは須郷であり、そのことに気がついたために犯罪係数が大きく上がってしまう。
容赦ない化学兵器の使用。国防軍と在日米軍を重ねて見るのなら、化学兵器を利用した(とされている)のはシリア政府軍であり、あるいはその背後にいるロシアであるから、この考察は誤りだと思うかもしれない。
しかし、実はそういう問題ではない。タイトルにある通り、これはcriminalの問題ではなく、sinnerの問題である。法律を違反した「犯罪者」ではなく、より広範な、法・倫理を破った悪としての「罪人」なのだ。
おわりに
端的に言えば、まず間違いなくシリア内戦の要素はこの映画に入っている。しかしそれより以前の在日米軍・日米地位協定・ベトナム戦争・太平洋戦争については、あまり自信がないので、誤解があったとしてもご容赦いただきたい。
この映画は「考えさせられる」映画だったと思う。平和を守るために戦うというジレンマ。例えばアニメ「機動戦士ガンダム00」で描かれたような問題について「考えさせられる」。
肝要なのは、「考えさせられた」読者・観客・視聴者が、では実際に何を「考える」のかだろう。
この記事が誰かの「考える」材料となれば幸いである。
wrriten by 虎太郎