『盲目的な恋と友情』(辻村深月を読む#1)

はじめに

 辻村深月という作家がいる。『冷たい校舎の時は止まる』でメフィスト賞を受賞、そのほか『ツナグ』が映画化されるなど社会的に評価の高い作品も生み出している作家である。

 今回扱うのは、『盲目的な恋と友情』(新潮社、2014年)という作品である。最近の辻村深月らしい、人間、特に女性をとことん描いた作品となっている。未読の方のために大まかなあらすじを記しておく。

 

 一瀬蘭花は美しい少女ながら、自分の美しさに無自覚であった。しかし大学のオーケストラに指揮者として来た茂実星近が彼女を変え、二人は恋に落ちていく。五年間に及んだ恋。それを蘭花の友人、傘沼瑠璃絵の視点から見たときには、別の真実が存在した。

 

 このようなあらすじを見ると、辻村深月をよく読む読者なら『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』などの女性を描いた作品を思い出すかもしれない。この作品も先述したとおり女性を描いた作品で、どちらかと言えば娯楽小説よりと言われても仕方がないかもしれない。しかし私はこの作品は娯楽小説であるとしても、さすがは辻村深月という、作品における人間関係、作品の構成について考えるに足りうる作品となっていると考える。未読の方はぜひとも一読していただきたい。

 

 今回の記事では、一瀬蘭花と茂実星近、傘沼瑠璃絵の関係性については他の方が論じておられるので、少し違う角度からこの作品について考えてみたい。

 

 

 

茂実星近との出会い

 この作品の舞台となっているのは大学の管弦楽団である。

東京のはずれにある私たちの私立大学は、音大ではなかった。

大学の管弦楽団はだから部活だ。だいたいが、小さい頃から習い事として管弦楽に携わっているが、一生の道ではなく趣味として割り切っている、そんな学生たちの集まりだった。中にはそれまで経験がなく、大学入学を機に楽器を始めたという人もたくさんいた。(略)この大学のオケは、学生の集まりとはいえ大きなホールで演奏会をやることで有名だったし、入学する前から入りたいと思っていた。

 このように大学の吹奏楽団は全国を目指したりするレベルのものではないが、決してお遊びではない学生の集まりである。そしてその部員数は多く100人近く、男女の比率は書かれていないが、同数とまではいかずとも、男女近しい数が所属していると考えられる。

 一般に吹奏楽というとどうしても女子が多いイメージを持たれることが多く、吹奏楽部を舞台にした作品では男子が少数であり、部内恋愛よりかは女子同士の人間関係が描かれることが多い。*1

 しかし、この作品では管弦楽団内での女性だけの人間関係だけではなく、恋愛関係までも描く。そしてその恋愛関係はかなりどろどろしている。

百人近い部員を擁するオケでは、部内恋愛も当然のように盛んだった。(略)”気をつけた方がいい”女癖の悪い男の先輩、自分の彼氏に色目を使ったと大騒ぎをする傾向にある女の先輩、たくさんの要注意人物の名前を聞いた。

 一瀬蘭花にとって、彼女の恋は吹奏楽団という狭い舞台で始まることになる。茂実星近との出会う前に彼女は別の男性と交際しているが、その交際はうまくいかず、周囲からも交際を反対されるような相手であった。しかし、蘭花は「高校までにキスもセックスも経験してきた子たち」に対して劣等感を感じていたために、その好きでもない男子とキスもセックスも済ませてしまう。

 そんな蘭花にとっての茂実星近とはあくまでも指揮者であり、自分とは縁遠い存在であるはずであった。

キレ長の目も、誰かが線を描いたような高く整った鼻梁も、長い手足も、細い指の骨張った節も、手を上げた瞬間に青白い頬がくっとへこんでうっすらできる影も、全部、それは誰かの好みであって、自分の趣味ではないと思っていた。あれは誰か他の、多くの女子が好きになるような人であって、自分が恋をする相手ではない―そう思っていた。

 蘭花にとっての初めての恋とは自身も周囲も納得のできない、物足りないものであった。茂実との恋が、初めての恋との対比により実質以上に魅力的なもの、離れ難いものになっていると言うことができるのではないか。その結果が、蘭花の「盲目的な恋」へとつながるのではないか。

茂実星近という装置

 今回は茂実星近という男を一種の装置、『盲目的な恋と友情』における舞台装置の一種として見て話を進めていく。この作品自体を舞台と見ることについては既に新潮文庫版の本書の解説で山本文雄が次のように述べている。

他の辻村作品に比べて簡潔に描かれている。刈り込まれ、研ぎ澄まされ、洗練されている。音楽、あるいは演劇のようだ、と私は思った。美しい劇場で催される、一夜に凝縮された芸術みたいだと。

 この作品を演劇だとみると、そのシナリオは主に茂実星近が先へと進めている。前節でも書いた、物語の始まりである蘭花との恋の始まりももちろん茂実がいないと成立しない。そしてその後の奈々子との愛人関係が蘭花に発覚し、物語が急速に展開していくのも茂実が中心となり、その両端に蘭花と奈々子が存在するという構成になっている。「恋」の最後の、茂実と蘭花がいよいよ終わりに近づくという場面もその原因を作っているのは茂実が徐々に堕ちていくことである。この物語の一番の肝である茂実の死の謎についても、当然茂実の行動が関わっている。

 ではその茂実という装置は常に同質な存在かと言われると明らかに異なる。まず冒頭の蘭花との出会いの場面ではオケの指揮者として、完璧な存在として、オケのメンバーからの憧れを集める存在として描かれている。

何故なら彼は、指揮者だったから。オスとしてセクシーだからというより、彼に選ばれるところを人に見せたい―彼女たちの計算高い欲望が湯気を立てているのが見えるようだった。

 このように指揮者としてメンバーから憧れられる茂実は、当初の完璧なイメージを蘭花とのセックスを通して崩壊させることになる。

私を組み伏せたままの状態で、目を細め、つらそうにすら見える表情で顔を歪めた。その目が、濡れたように気怠い。何度も、何度も、声を上げ、息を吐き出しながら、私の中を出入りする。人には声を出すなと言ったくせに、自分は声をあげる彼が、思い描いていたほど完璧でないのだと分かったら、かわいくてたまらなかった。

 この崩壊が蘭花を茂実から離れさせたのではなく、むしろ茂実に人間味を付与し、蘭花の中で茂実という人間を完璧で近寄りがたい存在から、不完全で蘭花自身と同じような存在へと変化させたのではないか。それにより蘭花は急速に茂実に対して親近感を抱くことになり、「かわいくてたまらなかった」とあるように庇護する対象のように感じられ、茂実に対する執着が生じたと考える。この後に蘭花が美波に対して、交際を打ち明けるところまでは、茂実は好人物として物語を展開させていくことになる。茂実と交際しているという事実が蘭花にとっても、周囲の人間にとっても肯定的に受け止められているのである。

 しかし、茂実の舞台装置としての役割は茂実の愛人と言うべき奈々子の登場により、一変する。周囲の人間が蘭花に対して茂実と別れるべきだと言うまでに茂実の存在は変化する。

しかし、茂実に対しては、かなり批判的だった。

「別れた方がいいよ」と。

 引用した美波の台詞にもある通り、奈々子との愛人関係、肉体関係が露見した茂実に対して周囲の人間は別れることをすすめる。しかし、蘭花は全く別れる気はない。むしろこれまで以上に茂実に入れ込んでいく。

 ここで周囲の人間と蘭花の間で茂実に対する評価のズレが生じている。蘭花は茂実のことを悪く言う周囲に対して怒り、そんな周囲を押しのけ、茂実という根源に対してより深く関係を望んでいく。

 その蘭花との関係も茂実のある行動によって崩壊を迎える。それは茂実が奈々子の指示で蘭花とのセックスを録画した映像をちらつかせ、蘭花を逃がさないようにしようとしたことである。このことにより、蘭花は茂実の持っている映像を奪おうとして茂実を殺してしまう。

 ここに至っても蘭花は茂実のことを嫌いにはなれないでいる。しかし蘭花が茂実のスマホを奪おうとしたことによって引き起こされたのが茂実の殺害であり、この作品のトリックに関わる部分となっている。つまり、この作品の見せ場を作っている装置は茂実であると言うことができるのである。

 ここでもう一度、舞台装置について考えてみたい。この作品について舞台装置を考えると宝塚歌劇団との関連性が浮かび上がってくる。一瀬蘭花の母親は元タカラジェンヌであり、この作品全体に宝塚歌劇の要素が散りばめられていると言うことができる。作品内では直接宝塚の話題が登場する場面の叙述すらある。

