【書評】『LOCUST VOL.1』

難解に書くという病

センター試験の国語では、評論文に苦しめられた。漢文を早々に仕上げた僕は、次に評論文に的を絞った。なぜなら小説文はどうにも作問者通りの解釈ができない上に、古文は何度も繰り返し読むうちに、自分なりの現代語訳を作り上げてしまって正解には辿り着けない。ただ、一生懸命評論文の勉強をしたのだが成績は上がらず、小林秀雄の「鐔」が取り上げられた年の過去問を解いたときに、遂に白旗を上げた。

問題は評論文の難解さだった。ついつい「簡単に書け」と言いたくなるのだが、そういうのは批判される。もちろん「難解」であることが悪で、「簡単」であることが善であるというような考え方は排除されるべきだと思う。とは言いつつ、結果が「読めない」や「分からない」なら意味がない。

問題は、「難解なことを書く」のか「難解に書く」なのかというところにある。「難解なことを書く」のが、努めた上でなお「難解」なのはやむを得ないが、「難解に書く」のはやはり悪と言いたい。自分への戒めとして。

さて、ここまで踏まえて、遂に批評誌『LOCUST』のレビューに移る前にもう一つだけ付言しておきたい。

現在、文学や哲学はどこにいるのか、という問題だ。あまりに抽象化された高度な、格好よく言えば「形而上学」とされるような学問は、ますます高度になっていき、「〈形而上〉上学」のようなものに到達しつつある。それはある学問領域の中で設定されたルールの中で行われる思考ゲーム以上の意味合いを持たない。

日本ではその一方で、それに歯止めをかけるような、あくまで「形而下学」の直上に置かれ直結する「形而上学」を「批評」が担ってきた。

そのうえで『LOCUST』を考えよう。この雑誌は、「旅行誌を擬態した批評誌」だと言う。

形而上学の実践

「〈形而上〉上学」化した、ある界隈でのゲームを避けて、かつての「形而上学」の姿を「批評」に見出し、それが「形而下学」あるいは生活との接続に存在意義があるのだとするのであれば、B6版で印刷されたこの『LOCUST』は、まさに「批評」なのだろう。

東浩紀が『ゲンロン0 観光客の哲学』に書いたことを敷衍して、無責任にある土地を訪れ、適当なことを考えて帰って行く。そこにこそ新たな可能性があるのかもしれないし、本来「観光」とはそういうものだ。例えば渋革まろんの論考を覗いてみよう。

 某日、ロカストメンバーは本誌特集のために内房へと旅立った。東京駅からバスに乗り、川崎を抜けて一面の海を見渡せるアクアライン東京湾を横断し、木更津市へと降り立つ。そこで、木更津の西口から海岸の方へ向けて、歩いていく。とはいっても、「観光名所」をまわるわけでもないので観光しているという感じもないし、何かを調査しているわけでもないので「リサーチ」という感じもない。ブラブラしている、集団ブラタモリといった風情で、自然とどうでも良さそうなものに眼が寄り道する。(p.33)

この微笑ましい記述は、およそ批評誌のそれとは思えないが、かえって実感がある。

批評誌自体は小川和キの「〈擬〉東京論:下町の発見 ~ルポ木更津を読む~」から始まるが、この論考は東京の「下層」としての木更津を「下町」といったベクトルに「脱構築」する試みだが、これは内田樹の『日本辺境論』がやったことを、全く反対の方向から行ったのではないか。

『日本辺境論』は、日本の文化や歴史を、「日本文化」「日本史」といった概念を、「中華圏」の中で捉えなおす=相対化することを目的としていたようにとらえているが(そしてそれが誤読である可能性は十分にあるが)、この論考も木更津を絶対的「下層」としての木更津を捉えなおす=相対化するものだろう。

一方、観光客らしく外の土地を捉えなおしたのが渋川まろん「木更津を上演する──きぬ太くん、どうして逆さまなのかしら?」だが、この視点は木更津在住の人は持ちえないだろう。そのことは中にも言及がある。

 木更津を「私たちのもの」と思い込む人間は、その〈力〉に気づくことが出来ない。しかし、狸が創り出す「木更津」では、いまだ語られざる無数の物語のイメージが狸像のかたちをとって繁殖している。彼らは為政者の物語に従うふりをしつつも人知れず増えていき、あの踊り明かす夜の時間をいまに呼び出す祝祭劇の〈力〉を波及させていくことだろう。(p.37)

民俗学に問いかけ木更津の新たな側面に照射する論考は、「陳腐化する価値を新たなものに刷新する」という人文学の最も基本的なことをしていると言えるだろう。

その次に谷美里「木更津を山崎公園から考える──「光クラブ事件」再考」が置かれるわけだが、木更津と東京の位置関係を金融の基本原理に見出す手さばきには感動する。大部分は三島由紀夫の『青の時代』読解に割かれる。光クラブ事件の犯人・山崎晃嗣三島由紀夫の自殺が同じ11月25日であることがそれを架橋しており、それについて「無視できない」と書かれているが、こう書いた以上は、この架橋=思考のジャンプ以上の意味付けを期待したところだった。

次のイトウモ「「ファイブ・ハンドレッドジャック・ラカンズ」」は、このタイトルにさえつけられた「」さえいやらしく感じられるほどよく出来ている。というのもこれは文芸誌に「異色の小説」などと書かれて掲載されていても納得してしまうような、メタ的な論考になっている。あるいはメイキングと言ってもいい。それに加えて「ラカン」と「羅漢」などといった言葉遊び。その構造自体は明らかに他を圧倒する面白さがある。

