【ヤミ市と文学】中里恒子「蝶々」

はじめに

本論考の目的は、〈ヤミ市〉という空間について、文学作品におけるその表象から考えてみることである。今回は、中里恒子「蝶々」(1949)(マイク・モラスキー編集『闇市新潮文庫、2018年収録)を取りあげてみたい。

 

 ヤミ市とは何か

本論に入る前にヤミ市とは何かという点を明らかにしたい。

一般的な定義において〈ヤミ市〉とは、第二次世界大戦直後*1 、日本各地の駅前の空地に出現した多数の露天商のことを指す。ヤミ市の「ヤミ」とは、「違法な」という意味であり、公定(マルコウ) *2の対義語である。

では、それはどのように違法なのか。

まず、他人の土地が空地だからと言って無許可にそこで商売をすることは明らかに違法だろう。また需要の高さゆえ、公定価格を無視したヤミ価格での販売も横行していた。さらに、「バクダン」や「カストリ」といった悪質な密造酒が出回った。このように、様々な意味合いで「違法な」取引が行われたのである。

しかし、違法といえども、終戦直後の都市生活者にとってヤミ市は必要不可欠だった。配給物資のみでは足りるはずもなく、栄養失調で死ぬかヤミ市物資を調達するか、の二択だったという。

 

ヤミ市があった場所の代表例として挙げられるのは東京では渋谷、新宿、池袋など、大阪では梅田、天王寺、鶴橋などの駅前であろう。ヤミ市がこれらのエリアに集中した理由は以下の通りである。

第一に、これらのエリアは、食糧不足に悩まされた戦後日本で、郊外の農村へ鉄道を駆使して食料品を得るにあたって利便性が高かった。銀座などの都心部にも人が集まり露店が出店されたものの、郊外へのアクセスの悪さや木造長屋の建設が積極的になされなかったことなどが理由で、それらはヤミ市になることはなかった。先に挙げた東京のヤミ市の立地を確認すると、現在「副都心」と呼ばれていることに気づくだろう。

第二に、これらの駅周辺は第二次世界大戦の際、空襲による被害を緩和するため、事前(多くは戦況が悪化した1944~45年の間) にいわゆる「建物疎開」が行われており、戦災の有無にかかわらず空き地の状態で終戦を迎えた。例えば、梅田は焼け野原となったことが伝えられているし、予想に反して幸い空襲の被害を受けなかった鶴橋であれば、単に大きな空き地が広がった状態での戦後復興のスタートを切ったといえる。いずれにせよ、露天商を営むには絶好の条件だったということが確認できるだろう。

 

これらの元ヤミ市の駅はいまだに都市において重要な役割を担っていることが多い。

大阪を例にとるとするならば、江戸以来の流通の中心は船場などの水路に面するエリアであったが、鉄道の登場や大戦を経て梅田に中心が移動したといえるだろう。

つまり、戦後から現代に至るまでの、日本の多くの都市の基盤はヤミ市に見出せるといっても過言ではないのである。

だからこそ今ここで、ヤミ市という空間に同時代的な意味を付すことはそれなりの意義があるのではないだろうかと思う。

ヤミ市を「闇市」と表記していない理由はここにある。「闇」という字にはネガティブな意味がつきまとってしまう。しかし、本当にその側面だけだろうか。ヤミ市関連の書籍を探すと、しばしば「ヤミ市」表記を目にすることがあるが、これは上のような理由による。(松平誠『ヤミ市 幻のガイドブック』でも同様に「ヤミ市」表記が用いられている。)

戦後、単に必要に迫られたために形成され、黙認されていた違法市場として片付けて良いものとは思えないのである。

 

ヤミ市とは、果たして何だったのか。

次章以降では、中里恒子による小説からヤミ市を考えてみたい。

 

 「蝶々」という物語

中里恒子(1909~1987)は女性初の芥川賞作家として知られる小説家で、女性を主人公にした作品を多く残している。本作も例に漏れず、薩摩富久子という名の女性の物語である。

 

大戦中の富久子は、軍人の長官として活躍していた良人(おっと)を支え続け、良妻賢母として振舞っていた。娘も立派な飛行機乗りに嫁ぎ、家計に困ることはない生活を送っていたし、息子も海軍学校に通い、安定した軍人としての未来を約束されたかに見えた。

 

しかし、戦後になって状況は一変する。帰国した良人はすっかり精力をなくしており、かつて長官として羽振りの利いていた頃とはかけ離れている。このまま憂鬱な老人として一生を終えていく姿が容易に想像でき、まるで働き手にはなりそうもない。さらに、戦災で財産も何もかも失ってしまった。あてにするものは、何もなくなってしまったのである。 

現在の良人は、柱に一本の釘を打つことさえうまく出来ぬ、全く実生活に役立たない男としか見えなかった。おそらく、小学校の小使いにだって、雇ってもらえる資格はなさそうだった。

富久子はここで、

「仕様がない、こうなったら、もうあなたは使い途がなくなりましたね、あたくしが世間に出ることにしますからね、一切口出しをなさらないで下さいまし、」

と良人に告げる。

かつては長官夫人である自分に対して良人が「女は口を出すな」と決めつけていたのであったが、その状況を逆転させたのだ。

知り合いの元少佐と焼き鳥屋を始め、従来のように「奥さん」ではなく、「おかみさん」と呼ばれるようになる。

こうして、彼女らのヤミ市商売生活が始まる。

初めは慣れない商売人、経営者として振舞うことに苦労した富久子であったが次第に慣れ、女主人としての自らの顔を確立させてゆくのである。これまでの「猫をかぶっていた自分」を辞められた喜びを見せる。

それが如実に表れているのが息子との会話シーンだ。まだ大学を卒業していない息子は友人とジャズバンドを結成して、都会のダンスホールで演奏するほどにまで成功している。そんな息子は、現在の母の姿を以下のように評価する。

「長官夫人として、威張ってすました生涯を終ってしまえば、母さまは、人間らしい自覚なんて、無しに死ねたかもしれない、だけど、うんと悲しい目に遭ったり、本当に嬉しいことに打つかったり、骨を折った甲斐があったり、(中略)ずいぶんいろんなことに素手で触れていらしたでしょう、そして、その方がどんなに生き生きと人間らしい感情を呼びさましたか、お感じになったでしょう。もともと母さまは鋭敏な質なんだ、人間らしい感情の豊富なひとなんだ、それが、眠らされていたんじゃないかな……」

 この台詞で幾たびも強調されるのが「人間らしい」というキーワードだ。

ヤミ市生活で富久子が「人間らしさ」を回復したというのである。この点については議論の余地があるだろうと思われるので、後の章で触れたい。

 

「人間らしさ」を回復した富久子は、ヤミ市からの脱出を図るようになる。

すでに終戦から3年が経っており、ただ生活費を稼ぐだけの暮らしに退屈したというのである。

 

ある日、彼女は少佐とどこかに行ってしまいたいような気を覚え、彼を誘うような言動をとる。しかし、堅物な少佐には、その提案をさらりと断られてしまう。

 

どこかに行ってしまいたい気持ちを持ったまま街へ出た富久子は、見知らぬ女から紅を買い、帰ってくる。

その時にはもう、迷いは消えていた。

帰ってきた夫人の顔が、まぶしい白日のように輝いているのを、そっと見た。魔の刻を通り過ぎたあとの冷涼さが、顔面に満ち満ちているのである。何があっても、それはもうびくともしそうもなかった。花粉の落ちた花に似通っているのであった。

本作は、上の引用箇所をもって閉じられる。

「抑圧→回帰→迷い」というルートを抜けて、富久子は最終的に「花粉の落ちた花」、つまり実を結ばせる前段階にまで到達するということだ。

 

解放区としてのヤミ市  

本作が収録されている新潮文庫闇市』編者のマイク・モラスキーは、猪野健治が『東京闇市興亡史』の中で闇市を解放の象徴として捉えていたことがわかるという前提のもと、「蝶々」をはじめとする作品が解放を表象していると述べる。

「解放区」と言うのは、多面的に捉えてしまえば、ただ戦前の体制が崩壊した関係で軍国主義から解放されただけではなく、男女における支配関係から解放されたように感じる女性作家の作品もあります。(井川充雄・石川均・中村秀之編『〈ヤミ市〉文化論』、ひつじ書房、2017年) 

このように、終戦まで抑圧されていた人々が、社会の「裏」的存在であるはずの「ヤミ」市を、逆にある種の「表」舞台と捉えて活躍していたという見方は可能だろう。

成年男子の大部分は兵士として戦場へ送り出された。そして、残った老人や女性子供は、空襲の罹災者となって、家や命までも失った。そうした中で東京に残った人びとが、生活の糧を求めて敗戦直後の鉄道駅前に集まったのである。(中略) ヤミ市商売を実際に手掛けはじめた者の多くは、露店の商売とは全く無縁な人たちであった。(松平誠『ヤミ市 幻のガイドブック』、筑摩書房、1995年)

戦場に行くことなく日本に残り、かつ露店の商売とは全く無縁だった人々。東京では約8割が素人による店舗だったという。

「( 日本人)男性」優位の「軍国主義」に支配されていた人々。

それは女性、子供たちのことであり、また在日外国人*3(主に朝鮮・韓国人、台湾人)のことでもあった。彼らはヤミ市においては平等を獲得することができた。こうした意味で、解放区としてのヤミ市と呼ぶことができるのだ。

 

化粧する女性

特に「女性の解放」という視点からこの物語を見るとするならば、物語最後で、化粧する女性が描かれることにも注目すべきであろう。

詩人・寺山修司は1974年初版のエッセイで、化粧に対して以下のように言及している。

私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。そしてまた化粧はゲームでもあります。顔をまっ白に塗りつぶした女には「たかが人生じゃないの」というほどの余裕も感じられます。(寺山修司『さかさま恋愛講座 青女論』、角川文庫、2005年)

富久子の台詞でも、自らが買ってきた紅について、

「…甘くて血の色がするでしょう、あんまりみんな血の気がないから、こういうものがはびこるのよ……麺麭(パン)はなくても、誰も死なない世の中ね。

と語られており、終戦直後という物質的には満たされることがなく、「生」への不安を抱える時代*4を、化粧という虚構の力によって乗り越えようとする姿勢、女性の強さのようなものがうかがえる。

女性の活躍が描かれるという意味では、本作をフェミニズム文学として読むことも可能だろう。それは、物語のラストで男性(少佐)が富久子の「輝き」に圧倒されている描写からも感じ取れる。

