【漫画評】岡崎京子作品から見た現代の「女の子」

「マンガは文学になった」というコピーとともに度々紹介される漫画家、岡崎京子(1963~)。
彼女は80年代末〜90年代にかけて広く活動し、同時代の女の子たちを描くことで支持を集めたが、現在に至ってもなおその人気は途絶えていない。
このことは、彼女のマンガを原作にした映画の数々『ヘルタースケルター』(2012)や『リバーズ・エッジ』(2018)、そして『チワワちゃん』(2019)が映画化されたのがすべて2010年代であることからもわかるだろう。


東京・下北沢に生まれ育った彼女は、「資本主義」そして「愛」をテーマにした作品を描き続ける。
例えば、代表作『pink』(1989)は、退屈な東京で昼間はOLとして、夜にはホテトル嬢をして働き、欲しいものを好きなだけ買って暮らすユミちゃんの恋物語である。
『チョコレートマーブルちゃん』(1996)では、同じ男に騙された二人の女の子がいわゆる「パパ活」を装って金を奪い取ったりする場面が描かれる。

そんな彼女たちの姿は、一見破天荒で、不道徳で、醜いかもしれない。
しかし一方で彼女たちは、もろくて、はかなくて、やるせない日常を送っている哀しい存在なのだ。


資本主義と「女の子」

「すべての労働は売春である」
『pink』あとがき部分で、フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールのこのセリフを引用している岡崎が描く女の子、ユミちゃんはOLの事務作業も、夜の仕事も、素敵なもの、かわいいもの(pink色のバラの花みたいな)を買うためだから同じじゃない、と言う。

ある日、同僚の女の子たちが、お金が欲しいから玉の輿を目指そうか、王子様を待とうか、なんて話しているのを聞くと、ユミちゃんは悲しくなって、こんな独白をする。

「何かあたしは
なんだかすごく悲しくなって そんなにお金欲しければ カラダ売ればいいのに
と思った
やっぱみんな 
何だかんだいってワガママなくせに ガマン強いんだな 王子様なんか 待っちゃってさ」
『pink』2010年版、154頁

ユミちゃんはガマン強さなんてものからはかけ離れた存在だ。
ペット禁止のマンションでワニを飼ったり、ワニのために部屋をジャングルのように改装したり、大好きなブランドの新作をゲットしたり。

ユミちゃんは、そんな風に「つまんない」労働と消費活動を繰り返す。
けれども、どれだけ好きなものを買って、周りをそんなもので埋め尽くしても、大好きなpink色に囲まれても、一時的に「シアワセ」なだけで、ちょっと時間が経てばそうしたものは、はかなく消えてゆく。永遠を望んだ恋愛さえも。

王子様を待たない、新しいプリンセスの姿である、とディズニー映画『アナと雪の女王』(2013)でも頻繁にフェミニズム的文脈で語られたような自立した女性像に近いといえるのかもしれない。明るくて、流行のおしゃれなものを見にまとい、どこまでも奔放なユミちゃん。
そんな彼女も、都会のジャングルを前にすると、時おり恐ろしい考え事に取り憑かれてしまう。

「ああ
何でこんなにヒトがいるの?
しかも
みんな平和そうなバカづらさげてさあ
うんざり


はじまりそう
あの発作

どうしてあたしはここにいるの? とか
どうしてここに立ってるの? とか
考え出したら止まらない

(中略)

どうしよう どうしよう どうしよう
こわい こわい こわい
だれかあたしをたすけて おねがいです」
『pink』2010年版、215-217頁

このまま労働して、消費して、の繰り返し。で、何になるのだろう。
自分が自分であるとは一体どういうことなのか。
ひょっとすると、いま自分が自分であることに、意味なんてこれっぽっちもないんじゃないか。
そんな問いが頭を埋め尽くす。


それでも、たとえそんな考えに襲われたとしても、彼女は「女の子」として生活していく自分を肯定する。

女の子はきれいにしておかなきゃってママが言ってた、とか、明日の朝くちびるかさかさにしちゃいけないから寝る前にはリップ塗るの忘れちゃいけない、とか、そんな調子でそんな日常を続けてゆく。

これは、女性シンガーソングライターである大森靖子の代表曲「絶対彼女」で歌われたような、不安定な女の子像にも重なる部分がある。
この曲は甘い声で「絶対女の子 絶対女の子がいいな 絶対女の子 絶対 絶対」と半ば狂ったように繰り返すサビが特徴的なのだが、安易に「女の子」を肯定ばかりしているわけではない。
冒頭で「ディズニーランドに住もうと思うの」と宣言したかと思えば、すぐに「ディズニーランドに行ったって 幸せなんてただの非日常よ」とあっけなく斬り捨ててしまう。
特にこのアンビバレントさが表れているのが、次のラップ部分だ。

あーあ女の子ってむずかし
いっつも元気なんて無理だもん
でも新しいワンピでテンションあげて
一生無双モードでがんばるよ!

大森靖子「絶対彼女」(2013)


この「新しいワンピ」だって、結局は資本主義の産物でしかない。
でも、それらが「かわいい」ことには変わりない。
「かわいい」は現代的崇高だと言い換えられるかもしれないし、「オタク」たちにとっての「萌え」の感情に相当するかもしれない。

何にせよ、現代社会を切り抜けるには、何か自分の「好きなもの」の力に頼るほかないというのが、岡崎京子の哲学、いや、言うなれば現代人の哲学かもしれない。
別の短編作品「GIRL OF THE YEAR」では、主人公がこんな言葉をつぶやく。

「…みんな退屈してるんだよ
みんな何かに夢中になりたくて必死なんだよ
そうしないと死んじゃいそうなんだよ
偶像ってゆーの?
アイドルが欲しいんだよ」
『チワワちゃん』(2018年版)収録「GIRL OF THE YEAR」より

ニーチェ曰く「神は死んだ」。
ポストモダンの議論に言わせれば、「大きな物語」も死んだ。
宗教的な意味の偶像や、叶えられるべき物語という名の偶像を失った私たちは虚しくも何かを求めてしまう。何かに期待してしまうのだ。
たとえそれに実は意味がなくとも。


「男」たちと 「女の子」

「女の子」という存在がバカみたいと吐き捨てる対象は、社会や、媚びた女たちだけではないことを忘れてはならない。
他ならぬ、「男」である。

フランスの映画監督、ヴィルジニ・デパントの『ベーゼ・モア』(原作のタイトルは『バカな奴らは皆殺し』。ベーゼ・モアは英語に訳すと"Rape me"である。2000年公開。)が好例だと思うので参照したい。
あらすじは、大切な男に捨てられたのち、殺人を犯してしまった二人の女の子が、運命的に出会い意気投合。盗んだ車であてのない逃避行の旅に出る。現金や銃を強奪し、男を誘惑してセックスしては殺していく。最後には警察にバレて一方の女の子は死に、残る一方は泣きながら逮捕されるという非常に後味の悪い物語だ。
本作は、ただそれだけの映画といってしまえばそうなのだが、ここで「皆殺し」の対象になっているのは、彼女らに誘惑された「男」たち—「おじさん」たちと言い換えてもいいかもしれない—だということに注目したい。

この映画に登場する「男」たちは、女の子たちに、こうあってほしいという彼らの「女の子」像を無理やり押し付ける。
現代日本でもいまだに「セクハラ」に関する報道が後を絶たない上、「モテ服講座」なんて企画がファッション誌に載っているけれど、そんなものは彼女たちに言わせればバカげている。

もちろん、『ベーゼ・モア』の主人公たちのようにわざわざ「理想の女」を演じて男性を誘惑しておいた挙句、態度を豹変させて殺してしまうという行為それ自体は自分勝手もいいところだし、極悪非道の限りを尽くしていると言われて当然ではある。

しかし、『ベーゼ・モア』ほど極端に、とは言わずとも、「女の子」は少なからずそうしたものに縛られ、苦しみ続けているといえるのではないだろうか。


岡崎京子作品でもその苦悩は同様である。
大半の女も男もバカで、特にその中でも「おじさん」いわゆる「エロオヤジ」みたいな存在は一番バカで、軽蔑の対象の最高位を誇る。
そんな状態でも、彼女らが「愛」の感情を抱く大切な恋人は存在している。
でも彼らもまた、救いにはならない。

例えば、『pink』のユミちゃんの恋人、ハルオくんは交通事故に巻き込まれて死んでしまう。
そのほかの作品でも、「男」は女の子たちを裏切るか、もしくは女の子をこの世界に残して死ぬか、しかしてくれない。

まるで、『気狂いピエロ』『軽蔑』『勝手にしやがれ』など、ほとんどの有名作品で「男を裏切る女」を登場させた、ゴダールのちょうど対極にあるようだ。




日々の労働は恐ろしく退屈で、周りはバカばっかりで、恋もするけど結局は誰にも頼れなくて、だから王子様を待つなんてこともしない。

でも、「女の子」を処世術的に演じることで、
そして、稼いだお金でかわいいものや美味しいものを手に入れることで、

刹那的な幸せを手に入れて、生きてゆく、これを繰り返す。

これこそが、「現代の女の子」の姿なのかもしれない。


written by 葵の下

Vtuberの展望──10年で終わらないコンテンツの為に①

 