「瑠璃絵ちゃんは宝塚もよく観てたんだって。お姉さんが好きで」

「まあ。今も好き?花組だったら、チケットの予約は多少聞いてもらえると思うから、いつでも言ってくださいね。他の組でも演目によっては取れるものもあるし」

  さらに上の引用にも登場するように、宝塚歌劇団は花、月、雪、星、宙の五つの組に分かれており、そのイメージも部分的に作品内に投影されている。母が花組でもある一瀬蘭花花組のイメージを持っていることは明らかであり、また茂実星近が星組のイメージを持っていることも自明であろう。そしてこの作品の特徴の一つである「恋」と「友情」の二部構成となっていることも、宝塚歌劇団が芝居とショーの二部構成で公演を行うことを踏まえてのことなのではないか。

 このような宝塚歌劇団との関連性を考慮しつつ、茂実星近の舞台装置としての役割について再考すると、作品内にその特性を表している叙述を見ることができる。

「前にもこの人のものを観たことがあるけど、派手な舞台装置を使わないのに、場面ごと空気がまったく変わるの。でも、その分俳優が動きっぱなしになるから、なんという身体能力を要求するんだろうってため息が出る思い。私だったら、五分と舞台に立っていられない」

 茂実の舞台装置としての役割は必ずしも大きく世界を大きく変化させるものではない。しかし、引用した蘭花の台詞にもある通り、茂実によって場面ごとでの作品の雰囲気がメリハリを持って変化していることは確かである。そして蘭花自身も茂実との関わりの中で、徐々に茂実という舞台装置に耐えられなくなっていく。このような舞台を静かではあるが、はっきりと展開させる役割を茂実が担っているのではないだろうか。

傘沼瑠璃絵という異質

 前節で触れた茂実の装置としての役割に振り回される周囲の人間の中で唯一といえるほど、揺れることがないのが瑠璃絵である。彼女は吹奏楽団の第一バイオリンで蘭花の同期であり、後に蘭花と同居することになる。瑠璃絵は小さい頃にニキビが原因で男子にからかわれてから、自らの容姿についてコンプレックスを感じている。蘭花と出会った当初は友達として慕う感情だけであったが、次第に執着に変化していく。

三宅とひそひそ話をする美波にだって、別に、なりたくはない、かわいい系の顔なんだろうけど、なりたくはない。その時。今、廊下で待っている、美波と、蘭花のことを考えた。蘭花。あの子にだったら、なりたい。なっても、いい。

 周囲の他の人間が蘭花と茂実を中心とした世界に巻き込まれていくのに対して、瑠璃絵だけは彼女と蘭花だけの世界に生きている。もっと極端なことを言ってしまえば、瑠璃絵は瑠璃絵自身しか見ていないのである。それ故に蘭花と茂実に振り回されることはない。

 ここで山本文雄の解説の中の瑠璃絵に関する記述を抜き出してみる。

瑠璃絵は自身の本心から目を背けるために、自分に嘘をつく。男の子に相手にされなかった惨さをごまかすために、起こったことを自分の都合のいいように解釈する。美しい親友のどろどろな恋愛物語をただ聞いただけなのに、経験したような錯覚を持つ。彼女に自分の認識が歪んでいるという自覚はない。(略)けれど瑠璃絵の嘘は、鎧である。蘭花や美波のような女の子が決して受けない暴力から身を守るための、唯一の手段だったのだ。嘲笑されることなく育ったものには決して理解できない。

 このように論じている中で私が気になったのは、「美しい親友のどろどろな恋愛物語をただ聞いただけなのに、経験したような錯覚を持つ。彼女には自分の認識が歪んでいるという自覚はない」という部分である。

 もちろん瑠璃絵自身が正確に現実を受け入れているという場面もある。しかし、瑠璃絵の認識は「額縁」を通したものとなっているのではないか。「額縁」を通した認識というのは、より具体的に言うならば映画館のスクリーンに投影されたものとして現実を認識しているということである。「額縁」を通した認識を行うことによって現実世界においてもちろん自らに自己投影することもできるし、山本氏の論にあるように蘭花に自己投影することもできるのである。*2この点に関する言及をされていた方の記事を引用する。*3

主観とは非常に不思議なもので。

個人にとって”主観はいつだって真実の正しい物語”である、と思う。

三者の目から見てどんなに歪んだ物語でさえ。

主観は”真実の正しい物語”に変えてしまう。

そこに危うさがある。

本作は

恋に溺れた一瀬蘭花の真実の正しい物語であり

友情に盲執した傘沼瑠璃絵の真実の正しい物語でもある。

 この記事の後半で書かれている主観についての言及が瑠璃絵の認識を考える際に有用であると考える。この記事でも言及されている通り、主観はその人にとって真実なのである。そして瑠璃絵の主観は「額縁」の中の人物の間を動き回ることができる。(と言っても蘭花と瑠璃絵にしか投影することはないが)その結果、瑠璃絵自身と蘭花の二人分の主観を所持していることになり、他の登場人物のよりも現実認識が強固になる。茂実に振り回されることがなくなるのではないだろうか。また、それがある種異質とも言える作品内での存在感につながっているのではないだろうか。

おわりに

 今回辻村深月の『盲目的な恋と友情』について考察してきたが、この作品について最後に山本の解説から引用する。

瑠璃絵の賭けの動機を読者の想像に任せたのが、本作がそれまでの辻村さんとちょっと違うと私が思ったポイントのひとつだ。

 辻村深月の作品の中では比較的新しい作品である今回の作品だが、

ここまで簡潔に、しかし明々と女同士の関係性を描いたという意味では確かにこれまでの辻村作品とは違うのかもしれない。*4

 

written by 立月

 

*1:例を挙げるなら、「響け!ユーフォニアム」や「リズと青い鳥」、少し特殊ではありますが「ハルチカ」シリーズなどの作品が吹奏楽部内での女子同士の人間模様を描いています。 

響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~│宝島社  

『リズと青い鳥』公式サイト

アニメ『ハルチカ〜ハルタとチカは青春する〜』公式サイト

*2:このような例としては成田良悟氏の『デュラララ』シリーズの園原杏里などが挙げられます。

デュラララ!! - Wikipedia

*3:

anfield17.hatenablog.com

*4:これまでの辻村作品でいうと『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』(講談社、2012)『太陽の坐る場所』(文芸春秋、2011)『鍵のない夢を見る』(文芸春秋、2015)なども女性を描いた長編ですが、この作品に比べると、内容、文体共にかなり重みのある作品になっています。

【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑶


theyakutatas.hatenablog.com

ウルトラマン」のディスコミュニケーション

「変身する」ということ

考えてみれば、「変身する」とはどういうことなのだろう。

他のヒーローと圧倒的に違うのは、「ウルトラマン」では変身後、言語を介したコミュニケーションができなくなる点だろう。

この点についてアニメ「銀魂」第九三話「ヒーローだって悩んでる」を参照したい。

この話は、スペースウーマンというウルトラマンを模した女性キャラクターが、バレンタインのチョコレートを坂田銀時らの住むよろづ屋に落としてしまうところから始まる。

話を聞くに、彼女は妻のある男性を好きになってしまい、男性からも「別れるから」と言われずるずる関係を続けていたものの、ついに耐え切れず、たまたま会ったチェリー大佐という、あろうことか怪獣の親玉に恋してしまったという。

スペースウーマンは敵の親玉を引きずり出すため、敵の怪獣を倒してきた。彼女は宇宙の平和を守っているのではなく、自分の恋愛のために戦ってきた。その結果、バレンタインの日、晴れてチェリー大佐を引きずり出すことに成功し、チョコを渡し告白する算段だったのだ。

しかしそのとき、かつて愛していた男性が再び戻ってきて「妻と別れたからよりを戻したい」と言う。三分に一度母親に電話しなくてはならないようなスペースウーマンは、今後の安定のためにその男性と結ばれるか、目の前のチェリー大佐に告白するかで逡巡する。しかし彼女は、今の恋愛感情を優先させることになる。

そこで場面は一点。江戸の町がどこかの高校に変わり、キャラクターは制服を着て、みな同じサイズになっている。生徒たちはチョコを落としてしまったスペースウーマンに、自分たちのチョコを渡し、告白するよう応援する。

いざ告白したスペースウーマンだったが、それをチェリー大佐は「重たい」と返事をし、それに怒ったスペースウーマンはたちまちチェリー大佐を倒してしまう。

この話の面白さは、いわば「ウルトラマンが人間臭い」という点に尽きる。緊張の緩和が笑いを生むのだとすれば、「ウルトラマン」であるという緊張が「人間臭い」という点で緩和されているのだ。