 

しかし、本作を単に解放の歴史、戦後復興の物語として歴史的に回収してしまうだけでは〈ヤミ市〉の現代的意味には辿り着かないだろうと考える。

次章のトピック、「人間らしさ」から、さらなるヤミ市観の展望を広げたい。

 

人間らしさの回帰

ヤミ市に生きた人々は既に述べたとおり、その日その日の食糧とに必死であり、そこでは「かっぱらい」等の犯罪も横行していたという。

生命維持のために無法地帯が形成される様子は一見、人間的どころか、「動物的」とも取れるのではないか。

それにも関わらず、「蝶々」において、富久子は「人間らしさ」を回復したという記述が見られることに着目したい。

ここでいう人間らしさとは何だろうか。

それを解き明かすには、ここで描かれている「人間」の対義語は「動物」なのか「機械」なのか、或いはそれ以外の何かなのかを問う必要があろう。

富久子の息子が、父について噂する台詞からその答えが読み取れる。

「全く長官は人造人間みたいですよ、以前は司令部のこと以外に耳をかさず、現今は、庭の松の木を薪にするよりほか、なんの野心もない、長生きするように、できてますね。」(太字は引用者による)

「人造人間」と評していることから、「人間」の対義語として「機械」が選ばれていることがわかる。

与えられた役職、階級…といったものに従うだけの存在では人間らしさが損なわれる。富久子は「長官夫人」という既存のキャラ設定をヤミ市という空間で脱することに快感を覚えるのである。

となると、やはり前章でも触れた「解放」「平等」が人間らしさの構成要素となるのだろうか。

 

それだけではないだろう。

富久子はヤミ市で「猫をかぶった自分」「良人のために生きる自分」からの脱却ができたと言えるが、これは本来持っていた性質の顕現だけでは成り立たないものだった。

「自分のために生きる」ために、他者との新たな関わり方、その術を習得することが必要とされたのだ。

客として店を訪ねてくる見知らぬ人々の応対をしたり、紅を売る女と会話する経験を通して、富久子は新しい公共圏に突入した。

 

ヤミ市〉の、解放区としての側面、公共圏としての側面の両方が富久子に「人間らしさ」を与えたのである。

 

それをまさに言い当てているのが、本作のタイトル「蝶々」だ。

蝶は縛られることなく(解放区)、「擬態」という仕方で美しい模様を身に纏い(化粧)、ひらひら花から花へと移動を重ね、その場ごとに他者と関係性を築く(公共圏)。

このような蝶々の生態が、富久子の理想的な「人間らしさ」だったのだ。

 

本作は、〈ヤミ市〉で「人間らしさ」を見つける女性の物語であった。

こうした視点からヤミ市を眺めてみることは、現代日本における「人間らしさ」について、新たな視座を与えてくれるといえよう。 

 
おわりに 

ヤミ市は、1949年にGHQによって解散が命じられ、2年後の51年にはほぼ完全に解体した。犯罪の温床、不衛生…といった負のイメージをまとった「闇」市は、消滅に追い込まれて当然かもしれない。

しかし、制度的には消え去ったにも関わらず、ヤミ市的な風景は未だ消えていない。それは、大阪・鶴橋のように戦後再開発が行われていないことが理由なのではない。

例えば川本三郎氏は東京・新宿の地下ビルなどには、何度再開発を重ねてもヤミ市的な空間が残り続けると指摘しているし、関西では大阪・梅田の地下街や神戸・元町のガード下を例に取っても残存しているといえる。またモラスキーはアメリカの床屋、日本の居酒屋にそれを見出す。

 

闇でも光でもあった〈ヤミ市〉には多面的な見方が必要なことはいうまでもないが、本稿では「人間らしさ」が立ち上がる空間としてのヤミ市を取り上げた。

ヤミ市からおよそ70年の月日を経た2019年日本に生きる私たちは果たして人間的だろうか?人間的なものとはなんだろうか。

私たちがいま「人間」と呼んでいるものは「非人間」と表裏一体なのかもしれない。

 

 

written by 葵の下

*1:ヤミ市は一般的には戦後の市場を指すが、実際には戦時中からヤミ市のような違法かつ必要悪といった市場空間は存在していた、という見解も存在する。

*2:マルコウとは、日中戦争下の価格統制令および第二次世界大戦後の物価統制令による公定価格の俗称である。しばしば「公」の字を丸で囲った記号で示された。

*3:在日外国人の存在も忘れてはならないだろう。ほとんど記録に残っていないようだが、ヤミ市登場以前は貧窮のどん底にあった彼らは、軍需工場での労働に従事していたが、終戦とともに「ヤミ市」を活躍の場とするようになる。ヤミ市で元は捨てられていた部位のホルモンやマッコリを普及させたのは彼らで、日本の食に多大な影響を与えることとなる。文学における在日外国人の表象については、『闇市』収録の、鄭承博「裸の捕虜」を参照されたい。

*4:モダニズム芸術の分野でも、「生」の現実感を求めようとする動きが高まったというから、当時ある程度は世界共通の感覚だったのかもしれない。アメリカの「抽象表現主義」あるいは「アクション・ペインティング」と呼ばれる手法は、画家が「描く」という行為の過程と痕跡を絵画に表現することを目指した。少なくとも美術史上の文脈では、彼らは作者自身の内面や感情、思想を激しい筆触で表現することで「生」の実感を叶えたとされる。

【映画評】「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰」

映画「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰」における風刺的側面についての一考察

はじめに

2012年に放送が開始されたアニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」は、2014年に2期、2015年に劇場版が公開された。

物語は22世紀の日本。鎖国下で、シビュラシステムと呼ばれるシステムによって人々は適正にあった仕事をしており、犯罪係数を測定することで、犯罪者予備軍を事前に逮捕・殺害できる社会。そのために犯罪は存在せず、裁判制度もとうの昔に廃止されている社会だ。

アニメ1期では、そのシビュラシステムの例外であり、どんな犯罪を構想しようとも犯罪係数に響かない特異体質者・槙島聖護と、厚生省公安局の監視官・常守朱たちとの戦いを描いた。

公安局の監視官はエリートであるとされており、犯罪係数が高い状態でとどまってしまっている執行官たちを統率し、犯罪を防ぎ、犯人を逮捕、あるいは執行(殺害)する役割を担っている。

このアニメ1期で、実はシビュラシステムというのが、槙島のような特異体質者の脳を複数集め、そのネットワークの合議によって決定される集合知であり、完璧なシステムなどではない、ということが明らかにされる。

アニメ2期の敵は、全身のあちこちを移植されたツギハギのような鹿矛囲桐斗だった。分裂した彼のアイデンティティには、犯罪係数というものが存在し得ない。いわばキメラとの戦いである。

劇場版の1作目はそんなシビュラシステムが海外に導入される、という話だった。

PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System」は3部作で、今回はその1作目だった。

もんじゅ

本作は、東京の公安局に自動車が激突してきたところから始まる。その自動車を運転していたのは青森からやってきたという夜坂泉という女性だった。彼女は薬物で脳に異常が見られ、まともに言葉を話すこともできない有様だった。

彼女は本来潜在犯ではなく、青森にあるという特別行政区サンクチュアリ」で潜在犯向けの心理カウンセラーとして働いていた。そんな「サンクチュアリ」は経済省の所管で、厚生省と経済省の縦割りの兼ね合いで、公安局は彼女を「サンクチュアリ」に送還しなくてはならないことになる。

常守朱と霜月美佳の2人は、この「サンクチュアリ」になにかの秘密があると考え、調査に赴く。

サンクチュアリ」は経済省主導で、潜在犯(犯罪をまだ行っていないが、犯罪係数が高く、犯罪を行う可能性の高い者)を集め、レアメタルの採掘を行っている、ということになっている。

もちろんこのあたりで、「果たして青森でレアメタルが採掘できただろうか」と疑問を抱く。確か日本海側では採掘できたかもしれないが、陸上で採掘できたなら、現時点で既にとっくに鉱山が開かれているのではないか、と考える。

すると物語は「サンクチュアリ」の秘密を明らかにする。ここで行われていたのは、レアメタル採掘などではなく、前時代に適切な処理が行われず廃棄された核燃料の回収を行っている施設だったのだ。

ここで「青森」という舞台の謎が解ける。なるほど青森には原発がある。ではそのうちのどの原発が舞台かというと、「サンクチュアリ」という施設の特性がヒントになる。

サンクチュアリ」は、潜在犯を集め、独自の更生プログラムを行うことで、犯罪係数を下げることができる、とされている。いわば、「もとの状態に戻す」という施設であるわけだ。

ここで核燃料の話に戻る。日本では、使用済み核燃料を、もう一度使えるようにする、という事業が行われていたことがある。高速増殖炉もんじゅ」である。

原子力発電所で使い終えた燃料(使用済燃料)をもう一度使うことで、資源を有効利用し、高レベル放射性廃棄物の量を減らしたり放射能レベルを低くすることに役立てる「核燃料サイクル」。この使用済燃料から取り出したプルトニウムとウランを用いて作られた「MOX燃料」を「高速炉」と呼ばれる原子炉で燃やして発電に利用する方法は「高速炉サイクル」と呼ばれますが、そのサイクルの研究開発の中核として位置づけられていたのが、「もんじゅ」です。

「もんじゅ」廃炉計画と「核燃料サイクル」のこれから|スペシャルコンテンツ|資源エネルギー庁

しかし、この「もんじゅ」、実際に稼働する前に、事故が相次ぎ、2016年には廃炉が決定された。

この失敗が、映画では潜在犯の犯罪係数を下げることなどできない、というところに投影されている。潜在犯が再び犯罪係数を下げ、「再利用」するなどということは失敗するよりほかにないことが、「もんじゅ」が既に暗示している。

使い捨て

サンクチュアリ」では、その真実に気が付いた人が殺される。実際映画中でも、そこにたどり着いた人々が、防護服を無理やり脱がされ、被爆させられ、殺される、というシーンがある。

 厚生労働省は4日、福島第1原発事故後の作業に従事した男性が発症した肺がんについて、放射線の被ばくが原因として労災認定したと発表した。原発事故を巡る同種の労災認定は5例目で、肺がんは初めて。

福島原発作業員の肺がん、初の労災認定 - 共同通信 | This Kiji

実際に私たちの社会には、被爆し、ガンを発症したような原発作業員がいる。しかしそれをいわば「必要な犠牲」として大きく取り上げず、とりあえず「お見舞い申し上げる」ように振る舞っている。原子力事業に関して、多くの人は、できる限り知らぬ存ぜぬを貫きたいのだ。

