【書評】多和田葉子『献灯使』

分からない、捉えられない

表題作の「献灯使」のページをめくると、間もなくそれが自分の知るこの世界ではないことが分かる。この物語の主人公らしき義郎がジョギングを──いや、鎖国し外来語が禁じられたこの世界では「駆け落ち」と呼ばれる行為を、借りてきた犬と楽しんでいるシーンから始まるので、ではこの義郎が壮年の男性なのかしらと思うと、それも違う。どうやらこの世界では人間の寿命がいやに伸びているらしいので、七〇代でも「若い老人」、義郎のように一〇〇歳を超えてやっと「老人」扱いだと言うから、気の遠くなる時間の長さである。

物語はこの義郎と、その曾孫の無名をめぐって始まるのだが、この無名、『無名草子』を思い出すと「むみょう」と読んでしまいそうなところ、きっちりと「むめい」とルビが振ってある。

しかし例えばこれを「むみょう」と呼ぶと、今度は仏教用語の「無明」が思い出されるが、これは「無知」の意味。「知っていないこと」「分かっていないこと」という意味になる。

まさにその通りで、この無名という男の子を義郎は理解しかねていて、まるで「分からない」でいる。汚染されているので動物を食べられないということもあってカルシウムが足りず乳歯がすっきり抜け落ちたり、ジュースを飲むのさえ精一杯なこの未来世代のことが分からない。

世の中には「未来を生きているので分からない」という人種が昔からいる。芸術では前衛と呼ばれたりしたような人が少し前まではいたけれど、今やその前衛がメインストリームとなって、主流とされた芸術を嗜む人々は古臭い守旧派扱いを受ける。じゃあ今未来を見せてくれるのはと言えば、それは「意識高い系」ということになって、堀江貴文だとか西野亮廣だとかが挙がる。「何を考えているのか分からない」「何をしているのか分からない」ということなのだが、そんな二人の共著は『バカとつきあうな』というタイトルなので、そうした二人を理解できない我々は畢竟「バカ」なのだろう。

「バカ」は当然、何も「分からない」。「分かる」というのは古語では「分く」で、これには「分ける」という意味もある。つまり「分かる」というのは「分けられる」ということと同義で、「分けられる」というのは「分類できる」という意味で、それは当然「名前を付けられる」ということを意味するのだから、この「無名」と名付けられた少年は、まさにぴったりの「名前を与えられない」という名前を与えられたということになる。

新人類、或いは蛸を書くこと

義郎は一向に若い世代のことが分からない。無名は曾孫で、当然そこには娘と孫がいるのだけれど、全く彼らのことが分からない。

娘・天南に義郎はあれやこれやと世話を焼いて説教したのだけれど、結局言えばその説教は全て無駄だった、というか間違っていた。例えば東京二十三区の土地を買っておけば資産価値が下がるはずがないから安心だ、というようなのも、この世界では汚染された東京二十三区の土地は安く買いたたかれているので、やっぱり嘘だった、結果的に嘘だったということである。

むしろその中で彼が感じたのは、これは「新人類だ」というような感覚とは違う。もちろん我々は社会に登場する若い世代を「新人類」と呼ぶことがあるのだけれど、彼らは全く別の生き物のようである。

義郎はそれに「蛸」という形容を当てるのだけれど、だとするとこれはかなり大変なこと。しかしそれほどまでに事実無名は弱々しい。蛸が無脊椎動物であり軟体動物であるように、無名の乳歯もまとめて折れてしまうのだから。

それに心配を寄せる義郎だが、その心配は本当なのかしらと思ってしまうのは、何より義郎が小説家だからということである。

世の中には小説家を主人公にする小説が多くて、それはやはり日本には自分に取材した小説が多いということで、小説家が自分に取材すると主人公は自然小説家になるということなのだけれど、そうなると大問題が起きる。というのは、小説家はそもそも嘘をつく生き物なので、あちこちに見られる叙述は嘘なのかもしれない。この小説家は嘘をつくのかもしれない。

いや、しかし考えると本当に主人公は義郎なのか? 地の文は概ね三人称で、ただ一元描写のような方式を取るので、そこで心理描写もしたりするのだけれど、やっぱり義郎の心情は義郎が書いているような気がする。しかし浮遊する地の文は、義郎の妻・鞠華や無名や、無名の担任である教師・夜那谷のものへと移り変わっていって捉えられない。

新人類を啓蒙すること

作中では「新人類」という言葉は使われないので、ここで「新人類」と安易に言うわけにはいかないのだが、一方隠喩として使われる「蛸」をその名称に採用するのも危ういので、「新人類」とすると、現代社会の人々は「新人類」を啓蒙しようとしているように見える。