しかし翻って「ウルトラマン」について言えば、「ウルトラマン」は「人間臭くない」のである。

ウルトラマン」の恋愛を想像することは難しく、ただひたすらに宇宙や世界の平和という職務に邁進しているように思ってしまう。いわば神性を「ウルトラマン」に仮託しているのである。

その点で考えると、人間が「ウルトラマン」に変身する、というのは神性を発現する、ということであると分かる。

「発現」という語を選んだのはなぜか。「ウルトラマン」が変身するシーンを思い浮かべて欲しい。右手を突き上げ、上昇してくる巨人。背景は抽象的で、都市の風景などではない。いわばあのシーンは、街の中にいる小さな人間が、何らかの方法で大きくなっている、というより、個人の内面の中で、押さえつけられた「ウルトラマン」が発現してきた、という方がしっくり来ないだろうか。

個人の中の神性が発現した結果が「ウルトラマン」である。それは恐山のイタコのようなものを想像してもいいのかもしれない。

アイデンティティはどこに

変身者は人間であるから、コミュニケーションを取ることができる。しかし「ウルトラマン」になるとディスコミュニケーションが成立する。いわばこれは人々と神のディスコミュニケーションと言い換えてもいい。旧約・新約聖書からコーランに至るまで、人々は神の声を聞くのではなく、それを媒介する預言者を求めてきた。

あくまで預言者だったはずのイエス・キリストは、その存在自体が神性を持つとされ、三位一体説の中で神格化が強化されてきた。ではウルトラマンの場合はどうか。

ウルトラマン」という名称を提起するのが、変身者の場合がある。第一話で登場した巨人を、変身者が「あれは『ウルトラマン』です」と名付けるのだ。これは「ウルトラマン」と内部の存在を媒介する、預言者的性格を保っていると言えるだろう。

そのとき、あくまでドライな無神論的に考えれば、預言者の発言とは、あくまで預言者のなかにある「神的な」部分が発現してなされたものであり、(時に無意識下で行われる)妄想である。

無神論的糾弾は、ときに「ウルトラマン」にも向けられる。彼らは往々にしてシリーズ中で「変身できない」という状況に陥る。いわば預言者の敗北である。

そんな「ウルトラマン」のアイデンティティとは、変身者が正真正銘「内部」の人間である場合、むしろその人間にこそ帰せられるべきものである。

「兵器」という側面としての特撮ヒーローについては後述するためここではあくまで軽く言及するのにとどめておくが、「ウルトラマン」とは人間に依存した「兵器」なのである。

ウルトラマンとは何者か」

大江健三郎の指摘

ここまで「ウルトラマン」について考えてきたところで、そろそろまとめに入らなくてはならない。そこで、大江健三郎が「ウルトラマン」について批判的に論じた文章を、改めて批判的に検討することで、そのまとめに替えたい。

まず、その論考とは次のように始まる。ここからはどれも長くなるが、引用していく。

 子供のための文学、映画、劇が、大人によってどのように造られるか? そこには単純な構造の、しかし複雑な課題がこめられている。それは子供の眼、意識が受けとるべきものを、大人の眼、意識によって造るものであるからだ。子供と大人のあいだの、たがいに排除しあう境界線がはっきりしないような、「子供大人」あるいは「大人子供」の幻的人格が造ったものには、どこかいかがわしいところがある。子供の想像力を解放する作品は、自立している大人の想像力によって造りだされねばならない。それは単純な原則である。しかし、大人になることは、子供であることの否定に立っているのであるから、また大人が子供に仮装してみることではなにも解決しないのであるから、ことは複雑になる。子供の想像力は、大人の想像力とつながった同一地平にあるものなのだろうか?

大江健三郎「破壊者ウルトラマン」(『状況へ』所収、岩波書店、1974年))

この問いかけから始まる文章は、基本的に、「ウルトラマン」が喜んで子供たちに受容される現状への危機感を語る。

 いうまでもなく怪獣映画は、怪獣群のみによってなりたっているのではない。〔中略〕怪獣たちが、おそるべきエネルギー量をたくわえ、およそ動物的限界を超えた、全地球上の鯨の力の総和にもあたるような体力をそなてすらいるにもかかわらず、ほとんどつねに実在の動物(あるいは想像された前世紀の動物)を思わせるところを〔中略〕残しているのは、誰もが見知っていることであろう。ところが、かれらと闘うウルトラマンミラーマンのたぐいは、たとえ人間のかたちをしていても、むしろ怪獣の逆に、まったく哺乳類くささのないのが通例である。かれらは科学の匂いをたてている。

大江健三郎、前掲書)

大江健三郎における「鯨」というモチーフがいかに大切であるか、という点については、並み居る文学研究者に明らかにしていただくとして、注目したいのは、彼が怪獣にそれに勝るとも劣らない体力を見ている点である。そして、その指摘通り、たしかに怪獣は、あくまで「地球的」なキメラとしての側面すら垣間見える。

一方「ウルトラマン」は「哺乳類くさ」くない。銀と赤、時々青で塗られたその巨大な体躯は、科学の力=人工太陽に被爆したという理由によって得られたものであった。そんな「ウルトラマン」を大江健三郎は「科学の精」と呼ぶ。

「科学の精」とは、先ほどまで僕が「ウルトラマン」を神性をまとった存在としていたことと通底している。大江はその超越性を「科学」に見ているのに対して、僕は「ウルトラマン」が「外部」の存在であり、変身者の内部から「発現」する存在であるというところに見た。

大江はこうも語る。

 そのように都市破壊が繰りかえされる光景を見ながら、ついに僕のオブセッションになりおおせたのは、この大規模な破壊のあと、都市を再建することがいかに困難で厄介な大仕事であろうか、というもの思いなのであった。広島においても長崎においても、原爆後の人間の営為に関して、もっとも感銘深いのは、そこで人びとがいかにかれ自身を再建し、都市を再建して行ったかの現実的細部にほかならない。おなじく文字どおりの瓦礫の荒野から、米軍占領のもとに日本政府から見棄てられて、なお都市を村を、学校を墓を、すべての人間的環境を回復して行った沖縄の人びとの営為についてもおなじである。

大江健三郎、前掲書)

そして大江は、怪獣たちが破壊した街が、次には元通りになっているウルトラマンの世界を批判する。

平成になり、『コスモス』などでは、正しくその名がコスモス(秩序)であるように、廃墟を元通りにするシーンが描かれた。この「再建」があまりにスムースすぎるという批判は、「ウルトラマン」自身も受け止めていたのである。

再び元通りにすること。その困難さを受け止めて物語を終える映画『シン・ゴジラ』についてはあとで言及するとして、それよりも先に、「次の週には元通り」になってしまう物語の不可解さを、むしろ物語の構造のなかに取り込んだのがアニメ「SSSS. GRIDMAN」であった。次はこのアニメについてじっくりと見ていきたい。

 

(「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か」終わり)

 

written by 虎太郎

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【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑵


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 軍隊ではない

「境界」の組織

多くの「仮面ライダー」作品と「ウルトラマン」作品の最大の違いは、この「境界」としての助力者がいかに組織化されているか、という点に尽きる。

仮面ライダー」シリーズで助力者とは、ヒロインをはじめに数名を指すことが多い一方、「ウルトラマン」シリーズではかねてから科学特捜隊に連なる、国際的な研究・軍事機関が助力者組織として活躍してきた。

なぜ「組織」でなければならないのか、ということを考えるために、まず「助力者組織」が多くの場合「国際機関」であるというところに注目したい。

先述の通り「ウルトラマン」シリーズの歴史とは血塗られているが、だからこそ「ウルトラマン」は戦後民主主義的なイデオロギーを反映しなくてはならない。つまりそうした「助力者組織」が「国際機関」でなく、国家権力=暴力装置だとしたら、それは暴走の可能性をはらむ。つまり、怪獣を倒す行為が正しいという担保が得られない。

つまり「ウルトラマン」シリーズにおける「正義」とは、「国際機関」という観点によって担保されている。

この点について、斎藤美奈子の鋭い指摘があるので引用しておきたい。

 男の子の国*1の主役は「国際的」な軍事組織だ。〔中略〕

 注意すべきはこのチームの形態である。軍隊であるから当然だが、男の子の国のチームは、およそ民主的とはいえないピラミッド型のタテ型組織だ。主役である五~六人のチームは、人数から考えて、軍のいちばん小さな単位=分隊に該当しよう。〔中略〕われらがチームは、巨大な官僚機構の末端組織にすぎないのだ。