 東松浦郡玄海町の脇山伸太郎町長は25日、九州電力玄海原発で建設の手続きが進む使用済み核燃料の乾式貯蔵施設を巡り、「税収としては長期間の方がいい」と、使用済み核燃料の長期保管を容認するような自身の発言について「蛇足だった」と陳謝し、「半永久的に保存されるとは思っていない」と釈明した。

使用済み核燃料の長期保存 玄海町長、容認発言を陳謝 「半永久とは思ってない」|行政・社会|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE

使用済み核燃料を受け入れる、と首長が言うと、住民が反対する。首長としては、「核のゴミ」受け入れによって補助金を受け取りたいところなのだろうが、住民としては被爆が怖くてそれを許可できない。首長は結局発現の訂正や釈明を求められるのである。

このようにたらい回しになり、最終的に適正な処理が行われなかった核燃料。その落とし前をつけることこそが「サンクチュアリ」の役割だったのだろう。

声にならない声

サンクチュアリ」から逃げてきた夜坂泉は、その実態を告発しようとしたが、洗脳のために「サンクチュアリ」で用いられていた薬剤を飲んでおり、言葉を話すことができない。結果として、彼女の告発は理解されず、送還される。

 先日の記者会見の通り、女性社員が福田次官によるセクハラの被害を受けていたことが判明した。この社員は取材目的で1年半ほど前から1年ほど前にかけて数回、福田次官と一対一の夜の会食をした。会食のたびにセクハラ発言があったため、この社員は身を守るため会話を録音したこともあった。そしてセクハラ被害に遭わないよう上司と相談の上、1年ほど前から福田次官との一対一の夜の会合は避けていた。

【財務次官セクハラ問題】テレビ朝日会見(1)角南源五社長「1年半ほど前からセクハラ発言」「身を守るため会話を録音」(1/2ページ) - 産経ニュース

女性社員が財務省の福田事務次官からセクハラ発言を受けた。女性社員はテレビ朝日の上司に報告したが、上司は財務省との関係上、それを報道することはしなかった。

 昨年5月に記者会見を開き、元TBS記者から受けたレイプ被害を告発しました。真実を伝える仕事をしたいと思っていたにもかかわらず、自分が遭った出来事をなかったことにしたら、また自分や他の人に起こるかもしれない。そんな状態では生きていけないと思ったんです。性暴力について話せる環境を少しでも社会の中につくりたかった。

 しかし会見後は様々な波風が立ちました。オンラインで批判や脅迫にさらされ、身の危険を感じました。外に出るのも怖かったです。以前から「相手を告発すれば日本で仕事ができなくなる」と言われていたので覚悟はしていましたが、想像以上で、日本で暮らすのが難しくなってしまいました。そんなとき、ロンドンの女性人権団体から「安全なところに身を置いたら」と連絡をいただいた。去年の7月からロンドンで暮らしています。

レイプ告発の伊藤詩織さんは今 バッシング止まず渡英:朝日新聞デジタル

伊藤詩織の告発の真偽、検察の判断の是非についての判断は別として、ある1人の実名を出した告発は、社会に受け止められなかった。少なくともそう思う人々がいる。

夜坂泉が「サンクチュアリ」の実態を告発しようとするきっかけは、夜坂が心理カウンセラーとして担当していた潜在犯の女性が生んだ子供・久々利武弥だった。秘密に接近し殺されそうな武弥を保護した夜坂泉は、彼を守るため、告発しようとしたのである。

 東京電力福島第1原発事故の影響を調べる福島県の「県民健康調査」検討委員会が5日開かれ、県は事故時18歳以下だった子どもらに実施している甲状腺検査で、昨年12月末までに新たに1人が甲状腺がんと診断されたと発表した。がん確定は計160人となった。検討委はこれまで「被ばくの影響は考えにくい」と説明している。

甲状腺がん:福島子ども検査 新たに1人 計160人に - 毎日新聞

福島の子供の甲状腺がんが増えたのは、検査数が増えたために発見される数が増えただけである、つまりスクリーニング効果の結果である、という意見がある。

しかし、原発の存在が徐々に子供を蝕む、という状況認識である人はいる。

告発しても声にならず失敗に終わる女性。彼女は「サンクチュアリ」=「もんじゅ」=原発で殺されそうな子供を守るために告発するのだった。

権力のありか

 サンクチュアリの潜在犯たちは、サンクチュアリで更生プログラムを受けていれば犯罪係数を戻せる、という洗脳から集団志向的なマインドに陥り、集団の安寧を乱す分子を排除するようになってしまった。

集団のために危険分子を排除する。そのマインドは最後に、サンクチュアリサンクチュアリの統括管理者・辻飼羌香が危機に陥れているという霜月美佳のささやきによって大きく揺らぐ。潜在犯たち自身が辻飼羌香を排除しようと試みるのだった。

これを、集団の維持のために、トップを付け替える2009年、2012年の政権交代の例を引き合いに出してもいいが、さしあたり直近の実例を出しておこう。

 森友学園問題で疑惑のカギを握る経産省の谷査恵子さんが、今月6日付で在イタリア大使館の1等書記官に“栄転”した。安倍昭恵夫人付の秘書官として真実を知り得る立場ながら、官邸の意向を忖度して無言を貫いたことへの論功行賞だろう。国家公務員のかがみともいえる人物だ。

在イタリア大使館に“栄転” 谷査恵子氏の羨ましすぎる手当|日刊ゲンダイDIGITAL

いわゆる森友問題を受けて、責任者であった財務省の佐川理財局長は国税庁長官へと栄転、森友問題について首相夫人の口利きの疑惑について注目を集めた谷査恵子はイタリアへ栄転し、いずれも国会招致に応じる必要はなくなった。

これらはもっと上の人々が保身のために行った異動なのかもしれず、その点で今回の映画の内容とは異なるかもしれない。

しかし、戦時中、戦争に反対する人間を「非国民」などと共同体から排除する振る舞いは、今もなお僕たちの実感を伴って受け止められるところだろう。

おわりに

「深い」映画はこの世の中に五万とある。しかし一体どこがどのように「深い」のかを考えることは少ない。

本当の意味での鑑賞とは、深度の測定などではない。その深みの中にどっぷりと身体を埋めて、その深さを照らそうという試みではないだろうか。

この記事がその一助となれば何より幸いである。

 

written by 虎太郎

 

theyakutatas.hatenablog.com

『盲目的な恋と友情』(辻村深月を読む#1)

はじめに

 辻村深月という作家がいる。『冷たい校舎の時は止まる』でメフィスト賞を受賞、そのほか『ツナグ』が映画化されるなど社会的に評価の高い作品も生み出している作家である。

 今回扱うのは、『盲目的な恋と友情』(新潮社、2014年)という作品である。最近の辻村深月らしい、人間、特に女性をとことん描いた作品となっている。未読の方のために大まかなあらすじを記しておく。

 

 一瀬蘭花は美しい少女ながら、自分の美しさに無自覚であった。しかし大学のオーケストラに指揮者として来た茂実星近が彼女を変え、二人は恋に落ちていく。五年間に及んだ恋。それを蘭花の友人、傘沼瑠璃絵の視点から見たときには、別の真実が存在した。

 

 このようなあらすじを見ると、辻村深月をよく読む読者なら『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』などの女性を描いた作品を思い出すかもしれない。この作品も先述したとおり女性を描いた作品で、どちらかと言えば娯楽小説よりと言われても仕方がないかもしれない。しかし私はこの作品は娯楽小説であるとしても、さすがは辻村深月という、作品における人間関係、作品の構成について考えるに足りうる作品となっていると考える。未読の方はぜひとも一読していただきたい。

 

 今回の記事では、一瀬蘭花と茂実星近、傘沼瑠璃絵の関係性については他の方が論じておられるので、少し違う角度からこの作品について考えてみたい。

 

 

 

茂実星近との出会い

 この作品の舞台となっているのは大学の管弦楽団である。

東京のはずれにある私たちの私立大学は、音大ではなかった。

大学の管弦楽団はだから部活だ。だいたいが、小さい頃から習い事として管弦楽に携わっているが、一生の道ではなく趣味として割り切っている、そんな学生たちの集まりだった。中にはそれまで経験がなく、大学入学を機に楽器を始めたという人もたくさんいた。(略)この大学のオケは、学生の集まりとはいえ大きなホールで演奏会をやることで有名だったし、入学する前から入りたいと思っていた。

 このように大学の吹奏楽団は全国を目指したりするレベルのものではないが、決してお遊びではない学生の集まりである。そしてその部員数は多く100人近く、男女の比率は書かれていないが、同数とまではいかずとも、男女近しい数が所属していると考えられる。

 一般に吹奏楽というとどうしても女子が多いイメージを持たれることが多く、吹奏楽部を舞台にした作品では男子が少数であり、部内恋愛よりかは女子同士の人間関係が描かれることが多い。*1

 しかし、この作品では管弦楽団内での女性だけの人間関係だけではなく、恋愛関係までも描く。そしてその恋愛関係はかなりどろどろしている。

百人近い部員を擁するオケでは、部内恋愛も当然のように盛んだった。(略)”気をつけた方がいい”女癖の悪い男の先輩、自分の彼氏に色目を使ったと大騒ぎをする傾向にある女の先輩、たくさんの要注意人物の名前を聞いた。

 一瀬蘭花にとって、彼女の恋は吹奏楽団という狭い舞台で始まることになる。茂実星近との出会う前に彼女は別の男性と交際しているが、その交際はうまくいかず、周囲からも交際を反対されるような相手であった。しかし、蘭花は「高校までにキスもセックスも経験してきた子たち」に対して劣等感を感じていたために、その好きでもない男子とキスもセックスも済ませてしまう。

 そんな蘭花にとっての茂実星近とはあくまでも指揮者であり、自分とは縁遠い存在であるはずであった。

キレ長の目も、誰かが線を描いたような高く整った鼻梁も、長い手足も、細い指の骨張った節も、手を上げた瞬間に青白い頬がくっとへこんでうっすらできる影も、全部、それは誰かの好みであって、自分の趣味ではないと思っていた。あれは誰か他の、多くの女子が好きになるような人であって、自分が恋をする相手ではない―そう思っていた。

 蘭花にとっての初めての恋とは自身も周囲も納得のできない、物足りないものであった。茂実との恋が、初めての恋との対比により実質以上に魅力的なもの、離れ難いものになっていると言うことができるのではないか。その結果が、蘭花の「盲目的な恋」へとつながるのではないか。