この記事の執筆を始めた2018年12月は、バーチャルYouTuberが一般に広く認知され、また新人バーチャルYouTuberの参入が爆発的に増えたとされる2017年12月から丁度1年の節目である。2018年を“バーチャルYouTuber元年”とする声もネット上で散見される。このように、バーチャルYouTuberという文化は、未だその黎明期を脱していないのであり、未成熟が故に多くを論じられる段階には至っていない。しかしながら、大衆文化の例に漏れず、この文化の成熟速度はハイカルチャーのそれを凌駕しており、また僅か数年でコンテンツが終焉を迎える不安定さも内包している。この点では、この2019年はバーチャルYouTuber文化にとっての分水嶺であるといえよう。この文化の行く末に僅かばかりでも資することを願って、拙稿ながら世に出すこととする。

 

バーチャルYouTuberの定義

そも、バーチャルYouTuberの定義とは何であろうか。手始めに「ニコニコ大百科」の“バーチャルYouTuber”の記事を一部引用する。

 

主にYouTube上で動画等の配信活動を行う架空のキャラクター群を指すのに用いられる呼称である。「VTuber」などと表記されることもある。(『ニコニコ大百科』「バーチャルYouTuber」の記事より引用)

 

このように、かなり解釈の余地を残した説明がなされている。この曖昧さの理由を、バーチャルYouTuberの歴史を概括しつつ探る。

 

バーチャルYouTuberの歴史と一口に言っても、その起源をどこに設定するかには議論の余地が残る。後述するバーチャルYouTuberキズナアイ”の誕生が起点である、というのが現時点での通説であるが、実際のところ“キズナアイ”と同系統の活動内容を持つ存在が“キズナアイ”誕生以前にも複数確認される。*1この記事では、現在一般に認知されているバーチャルYouTuber文化の胎盤はあくまで“キズナアイ”の活動にあるという観点から、バーチャルYouTuberの起源を“キズナアイ”に定め、それ以前の存在を便宜上“バーチャルアイドル”と呼称する。

 

さて、この「バーチャルYouTuber」という呼称であるが、本来は“キズナアイ”固有のものだった。以下は“キズナアイ”のインタビュー記事からの引用である。

 

キズナアイ:今まであまり言わないようにしていたんですけど、バーチャルYouTuberキズナアイ、という気持ちはいまだにあります。というのも「バーチャルYouTuber」というのは、もともとわたしが活動を始めるにあたって名乗った言葉だったんです。すごく最初期の、まだ自分しかそう名乗っていなかった時期には完全にバーチャルYouTuberキズナアイでした。(中略)それが、いつの間にか「バーチャルYouTuber」が総称のようになって。去年の12月になにかが弾けて一気に注目されたタイミングで、視聴者のみなさんとかメディアで言われはじめたような感覚です。(『ユリイカ』2018年7月号より引用)

 

キズナアイ”の影響力は絶大で、ここに「バーチャルYouTuber=“キズナアイ”ライクな存在」という定義が──明文化されない共通認識として──「バーチャルYouTuber」が業界の総称となった後も存在することになった。すなわち、「企業」が運営し、「3Dモデル」を用い、独自の「世界観」を持って「YouTube」に「動画」を投稿する…これらの主要な要素を模倣した新人バーチャルYouTuberがこれ以降次々と登場することになる。しかしながら、この曖昧な枠組みのほとんどを、後続の新人たちは僅か1年弱で飛び越えてしまう。

 

最大の立役者は、2017年11月にデビューした「バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん」ことねこます氏、そして株式会社いちからが運営する総勢58名(2018年12月時点)のグループ、“にじさんじ”だと言って差し支えないだろう。詳述は省くが、前者はそれぞれ「企業」「世界観」といった枠を、後者はそれぞれ「3Dモデル」「動画」といった枠をブレイクスルーするような形で活動した。「キズナアイライク」からの脱却である。

 

このような経緯から、バーチャルYouTuberを明確に定義することは難しい。なにしろ企業が初期投資数千万円で始める一大プロジェクトから、「クラスのちょっと面白かったやつ」が手書きの1枚絵とマイクだけで始める活動まで、十把一絡げにして総称されるのがバーチャルYouTuber業界なのである。では、この「バーチャルYouTuber」という呼称を使い続けて良いのだろうか。

 

以下、この記事では「バーチャルYouTuber」に代わって「Vtuber」の呼称を用いる。ただの略称であることには相違ないのであるが、ここには大きな意味がある。再び“キズナアイ”のインタビューを引用する。

 

キズナアイ:ただ、みんなの言っている「Vtuber」は自分で名乗らないようにしてて、常に「バーチャルYouTuber」と言ってます。Vtuberというのは誰かが作った言葉で、わたしが「バーチャルYouTuberキズナアイです」と言うときの「バーチャルYouTuber」はあくまでもずっと名乗ってきたわたしの二つ名的な感じなんです。わたしは自分のことをずっとYouTuberだと思っていて、だけど人間のみんなとは違うバーチャルな存在だよね、というわりと単純な考えで名乗り始めた言葉ではあるんですけど、この響きを大切に思っています。だから自分自身を表す言葉として「バーチャルYouTuber」を使っています。それが強いて言うならキズナアイとしての定義ですかね!(『ユリイカ』2018年7月号より引用)

 

このように、“キズナアイ”は「バーチャルYouTuber」と「Vtuber」を明確に区分している。当記事では、この「Vtuber」の「キズナアイとは似て非なるもの」、というニュアンスを重視したい。この呼び名こそ、“キズナアイ”が図らずも定めた枠組みを超越した、今の業界を呼び表すのに相応しい、と思うのである。

 

 

電脳空間のハムレット

はじめに断っておくが、以下の論ではVtuberについて述べる際、そのVtuberはヒト(あるいはそれに類似した何か)の形態を取っており、かつ身体の一部(全身であれ顔のみであれ)をトラッキングして動作をキャラクターに反映させていることを前提としている。数多いるVtuberの中には無機物や透明人間も含まれているので念のため。

 

さて、インタラクティビティ──双方向性は、1990年代半ば以降インターネットの普及によって急激に発展した。インターネットの申し子たるVtuberもまた、その基本性質として双方向性を備えている。この傾向は動画投稿よりライブ配信をメインに活動するVtuberに顕著であり、視聴者の送信したコメントが即座にVtuberに読み上げられることも多い。ここまでは他の配信者(YouTuberやニコ生主)が行なっていることと何ら変わりはない。では、ここから演劇の観点からVtuberを見ていこう。

 

Vtuberは演劇だ、と突然言われれば妄言の類だと思われるかもしれないが、事実両者は基本構造を同じくしている。エリック・ベントリーのいうA.B.C関係(A.impersonates B.while C.looks on)に拠れば、演劇は

俳優─劇人物─観客

対してVtuber

中の人─キャラクター─視聴者

の構造をとる。舞台が仮想空間に移っただけで、やっていることは変わらない。

 

では次に、行為の流れを図式化する。演劇では、

俳優→劇人物→観客

となり、それぞれ“演じる”“見せる(魅せる)”という行為によって関係式が成り立っている。観客は劇の上演中いかなる干渉も認められず、上演後に惜しみない拍手を贈るのみである。

対してVtuberの関係式は、

中の人→キャラクター⇄視聴者

となる。視聴者はコメントや投げ銭をはじめ、VRゴーグルを装着して仮想空間に直接会いに行くことすらできる。演劇の世界では御法度である「観客が舞台に上がること」が許されているのである。そしてキャラクターは視聴者の働きかけに対してレスポンスを返す。キャラクターと視聴者の間にはかなり緊密なインタラクティビティが構築されている。しかし、Vtuberの特異性はこの先にある。

 

これから述べることは、業界の通説とは真っ向から対立するものであることを先に断っておきたい。通説とはすなわち、中の人(「パーソン」)とアバターとしてのキャラクター(「フィクショナルキャラクタ」)と我々視聴者がメディアを通して鑑賞するVtuberの姿(「メディアペルソナ」)には一定の乖離が生じる、というものである。*2キャラクターと我々が鑑賞する姿が違う、と言われても合点がいかないかもしれないが、ここでの「フィクショナルキャラクタ」とはあくまで3Dモデルやイラスト単体を指しているのであって、データの集合体に過ぎない。「パーソン」の乖離についてはより感覚的に理解できるだろう。ある程度名の知れたVtuber検索エンジンに入力すると、必ずと言っていいほどサジェストに「声優」や「中の人」といったワードが出てくる。「メディアペルソナ」ではなく中の人──「パーソン」そのものに興味を持つ視聴者が少なからずいる証左だろう。