 人類を危機から救うという使命を負っているのだから当たり前だと思うかもしれないが、ヒーローのチームがヒモつき=親方日の丸(親方国連旗か)でなければならない理由はない。〔中略〕公的な組織だけあって、最先端の設備を備えた立派な作戦本部を有しているのは強みだが、われらが男の子の国のチームが、「寄らば大樹の陰」的な体質であることは注目に値しよう。

斎藤美奈子『紅一点論』ビレッジセンター出版局、一九九八年(ここではちくま文庫、二〇〇一年を参照))

しかしなぜ「国際的」な軍事組織である必要があるのか、と言えば、「国際的」ということによって彼らの判断がオーソライズされる、ということこそが重要なのではないか。実は同じ著作中で、斎藤美奈子は次のようにも書いている。

 ところで、敵とはなんだろうか。「侵略者」とはいうものの、視覚的にみれば、敵とは自分とは異なる外観、自分の尺度にあてはまらない姿をしているもののこと、である。怪獣・怪人・怪ロボット、いずれも動植物や機械が進化しそこねているような異形の者である。男の子の国の戦いとは異質なものを排除する戦争のことであり、男の子の国がいう正義とは、「地球ナショナリズム」ないし「人類エゴイズム」の別名だといえよう。

斎藤美奈子、前掲書)

「侵略者」を「敵」たらしめるのは、一種「地球ナショナリズム」「人類エゴイズム」とでも呼ばれるべき「正義」に合致するか否か、である。しかしその「正義」が「自分とは異なる外観、自分の尺度にあてはまらない姿」だとすれば、「ウルトラマン」さえ「敵」だと言うことになる。そこで「ウルトラマン」は「正義の味方」であり、「地球」に襲来する怪獣は「敵」であると判断するのは、「国際的」であることによってオーソライズされた「助力者組織」である。つまりそこにこそ「国際的」である必要性、言い換えれば「全地球的」=「全人類的」である必要性があるのだろう。

なぜ「国際的」であればオーソライズされるのか。もちろんそこには、日本が国際連盟を脱退し、国際協調主義に対する形で戦争に突入していったという歴史へのアンチテーゼとしての意味合いもあるのだろう。それに加えて、次の福嶋亮大の記述を参照したい。

 現に『ウルトラマン』では、化学に対する強い信頼が、曇りのない明晰な世界を作り出している。怪獣退治と超兵器の開発に勤しむ科学特捜隊は、パリに本部があり、しばしば国外からも客が訪れる国際的組織だとされる。このきわめて楽天的なインターナショナリズムは、〔中略:影響を与えたとされる作品〕から引き継がれたものだろう。これらの映画は宇宙という「敵」を仮構し、科学を人類の共通言語とすることによって、日本を含む地球全体を「友」としてまとめた。ここでは日本はもはや屈辱的な敗戦国ではなく、科学によって統一された「世界」という高次の共同体の一員にまで引き上げられている。

福嶋亮大ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』PLANETES、2018年)

この「世界」とは先述した「内部」と同じだと考えて構わない。つまり、科学特捜隊に連なる「助力者組織」とは、「内部」と「外部」の「境界」に存在し、「外部」の善悪を判断する役割を担うと同時に、「内部」を「友」としてまとめあげる国際協調の役割すら兼ねていたという指摘である。

 そうした「国際的助力者組織」が端的に現れたものとして、先ほどから数回例に挙げている『コスモス』『メビウス』を見ていきたい。

「助力者組織」と善悪の地平

「良い怪獣」を判断する「助力者組織」

『コスモス』の「助力者組織」とは先に述べた通りTEAM EYESであるが、それはSRCと呼ばれる国際機関の特殊部隊である。SRCとはScientific Research Circleの略。しかしこれと時に敵対する組織として統合防衛軍が置かれている。

そもそも『コスモス』における怪獣とはSRCなどによる保護の対象であったはずが、カオスヘッダーと名づけられた敵の影響で凶暴化したものである。端的に言えば、怪獣たちの秩序ある生活が「カオス(混沌)」に陥ってしまう。その後、そのコスモス(秩序)を取り戻すために戦うヒーローこそが、ウルトラマンコスモスなのだ。

それが可能かどうか、つまり怪獣の本来のコスモス(秩序)の中に生きる姿に期待をかけるSRCと、早々に共存の道をあきらめる日本の統合防衛軍という対決構造が見て取れる。

怪獣とは本来凶暴ではない、凶暴ではない怪獣もいる、という想像力は、「ウルトラマン」シリーズにそもそもあるものだった。

例えば従来の「ウルトラマン」シリーズに対して総括的に制作された『メビウス』では、『セブン』に登場したカプセル怪獣が再登場した。これはウルトランメビウスを援護するために、CREW GUYSの隊員たちが使う怪獣である。

この怪獣を悪と断じられない、ウルトラマンの性質について、宮台真司の指摘がある。

〔前略〕『ウルトラマン』ではガバドンウルトラマンにやっつけられそうなのを見た子どもたちが「ガバドンは何も悪いことしてない!」と叫びます。ここでは共通して善と悪の対立という世界観から一度退却する構えが示されます。僕はここに古来の伝統を見ます。

 ジェノサイド(全殺戮)を嫌い、シンクレティズム(習合)を志向する構えです。民俗学者歴史学者の一部は、その由来を、縄文文化における強い祟り信仰にまで遡ります。こうした歴史学的仮説の是非はともかく、善悪二元論から距離をとって共存可能性を志向する「オフビート感覚」が、日本の映画にも長い間とても強く刻印されてきたと感じます。

宮台真司「かわいいの本質 成熟しないまま性に乗り出すことの肯定」(東浩紀編『日本的想像力の未来 クールジャパノロジーの可能性』所収、NHKブックス、2010年8月))

ウルトラマン」シリーズの本質とは、「外部」からやってくる侵入者をとりあえず殺す「ジェノサイド」ではなく、さしあたり共存を模索するという「シンクレティズム」にこそある。そのことは先程から取り上げている『コスモス』が良い例だし、他の作品においても多くの実例が見られる。

さて、「外部」(怪獣、ウルトラマン)─「境界」(助力者組織)─「内部」(市民)の構造が共存を志向すると考えたとき、振り返るべき議論がある。河合隼雄の「中空構造」をめぐるものである。

〔前略〕日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存し得る可能性をもつのである。つまり、矛盾し対立するもののいずれかが、中心部を占めるときは、確かにその片方は場所を失い抹殺されることになろう。しかし、あくまで中心を空に保つとき、両者は適当な位置においてバランスを得て共存することになるのである。

河合隼雄「中空構造日本の危機」(『中空構造日本の深層』中公叢書、1983年。初出は『中央公論』1981年7月))

同書において河合隼雄は、日本神話において三兄弟などの神々の真ん中に当たる神の存在感が薄いことを取り上げ、これこそが日本的な「中空構造」であるとしている。そしてそれこそが、相対する両者をバランシングする役割を担っているというのである。

つまり、本来「内部」における市民と、「外部」における怪獣やウルトラマンは矛盾し、対立したとしてもおかしくないのだが、その間に「境界」上の「助力者組織」が存在するからこそ、そして彼らがあまり活躍せず存在感を発揮しないからこそ、その「共存」が模索されるのである。

では「助力者組織」などは置かないか、徹底して存在感を消し去ってはどうなるのか。河合隼雄は次のようにも指摘している。

〔前略〕中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば、無であって有である常体であるときは、それが有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。後者のような状態に気づくと、誰しも強力な中心を望むのは、むしろ当然のことである。あるいは、中空的な状態それ自身が、何ものかによる中心への侵入を受けやすい構造であると言ってもよい。ここに中空構造を維持することの難しさがある。

河合隼雄、前掲書)

中空としての「助力者組織」

こうした河合隼雄の指摘が「ウルトラマン」シリーズにおける「助力者組織」について示すのは、第一に、「助力者組織」が無くては「内部」(市民)と「外部」(怪獣、ウルトラマン)の対立が本格化し、「ウルトラマン」シリーズが「ジェノサイド」の物語になってしまう、ということである。

第二に、「助力者組織」を強力にしたい、あるいはそこに入り込みたいという周囲の欲求が存在している、ということである。

この点について、例えば『コスモス』を見れば、SRCのまさに中空的な活動に対して苛立ちを覚えた統合防衛軍は怪獣に対して実力行使をしようと試みる。また怪獣が「助力者組織」に入り込み、懐柔するといったような例は、「ウルトラマン」シリーズ全体において、枚挙に暇がない。

河合隼雄は「中空構造を維持することの難しさ」を指摘しているが、では、「ウルトラマン」シリーズにおいて、その「中空構造」を維持せしめているのは、どういった要素なのだろう。

 

(「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑶」に続く)

 