茂実星近という装置

 今回は茂実星近という男を一種の装置、『盲目的な恋と友情』における舞台装置の一種として見て話を進めていく。この作品自体を舞台と見ることについては既に新潮文庫版の本書の解説で山本文雄が次のように述べている。

他の辻村作品に比べて簡潔に描かれている。刈り込まれ、研ぎ澄まされ、洗練されている。音楽、あるいは演劇のようだ、と私は思った。美しい劇場で催される、一夜に凝縮された芸術みたいだと。

 この作品を演劇だとみると、そのシナリオは主に茂実星近が先へと進めている。前節でも書いた、物語の始まりである蘭花との恋の始まりももちろん茂実がいないと成立しない。そしてその後の奈々子との愛人関係が蘭花に発覚し、物語が急速に展開していくのも茂実が中心となり、その両端に蘭花と奈々子が存在するという構成になっている。「恋」の最後の、茂実と蘭花がいよいよ終わりに近づくという場面もその原因を作っているのは茂実が徐々に堕ちていくことである。この物語の一番の肝である茂実の死の謎についても、当然茂実の行動が関わっている。

 ではその茂実という装置は常に同質な存在かと言われると明らかに異なる。まず冒頭の蘭花との出会いの場面ではオケの指揮者として、完璧な存在として、オケのメンバーからの憧れを集める存在として描かれている。

何故なら彼は、指揮者だったから。オスとしてセクシーだからというより、彼に選ばれるところを人に見せたい―彼女たちの計算高い欲望が湯気を立てているのが見えるようだった。

 このように指揮者としてメンバーから憧れられる茂実は、当初の完璧なイメージを蘭花とのセックスを通して崩壊させることになる。

私を組み伏せたままの状態で、目を細め、つらそうにすら見える表情で顔を歪めた。その目が、濡れたように気怠い。何度も、何度も、声を上げ、息を吐き出しながら、私の中を出入りする。人には声を出すなと言ったくせに、自分は声をあげる彼が、思い描いていたほど完璧でないのだと分かったら、かわいくてたまらなかった。

 この崩壊が蘭花を茂実から離れさせたのではなく、むしろ茂実に人間味を付与し、蘭花の中で茂実という人間を完璧で近寄りがたい存在から、不完全で蘭花自身と同じような存在へと変化させたのではないか。それにより蘭花は急速に茂実に対して親近感を抱くことになり、「かわいくてたまらなかった」とあるように庇護する対象のように感じられ、茂実に対する執着が生じたと考える。この後に蘭花が美波に対して、交際を打ち明けるところまでは、茂実は好人物として物語を展開させていくことになる。茂実と交際しているという事実が蘭花にとっても、周囲の人間にとっても肯定的に受け止められているのである。

 しかし、茂実の舞台装置としての役割は茂実の愛人と言うべき奈々子の登場により、一変する。周囲の人間が蘭花に対して茂実と別れるべきだと言うまでに茂実の存在は変化する。

しかし、茂実に対しては、かなり批判的だった。

「別れた方がいいよ」と。

 引用した美波の台詞にもある通り、奈々子との愛人関係、肉体関係が露見した茂実に対して周囲の人間は別れることをすすめる。しかし、蘭花は全く別れる気はない。むしろこれまで以上に茂実に入れ込んでいく。

 ここで周囲の人間と蘭花の間で茂実に対する評価のズレが生じている。蘭花は茂実のことを悪く言う周囲に対して怒り、そんな周囲を押しのけ、茂実という根源に対してより深く関係を望んでいく。

 その蘭花との関係も茂実のある行動によって崩壊を迎える。それは茂実が奈々子の指示で蘭花とのセックスを録画した映像をちらつかせ、蘭花を逃がさないようにしようとしたことである。このことにより、蘭花は茂実の持っている映像を奪おうとして茂実を殺してしまう。

 ここに至っても蘭花は茂実のことを嫌いにはなれないでいる。しかし蘭花が茂実のスマホを奪おうとしたことによって引き起こされたのが茂実の殺害であり、この作品のトリックに関わる部分となっている。つまり、この作品の見せ場を作っている装置は茂実であると言うことができるのである。

 ここでもう一度、舞台装置について考えてみたい。この作品について舞台装置を考えると宝塚歌劇団との関連性が浮かび上がってくる。一瀬蘭花の母親は元タカラジェンヌであり、この作品全体に宝塚歌劇の要素が散りばめられていると言うことができる。作品内では直接宝塚の話題が登場する場面の叙述すらある。

「瑠璃絵ちゃんは宝塚もよく観てたんだって。お姉さんが好きで」

「まあ。今も好き?花組だったら、チケットの予約は多少聞いてもらえると思うから、いつでも言ってくださいね。他の組でも演目によっては取れるものもあるし」

  さらに上の引用にも登場するように、宝塚歌劇団は花、月、雪、星、宙の五つの組に分かれており、そのイメージも部分的に作品内に投影されている。母が花組でもある一瀬蘭花花組のイメージを持っていることは明らかであり、また茂実星近が星組のイメージを持っていることも自明であろう。そしてこの作品の特徴の一つである「恋」と「友情」の二部構成となっていることも、宝塚歌劇団が芝居とショーの二部構成で公演を行うことを踏まえてのことなのではないか。

 このような宝塚歌劇団との関連性を考慮しつつ、茂実星近の舞台装置としての役割について再考すると、作品内にその特性を表している叙述を見ることができる。

「前にもこの人のものを観たことがあるけど、派手な舞台装置を使わないのに、場面ごと空気がまったく変わるの。でも、その分俳優が動きっぱなしになるから、なんという身体能力を要求するんだろうってため息が出る思い。私だったら、五分と舞台に立っていられない」

 茂実の舞台装置としての役割は必ずしも大きく世界を大きく変化させるものではない。しかし、引用した蘭花の台詞にもある通り、茂実によって場面ごとでの作品の雰囲気がメリハリを持って変化していることは確かである。そして蘭花自身も茂実との関わりの中で、徐々に茂実という舞台装置に耐えられなくなっていく。このような舞台を静かではあるが、はっきりと展開させる役割を茂実が担っているのではないだろうか。

傘沼瑠璃絵という異質

 前節で触れた茂実の装置としての役割に振り回される周囲の人間の中で唯一といえるほど、揺れることがないのが瑠璃絵である。彼女は吹奏楽団の第一バイオリンで蘭花の同期であり、後に蘭花と同居することになる。瑠璃絵は小さい頃にニキビが原因で男子にからかわれてから、自らの容姿についてコンプレックスを感じている。蘭花と出会った当初は友達として慕う感情だけであったが、次第に執着に変化していく。

三宅とひそひそ話をする美波にだって、別に、なりたくはない、かわいい系の顔なんだろうけど、なりたくはない。その時。今、廊下で待っている、美波と、蘭花のことを考えた。蘭花。あの子にだったら、なりたい。なっても、いい。

 周囲の他の人間が蘭花と茂実を中心とした世界に巻き込まれていくのに対して、瑠璃絵だけは彼女と蘭花だけの世界に生きている。もっと極端なことを言ってしまえば、瑠璃絵は瑠璃絵自身しか見ていないのである。それ故に蘭花と茂実に振り回されることはない。

 ここで山本文雄の解説の中の瑠璃絵に関する記述を抜き出してみる。

瑠璃絵は自身の本心から目を背けるために、自分に嘘をつく。男の子に相手にされなかった惨さをごまかすために、起こったことを自分の都合のいいように解釈する。美しい親友のどろどろな恋愛物語をただ聞いただけなのに、経験したような錯覚を持つ。彼女に自分の認識が歪んでいるという自覚はない。(略)けれど瑠璃絵の嘘は、鎧である。蘭花や美波のような女の子が決して受けない暴力から身を守るための、唯一の手段だったのだ。嘲笑されることなく育ったものには決して理解できない。

 このように論じている中で私が気になったのは、「美しい親友のどろどろな恋愛物語をただ聞いただけなのに、経験したような錯覚を持つ。彼女には自分の認識が歪んでいるという自覚はない」という部分である。

 もちろん瑠璃絵自身が正確に現実を受け入れているという場面もある。しかし、瑠璃絵の認識は「額縁」を通したものとなっているのではないか。「額縁」を通した認識というのは、より具体的に言うならば映画館のスクリーンに投影されたものとして現実を認識しているということである。「額縁」を通した認識を行うことによって現実世界においてもちろん自らに自己投影することもできるし、山本氏の論にあるように蘭花に自己投影することもできるのである。*2この点に関する言及をされていた方の記事を引用する。*3

主観とは非常に不思議なもので。

個人にとって”主観はいつだって真実の正しい物語”である、と思う。

三者の目から見てどんなに歪んだ物語でさえ。

主観は”真実の正しい物語”に変えてしまう。

そこに危うさがある。

本作は

恋に溺れた一瀬蘭花の真実の正しい物語であり

友情に盲執した傘沼瑠璃絵の真実の正しい物語でもある。

 この記事の後半で書かれている主観についての言及が瑠璃絵の認識を考える際に有用であると考える。この記事でも言及されている通り、主観はその人にとって真実なのである。そして瑠璃絵の主観は「額縁」の中の人物の間を動き回ることができる。(と言っても蘭花と瑠璃絵にしか投影することはないが)その結果、瑠璃絵自身と蘭花の二人分の主観を所持していることになり、他の登場人物のよりも現実認識が強固になる。茂実に振り回されることがなくなるのではないだろうか。また、それがある種異質とも言える作品内での存在感につながっているのではないだろうか。

おわりに

 今回辻村深月の『盲目的な恋と友情』について考察してきたが、この作品について最後に山本の解説から引用する。

瑠璃絵の賭けの動機を読者の想像に任せたのが、本作がそれまでの辻村さんとちょっと違うと私が思ったポイントのひとつだ。

 辻村深月の作品の中では比較的新しい作品である今回の作品だが、

ここまで簡潔に、しかし明々と女同士の関係性を描いたという意味では確かにこれまでの辻村作品とは違うのかもしれない。*4

 

written by 立月

 

*1:例を挙げるなら、「響け!ユーフォニアム」や「リズと青い鳥」、少し特殊ではありますが「ハルチカ」シリーズなどの作品が吹奏楽部内での女子同士の人間模様を描いています。 