 

「パーソン」を「俳優」、「フィクショナルキャラクタ」を「劇人物」、「メディアペルソナ」を「観客から見た劇人物」だとしたとき、このような乖離は演劇にも認められる。

 

演劇は、そもそも俳優の現実性と人物の虚構性のつながりによって成り立っている。そのことを観客はたえず認めている。したがって、江守徹の顔がハムレットの顔でないことは承知しながら、江守徹の顔の歪みからハムレットの内面の苦しみを推し量るのである。(中略)江守徹の表情表現が優れているかどうかの判断は、その顔の動きのハムレットの苦悩への適合具合によっている。したがって江守徹の顔がハムレットの顔でないのと同様、彼のすべての身体行為はハムレットの身体行為ではない。そのことを観客は了解している。それにもかからず、江守徹の動きからハムレット像を読みとるのは、江守徹の行為が舞台の上ではハムレットの行動へと飛躍するからである。そのように観客は把捉する。江守徹は日本人であるにもかかわらず、われわれはデンマーク王子を観念する。つまり、俳優と人物の外観はまったく別のものであるにもかかわらず、ハムレットを捉えているわれわれは、江守徹の顔から完全に自由になれない。そこに劇上演独自の問題がある。(毛利三彌『演劇の詩学 劇上演の構造分析』相田書房、2007年)

 このように、演劇において観客は、その積極的な了解と推量によって現実(俳優)と虚構(劇人物)を結びつけることを要請されている。結びつけるといっても、その関係性は「飛躍」であって、両者の間には埋められない隔たりがある。

 

あくまで、演劇構造論のひとつにVtuber文化を押し込めた場合に限る、ということを念押しした上で、私はこの「パーソン」と「フィクショナルキャラクタ」の乖離を否定したい。全く書いていて笑い出しそうになる話だが、仮に江守徹が3Dモデルをもって演じたならどうなるだろう。電脳空間のハムレットは、江守徹の顔から完全に解放され、デンマーク王子その人の顔を、鼻筋を、瞳の色を──手に入れるのである。ここにきて、ハムレット江守徹を繋ぎながらも決して同一化を許さなかった演劇上の制約──「演劇の軛」と名付けるが──は解かれることになる。

 

Vtuberの場合を考えてみよう。Vtuberは演じるべき脚本を持たない。動画制作の多くは脚本に則っているのではないか、と思われるかも知れないが、演劇とは異なり一挙手一投足まで規定するものではない。さらに、Vtuber全体でみれば脚本を考える企業が付いているのはほんの一握りで、脚本なしで自由に活動しているものの方が圧倒的に多いだろう。まさしくエチュード*3である。このことから、必然的にメディアペルソナにはパーソンの要素が滲みだす。視聴者が求めているのもこのライブ感、そこに今生きているという感覚だろう。*4しかし、我々はこのにじみ出たパーソンの片鱗を如実に認めながら、なおも決して“常に”パーソンを観念することはない。明確な意図を持って臨まなければひとつの像としてパーソンを認められない。なぜか。

 

答えは「パーソン」と「フィクショナルキャラクタ」が分かちがたい紐帯で結ばれているからである。部分的に融合しているといってもいい。Vtuberの特性として、演者と役は1:1の関係にある。アニメキャラクターの話なら、声優が何らかの事情で役を続けられなくなり、声優が交代することはままある。しかし、Vtuberの場合、中の人の引退はそのままキャラクターの引退に直結する。我々視聴者は、メディアペルソナを通してフィクショナルキャラクタとパーソンの融合体を透かし見ているのだから、キャラクターとパーソンのどちらが交代してもVtuberの存在自体が揺らいでしまう。

 

具体的な例を見ていこう。 Vtuberに明るい人ならまだ記憶に新しいのではないかと思われるが、所謂「アズリム騒動」についてである。事の顛末はこうだ。昨年11月7日の深夜、同年3月にデビューした人気Vtuberの“アズマリム”が突然「運営の意向で転生を強要されている」旨のツイートを投下。ツイートは直ちに拡散され、複数のVtuberがこれに反応したため、まさに業界を揺るがす「騒動」となった。これを受けて運営に協力していたCyberVは同月12日に謝罪文を発表。“アズマリム”としての活動の継続が約束された。以下は発端となった一連のツイートである。

 

ここでは騒動の是非は問わない。しかし、注目すべきは、この件が炎上に至ったということだ。考えてみてほしい。先ほどはVtuberを演劇の観点からみたが、俳優や声優なら新しい役はむしろ喜ばれて然るべきだろう。キャラクターの面から見ても、二度と声をあてられることのないキャラクターもいれば、声優が交代したキャラクターもいるが、それらは作品の中で生き続ける。キャラクターの死は即ち作中での死しかあり得ず、物語の中で死んだキャラクターが二次創作の中で生かされ続ける例もままある。だがVtuberはどうだ。「中の人」の交代はすなわちVtuberの死を意味する。仮に交代したとするなら、それは同じ「ガワ」を被った別人だ。「パーソン」と「フィクショナルキャラクタ」は最早癒着した臓器に近い。無理やり引きはがせばどちらも長くはもたない。だから“アズマリム”ファンは憤り炎上にまで至ったのだ。

 

 (Vtuverの活動休止の一例。“中の人”が消滅するとVtuberとは呼べなくなる。)

 

ここまで読んでいただけたならもうお分かりだろう。我々とVtuberの関係は決して既存のそれではない。あくまでバーチャルを介した「人間と人間の関係」なのである。心無い言葉を贈れば傷つき、いちファンのさりげない応援に勇気づけられる、そんな等身大の「人間」がそこにはいる。我々は決してそれを忘れてはいけない。*5「中の人」はしばしば「魂」と呼ばれるが、言い得て妙というほかないだろう。「魂」であるパーソン、肉体である「フィクショナルキャラクタ」——それらが結びついてVtuberという存在を形成しているのである。

 

 

Vtuberの展望シリーズは全3回を予定しているが、第2回の「Vtuberの展望──10年で終わらないコンテンツのために②」では、主にVtuberアバターの側面から取り扱う。Vtuberは普通のYouTuberでは駄目なのか?そういった問題についても考えていくつもりなので、少々お待ちいただきたい。

 

written by 三ツ岩井蛙

*1:海外で活動を開始し、キズナアイ登場後に世界初バーチャルYouTuberを名乗ったAmi Yamatoや、2012年4月からお天気キャスターとして活動するWEATHEROID TypeA Airi等がいる。

*2:この「パーソン」「フィクショナルキャラクタ」「メディアペルソナ」の三層理論はナンバユウキ氏が提唱したものであるが、氏はこの理論を用いて、こちらが嘆息してしまうほど正確かつ巧妙にVtuberの構造を分析している。もし読者の方で氏の論に目を通していないなら、このような駄文で御目を汚すより氏のブログに飛んだほうが何十倍も有意義だということは強く主張したい。

*3:即興劇。はじめに場面と人格の設定のみが与えられ、役者が動作や台詞を即興で演じる。

*4:このことを正確に捉えられなかった結果がこの1月から放送を開始したアニメ「バーチャルさんはみている」だろう。彼らはエチュードの達人ではあるが演劇としては素人同然で、下手な脚本に乗せるのでは話にならない。FPS好きや似非清楚、といった最も顕著な特徴を抜き出して他人がキャラクタライズしても、彼らはふとした瞬間に見せるその一面を愛されているのであって、ライブ感のない個性の押し売りは倦厭されてしまう。彼らのものではない言葉を与えられた彼らは、さながら不出来なレプリカの展覧会のようで、真作をよく知る人であればあるほどその贋作を深い悲しみをもって眺めることだろう。

*5:下世話な話になるが、VtuberのR-18系のイラストは、本人の目につかないように一定の配慮がなされていることがほとんどだ。ここではたらいている心理は、現実の人間に対し性的な侮辱をしない、というモラルに近い。

【肯定するオタクたち②】ふがいない主人公も異世界に行けば無双する

 

theyakutatas.hatenablog.com

異世界に行けばなんとかなる

前の記事では、映画ではのび太異世界で強者になるということだった。

そう、オタクたちは「強くなれる場所」を求めている。もっと言えば、「支配できる場所」を求めている。

異世界モノを見てみればそんなのばかり。

僕はアニメを見ただけだけれど、アニメ「この素晴らしい世界に祝福を!の主人公・佐藤和真は引きこもり。しかし異世界に転生して、持ち前のそこそこの知能でピンチを切り抜けていく。

もっと露骨なのは、アニメ「転生したらスライムだった件。こちらも主人公はふがいない普通のサラリーマン・三上悟が、あらゆる状況に対応したスライムに転生する。

こちらは知らず知らずのうちにあたりの支配者になってしまう。

より醜悪なのを取り上げると、アニメ「デスマーチからはじまる異世界協奏曲」。主人公・鈴木一郎はゲーム開発のプログラマーだが、色々あるうちにたくさんの女性を周囲にはべさせることに。