昔から右翼は「目覚めよ日本人」と叫ぶものだけれど、近ごろは左翼もそうなった。安倍政権の支持率が下がらないきっとこの国は滅びるのだ、だとか、なぜ若い人はこの恐ろしさに気が付かないのか、だとか、一種「私たちは知っているが彼らは知らない」みたいな傲慢な非対称はそう言えば昔から左翼の特権なのだった。

例えば大正時代頃まで戻って小林多喜二のあらゆる作品を読んでみると、やはり終わりは「立ち上がれプロレタリアート」ということになって、近年ではプレカリアート運動全盛には喜んで受容されたのだろうが、しかし「立ち上がれ労働者」と宣う胡散臭さというのを、やはり無視できない。

今どきの「新人類」というのは、そうした啓蒙にはほとんど何も期待していないし、この時代が変わることにも期待していない。「何かしたって変わらない」と若者が言うと「何かしないと変わらないぞ」と叫ぶ大人はいるのだが、しかしその胡散臭い啓蒙は動物化した若者たちには何ら響かない。

動物化した若者は、猿になるのでも犬になるのでもなくて、実は最後には「蛸」になるのだった。

鎖国という環境

内田樹が『日本辺境論』で明らかにしているように、日本は中華思想の東の辺境、更に東には大海原という環境をフルに活かして地政学的な利益を享受してきたわけで、江戸時代には「鎖国」というのをやった。

しかし作中で義郎自体が回顧しているように、この「鎖国」というのは、オランダや清や朝鮮(や琉球)を除いた外交政策ですということで、実は日本は外交もしっかりしていた。

一方この作中で描かれる日本は文字通りしっかりと「鎖国」しているようで、外来語にもほとんどアレルギー的に反応している。外国の国の名前だって小声で言わなくちゃならない様子は、ニュースピークを彷彿とさせる。

地震後の原発事故で、どうやらその時年寄だった人々は「死ねない」ということになり、その後生まれた子供たちはあまりに貧弱ということになるらしいのだけれど、そんな環境に生まれたやはり貧弱な無名は若くして髪が銀色に。けれど無名はそこで義郎に「銀色同盟」を組もうと申し出る。

ジョージ・オーウェルに『一九八四年』という小説があって、そこではディストピアを支配するビッグ・ブラザーを打破する可能性を、実在すら危ういエマニュエル・ゴールドスタインという運動家に期待するわけだけれど、「ゴールドスタイン」というのと「銀色同盟」というので言葉遊びをしていたとしても、全く不思議ではない。

そういえばこの小説も、ディストピアを描いたみたいなことになっていたのだけれど、本当にそうなのだろうか。というか、それでいいのだろうか。

私たちの社会は、この社会の方向に向かっている。右翼は「朝鮮人は国へ帰れ」と叫び、左翼は「在日米軍は国へ帰れ」と歌う。性質は異なるけれど、この国は「多様性」という単一の価値観を共有し、「多様性」を奪う可能性のある人間を排除しようと努めている。その例が『新潮45』問題なわけだけれど、あの問題で達成されたのは『新潮45』という『月刊Hanada』の左隣に置いてある雑誌を廃刊にすることと、見るのもおぞましいようなLGBT擁護の甘い文句だけ。この点は綿野恵太氏の『週刊読書人』の「論潮」に詳しい。

私たちは「鎖国」しようとしているし、今度の「鎖国」は、中国とも韓国ともアメリカともきっちりと絶縁する「鎖国」なわけだけれど(そして今度は琉球とも「鎖国」するのかもしれないけれど)、私たちはそれに無自覚で、そんなまま若者に「蛸」と呼びかけて、啓蒙するしかないのか。

献灯使

少し遣唐使の意味を考えてみる。

中国という中華思想の中心があって、そこから東に外れているので、基本的には中華にかしずくしかない東夷の人々は、その関係を温存することで、利益を得てきたわけである。つまりそれはむしろ日本が中華思想という特別な国際関係にきっちりと組み込まれていることの証左だ。

一方、このタイトルの「献灯使」というのは、変わり果てたこの国の子供たちの健康状態を研究するために、子供たちを秘密裏に外国に送ろうという「献灯使の会」から採られているらしいのだけれど、この「献灯使の会」というのは、ますます『一九八四年』におけるゴールドスタイン信奉者とそっくりで、お互いがお互いを見分けるのが難しい。でも会員がお互いを見極める方法ははっきりとしていて、それは「日の出前に起きて、一日の仕事を始める時に蝋燭に火をつけて、暗闇に分け入る」という小さな儀式である。