響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~│宝島社  

『リズと青い鳥』公式サイト

アニメ『ハルチカ〜ハルタとチカは青春する〜』公式サイト

*2:このような例としては成田良悟氏の『デュラララ』シリーズの園原杏里などが挙げられます。

デュラララ!! - Wikipedia

*3:

anfield17.hatenablog.com

*4:これまでの辻村作品でいうと『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』(講談社、2012)『太陽の坐る場所』(文芸春秋、2011)『鍵のない夢を見る』(文芸春秋、2015)なども女性を描いた長編ですが、この作品に比べると、内容、文体共にかなり重みのある作品になっています。

【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑶


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ウルトラマン」のディスコミュニケーション

「変身する」ということ

考えてみれば、「変身する」とはどういうことなのだろう。

他のヒーローと圧倒的に違うのは、「ウルトラマン」では変身後、言語を介したコミュニケーションができなくなる点だろう。

この点についてアニメ「銀魂」第九三話「ヒーローだって悩んでる」を参照したい。

この話は、スペースウーマンというウルトラマンを模した女性キャラクターが、バレンタインのチョコレートを坂田銀時らの住むよろづ屋に落としてしまうところから始まる。

話を聞くに、彼女は妻のある男性を好きになってしまい、男性からも「別れるから」と言われずるずる関係を続けていたものの、ついに耐え切れず、たまたま会ったチェリー大佐という、あろうことか怪獣の親玉に恋してしまったという。

スペースウーマンは敵の親玉を引きずり出すため、敵の怪獣を倒してきた。彼女は宇宙の平和を守っているのではなく、自分の恋愛のために戦ってきた。その結果、バレンタインの日、晴れてチェリー大佐を引きずり出すことに成功し、チョコを渡し告白する算段だったのだ。

しかしそのとき、かつて愛していた男性が再び戻ってきて「妻と別れたからよりを戻したい」と言う。三分に一度母親に電話しなくてはならないようなスペースウーマンは、今後の安定のためにその男性と結ばれるか、目の前のチェリー大佐に告白するかで逡巡する。しかし彼女は、今の恋愛感情を優先させることになる。

そこで場面は一点。江戸の町がどこかの高校に変わり、キャラクターは制服を着て、みな同じサイズになっている。生徒たちはチョコを落としてしまったスペースウーマンに、自分たちのチョコを渡し、告白するよう応援する。

いざ告白したスペースウーマンだったが、それをチェリー大佐は「重たい」と返事をし、それに怒ったスペースウーマンはたちまちチェリー大佐を倒してしまう。

この話の面白さは、いわば「ウルトラマンが人間臭い」という点に尽きる。緊張の緩和が笑いを生むのだとすれば、「ウルトラマン」であるという緊張が「人間臭い」という点で緩和されているのだ。

しかし翻って「ウルトラマン」について言えば、「ウルトラマン」は「人間臭くない」のである。

ウルトラマン」の恋愛を想像することは難しく、ただひたすらに宇宙や世界の平和という職務に邁進しているように思ってしまう。いわば神性を「ウルトラマン」に仮託しているのである。

その点で考えると、人間が「ウルトラマン」に変身する、というのは神性を発現する、ということであると分かる。

「発現」という語を選んだのはなぜか。「ウルトラマン」が変身するシーンを思い浮かべて欲しい。右手を突き上げ、上昇してくる巨人。背景は抽象的で、都市の風景などではない。いわばあのシーンは、街の中にいる小さな人間が、何らかの方法で大きくなっている、というより、個人の内面の中で、押さえつけられた「ウルトラマン」が発現してきた、という方がしっくり来ないだろうか。

個人の中の神性が発現した結果が「ウルトラマン」である。それは恐山のイタコのようなものを想像してもいいのかもしれない。

アイデンティティはどこに

変身者は人間であるから、コミュニケーションを取ることができる。しかし「ウルトラマン」になるとディスコミュニケーションが成立する。いわばこれは人々と神のディスコミュニケーションと言い換えてもいい。旧約・新約聖書からコーランに至るまで、人々は神の声を聞くのではなく、それを媒介する預言者を求めてきた。

あくまで預言者だったはずのイエス・キリストは、その存在自体が神性を持つとされ、三位一体説の中で神格化が強化されてきた。ではウルトラマンの場合はどうか。

ウルトラマン」という名称を提起するのが、変身者の場合がある。第一話で登場した巨人を、変身者が「あれは『ウルトラマン』です」と名付けるのだ。これは「ウルトラマン」と内部の存在を媒介する、預言者的性格を保っていると言えるだろう。

そのとき、あくまでドライな無神論的に考えれば、預言者の発言とは、あくまで預言者のなかにある「神的な」部分が発現してなされたものであり、(時に無意識下で行われる)妄想である。

無神論的糾弾は、ときに「ウルトラマン」にも向けられる。彼らは往々にしてシリーズ中で「変身できない」という状況に陥る。いわば預言者の敗北である。

そんな「ウルトラマン」のアイデンティティとは、変身者が正真正銘「内部」の人間である場合、むしろその人間にこそ帰せられるべきものである。

「兵器」という側面としての特撮ヒーローについては後述するためここではあくまで軽く言及するのにとどめておくが、「ウルトラマン」とは人間に依存した「兵器」なのである。

ウルトラマンとは何者か」

大江健三郎の指摘

ここまで「ウルトラマン」について考えてきたところで、そろそろまとめに入らなくてはならない。そこで、大江健三郎が「ウルトラマン」について批判的に論じた文章を、改めて批判的に検討することで、そのまとめに替えたい。

まず、その論考とは次のように始まる。ここからはどれも長くなるが、引用していく。

 子供のための文学、映画、劇が、大人によってどのように造られるか? そこには単純な構造の、しかし複雑な課題がこめられている。それは子供の眼、意識が受けとるべきものを、大人の眼、意識によって造るものであるからだ。子供と大人のあいだの、たがいに排除しあう境界線がはっきりしないような、「子供大人」あるいは「大人子供」の幻的人格が造ったものには、どこかいかがわしいところがある。子供の想像力を解放する作品は、自立している大人の想像力によって造りだされねばならない。それは単純な原則である。しかし、大人になることは、子供であることの否定に立っているのであるから、また大人が子供に仮装してみることではなにも解決しないのであるから、ことは複雑になる。子供の想像力は、大人の想像力とつながった同一地平にあるものなのだろうか?

大江健三郎「破壊者ウルトラマン」(『状況へ』所収、岩波書店、1974年))

この問いかけから始まる文章は、基本的に、「ウルトラマン」が喜んで子供たちに受容される現状への危機感を語る。

 いうまでもなく怪獣映画は、怪獣群のみによってなりたっているのではない。〔中略〕怪獣たちが、おそるべきエネルギー量をたくわえ、およそ動物的限界を超えた、全地球上の鯨の力の総和にもあたるような体力をそなてすらいるにもかかわらず、ほとんどつねに実在の動物(あるいは想像された前世紀の動物)を思わせるところを〔中略〕残しているのは、誰もが見知っていることであろう。ところが、かれらと闘うウルトラマンミラーマンのたぐいは、たとえ人間のかたちをしていても、むしろ怪獣の逆に、まったく哺乳類くささのないのが通例である。かれらは科学の匂いをたてている。

大江健三郎、前掲書)

大江健三郎における「鯨」というモチーフがいかに大切であるか、という点については、並み居る文学研究者に明らかにしていただくとして、注目したいのは、彼が怪獣にそれに勝るとも劣らない体力を見ている点である。そして、その指摘通り、たしかに怪獣は、あくまで「地球的」なキメラとしての側面すら垣間見える。

一方「ウルトラマン」は「哺乳類くさ」くない。銀と赤、時々青で塗られたその巨大な体躯は、科学の力=人工太陽に被爆したという理由によって得られたものであった。そんな「ウルトラマン」を大江健三郎は「科学の精」と呼ぶ。

「科学の精」とは、先ほどまで僕が「ウルトラマン」を神性をまとった存在としていたことと通底している。大江はその超越性を「科学」に見ているのに対して、僕は「ウルトラマン」が「外部」の存在であり、変身者の内部から「発現」する存在であるというところに見た。

大江はこうも語る。

 そのように都市破壊が繰りかえされる光景を見ながら、ついに僕のオブセッションになりおおせたのは、この大規模な破壊のあと、都市を再建することがいかに困難で厄介な大仕事であろうか、というもの思いなのであった。広島においても長崎においても、原爆後の人間の営為に関して、もっとも感銘深いのは、そこで人びとがいかにかれ自身を再建し、都市を再建して行ったかの現実的細部にほかならない。おなじく文字どおりの瓦礫の荒野から、米軍占領のもとに日本政府から見棄てられて、なお都市を村を、学校を墓を、すべての人間的環境を回復して行った沖縄の人びとの営為についてもおなじである。

大江健三郎、前掲書)

そして大江は、怪獣たちが破壊した街が、次には元通りになっているウルトラマンの世界を批判する。

平成になり、『コスモス』などでは、正しくその名がコスモス(秩序)であるように、廃墟を元通りにするシーンが描かれた。この「再建」があまりにスムースすぎるという批判は、「ウルトラマン」自身も受け止めていたのである。

再び元通りにすること。その困難さを受け止めて物語を終える映画『シン・ゴジラ』についてはあとで言及するとして、それよりも先に、「次の週には元通り」になってしまう物語の不可解さを、むしろ物語の構造のなかに取り込んだのがアニメ「SSSS. GRIDMAN」であった。次はこのアニメについてじっくりと見ていきたい。

 

(「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か」終わり)

 

written by 虎太郎

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【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑵


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 軍隊ではない

「境界」の組織

多くの「仮面ライダー」作品と「ウルトラマン」作品の最大の違いは、この「境界」としての助力者がいかに組織化されているか、という点に尽きる。

仮面ライダー」シリーズで助力者とは、ヒロインをはじめに数名を指すことが多い一方、「ウルトラマン」シリーズではかねてから科学特捜隊に連なる、国際的な研究・軍事機関が助力者組織として活躍してきた。

なぜ「組織」でなければならないのか、ということを考えるために、まず「助力者組織」が多くの場合「国際機関」であるというところに注目したい。

先述の通り「ウルトラマン」シリーズの歴史とは血塗られているが、だからこそ「ウルトラマン」は戦後民主主義的なイデオロギーを反映しなくてはならない。つまりそうした「助力者組織」が「国際機関」でなく、国家権力=暴力装置だとしたら、それは暴走の可能性をはらむ。つまり、怪獣を倒す行為が正しいという担保が得られない。