いわゆる「転スラ」と「デスマ」だが、これらは異世界で支配者になる系統と言っていいだろうと思う。

そう、オタクたちは自分が支配者になる場所を求めている。

支配者になりたいオタクたち

オタクはどうやって支配者になるのか。支配者になったと見なせる条件はただ一つ。不均衡な情報だ。

例えば「デスマ」を挙げよう。

主人公の視野にはゲームの画面のような表示がある。それを他の人々は気が付かない。自分だけが知っている、自分だけが出来る、という不均衡さが彼を支配者たらしめている。

他にも、「転スラ」では、主人公が死亡時に童貞だったがゆえに「大賢者」という機能を得た。彼が自問すると、内なる「大賢者」がそれに答える。そして彼はあらゆるものをスライムの内部にとりこむことで解析できる。

この不均衡さ、自分だけが分かる、ということが彼を支配者たらしめているのである。

考えてみれば、「オタク」というのはこの不均衡さに生きる生き物だ。

「○○オタク」と称されるとき、オタクたちはその○○と相互のコミュニケーションはとれない。

アニメオタクは当然、「アニメを見る」という一方方向の行為によってアニメオタクで居続ける。鉄道オタクは「鉄道に関心を持つ」が、鉄道がそれに返事をすることは当然ない。アイドルオタクはアイドルと交流を持てているようで、自分は多数のファンの一人なので、本当の意味でコミュニケーションが成立しているとはいえない。

典型が特撮オタク。特撮は子供向けで、特撮オタクと特撮作品の間のコミュニケーションは成立しようがない。それでもいい。むしろ特撮オタクは、特撮作品が自分達=大きなお友達を見ていないからこそ、特撮を好きでい続けるのだ。

オタクたちは知っている

言ってみれば、「相手に自分を知られることなく、自分は相手をよく知っている」というのがオタクの真髄である。

だから、オタクには秘密が多い。例えば、佐島勤魔法科高校の劣等性』シリーズ

主人公の司波達也には秘密が多い。文体からあふれ出るオタク感は、作者があふれんばかりの世界観=設定を地の文で詰め込むからだろう。

作者は作品の世界観をよく知っているが、読者は知らない設定も多い。この不均衡のなかでオタク的作者が雄弁に語る。それがこの作品のオタクっぽさの原因だ。

知っている、というのは、空手をやっているだとか剣道をやっているだとかいうことよりもずっと強い。

例えば、アニメ「ケムリクサ」を見てみれば、記憶を失った状態で現れる少年・わかばは物理的に強いわけではないが、知恵と好奇心でピンチを救っていく。これこそがオタクの真髄と言って構わないだろう。

と言えば、そこからアニメ「けものフレンズにも言及したいところだ。ここでもかばんちゃんは、その好奇心でピンチを救っていく。

ここにも「気がつく」かばんちゃんと、「気がつかない」フレンズという不均衡がある。別にそれで異世界を統治しはじめたりはしないが、この不均衡は注目に値する。

このアニメの特徴は、登場人物が決して否定されないこと、肯定されつづける事だろうと思う。

そう、オタクたちは強くなろうとする。

なぜか。

それはオタクたちがなにより「肯定されたい」と願う生き物だからに他ならない。

そんなわけで、次回は絶対的に肯定してくれるキャラクターたちの作品を見ていきたい。

 

written by 虎太郎

theyakutatas.hatenablog.com

【肯定するオタクたち①】映画のジャイアンはいつも優しい

オタクは肯定されたい

オタクってなんなんだろう、ということを考えた本は多い。お互いを「お宅」と呼び合ったことから「発見」された彼らの生態は、エリートコースをたどってきた学者・評論家連中には面白かったに違いない。

実際、大塚英志東浩紀宇野常寛といった人々が作り上げてきたサブカルチャー研究の実績は、もうそれらを避けてサブカルチャーを論じられないほどにまでなっているのだが、なんだかいまいちパンチが足りない。

というか、そういうメジャーな評論から一世代遅れた僕とすれば、それらは大発見ではなく、一種のパラダイムである。しかし、例えばこんな記事がある。

irorio.jp

もうなんだか鼻で笑うのも疲れて来るのだけれど、「オタク」を自称する流れは珍しくない。アニメオタク、特撮オタク、鉄道オタク、アイドルオタク。増え続けるオタク。オタクと名乗ること自体、「趣味に生きる」おしゃれさのようなものを感じる人が増えているのだろう。

と、言うことで、今まで形作られてきた「オタク」のパラダイムを、一切無視して、もう一度「オタク」を見つめなおしてみよう、というのが今後の目標だ。と言いつつ、何かの計画があるわけではない。

ただ一つ、共通するテーマと言えば、「オタクたちは自分を肯定したがる」という点だけ。

これだけを唯一のルールに、いろんな作品や現象を見に行ってみたい。

 

オタクってのび太なのだろうか

別に誰かが言ったわけではないが、「ドラえもん」で言えば、オタクはのび太だろう。

のび太は運動できないが、あやとりや射撃が得意。射撃が得意と言っても、我々におけるシューティングゲームが得意といった感覚で捉えれば、なんとも「オタク」チックではないだろうか。

そんなのび太は、オタクなのでいじめられる。まあ、オタクというのは見下されることの多い生き物だし、見下されることで自己規定している節もある。

のび太をいじめるのはジャイアン。男の子らしく野球が好きで、暴力的。元気な男の子。そして、その腰ぎんちゃくのスネ夫。こちらもある意味で男の子らしいかもしれない。

ジャイアンは恐ろしいいじめっ子なわけだが、そんなジャイアンが映画になると急に優しくなる。不思議だ。

ドラえもん」の映画にはいくつかのステップがある。

  1. のび太が現実から逃避しようとする
  2. 未知の世界へとたどり着き、そこで友人を作る
  3. 友人もしくはしずかちゃんがピンチに陥るので戦う
  4. 敵をなんとか倒すことに成功する
  5. 「また会おう」と言いながら泣きながら未知の世界を立ち去る

大概映画が公開されるのは夏休みなので、それに合わせてのび太たちも夏休み。学校に行く必要はない。

子供たちは遊ぶわけだが、その中でのび太がいつも通りジャイアンにいじめられるか、スネ夫に金持ちを自慢されるか、自由研究に迷うかする。そうした場合、ドラえもんが道具を出して、のび太に別世界を紹介する。

これは全くの別世界ではない場合もある。例えば、映画『ドラえもん のび太と緑の巨人伝映画『ドラえもん のび太の恐竜を見てみると、のび太がそれぞれ苗木、恐竜の卵を拾ってくるところから物語が始まる。

いずれにせよ、淡白に続く「夏休み」という日常から一歩外に出る「未知の世界」としてそれらが機能していると言っていいだろう。

結局そうした場合にも別世界に行くことになるのだが……その別世界とは大体以下の通り。

  1. 過去
  2. 未来
  3. 別の星
  4. 異世界
  5. 秘境

過去と言えば、まさしく映画『ドラえもん のび太の恐竜もそうだし、映画『ドラえもん のび太の日本誕生もそう。歴史モノとして教養チックなところがあるので、好んで用いられる題材ではある。

次に未来と言えば、映画『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館などがあるのだが、あまり数は多くない印象。

別の星と言うのは、映画『ドラえもん のび太と緑の巨人伝映画『ドラえもん のび太と銀河超特急』などがある。映画『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』なんかもここ。ただしこの作品はリメイク版の映画『ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史の方がかなり良作だ。

異世界というのはもうちょっと難しい。基本的にはドラえもんの道具によって作り上げられた世界だ。例えば、映画『ドラえもん のび太のパラレル西遊記だとか、映画『ドラえもん のび太の魔界大冒険』だとか。

最後の秘境と言うのは、これも歴史モノと同じく教養になりやすいので取り上げられることがある。エスニックな雰囲気を感じる作品も多く、例えば、映画『ドラえもんのび太とふしぎ風使い』などは泣かせる作品として挙げられるだろう。

なぜジャイアンは映画ではのび太をいじめないのか

こうした映画、つまり舞台を「未知の世界」に置く作品ではジャイアンが優しくなる。なんでだろう。

結論は分かりきっていて、それは「未知の世界」ではのび太が強いからに他ならない。

映画では災厄を招くのがのび太自身である場合も多いのだが、のび太のスキルが事態解決の鍵になることも少なくない。

スキル、と言っても、事態を解決するのには2種類しかない。1つ目は、のび太の射撃の腕。2つ目は、のび太の演説。

文武で言えば、文=演説で解決するパターンもあれば、武=射撃で解決する場合もあるというわけだ。いずれにせよ、それらが生かされる環境が「未知の世界」なわけで、そこでジャイアンは無力だ。