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written by 虎太郎

*1:斎藤美奈子は同書中で、「子ども向けの特撮&アニメの世界」を「アニメの国」としたうえで、その中で男の子向けの物語の世界を「男の子の国」(代表例は「変身ヒーローもの」)、女の子向けの物語の世界を「女の子の国」(代表例は「魔法少女もの」)としている。

【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑴

 はじめに

誰が特撮のアイデンティティを受け継いできたのか

私たちが「特撮ヒーローは日本の文化だ」というようなことを考えるとき、果たしてその「特撮」というアイデンティティはどのように育まれてきたのだろうか。

今後、そのように社会的文脈に「特撮」を位置づける試みを行う予定はないから、ここで触れておきたい。

多くの人が「特撮ヒーロー」の始まりを1966年放送の『ウルトラマン』に求める。しかしその際、その前史として同年上半期には『ウルトラQ』が放送されていたこと、また監督を務めた円谷英二は戦時中においても戦争映画の特撮を担当していたことを忘れてはならない。

ヒーローとしての「特撮」は『ウルトラマン』で初めて誕生したのだと言うことに抗うつもりはないが、実はその遺伝子は、それよりずっと前からあったし、その遺伝子はある意味で血塗られているということである。

私たちが一般に「ウルトラマン」シリーズと呼ぶようなものは、1967年4月に放送を終了した『ウルトラマン』の半年後、10月から放送が開始された『ウルトラセブン』へと続く。『セブン』も一年間放送した後、2年半の空白期間を経て『帰ってきたウルトラマン』へと続く。

そこから『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』と続いたが、『レオ』が1975年3月で放送を終了すると、次の作品は1979年放送開始の『ザ☆ウルトラマン』を待たなくてはならない。翌年には『ウルトラマン80』が放送を開始するが、1981年3月に『80』が放送を終了すると、テレビシリーズが再び放送されるのは、元号が昭和から平成に変わった1996年『ウルトラマンティガ』を待たなくてはならない。

この間、日本国外で作品が制作されたり、映画が制作されたりしたものの、テレビでの放送はなかった。

それまで「ウルトラマン」たちは明確に作品世界を共有することはなくとも、概ねM78星雲など遠い銀河出身という設定であった。もはや呪縛と化しつつあったその「宇宙からの飛来者」的設定を克服した『ウルトラマンティガ』以後、『ウルトラマンダイナ』『ウルトラマンガイア』と続く。『ガイア』が1999年8月に放送終了した後、21世紀を迎えた2001年7月から『ウルトラマンコスモス』が放送開始。1年の放送予定が1年3ヶ月に延長される好評ぶりで、『ウルトラマンネクサス』に続く。こちらは不評がたたって1年を待たず放送を終了し、『ウルトラマンマックス』が放送開始。こちらも1年間の放送には至らず、『ウルトラマンメビウス』が2007年に放送を終了すると、再び「ウルトラマン」は空白期間を迎える。

次に2012年『ウルトラゼロファイト』が放送を開始するのだが、以後、『ウルトラマンギンガ』『ウルトラマンオーブ』『ウルトラマンジード』『ウルトラマンR/B』などへと展開していく。

これが「ウルトラマン」シリーズを語る上での概要だ。

日本の特撮を語る上でもちろんこれら「ウルトラマン」シリーズは重要だが、それと並んで語られるのが「仮面ライダー」シリーズである。

1971年に放送を開始した『仮面ライダー』が人気を博し、およそ2年間放送を続けると、以後『仮面ライダーV3』『仮面ライダーX』『仮面ライダーアマゾン』『仮面ライダーストロンガー』と続く。

『ストロンガー』が1975年一杯で放送を終了すると、1979年に後に「スカイライダー」と呼称される『仮面ライダー』が放送を開始する。翌年には『仮面ライダースーパー1』が放送されるが、その後しばらくシリーズは中断。1987年の『仮面ライダーBLACK』放送開始を待たなくてはならない。その後『仮面ライダーBLACK RX』が放送されるものの、1989年に放送終了後、『仮面ライダークウガ』が2000年に放送を開始するまで、およそ10年の空白期間があった。

クウガ』以後、『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー龍騎』『仮面ライダー555』『仮面ライダー剣』『仮面ライダー響鬼』『仮面ライダーカブト』『仮面ライダー電王』『仮面ライダーキバ』『仮面ライダーディケイド』『仮面ライダーW』『仮面ライダーオーズ/OOO』『仮面ライダーフォーゼ』『仮面ライダーウィザード』『仮面ライダー鎧武/ガイム』『仮面ライダードライブ』『仮面ライダーゴースト』『仮面ライダーエグゼイド』『仮面ライダービルド』『仮面ライダージオウ』と途切れなく放送が続いている。

ここで注目したいのは、昭和の終わりから平成初期にかけて、「ウルトラマン」シリーズも「仮面ライダー」シリーズも大きな空白期間を抱えているということである。ではその際、日本から「特撮ヒーローがテレビで活躍する」という文化は廃れてしまっていたのか、というとそうではない。

仮面ライダー」シリーズの兄弟作として1975年に放送を開始した『秘密戦隊ゴレンジャー』以後、現在までに42作品が放送されている「スーパー戦隊」シリーズは、昭和終わりから平成初期にかけても放送を続け、日本の特撮文化に貢献したといえよう。そのあまりの作品数の多さにここでは紹介はしないが、一般に「仮面ライダー」と比較しても幼児向けとされる「スーパー戦隊」シリーズの重要性については、ここで改めて指摘しておきたい。

 ヒーローとはどのような存在なのか

 先ほど、「ウルトラマン」シリーズが、血塗られた遺伝子を受け継いだ作品だと書いた。そもそもそのように始まった日本のヒーローであるから、いわゆるアメコミ作品のような理解は難しい。*1

ウルトラマン」であれば、そもそもなぜ宇宙人が地球を救いにくるのか、本当にいつも助けてくれるのか、変身する前の人間と変身した後の宇宙人、どちらの自我が優先しているのか、などの問題が付きまとう(いずれも後述する)。

仮面ライダー」であれば、その主人公が帯びる陰の側面や、正義とも悪とも付かない移ろいやすさ、言い換えれば「危うさ」が目に付くところである(今後考えていきたい)。

では「スーパー戦隊」は理解が容易かと言えば、複数人がチームとして戦うことを余儀なくされるが故の難しさが付きまとっている(できれば「仮面ライダー」シリーズを考える上で触れたい)。

こうした一枚岩ではいかないヒーローの「存在」について観察し、思考するのが今後の目標である。また、それが他作品においてどのように継承されているか、アニメ「SSSS.GRIDMAN」や映画『シン・ゴジラ』についても概観していきたい。

さしあたり1回目の今回は、特撮ヒーローの起源でもある「ウルトラマン」シリーズについて考えていきたい。

「宇宙人」ウルトラマン

なぜウルトラマンは地球にやってくるのか

以下、ウルトラマンと呼称するのは、M78星雲からやって来た巨人に限る。細かく言えば『メビウス』より後のウルトラマンについては考えないし、『ティガ』『ダイナ』『ガイア』も含まない。だからといって以下に展開する議論が、そういった作品にも当てはまらないことを示すものではない。

さて、ウルトラマンとは何者なのだろうか。当然その答えは「宇宙人」ということになる。

なぜ彼らがあのような出で立ちなのか、という点については綿密な設定がある。元々人間と同じような姿をしていたものの、既存の太陽に代わって人工太陽を作った際、それに「被爆」すると巨人になった、というものである。

ここで得た力の強大さ故か、ウルトラマンたちはその力を世界の平和を守るために活かすことになる。そのために彼らは「宇宙警備隊」という組織を結成することになる。

初代の『ウルトラマン』では、このウルトラマンが怪獣を追っている最中、地球の科学特捜隊隊員であるハヤタと衝突。ハヤタを死なせてしまったと感じたウルトラマン一心同体となって戦うことになる。

このような成り行き上、地球に留まる場合もあれば『コスモス』『メビウス』のように意思をもって地球にやってきている場合もある。しかしいずれにせよ共通しているのは、ウルトラマンたちが地球を守ってくれるのは、圧倒的に彼らの善意に支えられる部分が大きいという点だ。

この問題に大澤真幸は、佐藤健志の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』にある、この関係が日米安保条約の比喩であるとの見方に賛意を示した上で次のように書く。

 考えてみると、どうしてウルトラマンは、バルタン星人やベムラーではなく、日本人、というか地球人を助けてくれるのでしょう。

〔中略〕ウルトラマンは地球や、日本人の理念に賛成したわけではありません。たまたま最初の交通事故が地球人だったために、助けている。では別の人にぶつかっていたら、どうなっていたのでしょうか。最初にバルタン星人にぶつかっていたら、違う話になっていたことでしょう。つまり必然性の無い構造になっているのです。