つまり「ウルトラマン」シリーズにおける「正義」とは、「国際機関」という観点によって担保されている。

この点について、斎藤美奈子の鋭い指摘があるので引用しておきたい。

 男の子の国*1の主役は「国際的」な軍事組織だ。〔中略〕

 注意すべきはこのチームの形態である。軍隊であるから当然だが、男の子の国のチームは、およそ民主的とはいえないピラミッド型のタテ型組織だ。主役である五~六人のチームは、人数から考えて、軍のいちばん小さな単位=分隊に該当しよう。〔中略〕われらがチームは、巨大な官僚機構の末端組織にすぎないのだ。

 人類を危機から救うという使命を負っているのだから当たり前だと思うかもしれないが、ヒーローのチームがヒモつき=親方日の丸(親方国連旗か)でなければならない理由はない。〔中略〕公的な組織だけあって、最先端の設備を備えた立派な作戦本部を有しているのは強みだが、われらが男の子の国のチームが、「寄らば大樹の陰」的な体質であることは注目に値しよう。

斎藤美奈子『紅一点論』ビレッジセンター出版局、一九九八年(ここではちくま文庫、二〇〇一年を参照))

しかしなぜ「国際的」な軍事組織である必要があるのか、と言えば、「国際的」ということによって彼らの判断がオーソライズされる、ということこそが重要なのではないか。実は同じ著作中で、斎藤美奈子は次のようにも書いている。

 ところで、敵とはなんだろうか。「侵略者」とはいうものの、視覚的にみれば、敵とは自分とは異なる外観、自分の尺度にあてはまらない姿をしているもののこと、である。怪獣・怪人・怪ロボット、いずれも動植物や機械が進化しそこねているような異形の者である。男の子の国の戦いとは異質なものを排除する戦争のことであり、男の子の国がいう正義とは、「地球ナショナリズム」ないし「人類エゴイズム」の別名だといえよう。

斎藤美奈子、前掲書)

「侵略者」を「敵」たらしめるのは、一種「地球ナショナリズム」「人類エゴイズム」とでも呼ばれるべき「正義」に合致するか否か、である。しかしその「正義」が「自分とは異なる外観、自分の尺度にあてはまらない姿」だとすれば、「ウルトラマン」さえ「敵」だと言うことになる。そこで「ウルトラマン」は「正義の味方」であり、「地球」に襲来する怪獣は「敵」であると判断するのは、「国際的」であることによってオーソライズされた「助力者組織」である。つまりそこにこそ「国際的」である必要性、言い換えれば「全地球的」=「全人類的」である必要性があるのだろう。

なぜ「国際的」であればオーソライズされるのか。もちろんそこには、日本が国際連盟を脱退し、国際協調主義に対する形で戦争に突入していったという歴史へのアンチテーゼとしての意味合いもあるのだろう。それに加えて、次の福嶋亮大の記述を参照したい。

 現に『ウルトラマン』では、化学に対する強い信頼が、曇りのない明晰な世界を作り出している。怪獣退治と超兵器の開発に勤しむ科学特捜隊は、パリに本部があり、しばしば国外からも客が訪れる国際的組織だとされる。このきわめて楽天的なインターナショナリズムは、〔中略:影響を与えたとされる作品〕から引き継がれたものだろう。これらの映画は宇宙という「敵」を仮構し、科学を人類の共通言語とすることによって、日本を含む地球全体を「友」としてまとめた。ここでは日本はもはや屈辱的な敗戦国ではなく、科学によって統一された「世界」という高次の共同体の一員にまで引き上げられている。

福嶋亮大ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』PLANETES、2018年)

この「世界」とは先述した「内部」と同じだと考えて構わない。つまり、科学特捜隊に連なる「助力者組織」とは、「内部」と「外部」の「境界」に存在し、「外部」の善悪を判断する役割を担うと同時に、「内部」を「友」としてまとめあげる国際協調の役割すら兼ねていたという指摘である。

 そうした「国際的助力者組織」が端的に現れたものとして、先ほどから数回例に挙げている『コスモス』『メビウス』を見ていきたい。

「助力者組織」と善悪の地平

「良い怪獣」を判断する「助力者組織」

『コスモス』の「助力者組織」とは先に述べた通りTEAM EYESであるが、それはSRCと呼ばれる国際機関の特殊部隊である。SRCとはScientific Research Circleの略。しかしこれと時に敵対する組織として統合防衛軍が置かれている。

そもそも『コスモス』における怪獣とはSRCなどによる保護の対象であったはずが、カオスヘッダーと名づけられた敵の影響で凶暴化したものである。端的に言えば、怪獣たちの秩序ある生活が「カオス(混沌)」に陥ってしまう。その後、そのコスモス(秩序)を取り戻すために戦うヒーローこそが、ウルトラマンコスモスなのだ。

それが可能かどうか、つまり怪獣の本来のコスモス(秩序)の中に生きる姿に期待をかけるSRCと、早々に共存の道をあきらめる日本の統合防衛軍という対決構造が見て取れる。

怪獣とは本来凶暴ではない、凶暴ではない怪獣もいる、という想像力は、「ウルトラマン」シリーズにそもそもあるものだった。

例えば従来の「ウルトラマン」シリーズに対して総括的に制作された『メビウス』では、『セブン』に登場したカプセル怪獣が再登場した。これはウルトランメビウスを援護するために、CREW GUYSの隊員たちが使う怪獣である。

この怪獣を悪と断じられない、ウルトラマンの性質について、宮台真司の指摘がある。

〔前略〕『ウルトラマン』ではガバドンウルトラマンにやっつけられそうなのを見た子どもたちが「ガバドンは何も悪いことしてない!」と叫びます。ここでは共通して善と悪の対立という世界観から一度退却する構えが示されます。僕はここに古来の伝統を見ます。

 ジェノサイド(全殺戮)を嫌い、シンクレティズム(習合)を志向する構えです。民俗学者歴史学者の一部は、その由来を、縄文文化における強い祟り信仰にまで遡ります。こうした歴史学的仮説の是非はともかく、善悪二元論から距離をとって共存可能性を志向する「オフビート感覚」が、日本の映画にも長い間とても強く刻印されてきたと感じます。

宮台真司「かわいいの本質 成熟しないまま性に乗り出すことの肯定」(東浩紀編『日本的想像力の未来 クールジャパノロジーの可能性』所収、NHKブックス、2010年8月))

ウルトラマン」シリーズの本質とは、「外部」からやってくる侵入者をとりあえず殺す「ジェノサイド」ではなく、さしあたり共存を模索するという「シンクレティズム」にこそある。そのことは先程から取り上げている『コスモス』が良い例だし、他の作品においても多くの実例が見られる。

さて、「外部」(怪獣、ウルトラマン)─「境界」(助力者組織)─「内部」(市民)の構造が共存を志向すると考えたとき、振り返るべき議論がある。河合隼雄の「中空構造」をめぐるものである。

〔前略〕日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存し得る可能性をもつのである。つまり、矛盾し対立するもののいずれかが、中心部を占めるときは、確かにその片方は場所を失い抹殺されることになろう。しかし、あくまで中心を空に保つとき、両者は適当な位置においてバランスを得て共存することになるのである。

河合隼雄「中空構造日本の危機」(『中空構造日本の深層』中公叢書、1983年。初出は『中央公論』1981年7月))

同書において河合隼雄は、日本神話において三兄弟などの神々の真ん中に当たる神の存在感が薄いことを取り上げ、これこそが日本的な「中空構造」であるとしている。そしてそれこそが、相対する両者をバランシングする役割を担っているというのである。

つまり、本来「内部」における市民と、「外部」における怪獣やウルトラマンは矛盾し、対立したとしてもおかしくないのだが、その間に「境界」上の「助力者組織」が存在するからこそ、そして彼らがあまり活躍せず存在感を発揮しないからこそ、その「共存」が模索されるのである。

では「助力者組織」などは置かないか、徹底して存在感を消し去ってはどうなるのか。河合隼雄は次のようにも指摘している。

〔前略〕中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば、無であって有である常体であるときは、それが有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。後者のような状態に気づくと、誰しも強力な中心を望むのは、むしろ当然のことである。あるいは、中空的な状態それ自身が、何ものかによる中心への侵入を受けやすい構造であると言ってもよい。ここに中空構造を維持することの難しさがある。

河合隼雄、前掲書)

中空としての「助力者組織」

こうした河合隼雄の指摘が「ウルトラマン」シリーズにおける「助力者組織」について示すのは、第一に、「助力者組織」が無くては「内部」(市民)と「外部」(怪獣、ウルトラマン)の対立が本格化し、「ウルトラマン」シリーズが「ジェノサイド」の物語になってしまう、ということである。

第二に、「助力者組織」を強力にしたい、あるいはそこに入り込みたいという周囲の欲求が存在している、ということである。

この点について、例えば『コスモス』を見れば、SRCのまさに中空的な活動に対して苛立ちを覚えた統合防衛軍は怪獣に対して実力行使をしようと試みる。また怪獣が「助力者組織」に入り込み、懐柔するといったような例は、「ウルトラマン」シリーズ全体において、枚挙に暇がない。

河合隼雄は「中空構造を維持することの難しさ」を指摘しているが、では、「ウルトラマン」シリーズにおいて、その「中空構造」を維持せしめているのは、どういった要素なのだろう。

 

(「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑶」に続く)

 

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written by 虎太郎

*1:斎藤美奈子は同書中で、「子ども向けの特撮&アニメの世界」を「アニメの国」としたうえで、その中で男の子向けの物語の世界を「男の子の国」(代表例は「変身ヒーローもの」)、女の子向けの物語の世界を「女の子の国」(代表例は「魔法少女もの」)としている。

【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑴

 はじめに

誰が特撮のアイデンティティを受け継いできたのか

私たちが「特撮ヒーローは日本の文化だ」というようなことを考えるとき、果たしてその「特撮」というアイデンティティはどのように育まれてきたのだろうか。

今後、そのように社会的文脈に「特撮」を位置づける試みを行う予定はないから、ここで触れておきたい。

多くの人が「特撮ヒーロー」の始まりを1966年放送の『ウルトラマン』に求める。しかしその際、その前史として同年上半期には『ウルトラQ』が放送されていたこと、また監督を務めた円谷英二は戦時中においても戦争映画の特撮を担当していたことを忘れてはならない。

ヒーローとしての「特撮」は『ウルトラマン』で初めて誕生したのだと言うことに抗うつもりはないが、実はその遺伝子は、それよりずっと前からあったし、その遺伝子はある意味で血塗られているということである。