大概ジャイアンスネ夫・しずかちゃんは一度敵につかまるし、ジャイアンは大概牢屋の中で「とっととここから出しやがれ!」と騒ぐ。スネ夫が「ママ~~!」と騒ぐと、しずかちゃんが「きっとのび太さんたちが助けてくれるわよ」と答える。ジャイアンもそれに同意して「そうだ。のび太なら助けてくれる。〝心の友〟だからな!」みたいな風に良い感じになる。

いやいやお前普段のび太をいじめてるだろうが、と思うのだが、結局それでものび太ジャイアンを助ける。いわばそこにパターナリスティックな構造を見つけられる。

「普段はいじめられているのに助けてあげるのび太はかっこいい」という図式が映画では見て取れる。だから、「映画のジャイアンはいつも優しい」というのは間違いで、「映画ののび太はなんだか偉そうだ」と言う方が正しいのかもしれない。

拡大されるパターナリズム

パターナリズム=父権主義的に、普段は自分をいじめているがいざというときには助けてあげるのび太。「父権主義」とは言っても、その父の姿は戦後の弱々しい父の姿なのかもしれない。いざというときだけ強くなる父親像。

そんな父は、映画では「未知の世界」をも救うのだ。言ってみれば、のび太パターナリズムは「未知の世界」にも拡大される。

あれ、この図式ってどこかで……そう、これはコロニアリズム植民地主義)である。

のび太は(それはそれで幸せそうにしている)未開人に認められ、頼られ、結局彼らを救う。でもいやらしさが無いのはのび太が普段はいじめられっ子だからだし、へなへなしているから。

そう。オタクの願望とは、「コロニアリズム」である。

自分が頼られ、評価される「未知の世界」を求めている。そして、そんな「未知の世界」を所有したいと願っている。

さて、ここまで言えば充分だろう。第2回のテーマは、きっと異世界転生モノになる。

 

written by 虎太郎

theyakutatas.hatenablog.com

【映画評】「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.2 First Guardian」

映画「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.2 First Guardian」における風刺的側面についての一考察

はじめに

まず、この「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System」3部作の2作目についてだが、1作目についても同様のテーマで記事を書いているので、1作目についてはそちらを参照されたい。

theyakutatas.hatenablog.com

また、あらすじについては適当にまとめるよりも公式のものを参照すべきだと思うので、以下に引用する。

常守朱が公安局刑事課一係に配属される前の2112年夏、沖縄。

国防軍第15統合任務部隊に所属する須郷徹平は、優秀なパイロットとして軍事作戦に参加していた。

三ヶ月後、無人武装ドローンが東京・国防省を攻撃する事件が発生する。

事件調査のため、国防軍基地を訪れた刑事課一係執行官・征陸智己は、須郷とともに事件の真相にせまる。

STORY|PSYCHO-PASS Sinners of the System

 
「沖縄」という地場

無人武装ドローンが国防省を襲撃する事件のきっかけとなったのは、沖縄の国防軍が出動した東南アジアでの軍事作戦(フットスタンプ作戦)だった。

その作戦に無人ドローンの遠隔操作という形で参加していた須郷は生き残ったが、地上軍として出動していた大友逸樹は行方不明となる。三ヶ月後の国防省襲撃では、行方不明と思われた大友逸樹がカメラ映像に映り込むことで事件は混迷を極めていく。

そもそもその基地とはかつての在日米軍基地であるキャンプ・シュワブ跡地にあるというから極めて示唆的だ。そこから東南アジアへの出兵というから、ベトナム戦争を想起せずにはいられない。さしあたり真偽の疑われる事実ではないので、Wikipediaから該当部分を引用しておきたい。

ベトナム戦争では、在日米軍の軍事基地、中でも特に沖縄の基地が重要な戦略・補給基地として用いられた。アメリカ空軍の戦略爆撃機が、まだアメリカ政府の施政下にあった沖縄の基地に配備された。1960年代、1,200個の核兵器が沖縄の嘉手納基地に貯蔵されていた。1970年には沖縄のアメリカ軍に対するコザ暴動が起こった。アメリカ軍は1972年(昭和47年)の沖縄返還までに全ての核兵器を沖縄から撤去した。

在日米軍 - Wikipedia

ベトナム戦争の軍による攻撃と言えば一般市民にまでその被害を及ぼした北爆が思い出されるところだろう。

もちろんそれより前に遡って太平洋戦争について考えてみてもいい。

〔前略〕日米衝突を回避するため、41年4月からおこなわれていた日米交渉がいきづまると、同年12月8日、日本軍はハワイのパールハーバー真珠湾)にある米海軍基地を攻撃する一方、マレー半島に軍を上陸させて、アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争に突入した。

(『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2018年)

この直前には、日本はABCD包囲網で石油の輸入ができなくなっていた。そこで日本は東南アジアに石油を求めて進出しようとしたが、そうなればハワイに駐屯する太平洋艦隊が出動する。それを先んじて抑えるために、東南アジアへの出兵と真珠湾攻撃を同時に行った、という解釈もある。

在日米軍

結局太平洋戦争には敗戦。その後、日本は米軍を主軸とするGHQの占領下に置かれた上、沖縄は米軍の施政下に置かれた。

沖縄が本土復帰した後も、在日米軍の特権的地位は日本国内で保障され続けた。「日米地位協定」である。

在日米軍軍人の犯罪が明らかになるたび、この日米地位協定が問題になる。なぜなら日米地位協定によって、米軍の犯罪は、アメリカの裁判権が先に適用されるということになる。言ってみれば、時代遅れの治外法権という感がある。

本作に在日米軍は登場しない。しかし、国防軍の人々は、大友逸樹が国防軍襲撃を行ったのであるとすれば、それは国防軍内で解決すべき問題であるはずだ、と言う。そこにあるのは、日米地位協定的な、安全保障上軍事組織に「法」が通用しないというアポリアだろう。

シリア内戦

ここまでは言わば前段である。この映画が本当に意識している出来事とは、シリア内戦に違いない。

米国は軍事行動の可能性を排除していない。昨年4月には、反政府勢力が制圧する北西部イドリブ県ハーン・シェイフンでシリア政府軍が神経剤サリンを使用し80人以上が死亡したとして、シリア空軍基地を空爆した。このサリン攻撃について、国連と化学兵器禁止機関(OPCW)はシリア政府によるものだと断定している。

シリアの化学兵器使用疑惑 安保理で米露が激しく衝突 - BBCニュース

シリア内戦は、独裁アサド政権側の政府軍と、それに対する反政府軍の間での争いだが、そこにイスラム国(IS)が参入したことで事態は泥沼化し、クルド人武装組織も参入したことで情勢の理解は容易ではない。

絶妙な三すくみが、政府軍と反政府軍の連帯とイスラム国の弱体化で崩れ、2018年4月7日には、シリア政府軍が化学兵器を使用した疑いが持たれた。化学兵器が使用された地域の住人の苦しむ姿が映し出された動画は、未だに記憶に新しいだろう。

実は、本作におけるフットスタンプ作戦の肝とは、上空から化学兵器を投下することだった。その任を背負ったのは須郷であり、そのことに気がついたために犯罪係数が大きく上がってしまう。

容赦ない化学兵器の使用。国防軍在日米軍を重ねて見るのなら、化学兵器を利用した(とされている)のはシリア政府軍であり、あるいはその背後にいるロシアであるから、この考察は誤りだと思うかもしれない。

しかし、実はそういう問題ではない。タイトルにある通り、これはcriminalの問題ではなく、sinnerの問題である。法律を違反した「犯罪者」ではなく、より広範な、法・倫理を破った悪としての「罪人」なのだ。

おわりに

端的に言えば、まず間違いなくシリア内戦の要素はこの映画に入っている。しかしそれより以前の在日米軍日米地位協定ベトナム戦争・太平洋戦争については、あまり自信がないので、誤解があったとしてもご容赦いただきたい。

この映画は「考えさせられる」映画だったと思う。平和を守るために戦うというジレンマ。例えばアニメ「機動戦士ガンダム00」で描かれたような問題について「考えさせられる」。

肝要なのは、「考えさせられた」読者・観客・視聴者が、では実際に何を「考える」のかだろう。

この記事が誰かの「考える」材料となれば幸いである。

 

wrriten by 虎太郎

【ヤミ市と文学】中里恒子「蝶々」

はじめに

本論考の目的は、〈ヤミ市〉という空間について、文学作品におけるその表象から考えてみることである。今回は、中里恒子「蝶々」(1949)(マイク・モラスキー編集『闇市新潮文庫、2018年収録)を取りあげてみたい。

 

 ヤミ市とは何か

本論に入る前にヤミ市とは何かという点を明らかにしたい。

一般的な定義において〈ヤミ市〉とは、第二次世界大戦直後*1 、日本各地の駅前の空地に出現した多数の露天商のことを指す。ヤミ市の「ヤミ」とは、「違法な」という意味であり、公定(マルコウ) *2の対義語である。