蝋燭に火をつける、この蝋燭にも「直径が五センチで高さが十センチ」というルールがあるのだけれど、そう言われると思い出す風景がある。九月の北海道で全島ブラックアウトをした夜に(というかあれはほとんど朝だったが)、仕方なく押し入れの奥から持ってきた大きな蝋燭に火をつけたときの風景だ。

私たちは亡き人に蝋燭の光を捧げる。この言い方には語弊があるけれど、やっているのはそういうことで、まるでそれは希望の光のようである。しかし少なくともあの地震の時、蝋燭の灯りは希望と絶望の間にある極めて現実的な生死の問題と直結していた。

普通を読みとる

これはどうやら震災文学らしいのだけれど、確かにこれほど激変した社会は震災のせいということでよく分かるのだけれど、しかし震災らしい何かを読みとることはできなかったので、あえて何かを読みとるならば、それは「普通」という感覚ではなかったか。

というのも、この「鎖国」という設定は極めて巧妙に機能していて、普通ならSFでは「他の国はどうなっている」というようなことを書いてくれるのだけれど、それが分からない。つまり日本は、老人は死ねず、若者はいつ死ぬか分からないくらい弱弱しい、外来語アレルギーで何もかもがおかしい、という気がするのだけれど、じゃあこれがこの作品で「普通」なのか分からない。

この小説で何かを抉られる感覚があるのは、何よりこの世界に見覚えがあるからであり、そしてその世界には深遠なる、これが普通かどうかが分からないという不安感が付きまとうからだろう。

他の作品を読んで

これはいくつかの小説が入った本なので、「献灯使」だけをどうこう言うのはよくないだろう。

とは言うものの、次に載っている「韋駄天どこまでも」は理解できなかった。いや、何が起きているのかは分かる。しかしそれ以上に難しさのある作品。ただ、作中を支配する日本語で遊ぶ感覚。漢字をバラバラに物語を構成していく手際は、もはや暴力と言うべきほどに読者を圧倒するが、そのサディスティックな言葉選びは、やはり多和田葉子にしかできないものだろうと感じる。

「不死の鳥」の方はいわば「献灯使」の世界を裏側から見た世界と言っていいのだろう。その世界の解説の役割も担ってくれている。

そういえば大地震によって日本がフォッサマグナあたりから南北に分裂する世界を描いたかわぐちかいじの漫画『太陽の黙示録』では火山灰に覆われた関東一円復活の鍵が「不死鳥(フェニックス)」というバクテリアに託されたのだった。と考えると、このタイトルも(もちろん意識したものではないが)特別な響きを持つように感じられる。

次に「彼岸」というのが続く。これは「献灯使」を除けばこの本で最も「示唆的」だったろうと思う。どうやら主人公らしい瀬出という国会議員は男としては不能だったが、あるとき中国の悪口を言うと勃起し、男らしさを取り戻した。それをきっかけに中国の悪口を繰り返すようになるのだが、まさに今この国の右翼が、実際にはアメリカのアジア・太平洋戦略に組み込まれ「去勢」されているとしても、特定アジアの国々の悪口を言うことで偽りの勃起を手にしようとしている、つまりネトウヨがマッチョの問題だ、と言っている作品だろう。

最後の「動物たちのバベル」というのは、前半で「献灯使」中の新人類が「動物」であると言ったが、それを考えると、なかなか味わい深い寓話だ。もちろんここで「動物」と書いているのには東浩紀の『動物化するポストモダン』を意識しているわけだけれど、ここにいる「動物」たちは、自分たちが「動物」であるという確たる自覚はあるのだけれど、畢竟本当に「動物」なのかわからない。

「ウサギ」「ネコ」「リス」「イヌ」といった名前は与えられるが、これは固有名ではないはずだ。しかしもしかすると固有名なのかもしれない。というのは、実際には彼らが「自分が動物だと信じている人間」という場合にはそういうことになる。

人間絶滅後の動物の会話を描いた戯曲(らしい)が、その会話があまりに詩的でてんで分からない。そんな中唯一分かるのは、これが他の所収作品と違い、「啓蒙的」であろうとしているということである。しかしここに胡散臭さが感じられないのは、既に登場人物が動物であるというのが、十分に胡散臭いからだろう。

 

     ◆

 

さて我々は啓蒙の無意味さをよく理解しているわけだが、そんな時、啓蒙されない人々にはどんな言葉が届くのか。それは詩でしかないのかもしれないが、少なくとも多和田葉子の暴力的な日本語は伝わる。それだけは間違いない。

この本は全米図書賞の翻訳文学部門を受賞したという。しかし本当に読むべきは「全米」の人などではなく日本人ではないか。なぜならこの本で描かれているのは、日本語の問題であり、何より日本人の問題だからである。

 

written by 虎太郎