私たちが一般に「ウルトラマン」シリーズと呼ぶようなものは、1967年4月に放送を終了した『ウルトラマン』の半年後、10月から放送が開始された『ウルトラセブン』へと続く。『セブン』も一年間放送した後、2年半の空白期間を経て『帰ってきたウルトラマン』へと続く。

そこから『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』と続いたが、『レオ』が1975年3月で放送を終了すると、次の作品は1979年放送開始の『ザ☆ウルトラマン』を待たなくてはならない。翌年には『ウルトラマン80』が放送を開始するが、1981年3月に『80』が放送を終了すると、テレビシリーズが再び放送されるのは、元号が昭和から平成に変わった1996年『ウルトラマンティガ』を待たなくてはならない。

この間、日本国外で作品が制作されたり、映画が制作されたりしたものの、テレビでの放送はなかった。

それまで「ウルトラマン」たちは明確に作品世界を共有することはなくとも、概ねM78星雲など遠い銀河出身という設定であった。もはや呪縛と化しつつあったその「宇宙からの飛来者」的設定を克服した『ウルトラマンティガ』以後、『ウルトラマンダイナ』『ウルトラマンガイア』と続く。『ガイア』が1999年8月に放送終了した後、21世紀を迎えた2001年7月から『ウルトラマンコスモス』が放送開始。1年の放送予定が1年3ヶ月に延長される好評ぶりで、『ウルトラマンネクサス』に続く。こちらは不評がたたって1年を待たず放送を終了し、『ウルトラマンマックス』が放送開始。こちらも1年間の放送には至らず、『ウルトラマンメビウス』が2007年に放送を終了すると、再び「ウルトラマン」は空白期間を迎える。

次に2012年『ウルトラゼロファイト』が放送を開始するのだが、以後、『ウルトラマンギンガ』『ウルトラマンオーブ』『ウルトラマンジード』『ウルトラマンR/B』などへと展開していく。

これが「ウルトラマン」シリーズを語る上での概要だ。

日本の特撮を語る上でもちろんこれら「ウルトラマン」シリーズは重要だが、それと並んで語られるのが「仮面ライダー」シリーズである。

1971年に放送を開始した『仮面ライダー』が人気を博し、およそ2年間放送を続けると、以後『仮面ライダーV3』『仮面ライダーX』『仮面ライダーアマゾン』『仮面ライダーストロンガー』と続く。

『ストロンガー』が1975年一杯で放送を終了すると、1979年に後に「スカイライダー」と呼称される『仮面ライダー』が放送を開始する。翌年には『仮面ライダースーパー1』が放送されるが、その後しばらくシリーズは中断。1987年の『仮面ライダーBLACK』放送開始を待たなくてはならない。その後『仮面ライダーBLACK RX』が放送されるものの、1989年に放送終了後、『仮面ライダークウガ』が2000年に放送を開始するまで、およそ10年の空白期間があった。

クウガ』以後、『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー龍騎』『仮面ライダー555』『仮面ライダー剣』『仮面ライダー響鬼』『仮面ライダーカブト』『仮面ライダー電王』『仮面ライダーキバ』『仮面ライダーディケイド』『仮面ライダーW』『仮面ライダーオーズ/OOO』『仮面ライダーフォーゼ』『仮面ライダーウィザード』『仮面ライダー鎧武/ガイム』『仮面ライダードライブ』『仮面ライダーゴースト』『仮面ライダーエグゼイド』『仮面ライダービルド』『仮面ライダージオウ』と途切れなく放送が続いている。

ここで注目したいのは、昭和の終わりから平成初期にかけて、「ウルトラマン」シリーズも「仮面ライダー」シリーズも大きな空白期間を抱えているということである。ではその際、日本から「特撮ヒーローがテレビで活躍する」という文化は廃れてしまっていたのか、というとそうではない。

仮面ライダー」シリーズの兄弟作として1975年に放送を開始した『秘密戦隊ゴレンジャー』以後、現在までに42作品が放送されている「スーパー戦隊」シリーズは、昭和終わりから平成初期にかけても放送を続け、日本の特撮文化に貢献したといえよう。そのあまりの作品数の多さにここでは紹介はしないが、一般に「仮面ライダー」と比較しても幼児向けとされる「スーパー戦隊」シリーズの重要性については、ここで改めて指摘しておきたい。

 ヒーローとはどのような存在なのか

 先ほど、「ウルトラマン」シリーズが、血塗られた遺伝子を受け継いだ作品だと書いた。そもそもそのように始まった日本のヒーローであるから、いわゆるアメコミ作品のような理解は難しい。*1

ウルトラマン」であれば、そもそもなぜ宇宙人が地球を救いにくるのか、本当にいつも助けてくれるのか、変身する前の人間と変身した後の宇宙人、どちらの自我が優先しているのか、などの問題が付きまとう(いずれも後述する)。

仮面ライダー」であれば、その主人公が帯びる陰の側面や、正義とも悪とも付かない移ろいやすさ、言い換えれば「危うさ」が目に付くところである(今後考えていきたい)。

では「スーパー戦隊」は理解が容易かと言えば、複数人がチームとして戦うことを余儀なくされるが故の難しさが付きまとっている(できれば「仮面ライダー」シリーズを考える上で触れたい)。

こうした一枚岩ではいかないヒーローの「存在」について観察し、思考するのが今後の目標である。また、それが他作品においてどのように継承されているか、アニメ「SSSS.GRIDMAN」や映画『シン・ゴジラ』についても概観していきたい。

さしあたり1回目の今回は、特撮ヒーローの起源でもある「ウルトラマン」シリーズについて考えていきたい。

「宇宙人」ウルトラマン

なぜウルトラマンは地球にやってくるのか

以下、ウルトラマンと呼称するのは、M78星雲からやって来た巨人に限る。細かく言えば『メビウス』より後のウルトラマンについては考えないし、『ティガ』『ダイナ』『ガイア』も含まない。だからといって以下に展開する議論が、そういった作品にも当てはまらないことを示すものではない。

さて、ウルトラマンとは何者なのだろうか。当然その答えは「宇宙人」ということになる。

なぜ彼らがあのような出で立ちなのか、という点については綿密な設定がある。元々人間と同じような姿をしていたものの、既存の太陽に代わって人工太陽を作った際、それに「被爆」すると巨人になった、というものである。

ここで得た力の強大さ故か、ウルトラマンたちはその力を世界の平和を守るために活かすことになる。そのために彼らは「宇宙警備隊」という組織を結成することになる。

初代の『ウルトラマン』では、このウルトラマンが怪獣を追っている最中、地球の科学特捜隊隊員であるハヤタと衝突。ハヤタを死なせてしまったと感じたウルトラマン一心同体となって戦うことになる。

このような成り行き上、地球に留まる場合もあれば『コスモス』『メビウス』のように意思をもって地球にやってきている場合もある。しかしいずれにせよ共通しているのは、ウルトラマンたちが地球を守ってくれるのは、圧倒的に彼らの善意に支えられる部分が大きいという点だ。

この問題に大澤真幸は、佐藤健志の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』にある、この関係が日米安保条約の比喩であるとの見方に賛意を示した上で次のように書く。

 考えてみると、どうしてウルトラマンは、バルタン星人やベムラーではなく、日本人、というか地球人を助けてくれるのでしょう。

〔中略〕ウルトラマンは地球や、日本人の理念に賛成したわけではありません。たまたま最初の交通事故が地球人だったために、助けている。では別の人にぶつかっていたら、どうなっていたのでしょうか。最初にバルタン星人にぶつかっていたら、違う話になっていたことでしょう。つまり必然性の無い構造になっているのです。

大澤真幸サブカルの想像力は資本主義を超えるか』角川書店、2018年)

これは初代ウルトラマンについての言及であり、全てのウルトラマンに共通するわけではない。例えば『コスモス』で、ウルトラマンコスモスは春野ムサシとの約束を守る形で活躍するのだし、『メビウス』ではウルトラマンメビウスは宇宙警備隊の一員としての役割を全うするルーキーである。

また、このウルトラマンが地球を救うという偶然性日米安保と重ね合わせる見方は、さしあたり留保しておきたい(そして今後も結論を出すつもりはない)。なぜならここでの目的は作品それ自体の構造を取り出すことであり、社会批評の道具としてサブカルを用いることではないからだ。そして『ウルトラマン』の脚本を手掛けた金城哲夫沖縄県出身であることは興味深い事実だし、それが作品の傾向に影響を与えたことは疑いようがないが、作者の意思を読みとる読解は、必ずしも絶対ではないからでもある。

ここで提起しておきたいのは、「外部」というタームである。なぜなら「ウルトラマン」につきまとう偶然性とは、「ウルトラマンが外部の存在である」という一点に起因する。ここからは「外部」の存在が「なぜ」地球にやって来るのか、ではなく、「外部」の存在が地球を守る、という構造の意味を読み解いていきたい。

敵か味方か分からない

ウルトラマンが「外部」の存在である以上、対置される「内部」の市民=私たちにとって、彼らが敵であるか味方であるかは分からない。

もちろん視聴者は『ウルトラ(マン)○○』というタイトルの作品を見ているのだから、彼らが正義のヒーローであると分かる。しかし当然、実際に禍々しい様相の怪物が街を襲い、全身赤と銀の巨人(もちろん多くの例外がある)がそれと戦い始めては、どちらが悪であり、どちらが正義であるかという価値判断は難しい。

実際、『メビウス』においては、宇宙警備隊のルーキーとして地球にやって来たウルトラマンメビウスは最初の戦いで街を滅茶苦茶に壊してしまい、CREW GUYS(クルー・ガイズ)の隊員アイハラ・リュウに非難されることから始まる。その後物語はウルトラマンメビウスが成長していく、という方向で展開していく。

ここで注目したいのは、CREW GUYSである。このように他作品においても、「ウルトラマン」に先駆けて怪獣と戦う存在として科学特捜隊の系譜に置かれる「助力者組織」が配置される。

物語の構造上、こうした「助力者組織」が怪獣に勝利することはめったになく、これを大澤真幸在日米軍に対するところの自衛隊として解説している。

先ほどから用いた「外部」と「内部」の概念の中で、この「助力者組織」はどこに位置づけられるだろうか。

「助力者組織」はどこに

「外部」「内部」という概念を、空間的に宇宙と地球という関係に当てはめてみよう。

ただしこれはかなり簡略化した構図であることにも留意したい。というのも、初代『ウルトラマン』を鑑みれば、その初期怪獣の多くが、宇宙から来たのではなく、地球に眠っていた怪獣を起こしてしまった、という展開を持つからだ。であるからより厳密に言えば、「市民が暮らす社会」と「市民が認知しない宇宙及び神秘的領域」といったことになる。