では、それはどのように違法なのか。

まず、他人の土地が空地だからと言って無許可にそこで商売をすることは明らかに違法だろう。また需要の高さゆえ、公定価格を無視したヤミ価格での販売も横行していた。さらに、「バクダン」や「カストリ」といった悪質な密造酒が出回った。このように、様々な意味合いで「違法な」取引が行われたのである。

しかし、違法といえども、終戦直後の都市生活者にとってヤミ市は必要不可欠だった。配給物資のみでは足りるはずもなく、栄養失調で死ぬかヤミ市物資を調達するか、の二択だったという。

 

ヤミ市があった場所の代表例として挙げられるのは東京では渋谷、新宿、池袋など、大阪では梅田、天王寺、鶴橋などの駅前であろう。ヤミ市がこれらのエリアに集中した理由は以下の通りである。

第一に、これらのエリアは、食糧不足に悩まされた戦後日本で、郊外の農村へ鉄道を駆使して食料品を得るにあたって利便性が高かった。銀座などの都心部にも人が集まり露店が出店されたものの、郊外へのアクセスの悪さや木造長屋の建設が積極的になされなかったことなどが理由で、それらはヤミ市になることはなかった。先に挙げた東京のヤミ市の立地を確認すると、現在「副都心」と呼ばれていることに気づくだろう。

第二に、これらの駅周辺は第二次世界大戦の際、空襲による被害を緩和するため、事前(多くは戦況が悪化した1944~45年の間) にいわゆる「建物疎開」が行われており、戦災の有無にかかわらず空き地の状態で終戦を迎えた。例えば、梅田は焼け野原となったことが伝えられているし、予想に反して幸い空襲の被害を受けなかった鶴橋であれば、単に大きな空き地が広がった状態での戦後復興のスタートを切ったといえる。いずれにせよ、露天商を営むには絶好の条件だったということが確認できるだろう。

 

これらの元ヤミ市の駅はいまだに都市において重要な役割を担っていることが多い。

大阪を例にとるとするならば、江戸以来の流通の中心は船場などの水路に面するエリアであったが、鉄道の登場や大戦を経て梅田に中心が移動したといえるだろう。

つまり、戦後から現代に至るまでの、日本の多くの都市の基盤はヤミ市に見出せるといっても過言ではないのである。

だからこそ今ここで、ヤミ市という空間に同時代的な意味を付すことはそれなりの意義があるのではないだろうかと思う。

ヤミ市を「闇市」と表記していない理由はここにある。「闇」という字にはネガティブな意味がつきまとってしまう。しかし、本当にその側面だけだろうか。ヤミ市関連の書籍を探すと、しばしば「ヤミ市」表記を目にすることがあるが、これは上のような理由による。(松平誠『ヤミ市 幻のガイドブック』でも同様に「ヤミ市」表記が用いられている。)

戦後、単に必要に迫られたために形成され、黙認されていた違法市場として片付けて良いものとは思えないのである。

 

ヤミ市とは、果たして何だったのか。

次章以降では、中里恒子による小説からヤミ市を考えてみたい。

 

 「蝶々」という物語

中里恒子(1909~1987)は女性初の芥川賞作家として知られる小説家で、女性を主人公にした作品を多く残している。本作も例に漏れず、薩摩富久子という名の女性の物語である。

 

大戦中の富久子は、軍人の長官として活躍していた良人(おっと)を支え続け、良妻賢母として振舞っていた。娘も立派な飛行機乗りに嫁ぎ、家計に困ることはない生活を送っていたし、息子も海軍学校に通い、安定した軍人としての未来を約束されたかに見えた。

 

しかし、戦後になって状況は一変する。帰国した良人はすっかり精力をなくしており、かつて長官として羽振りの利いていた頃とはかけ離れている。このまま憂鬱な老人として一生を終えていく姿が容易に想像でき、まるで働き手にはなりそうもない。さらに、戦災で財産も何もかも失ってしまった。あてにするものは、何もなくなってしまったのである。 

現在の良人は、柱に一本の釘を打つことさえうまく出来ぬ、全く実生活に役立たない男としか見えなかった。おそらく、小学校の小使いにだって、雇ってもらえる資格はなさそうだった。

富久子はここで、

「仕様がない、こうなったら、もうあなたは使い途がなくなりましたね、あたくしが世間に出ることにしますからね、一切口出しをなさらないで下さいまし、」

と良人に告げる。

かつては長官夫人である自分に対して良人が「女は口を出すな」と決めつけていたのであったが、その状況を逆転させたのだ。

知り合いの元少佐と焼き鳥屋を始め、従来のように「奥さん」ではなく、「おかみさん」と呼ばれるようになる。

こうして、彼女らのヤミ市商売生活が始まる。

初めは慣れない商売人、経営者として振舞うことに苦労した富久子であったが次第に慣れ、女主人としての自らの顔を確立させてゆくのである。これまでの「猫をかぶっていた自分」を辞められた喜びを見せる。

それが如実に表れているのが息子との会話シーンだ。まだ大学を卒業していない息子は友人とジャズバンドを結成して、都会のダンスホールで演奏するほどにまで成功している。そんな息子は、現在の母の姿を以下のように評価する。

「長官夫人として、威張ってすました生涯を終ってしまえば、母さまは、人間らしい自覚なんて、無しに死ねたかもしれない、だけど、うんと悲しい目に遭ったり、本当に嬉しいことに打つかったり、骨を折った甲斐があったり、(中略)ずいぶんいろんなことに素手で触れていらしたでしょう、そして、その方がどんなに生き生きと人間らしい感情を呼びさましたか、お感じになったでしょう。もともと母さまは鋭敏な質なんだ、人間らしい感情の豊富なひとなんだ、それが、眠らされていたんじゃないかな……」

 この台詞で幾たびも強調されるのが「人間らしい」というキーワードだ。

ヤミ市生活で富久子が「人間らしさ」を回復したというのである。この点については議論の余地があるだろうと思われるので、後の章で触れたい。

 

「人間らしさ」を回復した富久子は、ヤミ市からの脱出を図るようになる。

すでに終戦から3年が経っており、ただ生活費を稼ぐだけの暮らしに退屈したというのである。

 

ある日、彼女は少佐とどこかに行ってしまいたいような気を覚え、彼を誘うような言動をとる。しかし、堅物な少佐には、その提案をさらりと断られてしまう。

 

どこかに行ってしまいたい気持ちを持ったまま街へ出た富久子は、見知らぬ女から紅を買い、帰ってくる。

その時にはもう、迷いは消えていた。

帰ってきた夫人の顔が、まぶしい白日のように輝いているのを、そっと見た。魔の刻を通り過ぎたあとの冷涼さが、顔面に満ち満ちているのである。何があっても、それはもうびくともしそうもなかった。花粉の落ちた花に似通っているのであった。

本作は、上の引用箇所をもって閉じられる。

「抑圧→回帰→迷い」というルートを抜けて、富久子は最終的に「花粉の落ちた花」、つまり実を結ばせる前段階にまで到達するということだ。

 

解放区としてのヤミ市  

本作が収録されている新潮文庫闇市』編者のマイク・モラスキーは、猪野健治が『東京闇市興亡史』の中で闇市を解放の象徴として捉えていたことがわかるという前提のもと、「蝶々」をはじめとする作品が解放を表象していると述べる。

「解放区」と言うのは、多面的に捉えてしまえば、ただ戦前の体制が崩壊した関係で軍国主義から解放されただけではなく、男女における支配関係から解放されたように感じる女性作家の作品もあります。(井川充雄・石川均・中村秀之編『〈ヤミ市〉文化論』、ひつじ書房、2017年) 

このように、終戦まで抑圧されていた人々が、社会の「裏」的存在であるはずの「ヤミ」市を、逆にある種の「表」舞台と捉えて活躍していたという見方は可能だろう。

成年男子の大部分は兵士として戦場へ送り出された。そして、残った老人や女性子供は、空襲の罹災者となって、家や命までも失った。そうした中で東京に残った人びとが、生活の糧を求めて敗戦直後の鉄道駅前に集まったのである。(中略) ヤミ市商売を実際に手掛けはじめた者の多くは、露店の商売とは全く無縁な人たちであった。(松平誠『ヤミ市 幻のガイドブック』、筑摩書房、1995年)

戦場に行くことなく日本に残り、かつ露店の商売とは全く無縁だった人々。東京では約8割が素人による店舗だったという。

「( 日本人)男性」優位の「軍国主義」に支配されていた人々。

それは女性、子供たちのことであり、また在日外国人*3(主に朝鮮・韓国人、台湾人)のことでもあった。彼らはヤミ市においては平等を獲得することができた。こうした意味で、解放区としてのヤミ市と呼ぶことができるのだ。

 