大澤真幸サブカルの想像力は資本主義を超えるか』角川書店、2018年)

これは初代ウルトラマンについての言及であり、全てのウルトラマンに共通するわけではない。例えば『コスモス』で、ウルトラマンコスモスは春野ムサシとの約束を守る形で活躍するのだし、『メビウス』ではウルトラマンメビウスは宇宙警備隊の一員としての役割を全うするルーキーである。

また、このウルトラマンが地球を救うという偶然性日米安保と重ね合わせる見方は、さしあたり留保しておきたい(そして今後も結論を出すつもりはない)。なぜならここでの目的は作品それ自体の構造を取り出すことであり、社会批評の道具としてサブカルを用いることではないからだ。そして『ウルトラマン』の脚本を手掛けた金城哲夫沖縄県出身であることは興味深い事実だし、それが作品の傾向に影響を与えたことは疑いようがないが、作者の意思を読みとる読解は、必ずしも絶対ではないからでもある。

ここで提起しておきたいのは、「外部」というタームである。なぜなら「ウルトラマン」につきまとう偶然性とは、「ウルトラマンが外部の存在である」という一点に起因する。ここからは「外部」の存在が「なぜ」地球にやって来るのか、ではなく、「外部」の存在が地球を守る、という構造の意味を読み解いていきたい。

敵か味方か分からない

ウルトラマンが「外部」の存在である以上、対置される「内部」の市民=私たちにとって、彼らが敵であるか味方であるかは分からない。

もちろん視聴者は『ウルトラ(マン)○○』というタイトルの作品を見ているのだから、彼らが正義のヒーローであると分かる。しかし当然、実際に禍々しい様相の怪物が街を襲い、全身赤と銀の巨人(もちろん多くの例外がある)がそれと戦い始めては、どちらが悪であり、どちらが正義であるかという価値判断は難しい。

実際、『メビウス』においては、宇宙警備隊のルーキーとして地球にやって来たウルトラマンメビウスは最初の戦いで街を滅茶苦茶に壊してしまい、CREW GUYS(クルー・ガイズ)の隊員アイハラ・リュウに非難されることから始まる。その後物語はウルトラマンメビウスが成長していく、という方向で展開していく。

ここで注目したいのは、CREW GUYSである。このように他作品においても、「ウルトラマン」に先駆けて怪獣と戦う存在として科学特捜隊の系譜に置かれる「助力者組織」が配置される。

物語の構造上、こうした「助力者組織」が怪獣に勝利することはめったになく、これを大澤真幸在日米軍に対するところの自衛隊として解説している。

先ほどから用いた「外部」と「内部」の概念の中で、この「助力者組織」はどこに位置づけられるだろうか。

「助力者組織」はどこに

「外部」「内部」という概念を、空間的に宇宙と地球という関係に当てはめてみよう。

ただしこれはかなり簡略化した構図であることにも留意したい。というのも、初代『ウルトラマン』を鑑みれば、その初期怪獣の多くが、宇宙から来たのではなく、地球に眠っていた怪獣を起こしてしまった、という展開を持つからだ。であるからより厳密に言えば、「市民が暮らす社会」と「市民が認知しない宇宙及び神秘的領域」といったことになる。

あえて簡略にこれを宇宙と地球と呼び、宇宙と地球について考えたとき、「助力者組織」はそのどちらに当てはまるのか。

「助力者組織」の特徴は、怪獣たちとの距離感の近さにある。例えば『コスモス』を見てみれば、その「助力者組織」であるTEAM EYES(チーム・アイズ)は、怪獣を駆逐するのではなく、むしろ怪獣を保護することを目的とする(見る=看る=保護する=EYES)。つまり「内部」市民の誰よりも怪獣に近い距離にいる。

一方、その隊員があくまで怪獣保護を絶対としない点、つまりある程度試みてなお保護が難しければ容赦なく怪獣を駆除する点に着目すれば、「内部」から「外部」的異物を排除しようという態度であり、極めて「内部」市民的である。

なお、『コスモス』においてウルトラマンコスモスは「外部」からやってきた者として、同じく「外部」からやってきた怪獣を保護するため奮闘する。

「外部」(怪獣)の存在を「内部」に溶け込ませようという「外部」(ウルトラマンコスモス)の試みを、俯瞰したとき、「助力者組織」はそのどちらともつかない、いわば「境界」上の存在と言うことができるだろう。

今後特撮作品におけるヒーローの存在の問題を、この「外部」「内部」そしてその「境界」という観点から見ていきたい。

 

(「【特撮の存在論①】ウルトラマンとは何者か⑵」に続く)

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written by 虎太郎

*1:管見では、アメコミ(ここでは専らマーベル・コミックスを想定している)は、何らかの事情で特殊能力を手に入れた人々が、共同体内部において地位を獲得し、「英雄」と認められるまでの物語を描くことが多い。その点で日本の特撮ヒーローは、必ずしも共同体内部での承認を求めず、孤独に戦いを重ねる「外部」(後述)ないし、「辺境」の存在であり、大きく異なっている。

【音楽】米津玄師「Lemon」


米津玄師 MV「Lemon」

米津玄師「Lemon」における「言わない」描写についての一考察

はじめに

米津玄師「Lemon」は野木亜紀子脚本のドラマ「アンナチュラル」主題歌としても採用され、多くのヒットチャートで1位を獲得し、カラオケでも数え知れないほど歌われた。

そんなこの曲について、このブログの中では次のように言及された。

虚無の中で、何かわからない光のようなものを待ちながら生きる、ということ。これこそが、現代的な感覚で捉えた生の本質なのではないだろうか(余談だが、日本でヒットしている米津玄師『Lemon』歌詞の一番最後の箇所でも救いとしての「光」が登場するし、映画『君の名は。』においても登場するモチーフである。現代における「光」のイメージにはさらなる検討の余地があるだろうと思われる。)

【音楽】ザ・スミス ”There Is a Light That Never Goes Out" - 掌のライナーノーツ

この部分を、いわばそのバトンを受け取ってリレーするためにも、意味深な世界観について、数多くの考察が試みられてきたところではあるが、ここではあえて歌詞そのものに則したかたちで、おそらくそれを逸脱しないであろう範囲内で分析していきたい。

逆説的表現

「Lemon」において「言わない」ことにより何かをほのめかすような描写が数多く見られるが、中でも多いのが「逆説的には」表現されている、という文章である。例えば冒頭は次のように始まる。

夢ならばどれほどよかったでしょう

「夢ならばどれほどよかったでしょう」という文章は、むしろ逆説的に「それは夢ではない」ということを端的に言い表している。

きっともうこれ以上 傷つくことなど

ありはしないとわかっている

この歌詞の部分は、逆説的に言えば、「もうこれ以上はありえないというほどに傷ついている」ということを表しているということになる。では何に傷ついているのか、というと次の部分が手掛かりになるだろう。

戻らない幸せがあることを

最後にあなたが教えてくれた

要するに「傷つ」けられる以前は「幸せ」だったということなのだが、それは二度と戻ってこない。それを「最後に」「あなた」が教えてくれたのだが、これは「あなた」が今は亡くなっているのだろう、という比較的順当な解釈によって理解しやすくなる。

つまり、「あなた」と過ごしていた日々は「幸せ」だったものの、それを「最後に」「これ以上傷つくことなど」ないというほどに「傷つ」けられる。その様は「夢ならばどれほどよかった」だろうかと祈るしかないほどである。

「あなた」はどのような人物か

ではその「あなた」とはどのような人物だったのか、について考えてみると、次のようにある。

暗闇であなたの背をなぞった

その輪郭を鮮明に覚えている

受け止めきれないものと出会うたび

溢れてやまないのは涙だけ

 

何をしていたの 何を見ていたの

わたしの知らない横顔で

「暗闇」の中、おそらくこの詞(=詩)を書く人物は、「あなた」の体を指かなにかで這わせており、それによって触覚的に「輪郭」を覚えていたことになる。

その「あなた」と書き手の間の関係性を示唆するのが「横顔」である。つまり書き手は「あなた」を思い出すときに、正面ではなく、むしろその「横顔」を思い出す。二人の関係性がただならぬ親密なものであったのだろう、ということが示唆される。

例えば何か別の表現で親密さを表現したものとして、俵万智の和歌がある。

思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ

この情景を思い浮かべてみると(おそらく)女性と、その目の前にはへこんだ麦わら帽子があるだけだ。しかしその情景以上に、おそらくその麦わら帽子というのは別の(おそらく)男性の持ち物であり、二人の思い出が喚起される。