あえて簡略にこれを宇宙と地球と呼び、宇宙と地球について考えたとき、「助力者組織」はそのどちらに当てはまるのか。

「助力者組織」の特徴は、怪獣たちとの距離感の近さにある。例えば『コスモス』を見てみれば、その「助力者組織」であるTEAM EYES(チーム・アイズ)は、怪獣を駆逐するのではなく、むしろ怪獣を保護することを目的とする(見る=看る=保護する=EYES)。つまり「内部」市民の誰よりも怪獣に近い距離にいる。

一方、その隊員があくまで怪獣保護を絶対としない点、つまりある程度試みてなお保護が難しければ容赦なく怪獣を駆除する点に着目すれば、「内部」から「外部」的異物を排除しようという態度であり、極めて「内部」市民的である。

なお、『コスモス』においてウルトラマンコスモスは「外部」からやってきた者として、同じく「外部」からやってきた怪獣を保護するため奮闘する。

「外部」(怪獣)の存在を「内部」に溶け込ませようという「外部」(ウルトラマンコスモス)の試みを、俯瞰したとき、「助力者組織」はそのどちらともつかない、いわば「境界」上の存在と言うことができるだろう。

今後特撮作品におけるヒーローの存在の問題を、この「外部」「内部」そしてその「境界」という観点から見ていきたい。

 

(「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑵」に続く)

theyakutatas.hatenablog.com

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written by 虎太郎

*1:管見では、アメコミ(ここでは専らマーベル・コミックスを想定している)は、何らかの事情で特殊能力を手に入れた人々が、共同体内部において地位を獲得し、「英雄」と認められるまでの物語を描くことが多い。その点で日本の特撮ヒーローは、必ずしも共同体内部での承認を求めず、孤独に戦いを重ねる「外部」(後述)ないし、「辺境」の存在であり、大きく異なっている。

【音楽】米津玄師「Lemon」


米津玄師 MV「Lemon」

米津玄師「Lemon」における「言わない」描写についての一考察

はじめに

米津玄師「Lemon」は野木亜紀子脚本のドラマ「アンナチュラル」主題歌としても採用され、多くのヒットチャートで1位を獲得し、カラオケでも数え知れないほど歌われた。

そんなこの曲について、このブログの中では次のように言及された。

虚無の中で、何かわからない光のようなものを待ちながら生きる、ということ。これこそが、現代的な感覚で捉えた生の本質なのではないだろうか(余談だが、日本でヒットしている米津玄師『Lemon』歌詞の一番最後の箇所でも救いとしての「光」が登場するし、映画『君の名は。』においても登場するモチーフである。現代における「光」のイメージにはさらなる検討の余地があるだろうと思われる。)

【音楽】ザ・スミス ”There Is a Light That Never Goes Out" - 掌のライナーノーツ

この部分を、いわばそのバトンを受け取ってリレーするためにも、意味深な世界観について、数多くの考察が試みられてきたところではあるが、ここではあえて歌詞そのものに則したかたちで、おそらくそれを逸脱しないであろう範囲内で分析していきたい。

逆説的表現

「Lemon」において「言わない」ことにより何かをほのめかすような描写が数多く見られるが、中でも多いのが「逆説的には」表現されている、という文章である。例えば冒頭は次のように始まる。

夢ならばどれほどよかったでしょう

「夢ならばどれほどよかったでしょう」という文章は、むしろ逆説的に「それは夢ではない」ということを端的に言い表している。

きっともうこれ以上 傷つくことなど

ありはしないとわかっている

この歌詞の部分は、逆説的に言えば、「もうこれ以上はありえないというほどに傷ついている」ということを表しているということになる。では何に傷ついているのか、というと次の部分が手掛かりになるだろう。

戻らない幸せがあることを

最後にあなたが教えてくれた

要するに「傷つ」けられる以前は「幸せ」だったということなのだが、それは二度と戻ってこない。それを「最後に」「あなた」が教えてくれたのだが、これは「あなた」が今は亡くなっているのだろう、という比較的順当な解釈によって理解しやすくなる。

つまり、「あなた」と過ごしていた日々は「幸せ」だったものの、それを「最後に」「これ以上傷つくことなど」ないというほどに「傷つ」けられる。その様は「夢ならばどれほどよかった」だろうかと祈るしかないほどである。

「あなた」はどのような人物か

ではその「あなた」とはどのような人物だったのか、について考えてみると、次のようにある。

暗闇であなたの背をなぞった

その輪郭を鮮明に覚えている

受け止めきれないものと出会うたび

溢れてやまないのは涙だけ

 

何をしていたの 何を見ていたの

わたしの知らない横顔で

「暗闇」の中、おそらくこの詞(=詩)を書く人物は、「あなた」の体を指かなにかで這わせており、それによって触覚的に「輪郭」を覚えていたことになる。

その「あなた」と書き手の間の関係性を示唆するのが「横顔」である。つまり書き手は「あなた」を思い出すときに、正面ではなく、むしろその「横顔」を思い出す。二人の関係性がただならぬ親密なものであったのだろう、ということが示唆される。

例えば何か別の表現で親密さを表現したものとして、俵万智の和歌がある。

思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ

この情景を思い浮かべてみると(おそらく)女性と、その目の前にはへこんだ麦わら帽子があるだけだ。しかしその情景以上に、おそらくその麦わら帽子というのは別の(おそらく)男性の持ち物であり、二人の思い出が喚起される。

このように「思い出の喚起」というのは「Lemon」でも重要で、基本的にこの歌は、「思い出」を語る歌でしかない。

おそらく親密であったろう「あなた」の「横顔」を想起するが、ただしその「横顔」というのは「知らない横顔」である。つまり、何もかも知っているほど親密ではなく、「知らない」側面があったのだろうと分かる。

例えば次の箇所。

言えずに隠してた昏い過去も

あなたがいなきゃ永遠に昏いまま

書き手には何らかの「昏い過去」がある。それを打開する最後の方法は、それを「あなた」に言うことなのだろう。

しかし「あなた」がいなくなってしまったことで、その過去は「永遠に昏いまま」なのである。

あんなに側にいたのに

まるで嘘みたい

とても忘れられない

それだけが確か

「あんなに側にいた」にも関わらず、「昏い過去」を打ち明けられなかった。もしかすると親しすぎるがゆえに、かえって打ち明けられなかった秘密なのかもしれない。だからこそ、「わたし」は「あなた」に対して、この曲を歌いかけることしかできない。その中で「生き返ってほしい」とも「もう一度会いたい」とも歌えない。ただその後悔を深々と歌い上げることしかできないのかもしれない。

感覚の飛躍

先ほど申し述べたように、書き手は「あなた」を「暗闇で」「背をなぞった」触覚的にその記憶を喚起する。

しかしそれより前に次のような記述がある。

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ

そのすべてを愛してた あなたとともに

胸に残り離れない 苦いレモンの匂い

雨が降り止むまでは帰れない

今でもあなたはわたしの光

「胸に残り離れない 苦いレモンの匂い」によって、「あなた」の記憶が「レモン」と共に保存されていることが分かる。ここで「レモン」の味覚的記憶としての「苦い」という感覚と、「匂い」によって嗅覚的記憶が喚起されていることが分かる。

ではその「あなた」と「レモン」はどんな関係なのだろうか。

切り分けた果実の片方の様に

今でもあなたはわたしの光

「切り分けた果実」というのは「切り分けた」「レモン」と考えて問題ないだろう。そしてそれが「あなた」を喚起し、「わたしの光」であると言う。

飛浩隆が言うように、「切り分けた」「レモン」の切断面が「光」のようである、という解釈で問題ないだろう。「レモン」と「あなた」が視覚的に「光」を媒介にして接続しているのである。

雨とは何か

最後の部分には次のような箇所がある。

雨が降り止むまでは帰れない

「雨」とは一体何を意味するのか。とりあえず「帰る」という動詞を媒介に考えてみると、冒頭には次のような箇所がある。

忘れた物を取りに帰るように

古びた思い出の埃を払う

「わたし」(書き手)と「あなた」の思い出が、既に時間を経てしまっていることが「古びた思い出の埃」によって示されていた。しかしそれを比喩的に説明する「忘れた物を取りに帰るように」というのが難しい。なぜなら最後には「帰れない」とあって、それを尊重すると「忘れた物を取りに帰る」ことなどできない、ということになってしまう。

つまり「古びた思い出の埃を払う」ことはできるのだが、「忘れた物を取りに帰る」ことはできない。なぜなら「雨が降り止」まないからである。

では「雨」とは何なのかに戻りたい。

どこかであなたが今 わたしと同じ様な

涙にくれ 淋しさの中にいるなら

わたしのことなどどうか 忘れてください

これは逆説的に「わたし」が「涙にくれ 淋しさの中にい」て、「あなた」のことを「忘れ」られない、ということを意味している、と考えて良いだろう。

「涙」「淋」という漢字が横に並んだとき、さんずいが続くことに気が付くはずだ。つまり「水」という想像力が、この作品全体を、文字通り「湿っぽく」しているのである。

ということで、そこに「雨」を接続してみよう。

「涙にくれ 淋しさの中にいる」というのは「雨が降」っているという情景と接続する。つまり「涙にくれ 淋しさの中にいる」という状況を脱しないと「帰れない」し、もちろん「忘れた物を取りに帰る」こともできないのである。

おわりに

さて、曲全体を通して、ある特定のストーリーや、「わたし」の状態が明確に想定されていながら、それが「喚起される」こと、つまり明示的には「書かれない」ことを見て来た。

視覚・触覚・嗅覚・味覚が縦横無尽に「あなた」を喚起する。しかしもちろんそうした一連の内容が聴覚的に、いわば「歌」という形で「あなた」に語り掛けるのである。

存分に「愛」に溢れながら、それが未来志向的に語られない。例えば、一青窈の「ハナミズキ」や竹原ピストルの「例えばヒロ、お前がそうだったように」が挙げられるが、そうした作品も、全く違った想像力が「愛」を喚起する。

夏目漱石が「日本人は『愛している』などとは言わない、『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ」と言ったとか言わなかったとか。

日本人の心性としては、そうした「書かれない」「愛」が好みなのかもしれない。テイラー・スウィフトの「We Are Never Ever Getting Back Together」を聴きながら、そのように思う。

 

written by  虎太郎