化粧する女性

特に「女性の解放」という視点からこの物語を見るとするならば、物語最後で、化粧する女性が描かれることにも注目すべきであろう。

詩人・寺山修司は1974年初版のエッセイで、化粧に対して以下のように言及している。

私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。そしてまた化粧はゲームでもあります。顔をまっ白に塗りつぶした女には「たかが人生じゃないの」というほどの余裕も感じられます。(寺山修司『さかさま恋愛講座 青女論』、角川文庫、2005年)

富久子の台詞でも、自らが買ってきた紅について、

「…甘くて血の色がするでしょう、あんまりみんな血の気がないから、こういうものがはびこるのよ……麺麭(パン)はなくても、誰も死なない世の中ね。

と語られており、終戦直後という物質的には満たされることがなく、「生」への不安を抱える時代*4を、化粧という虚構の力によって乗り越えようとする姿勢、女性の強さのようなものがうかがえる。

女性の活躍が描かれるという意味では、本作をフェミニズム文学として読むことも可能だろう。それは、物語のラストで男性(少佐)が富久子の「輝き」に圧倒されている描写からも感じ取れる。

 

しかし、本作を単に解放の歴史、戦後復興の物語として歴史的に回収してしまうだけでは〈ヤミ市〉の現代的意味には辿り着かないだろうと考える。

次章のトピック、「人間らしさ」から、さらなるヤミ市観の展望を広げたい。

 

人間らしさの回帰

ヤミ市に生きた人々は既に述べたとおり、その日その日の食糧とに必死であり、そこでは「かっぱらい」等の犯罪も横行していたという。

生命維持のために無法地帯が形成される様子は一見、人間的どころか、「動物的」とも取れるのではないか。

それにも関わらず、「蝶々」において、富久子は「人間らしさ」を回復したという記述が見られることに着目したい。

ここでいう人間らしさとは何だろうか。

それを解き明かすには、ここで描かれている「人間」の対義語は「動物」なのか「機械」なのか、或いはそれ以外の何かなのかを問う必要があろう。

富久子の息子が、父について噂する台詞からその答えが読み取れる。

「全く長官は人造人間みたいですよ、以前は司令部のこと以外に耳をかさず、現今は、庭の松の木を薪にするよりほか、なんの野心もない、長生きするように、できてますね。」(太字は引用者による)

「人造人間」と評していることから、「人間」の対義語として「機械」が選ばれていることがわかる。

与えられた役職、階級…といったものに従うだけの存在では人間らしさが損なわれる。富久子は「長官夫人」という既存のキャラ設定をヤミ市という空間で脱することに快感を覚えるのである。

となると、やはり前章でも触れた「解放」「平等」が人間らしさの構成要素となるのだろうか。

 

それだけではないだろう。

富久子はヤミ市で「猫をかぶった自分」「良人のために生きる自分」からの脱却ができたと言えるが、これは本来持っていた性質の顕現だけでは成り立たないものだった。

「自分のために生きる」ために、他者との新たな関わり方、その術を習得することが必要とされたのだ。

客として店を訪ねてくる見知らぬ人々の応対をしたり、紅を売る女と会話する経験を通して、富久子は新しい公共圏に突入した。

 

ヤミ市〉の、解放区としての側面、公共圏としての側面の両方が富久子に「人間らしさ」を与えたのである。

 

それをまさに言い当てているのが、本作のタイトル「蝶々」だ。

蝶は縛られることなく(解放区)、「擬態」という仕方で美しい模様を身に纏い(化粧)、ひらひら花から花へと移動を重ね、その場ごとに他者と関係性を築く(公共圏)。

このような蝶々の生態が、富久子の理想的な「人間らしさ」だったのだ。

 

本作は、〈ヤミ市〉で「人間らしさ」を見つける女性の物語であった。

こうした視点からヤミ市を眺めてみることは、現代日本における「人間らしさ」について、新たな視座を与えてくれるといえよう。 

 
おわりに 

ヤミ市は、1949年にGHQによって解散が命じられ、2年後の51年にはほぼ完全に解体した。犯罪の温床、不衛生…といった負のイメージをまとった「闇」市は、消滅に追い込まれて当然かもしれない。

しかし、制度的には消え去ったにも関わらず、ヤミ市的な風景は未だ消えていない。それは、大阪・鶴橋のように戦後再開発が行われていないことが理由なのではない。

例えば川本三郎氏は東京・新宿の地下ビルなどには、何度再開発を重ねてもヤミ市的な空間が残り続けると指摘しているし、関西では大阪・梅田の地下街や神戸・元町のガード下を例に取っても残存しているといえる。またモラスキーはアメリカの床屋、日本の居酒屋にそれを見出す。

 

闇でも光でもあった〈ヤミ市〉には多面的な見方が必要なことはいうまでもないが、本稿では「人間らしさ」が立ち上がる空間としてのヤミ市を取り上げた。

ヤミ市からおよそ70年の月日を経た2019年日本に生きる私たちは果たして人間的だろうか?人間的なものとはなんだろうか。

私たちがいま「人間」と呼んでいるものは「非人間」と表裏一体なのかもしれない。

 

 

written by 葵の下

*1:ヤミ市は一般的には戦後の市場を指すが、実際には戦時中からヤミ市のような違法かつ必要悪といった市場空間は存在していた、という見解も存在する。

*2:マルコウとは、日中戦争下の価格統制令および第二次世界大戦後の物価統制令による公定価格の俗称である。しばしば「公」の字を丸で囲った記号で示された。

*3:在日外国人の存在も忘れてはならないだろう。ほとんど記録に残っていないようだが、ヤミ市登場以前は貧窮のどん底にあった彼らは、軍需工場での労働に従事していたが、終戦とともに「ヤミ市」を活躍の場とするようになる。ヤミ市で元は捨てられていた部位のホルモンやマッコリを普及させたのは彼らで、日本の食に多大な影響を与えることとなる。文学における在日外国人の表象については、『闇市』収録の、鄭承博「裸の捕虜」を参照されたい。

*4:モダニズム芸術の分野でも、「生」の現実感を求めようとする動きが高まったというから、当時ある程度は世界共通の感覚だったのかもしれない。アメリカの「抽象表現主義」あるいは「アクション・ペインティング」と呼ばれる手法は、画家が「描く」という行為の過程と痕跡を絵画に表現することを目指した。少なくとも美術史上の文脈では、彼らは作者自身の内面や感情、思想を激しい筆触で表現することで「生」の実感を叶えたとされる。

【映画評】「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰」

映画「PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰」における風刺的側面についての一考察

はじめに

2012年に放送が開始されたアニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」は、2014年に2期、2015年に劇場版が公開された。

物語は22世紀の日本。鎖国下で、シビュラシステムと呼ばれるシステムによって人々は適正にあった仕事をしており、犯罪係数を測定することで、犯罪者予備軍を事前に逮捕・殺害できる社会。そのために犯罪は存在せず、裁判制度もとうの昔に廃止されている社会だ。

アニメ1期では、そのシビュラシステムの例外であり、どんな犯罪を構想しようとも犯罪係数に響かない特異体質者・槙島聖護と、厚生省公安局の監視官・常守朱たちとの戦いを描いた。

公安局の監視官はエリートであるとされており、犯罪係数が高い状態でとどまってしまっている執行官たちを統率し、犯罪を防ぎ、犯人を逮捕、あるいは執行(殺害)する役割を担っている。

このアニメ1期で、実はシビュラシステムというのが、槙島のような特異体質者の脳を複数集め、そのネットワークの合議によって決定される集合知であり、完璧なシステムなどではない、ということが明らかにされる。

アニメ2期の敵は、全身のあちこちを移植されたツギハギのような鹿矛囲桐斗だった。分裂した彼のアイデンティティには、犯罪係数というものが存在し得ない。いわばキメラとの戦いである。

劇場版の1作目はそんなシビュラシステムが海外に導入される、という話だった。

PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System」は3部作で、今回はその1作目だった。

もんじゅ

本作は、東京の公安局に自動車が激突してきたところから始まる。その自動車を運転していたのは青森からやってきたという夜坂泉という女性だった。彼女は薬物で脳に異常が見られ、まともに言葉を話すこともできない有様だった。

彼女は本来潜在犯ではなく、青森にあるという特別行政区サンクチュアリ」で潜在犯向けの心理カウンセラーとして働いていた。そんな「サンクチュアリ」は経済省の所管で、厚生省と経済省の縦割りの兼ね合いで、公安局は彼女を「サンクチュアリ」に送還しなくてはならないことになる。

常守朱と霜月美佳の2人は、この「サンクチュアリ」になにかの秘密があると考え、調査に赴く。

サンクチュアリ」は経済省主導で、潜在犯(犯罪をまだ行っていないが、犯罪係数が高く、犯罪を行う可能性の高い者)を集め、レアメタルの採掘を行っている、ということになっている。

もちろんこのあたりで、「果たして青森でレアメタルが採掘できただろうか」と疑問を抱く。確か日本海側では採掘できたかもしれないが、陸上で採掘できたなら、現時点で既にとっくに鉱山が開かれているのではないか、と考える。