北出栞が「東京湾と「世界」の想像力──Speakeasy『クオリティア・コード』論」と題した論考を書いている。東浩紀が提起した「ゲーム的リアリズム」の概念に触れずに町口哲生の「ネットワーク的リアリズム」の枠組みを導出した唐突さは脇に置くとして、映画『シン・ゴジラ』において「ニッポン」(≠日本)を「会議」と指摘したのは秀逸だった。

二重性の問題

このあとに一つ目の共同討議が挟まれるが、そのうえで次の発言に注目しておきたい。

北出 そもそも、X「JAPAN」なんですよね。

伏見 元々はただの「X」で、海外進出する時にロサンゼルスに同じ名前のパンクバンドがいて名前を使えなかったから「X JAPAN」に改名した。偶然の産物なんだけど、名前に引きづられるように彼らは「ジャパン性」を獲得していく。

共同討議全体の流れを無視して、この「ジャパン性」なるワーディングに注目すると、私たちの持つ二重性を考えずにはいられない。

私たちは3つの文字を使いこなす言語の話者であるから、先の映画『シン・ゴジラ』のように「ニッポン」「日本」の意味の違いを生み出すことになる。

しかし私たちの国は、日本語では自分たちを「日本」と呼び、外国語では、例えば英語では「JAPAN」と呼ぶ。これは中国語では「日本(riben:リーベン)」と発音される、と置き換えてもいいが、この内向きと外向きで別の名前を使うという二重性を考えたい。

というのも、私たちは外部から、つまり「JAPAN」を称賛されることが好きであり、だからこそ「JAPAN AS NO.1」と呼ばれて喜び、「クール・ジャパン」で世界に売り出していきたい。それらは「NIPPON AS NO.1」「クール・ニッポン」とは決定的に違うのだ。

東アジアで特徴的なこの二重性を、例えば韓国は英語では「Korea」と呼ばれつつ、自国語では「ハングク」と呼び、中国語では「ハングオ」と呼ばれる。この二重性が、中国とアメリカの勢力の中でのバランシングと、国内向けのアピールに現れる。一方中国が英語で「チャイナ」と呼ばれ、自国語では(おそらく)「ジョングオ」と呼ぶ。この二重性は、太平洋を二分しようとアメリカに持ちかけるような覇権主義に辿り着く。

日本ではどうなのか。「日本」に自信を失い始めた国民は、外国人を日本に呼び寄せて日本を褒めさせるようになった。それが例えばネトウヨにおけるケント・ギルバートや石平であり、そうでないところでは「YOUは何しに日本へ?」であったり、「世界が驚いた日本! スゴ~イデスネ!!視察団」であったりといったテレビ番組に結実する。

しかし外国人が称賛しているのは「JAPAN」であり、「日本」ではないのではないか。それを「日本」と勝手に読み替え、内向きの自尊心に役立てるのは、大きな誤読のように思われる。

つまり、この二重性を見つめなおすことこそ新たな活路に繋がるのではないだろうか。そしてその一端を、この批評誌の「観光」に見出した。なぜなら「観光」とは、いわば「JAPAN」を「JAPAN」として見つめる行為であり、「「日本」なんて知ったことか」と言える行動だからである。

テーマパークの自意識

続いて東京ディズニーリゾートについての論考が3つ並ぶ。文字数の都合上(というか前半に丁寧に書きすぎた)細かな紹介はしないが、いずれも刺激的な論考で、これをポケットに入れて行くディズニーランド・シーが楽しそうだと思う。

さて、その後2つ目の共同討議が設けられる。ここでは、locust=イナゴのごとく、集団で襲来し、観光(というか散歩)し、帰って各々が批評を書くという営み(ロカスト旅行)についてそれぞれがそれぞれの思うこと書いているわけだが、その本質はやはり前述からの東浩紀的「観光」の概念の拡張・深化・充実ではないだろうか。

目的意識の有無によって「観光ではない」というような発言も見られるが、一種「無責任さ」が「観光」の特徴なのであって、それがよく表れている討議だったと思う。

ついでに言えば、ここまでで書いたことの大概はこの討議の網羅されているので*1、書いた意味は無かったということになる。

次へ

さて、気になるのは『LOCUST VOL.2』がはたしてどこに襲来するのか、という点である。

北海道出身の僕からすれば、千葉内房と東京が「海を挟んでいる」という感覚は全く分からなかった。内容的には「陸路は時間がかかる」というようなことだったと思うのだけれど、北海道では時間がかかっても陸路が基本で、結果として島全体が「北海道」と呼ばれる。結果僕自身の中に、陸上が都道府県という行政区分で区分けされ、それが遠いだとか近いだとか言う感覚がないのだろう。

そうしたところから「北海道」を取り上げてほしい、という思いは当然あるのだが、ここであえて関西などでも面白い。つまり「東京」をキーワードに「〈擬〉東京」として千葉内房を見つめたわけだが、本質的に「東京」とは「〈東〉京」なのであって、そこで「京都」などを見つめるのも面白い(とは思うものの蓄積があまりに厚く、できることは少ないかもしれない)。

期待したいのは、関東を出ることだ。それは北海道出身関西在住という、関東を飛越えた僕自身の問題でもある。けれど、千葉内房をここまで面白く捉えなおした彼らが、本物の「辺境」をどのように捉えるのかが楽しみだ。

 

written by 虎太郎

 

*1:全くの余談だが、『文学+』第1号(凡庸の会)にせよ、座談会・共同討議が予定調和的な認識のすり合わせではなく、ガチンコのぶつかり合いになっているのは好きだ。今回は粗削りさが目立ったが、このまま続けてほしい。