このように「思い出の喚起」というのは「Lemon」でも重要で、基本的にこの歌は、「思い出」を語る歌でしかない。

おそらく親密であったろう「あなた」の「横顔」を想起するが、ただしその「横顔」というのは「知らない横顔」である。つまり、何もかも知っているほど親密ではなく、「知らない」側面があったのだろうと分かる。

例えば次の箇所。

言えずに隠してた昏い過去も

あなたがいなきゃ永遠に昏いまま

書き手には何らかの「昏い過去」がある。それを打開する最後の方法は、それを「あなた」に言うことなのだろう。

しかし「あなた」がいなくなってしまったことで、その過去は「永遠に昏いまま」なのである。

あんなに側にいたのに

まるで嘘みたい

とても忘れられない

それだけが確か

「あんなに側にいた」にも関わらず、「昏い過去」を打ち明けられなかった。もしかすると親しすぎるがゆえに、かえって打ち明けられなかった秘密なのかもしれない。だからこそ、「わたし」は「あなた」に対して、この曲を歌いかけることしかできない。その中で「生き返ってほしい」とも「もう一度会いたい」とも歌えない。ただその後悔を深々と歌い上げることしかできないのかもしれない。

感覚の飛躍

先ほど申し述べたように、書き手は「あなた」を「暗闇で」「背をなぞった」触覚的にその記憶を喚起する。

しかしそれより前に次のような記述がある。

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ

そのすべてを愛してた あなたとともに

胸に残り離れない 苦いレモンの匂い

雨が降り止むまでは帰れない

今でもあなたはわたしの光

「胸に残り離れない 苦いレモンの匂い」によって、「あなた」の記憶が「レモン」と共に保存されていることが分かる。ここで「レモン」の味覚的記憶としての「苦い」という感覚と、「匂い」によって嗅覚的記憶が喚起されていることが分かる。

ではその「あなた」と「レモン」はどんな関係なのだろうか。

切り分けた果実の片方の様に

今でもあなたはわたしの光

「切り分けた果実」というのは「切り分けた」「レモン」と考えて問題ないだろう。そしてそれが「あなた」を喚起し、「わたしの光」であると言う。

飛浩隆が言うように、「切り分けた」「レモン」の切断面が「光」のようである、という解釈で問題ないだろう。「レモン」と「あなた」が視覚的に「光」を媒介にして接続しているのである。

雨とは何か

最後の部分には次のような箇所がある。

雨が降り止むまでは帰れない

「雨」とは一体何を意味するのか。とりあえず「帰る」という動詞を媒介に考えてみると、冒頭には次のような箇所がある。

忘れた物を取りに帰るように

古びた思い出の埃を払う

「わたし」(書き手)と「あなた」の思い出が、既に時間を経てしまっていることが「古びた思い出の埃」によって示されていた。しかしそれを比喩的に説明する「忘れた物を取りに帰るように」というのが難しい。なぜなら最後には「帰れない」とあって、それを尊重すると「忘れた物を取りに帰る」ことなどできない、ということになってしまう。

つまり「古びた思い出の埃を払う」ことはできるのだが、「忘れた物を取りに帰る」ことはできない。なぜなら「雨が降り止」まないからである。

では「雨」とは何なのかに戻りたい。

どこかであなたが今 わたしと同じ様な

涙にくれ 淋しさの中にいるなら

わたしのことなどどうか 忘れてください

これは逆説的に「わたし」が「涙にくれ 淋しさの中にい」て、「あなた」のことを「忘れ」られない、ということを意味している、と考えて良いだろう。

「涙」「淋」という漢字が横に並んだとき、さんずいが続くことに気が付くはずだ。つまり「水」という想像力が、この作品全体を、文字通り「湿っぽく」しているのである。

ということで、そこに「雨」を接続してみよう。

「涙にくれ 淋しさの中にいる」というのは「雨が降」っているという情景と接続する。つまり「涙にくれ 淋しさの中にいる」という状況を脱しないと「帰れない」し、もちろん「忘れた物を取りに帰る」こともできないのである。

おわりに

さて、曲全体を通して、ある特定のストーリーや、「わたし」の状態が明確に想定されていながら、それが「喚起される」こと、つまり明示的には「書かれない」ことを見て来た。

視覚・触覚・嗅覚・味覚が縦横無尽に「あなた」を喚起する。しかしもちろんそうした一連の内容が聴覚的に、いわば「歌」という形で「あなた」に語り掛けるのである。

存分に「愛」に溢れながら、それが未来志向的に語られない。例えば、一青窈の「ハナミズキ」や竹原ピストルの「例えばヒロ、お前がそうだったように」が挙げられるが、そうした作品も、全く違った想像力が「愛」を喚起する。

夏目漱石が「日本人は『愛している』などとは言わない、『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ」と言ったとか言わなかったとか。

日本人の心性としては、そうした「書かれない」「愛」が好みなのかもしれない。テイラー・スウィフトの「We Are Never Ever Getting Back Together」を聴きながら、そのように思う。

 

written by  虎太郎

【音楽】ザ・スミス ”There Is a Light That Never Goes Out"

youtu.be

 「ザ・スミス」というこのシンプルな名前のバンド。彼らは、80年代のイギリスを代表するオルタナティヴ・ロック・バンドだ。全メンバーが労働者階級出身で、マンチェスターにて結成された。彼らの少し後の世代ならoasisや、最近のロックバンドであれば、The 1975などもこの街出身だ。代表的なイギリスの郊外都市であり、現代に翻弄される街と言ってもいいだろう。

 

 ユースカルチャーに含まれる彼らの音楽だが、太宰治が著したような、個人に中心を置いた現代的生の表れとして見ることができるのではないだろうかと思う。

 今回は、そうした観点から、彼らの金字塔的アルバム"The Queen Is Dead"('86)収録曲で、かつおそらく最も知名度が高い曲の一つである、"There Is a Light That Never Goes Out"を考察してみたい。

 歌詞は非常にシンプルかつ文法的にも平易なもので、冒頭のフレーズは "Take me out tonight" である。これ以降の歌詞も含めて簡単に日本語訳すれば、「今夜僕を連れ出して 僕には家がないんだ 君のそばで死ねたらなんて最高だろう」という内容の詞が綴られる。そして最後に"There is a light and that never goes out" (決して消えない光があるんだ)という、この曲のタイトルにもなっているフレーズが何度も繰り返される。

 

 疲れと恍惚の中にあるようなボーカル、モリッシーの声はこのバンドの特徴だが、その声で歌われるこの詞は、郊外に生きる若者の心を掴んだ。

 戦後、消費文化が拡大する中で、「私は一生つまらないウエイトレスの人生」と『俺たちに明日はない(1967)』のヒロイン、アメリカ郊外のボニーは語り、60年代イギリスを舞台にモッズとロッカーズの争いを描いた『さらば青春の光(1979)』でも「一生帽子屋」であることを嘆く青年の姿が映し出される。

 永遠に抜け出せない、つまらない人生。自己実現などとはかけ離れた世界。そこには狭いコミュニティのみが存在し、彼ら彼女らは恋愛や友人関係といったものに没頭する。上に挙げた2つの映画でも、主人公はつまらない生活の中の恋愛の末に犯罪を犯して逃亡し最終的に殺されたり、裏切られ「青春」に別れを告げたりする。

 

 ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行という問題がある。それが意味するのは、かつて「家」や「村」といった共同体中心だったものが移行し、極度に「個人」中心に人生を見るようになるということだ。つまり、「家」のために「村」のために身を粉にして働き、老いて、死んでゆくという、そうした人生のあり方が基本だったのが、近代化に伴って「私」のために生きる人生に変化したのである。ゲゼルシャフトに移行することで、ゲマインシャフトにおいては「私」の人生の意味は全体に寄与することだった故に出てこなかった新たな問いが生ずる。すなわち、「私」の人生がなんのためにあるのかという問いだ。そうなれば「死にたい」と考える層が一定数出るのは当たり前のことかもしれない。生きる意味が見出せないという行き止まりが待っているからだ。

 日本において因習的な「家」から離れ、「個人」を描いた作家として挙げられるのは太宰治だろう。シェイクスピアの翻案作品「新ハムレット(1941)」では、デンマーク国の王子であるハムレットやその周りの登場人物が「個人」に囚われている様子が描かれる。特に象徴的なのはハムレットの実母、王妃がオフィーリヤと会話する場面のこの台詞だ。