すると物語は「サンクチュアリ」の秘密を明らかにする。ここで行われていたのは、レアメタル採掘などではなく、前時代に適切な処理が行われず廃棄された核燃料の回収を行っている施設だったのだ。

ここで「青森」という舞台の謎が解ける。なるほど青森には原発がある。ではそのうちのどの原発が舞台かというと、「サンクチュアリ」という施設の特性がヒントになる。

サンクチュアリ」は、潜在犯を集め、独自の更生プログラムを行うことで、犯罪係数を下げることができる、とされている。いわば、「もとの状態に戻す」という施設であるわけだ。

ここで核燃料の話に戻る。日本では、使用済み核燃料を、もう一度使えるようにする、という事業が行われていたことがある。高速増殖炉もんじゅ」である。

原子力発電所で使い終えた燃料(使用済燃料)をもう一度使うことで、資源を有効利用し、高レベル放射性廃棄物の量を減らしたり放射能レベルを低くすることに役立てる「核燃料サイクル」。この使用済燃料から取り出したプルトニウムとウランを用いて作られた「MOX燃料」を「高速炉」と呼ばれる原子炉で燃やして発電に利用する方法は「高速炉サイクル」と呼ばれますが、そのサイクルの研究開発の中核として位置づけられていたのが、「もんじゅ」です。

「もんじゅ」廃炉計画と「核燃料サイクル」のこれから|スペシャルコンテンツ|資源エネルギー庁

しかし、この「もんじゅ」、実際に稼働する前に、事故が相次ぎ、2016年には廃炉が決定された。

この失敗が、映画では潜在犯の犯罪係数を下げることなどできない、というところに投影されている。潜在犯が再び犯罪係数を下げ、「再利用」するなどということは失敗するよりほかにないことが、「もんじゅ」が既に暗示している。

使い捨て

サンクチュアリ」では、その真実に気が付いた人が殺される。実際映画中でも、そこにたどり着いた人々が、防護服を無理やり脱がされ、被爆させられ、殺される、というシーンがある。

 厚生労働省は4日、福島第1原発事故後の作業に従事した男性が発症した肺がんについて、放射線の被ばくが原因として労災認定したと発表した。原発事故を巡る同種の労災認定は5例目で、肺がんは初めて。

福島原発作業員の肺がん、初の労災認定 - 共同通信 | This Kiji

実際に私たちの社会には、被爆し、ガンを発症したような原発作業員がいる。しかしそれをいわば「必要な犠牲」として大きく取り上げず、とりあえず「お見舞い申し上げる」ように振る舞っている。原子力事業に関して、多くの人は、できる限り知らぬ存ぜぬを貫きたいのだ。

 東松浦郡玄海町の脇山伸太郎町長は25日、九州電力玄海原発で建設の手続きが進む使用済み核燃料の乾式貯蔵施設を巡り、「税収としては長期間の方がいい」と、使用済み核燃料の長期保管を容認するような自身の発言について「蛇足だった」と陳謝し、「半永久的に保存されるとは思っていない」と釈明した。

使用済み核燃料の長期保存 玄海町長、容認発言を陳謝 「半永久とは思ってない」|行政・社会|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE

使用済み核燃料を受け入れる、と首長が言うと、住民が反対する。首長としては、「核のゴミ」受け入れによって補助金を受け取りたいところなのだろうが、住民としては被爆が怖くてそれを許可できない。首長は結局発現の訂正や釈明を求められるのである。

このようにたらい回しになり、最終的に適正な処理が行われなかった核燃料。その落とし前をつけることこそが「サンクチュアリ」の役割だったのだろう。

声にならない声

サンクチュアリ」から逃げてきた夜坂泉は、その実態を告発しようとしたが、洗脳のために「サンクチュアリ」で用いられていた薬剤を飲んでおり、言葉を話すことができない。結果として、彼女の告発は理解されず、送還される。

 先日の記者会見の通り、女性社員が福田次官によるセクハラの被害を受けていたことが判明した。この社員は取材目的で1年半ほど前から1年ほど前にかけて数回、福田次官と一対一の夜の会食をした。会食のたびにセクハラ発言があったため、この社員は身を守るため会話を録音したこともあった。そしてセクハラ被害に遭わないよう上司と相談の上、1年ほど前から福田次官との一対一の夜の会合は避けていた。

【財務次官セクハラ問題】テレビ朝日会見(1)角南源五社長「1年半ほど前からセクハラ発言」「身を守るため会話を録音」(1/2ページ) - 産経ニュース

女性社員が財務省の福田事務次官からセクハラ発言を受けた。女性社員はテレビ朝日の上司に報告したが、上司は財務省との関係上、それを報道することはしなかった。

 昨年5月に記者会見を開き、元TBS記者から受けたレイプ被害を告発しました。真実を伝える仕事をしたいと思っていたにもかかわらず、自分が遭った出来事をなかったことにしたら、また自分や他の人に起こるかもしれない。そんな状態では生きていけないと思ったんです。性暴力について話せる環境を少しでも社会の中につくりたかった。

 しかし会見後は様々な波風が立ちました。オンラインで批判や脅迫にさらされ、身の危険を感じました。外に出るのも怖かったです。以前から「相手を告発すれば日本で仕事ができなくなる」と言われていたので覚悟はしていましたが、想像以上で、日本で暮らすのが難しくなってしまいました。そんなとき、ロンドンの女性人権団体から「安全なところに身を置いたら」と連絡をいただいた。去年の7月からロンドンで暮らしています。

レイプ告発の伊藤詩織さんは今 バッシング止まず渡英:朝日新聞デジタル

伊藤詩織の告発の真偽、検察の判断の是非についての判断は別として、ある1人の実名を出した告発は、社会に受け止められなかった。少なくともそう思う人々がいる。

夜坂泉が「サンクチュアリ」の実態を告発しようとするきっかけは、夜坂が心理カウンセラーとして担当していた潜在犯の女性が生んだ子供・久々利武弥だった。秘密に接近し殺されそうな武弥を保護した夜坂泉は、彼を守るため、告発しようとしたのである。

 東京電力福島第1原発事故の影響を調べる福島県の「県民健康調査」検討委員会が5日開かれ、県は事故時18歳以下だった子どもらに実施している甲状腺検査で、昨年12月末までに新たに1人が甲状腺がんと診断されたと発表した。がん確定は計160人となった。検討委はこれまで「被ばくの影響は考えにくい」と説明している。

甲状腺がん:福島子ども検査 新たに1人 計160人に - 毎日新聞

福島の子供の甲状腺がんが増えたのは、検査数が増えたために発見される数が増えただけである、つまりスクリーニング効果の結果である、という意見がある。

しかし、原発の存在が徐々に子供を蝕む、という状況認識である人はいる。

告発しても声にならず失敗に終わる女性。彼女は「サンクチュアリ」=「もんじゅ」=原発で殺されそうな子供を守るために告発するのだった。

権力のありか

 サンクチュアリの潜在犯たちは、サンクチュアリで更生プログラムを受けていれば犯罪係数を戻せる、という洗脳から集団志向的なマインドに陥り、集団の安寧を乱す分子を排除するようになってしまった。

集団のために危険分子を排除する。そのマインドは最後に、サンクチュアリサンクチュアリの統括管理者・辻飼羌香が危機に陥れているという霜月美佳のささやきによって大きく揺らぐ。潜在犯たち自身が辻飼羌香を排除しようと試みるのだった。

これを、集団の維持のために、トップを付け替える2009年、2012年の政権交代の例を引き合いに出してもいいが、さしあたり直近の実例を出しておこう。

 森友学園問題で疑惑のカギを握る経産省の谷査恵子さんが、今月6日付で在イタリア大使館の1等書記官に“栄転”した。安倍昭恵夫人付の秘書官として真実を知り得る立場ながら、官邸の意向を忖度して無言を貫いたことへの論功行賞だろう。国家公務員のかがみともいえる人物だ。

在イタリア大使館に“栄転” 谷査恵子氏の羨ましすぎる手当|日刊ゲンダイDIGITAL

いわゆる森友問題を受けて、責任者であった財務省の佐川理財局長は国税庁長官へと栄転、森友問題について首相夫人の口利きの疑惑について注目を集めた谷査恵子はイタリアへ栄転し、いずれも国会招致に応じる必要はなくなった。

これらはもっと上の人々が保身のために行った異動なのかもしれず、その点で今回の映画の内容とは異なるかもしれない。

しかし、戦時中、戦争に反対する人間を「非国民」などと共同体から排除する振る舞いは、今もなお僕たちの実感を伴って受け止められるところだろう。

おわりに

「深い」映画はこの世の中に五万とある。しかし一体どこがどのように「深い」のかを考えることは少ない。

本当の意味での鑑賞とは、深度の測定などではない。その深みの中にどっぷりと身体を埋めて、その深さを照らそうという試みではないだろうか。

この記事がその一助となれば何より幸いである。

 

written by 虎太郎

 

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