王妃。「こんな歳になっても、まだ、デンマークの国よりは雛菊の花一輪のほうを、こっそり愛しているのですもの。(中略)人間というものは、みじめな、可哀そうなものですね。成功したの失敗したの、利口だの、馬鹿だの、勝ったの負けたのと眼の色を変えて力んで、朝から晩まで汗水流して走り廻って、そうしてだんだんとしをとる、それだけの事をする為に私たちは此の世の中に生まれてきたのかしら。虫と同じことですね。ばかばかしい。」

(引用元:新潮文庫『新ハムレット』収録「新ハムレット」)

 「こんな歳になっても」と発言していることから、おそらく王妃には個人的な感情に重きをおいて生きることは甘ったるく若者のすることだという前提がある。しかし王妃はそうできなかったのである。

モリッシーは「家がない」と語るが、これは生みの親がいない孤児だという意味にも取れる一方で、自分が所属する場所がないという意味にも聞こえる。

いくら親に良い成績を修めることや仕事で出世することを勧められても、「虫と同じこと」では生に意味が見出せないのだから、そうした提案も切り捨てたくなってしまう。

 さらに、ザ・スミスの時代は保守党のサッチャー政権(1979~90)の真っ只中である。

スタグフレーション打開策として国有企業の民営化、社会制作費の削減などをおこない、経済の活性化を計った。

 しかしそれは、下層の子どもたちにとっては学校で全員に出されていた牛乳が消えたことであり、またロンドン各地でジェントリフィケーションが進み、街に「そぐわない」とされた者たちが排除されたということでもあった。つまり、格差が進行したのである。そうした80年代的な絶望感とも呼応してこの曲は支持されたのだろう。

 

 だが、そんな中でも「消えない光」があるという。モリッシーは消え入りそうになりながらも絶望の中の希望を歌う。

 これも、太宰の「待つ」という短編に見られる価値観であるように思う。大戦争が始まって、国家的なものに翻弄されるように思えるが自分でも不可解な、しかし確固たる信念とともに、駅前で誰か/何かを待ち続けている二十歳の娘の独白形式の作品だ。

家に黙って座って居られない思いで、けれども、外に出てみたところで、私には行くところが、どこにもありません。

(引用元:新潮文庫『新ハムレット』収録「待つ」)

 この辺りも先ほど述べた家がない感覚に共鳴するものがあるのだが、タイトルにもある「待つ」という行為が、モリッシーのように、「"light"がある」と主張することと同義なのではないだろうか。

 一体、私は誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何も無い。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。(中略)

 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて待っているのだ。

(引用元:同上)

 「ぱっと明るい」という言葉にもみられるように、光の特徴と一致する。けれども光は、はっきりとした形をともなって見えるものではない。これこそが、この曲における"light"を言語化したものではないかと思える。

 虚無の中で、何かわからない光のようなものを待ちながら生きる、ということ。これこそが、現代的な感覚で捉えた生の本質なのではないだろうか(余談だが、日本でヒットしている米津玄師『Lemon』歌詞の一番最後の箇所でも救いとしての「光」が登場するし、映画『君の名は。』においても登場するモチーフである。現代における「光」のイメージにはさらなる検討の余地があるだろうと思われる。)

 だからこそザ・スミスの音楽は、個人の沼に捕らえられてしまった現代人たちの心を打つのであろう。

 

written by 葵の下

 

【書評】砂川文次「戦場のレビヤタン」

語り手・K

最近、橋本陽介の『物語論 基礎と応用』のおかげなどもあって、小説を読むときに「語り手」という問題に注意を払うことが多くなった。そうなると「今となっては」というような語り方が目に付くようになり、それだけで小説を読むのが楽しくなったりする。

この小説の語り手は、自衛隊を退役し傭兵として働いているKが主人公で、「おれ」と書き始められるので、なるほど一人称か、と思う。

けれど読み進めると自然に「K」という主語がちらほら見え始め、「あれ、語り手『おれ』じゃなかったっけ」という具合になる。

勿論一人称に自分の名前を使うことはある。小さい女の子とか、矢口真里だとか。

ただ、そういえば「移人称」という言葉を聞いたことがあるのを思い出して、それを調べるきっかけにはなった。これはかの有名な(というか、醜聞によって変に有名になってしまった)渡辺直己の提示した概念らしいのだが、佐々木敦なども言及しているらしく、もうちょっとよく分からない。

要するに一人称と三人称を自然に往復する、という小説の形式の事を言うらしいのだが、そう聞くと、中学生ぐらいに適当に小説を書かせると移人称が起きそうなのだが、という感じもする。

そこで揺れる「私」という主体の問題が面白いのだが、その議論はこの「戦場のレビヤタン」という作品に当てはまるのだろうか。

そこでふと考えてみると、あることに気が付く。これは映画の風景なのだ。

例えば映画『アバター』でジェイク・サリーという主人公が、惑星パンドラに降り立つシーン。ジェイクを移すカットもあれば、ジェイク自身からの目線のカットもあって、惑星パンドラという異世界に、観客が自然に引き込まれつつ、ジェイクを対象化する働きもしている。というのは全て記憶の話なのだが、何となくそんなカットの組み合わせの映画は、あちらこちらで見たことがあるような気がする。

そう、この小説は映画なのだ。

ただ、この小説は映画にはできないことをしている。難しく「内的焦点化」などと呼ばれたりするものだが、要するに登場人物の心情が丹念に描かれる。「おれ」という主語の文章で心情が書かれるのは、心情の吐露なのだから何の変哲もない。「K」という主語だからこそ、面白い。

考え直してみると、じゃあこの小説は映画の補完でしかないのではないか。自分じゃ戦場をテーマにした映画なんて撮影できないから小説に……という風に思えてしまう。

「退屈」

なぜ現代人はこうも死にたがるのか。

冲方丁『十二人の死にたい子どもたち』しかり、古市憲寿「平成くん、さようなら」しかり、安楽死しよう、という人たちがたくさんいる。結局彼らは「自殺」というワードが嫌いなので、「安楽死」と美化したいだけなのではないか、という気がするし、それなら西部邁よろしく「自裁」などと称して死ぬのがよろしいだろう。いずれにせよ、この辺は誰かがきっと論じてくれるはず。

主人公のKは、日常に退屈していて、その退屈を打破できるのが「死」だと考えている。その「死」は、戦場、そして彼が所属する警備会社というところに接続して、結局「資本主義」の問題になる。そういえば好きな段落があるので引用したい。

 ひょっとすると、あっち側にいる連中も、さらには国境を越えた向こうで先進国とか西側とか呼ばれている地域から義勇軍として参加している彼らもまた、そんな緩慢なる生からの脱出を試みているだけなのかもしれない。ともすれば、両陣営に分かれてお互いに死を提供し合うこの関係は、まさに原始的な交換社会なのではなかろうか。

前半部は、ようするに「メメント・モリ」的な希死念慮の話だろう。2012年版のテレビドラマ「GTO」で神崎麗美役を演じた本田翼が「人生は長い長い暇つぶし」と言っているのが思い出されるが、「退屈だから死にたい」というような考え方というのは珍しくない。ただ本当に「死にたい」かと言えば、やはり「メメント・モリ」は「死を忘れない」ことが大切なのであって、本当に死んじゃ意味がない。

僕が気にかかるのは後半部分で「原始的な交換社会」と形容される「戦場」のあり方である。

僕は長らく気にしていることがあって、それはニュースで、アメリカでは無人戦闘機が開発され、というような話を聞いたことに思ったことなのだ。というのも、無人の兵器が無人の兵器どうしで〈壊し合う〉のなら、それってもうゲームじゃないか、ということだ。

それでもなお人々が〈殺し合う〉のなら、それは要するに〈殺したい〉ということなのだろうし、それは〈殺されたい〉ということなんじゃないだろうか。だって〈殺されたくない〉のなら、自分も殺さなければいいのだから。

戦争は、民族や宗教や領土の問題ではなく、最も原始的な〈死の交換〉なのかもしれない。

考えてみれば「安楽死」というのも、本来はある日突然訪れ〈贈与〉される死を、あくまで想定可能な〈交換〉の世界の中に押し込んでしまおうという話なのではないか。

というのも〈死の交換〉という話は、もちろん、戦争が資本主義的に行われているという話から飛び込んできた考え方なのだが、我々は死というものが何らかの超越的存在から贈与されるものだと解釈してしまうことがある。「○○さんがお迎えに来た」みたいな言い方をして死んでいく様などはそうだ。

この考え方は好きだし、それで別の本を読んでみると面白いのかもしれない、と思ったのだが、だけれどこの作品に関して言えば、やっぱりその深さが物足りない、と感じた。

〈死の深さ〉とは何か。それは「メメント・モリ」を飛び越えた先の峡谷の話だと思うのだが、今はまだ分からない。

 

written by 虎太郎